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chapter.5
まるで、黙祷のように
しおりを挟む「う……」
頭がぐらぐらする。脳みそごと揺らされているような、そんな感覚。うっすらと開けた視界は霞んで、うまく像を結べない。
──……ここは、どこだ?
目の前に広がるのは、晴れた空と、それを区切るようにあちこちに伸びているロープ。遠くの方で聞こえる喧騒。潮の臭い。
──戻って、きたのか……?
ヴィルは朧気な思考をなんとか手繰り寄せて、手のひらを意識して動かす。
結んで、開いて。結んで、開いて。
そうしているうちにだんだんと意識が鮮明になっていった。
明瞭になった意識に、あの『夢』の、記憶が途切れるその最後の光景が、はっきりと浮かぶ。
歪んだ景色の中に立つサキ・スタイナーは、ヴィルたちを逃がすべく魔術を使い、最後まであの夢に残っていた。そうして記憶を辿ると、もっと詳細に思い出してくる。
どうしてサキは、あの時逃げることをしなかったのだろうか。その疑問は、ヴィルの中ですぐに別の疑惑へと変わった。
──逃げなかったんじゃない。逃げられなかった……?
彼の右手を侵食していた『核』は、ヴィルの意識がなくなるその寸前の時に、彼の腕までを覆っていたのだ。サキを取り込み、新たな『核』とするかのように。
そして、あの時しっかりと掴んでいたイリスの手の感触が、今はどこにもないということに気付いた。瞬間、
「──っ、!?」
一気に覚醒した頭は、みんなは無事なのか、ということでいっぱいになる。
急いで周りの状況を確認しようと身体を起こすと、
ごちん!
鈍い音と鈍痛がただでさえ揺れている頭をさらに揺らした。
「ってえ……!」
「こっちのセリフだ石頭……ッ!!」
久しぶりに聞いた気がする声だった。
がばっと体を起こすと、鼻の頭を押さえたジェイクィズが、恨めしげにこちらを睨みつけている。どうやらヴィルの額がちょうどそこに当たったらしい。
その後ろでは、船を傾けんばかりのバカみたいにでかい目のないウツボのような生き物がその頭を甲板に乗せている。
「ぅわぁっ!?」
思わず上擦った変な声が出てしまった。なんとも不気味な生き物だ。ぴくりとも動かないところと、その生き物をどかせようとしている船員たちの様子を見る限り、すでに事切れているようで、少し胸を撫で下ろした。
「ここは……?」
「船の上な。ゲロんなよ」
きょろきょろと周囲を見るヴィルに、ジェイクィズは心底嫌そうな顔で肩を竦めた。まだ鼻の頭をさすっている。
「……船酔いしてたのを思い出させないでくれよ」
そういえばゆらゆら地面が揺れている。そう気付いたら、少し気分が悪くなるような気がした。
このまま寝ていては、揺れがダイレクトに体全体を襲うだろう。それはよろしくない。
ヴィルは力の入らない足で慎重に立ち上がる。身体を伸ばせば、一気に血が巡っていく感覚が心地よい。長時間寝て、起きたときの感覚に近かった。
もう一度、さっきまで寝ていたであろう場所を見る。そこにはまだ、シェスカとイリス、それからサキが寝かされたままだ。
「みんな……!」
「んん……」
魘されるような吐息が、シェスカから漏れる。それに続いて、イリスの手がぴくりと動いた。ふたりの目蓋がゆっくりと持ち上がる。
徐々に意識がはっきりしてきたらしい。シェスカのぼんやりした無表情が、じわじわと青ざめて、
「虫っ! 来ないで虫っ!!」
「っわあ!? 姉ちゃん声デカっ!?」
シェスカの声で完全に覚醒したらしいイリスは、びくりと肩を跳ねさせながら飛び上がるように上体を起こした。
一方完全に寝ぼけたまま口を滑らせたシェスカは、自分の起きがけ一番のセリフがよほど恥ずかしいのか、丸まってぷるぷる身体を震わせている。ヴィルの方に背を向けているのではっきりは見えないが、耳が赤くなっていた。
「シェスカちゃ~ん、怖い夢見たならオレ様がなぐさめてあげよっかぁ~」
