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chapter.5
白と黒の行方
しおりを挟むその頃。フェルム大陸ウルン国北端──ソルフィン港に停泊している黒い小さな船があった。
夏が近いが、北端の地。冷え込みは年中変わらない。しかしその船は、流氷対策のしてあるほかの船たちとは違い、あまりにも普遍的すぎた。けれど港の人間は誰一人として、その船の異常に気付かない。いや、そもそもその船があることすら、認識できていないのだ。
その船の黒は、断じて塗装や木の色ではなかった。
無数の黒い蜘蛛がびっしりと、表面を覆い尽くし、蠢いている。
この蜘蛛は、結界を張っていた。この不気味で異常な船を隠す結界を。
──魔族の船を隠す結界を。
その船の甲板には小柄な少年と、さらに小さな老人が佇んでいる。
白い髪と、左頬には十字の刺青が刻まれた少年──ブラン・エヴァンスは、蠢く蜘蛛に眉根を寄せて、とんがり耳の老人を見下ろした。
目を引くのは大きな鼻だ。寒さで真っ赤になった鼻が、呼吸の度にひくついている。次に目を覆うように伸びきった白い眉毛と、鼻から下を覆い隠す長いひげ。それらが顔から表情という表情を奪い、得体の知れない老人という印象を決定づけていた。
背丈はブランよりも頭一つ分ほど低い。袖の長いガウンを着込み、ゆったりとした裾は地面を引きずっている。サイズの合わないものを無理矢理に着ている、というところだろうか。
風で乱れた長い黄ばんだ白髪を後ろへ撫でつけ、老人はふと、右の眉をくい、と上げた。
「ほ。そうかそうか」
「唐突にどうしたんだよ、マグニじーさん」
老人──マグニは、訝しがるブランへ、体躯とは不釣り合いなほど大きな手のひらを向けた。そこにはやはり、黒い蜘蛛が乗っている。
「儂の遣いからの報せじゃ。面倒じゃが、竜を動かした甲斐があったようじゃのぅ」
オロッセへの航路の邪魔になると、ブランが予測していた竜──リヴァイアサンは、大昔に悪魔を宿していた竜であった。
オロッセへ向かうにあたり、必要な人員としてルインロス=モルニエに紹介されたのが、このマグニ=シャルクだ。
マグニは悪魔の扱いに長けており、悪魔を通し様々な生物を操ることができる。元々、リヴァイアサンへ悪魔を植え付けたのも、このマグニであった。今回はその悪魔を一時的に活性化させ、操ったのだという。
マグニ曰く、操るといっても、竜ほどにもなると完全に御しきれるとは言い難く、こちらへ襲いかかる可能性もゼロではないため、竜の進行方向のみを操ることにして、海域を移動させた、とのこと。
「あの竜が? そんなこともあるんだな。で、どんな報せ?」
「『器』についてじゃ」
「……『器』か」
ブランの脳裏に、朱茶色の髪の少女が浮かぶ。少しの間、偶然行動を共にした、記憶喪失だという魔術師の少女。
ブランから見れば、魔術師であるという以外は普遍的な少女だが、彼ら『魔族』にとっては違うらしい。
『賢者の石』の『器』。
にわかに信じ難い話ではあるが、ブランはその存在を疑ってはいない。だからこそ、あの少女と、『器』という言葉との印象の差に戸惑っているのだ。
『器』というからには、もっと人形めいた、もっと言うならば空虚な人物像を思い浮かべていた。けれどブランの出会った少女は、気が強く、意志のはっきりとした、正反対の人物だった。
「面倒じゃが、モルニエ卿に遣いをやらねばのぅ」
「じーさん、あいつに肩入れしてんの?」
「否。知った以上、あの方のために動かねばならぬのじゃよ。蜘蛛が巣食ったこの老いぼれはの」
そう言うと、マグニは大きく口を開いた。封を切ったように溢れる小さな蜘蛛たち。
その悪趣味な光景に、ブランはうげ、小さくと漏らした。魔族たちと行動を共にしてしばらく経つが、未だにこういったものには慣れない。
嫌悪感を押し込めて、ブランはマフラーへと顔を埋めた。
「俺はヤダよ、遣いに行くの。そのモルニエ卿のご依頼で、こんなクソ寒い所にいるんだからな」
「承知しておるよ。ぬしの手は煩わせはせぬ」
「? どうやって向こうと連絡取るのさ?」
ブランがぱちくりと目を瞬かせると、マグニは再び右の眉をくい、と上げた。
「蜘蛛を使う。あの方の眷属は世界中におる。彼らを伝ってゆけばすぐじゃ。ぬしらよりずっと速いじゃろうて。正確性に欠けるのが玉に瑕じゃがな」
簡単な文言ならば問題ないじゃろう。そう言うと、マグニは一言二言を手のひらの蜘蛛に吹き込んだ。
「ふーん、伝言ゲームみたいなもんか。で、『器』のなにがわかったって話だっけ?」
「『器』の行き先じゃよ。予てから、仕込みをしておったマハル=ドゥームに向かっておるようだ。今のモルニエ卿にはちと不味いじゃろうて」
「ああ、確か……アリスティド・モローだっけ? あいつの策に乗ったとかなんとか」
先日のジブリールでの一件は、まだ記憶に新しい。
手柄に目が眩んで先行してしまった馬鹿、というのが、アリスティドに対するブランの評価で、これは他の魔族たちと唯一一致しているものだった。
「うム。目の前の事象しか目に入らぬ愚か者よ。じゃが、今あそこを手放すわけにゆかぬのもまた事実」
マグニは深く頷くと、手のひらの蜘蛛を地へ落とす。
「さあ、お行きなされ」
黒い蜘蛛はすぐに黒い点となり、船を覆う無数の黒に紛れて消えた。
******
同刻。メエリタ大陸スイル国西部ゴートリーフの宿場町の人混みの中を、黒髪の少年と、同じく黒髪の青年が並んで歩いていた。
右頬に十字の刺青が刻まれた黒髪の少年──ノワール・エヴァンスは、先程買ってきた馬車のチケットに既視感を感じて、ふと立ち止まる。
「どうかしたんです、ノア君?」
頭上から声を掛けてきたのは、隣を歩いていた黒髪の男だった。長い髪を緩く後ろで束ね、小振りな丸眼鏡をかけている。
彼──ゲニウス・レイヤーズは、底の見えない笑顔を、こちらへ向けていた。
声を掛けられたことで、先程感じた違和感はすっかり霧散し、何に対してそれを感じたのかすらわからない。
ノワールはしこりのように残るそれを振り払うように、ゲニウスへと笑みを返した。
「……や、なんでもないや」
「困りますねぇ、ぼーっとされては」
「ごめんごめん、兄さん」
もちろん、ゲニウスはノワールの兄などではない。便宜上、こういう関係性にしているだけだ。
赤の他人として旅をするにしても、ノワールとゲニウスとでは歳が離れすぎている。今回の仕事上、変に怪しまれるのは好ましくない。それ故に、白髪のブランではなく、黒髪のノワールがゲニウスへ同行することになったのだ。
「それで、旅券の手配は出来ているんですよね、我が弟よ」
「ばっちりだよ。どこの馬車をどの時刻、どの経路で行ったかもね」
今回の仕事──それは、単純に言えば尾行だ。
ノワールの手には、地図と旅券、それから「黒髪の女性」の描かれた小さな肖像画が握られていた。
この女性を尾行するのが、ゲニウスから依頼された仕事だった。
黒髪に、濃い口紅。鋭い目付き。緻密に描かれた肖像画の女性を、ノワールは一度アメリ王城で見掛けている。──オグマ王の側近のひとり、キヤーナという名の女性だ。
同じ黒髪であるなら探しやすい。これもまた、こちらへノワールが同行した理由でもある。
少し化粧を施して目元を似せて、生き別れの姉を探しているなどと言えば、あっさりと様々な人間から情報を引き出すことが出来た。
何故、同僚であるキヤーナを、ゲニウスが尾行しているのか、その理由はまだ知らない。また、ノワールにはそんなものに興味はなかった。
ノワールが今、一番興味を持っているのは『賢者の石』の話であり、本当ならばブランが行っている魔族たちの依頼の方に行きたかったのだ。
こんな時ばかりは、自慢の「姉譲り」の黒髪が少しだけ恨めしい。
そんな様子をおくびにも表に出さず、ノワールはいつもの軽い調子で、仮初めの兄へ報告を続けた。
「サンスディアを通り、メエリタ大陸西部を北上。リエンへ向かってる。なんでも、「故郷の親戚に会いにいく」んだってさ」
「おやおや、ウルンの出身のくせに故郷ときましたか。バレてないと思っているんですかねぇ」
くつくつと、楽しそうにゲニウスは笑う。
「少なくとも、僕らが追い掛けてるのには気付いてないでしょ。この様子だと」
そんなゲニウスに肩を竦めて、ノワールはもう一度馬車のチケットを眺めた。先程感じた違和感は、もうどこにも感じない。
「それより兄さん。あんたはもうちょい変装しないとバレるから」
「あ、やっぱりそうです?」
それから二人はなんでもない表面上の会話を続けながら、一見仲睦まじい兄弟のように、人混みの中へと溶け込んでいった。
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