「うるさい虫怖くないし! 大丈夫だし!!」
出たよいつものやせ我慢。シェスカもあまり余裕がないのか、言い返す言葉が少し子供っぽい。
「みんな無事みたいやね~! ほんまヒヤヒヤしたわぁ……」
そんな様子を眺めていたイリスは、安堵の表情を浮かべて床に手足を投げ出した。すっかり気が抜けたのか、完全に脱力している。
そんな彼女に苦笑を浮かべるシェスカだったが、ふとまだひとり、目が覚めていない人物に気付いた。
「サキは?」
その言葉はシェスカではなく、ベルシエル・セレーネのものだった。いつの間に来たのだろう。サキの隣に立って、じっと彼を見下ろしていた。
普段見せる、人形めいた可愛らしい、それでいて感情の読みとりにくい表情。それがほんの少しだけ、気のせいかもしれないが、悲しげに見える。
それまで緩みきっていたイリスの体がびくりと強張った。弛緩していた空気も、一気に冷や水を被せたかのように引き締まる。
「あいつ……最後のあの魔術……私たちを逃がそうとしてた……?」
「……多分。オレもそんな感じに見えた」
「なあ、あたしの気のせいちゃうかったら、兄ちゃんあの黒いのに腕が喰われてへんかった?」
確認するように、ヴィルとシェスカの顔を窺うイリス。どうやらシェスカもあの状態を見ていたのか、重々しく頷いた。
「ちょっと状況が見えないんだけど、つまり隊長殿は────」
ジェイクィズは信じられない、といった表情で、サキを見下ろす。
すっかり青ざめたイリスが、サキの横に縋るようにしゃがみ込んだ。
「みんな起きてたんやもん……兄ちゃんも無事やんな? そうやんな?」
彼女は涙を溜めて、自分に言い聞かせるように、眠り続けているサキに話しかけるが、彼の目蓋は固く閉じたままだ。
「……っ、ほら、どうせしれっとした顔で起きてくるんでしょ? さっさとしなさいよ」
シェスカもまた、不安げに声をかける。ねえ、早く。悔しそうに口唇を噛んだ。
さっきまでは暗く考えないようにしていたのか、気丈に振る舞っていたのか。一度不安を声に出してしまったイリスは、ぐすぐすと嗚咽を漏らしながら、サキの体を揺らしている。
ベルシエルはそんなイリスの隣に膝をついて、そっとサキの長い前髪についている雫を払った。長い睫毛が伏せられた碧い瞳は、少しだけ怒りのようなものを滲ませて、ただじっとサキを見つめていた。
そんな、まさか。
ヴィルの頭を最悪の予感が埋め尽くし始めていた。浮かんだ可能性を必死で否定する。そんなわけがない。だってサキはジブリールの隊長で、その圧倒的な実力は先程嫌というほど目の当たりにした。ジブリール本部での部下からの下克上という名の襲撃ですら、汗一つかかずに、まるで埃を払うようにあしらっていたのだ。魔物程度にやられるような、そんな人物ではない。まだ短い付き合いしかないが、それだけはヴィルにもわかる。
「おい! サキ、起きろって!!」
イリスと向かい合う形で、サキの肩を掴んで揺り動かす。彼の体は、為すがままにされるだけだった。
掴んだ肩は水に濡れているせいで冷たいのか、それとも既に事切れ────
「────ぇっくし!」
やけにでかいくしゃみ。
反動で勢いよく彼の上体が起きあがる。
あまりにも予備動作のないそれに、理解が追いつかない。
──今ホントにくしゃみしたのこいつだよな?
ヴィルは自分の目を心から信じたいが、同時に信じたくない気持ちもあった。
女性にしては野太く、かといってヴィルほど高くもなければ、ジェイクィズほど低くもない声の持ち主は、この場ではひとりしかいない。
「なんだ、木乃伊にでも出くわしたみたいな顔して」
相変わらず表情のないサキ・スタイナーである。
鼻の下を擦りながら、彼は自分が取り囲まれている状況がどうしてなのかわかっていないのか、心なしか不思議そうに目を瞬かせていた。
「てめえ汚えなオイこらァ!!」
偶然、サキの真正面にいたジェイクィズは不運にもくしゃみの被害を被っていたらしく、ごしごしと顔を拭っている。その横でシェスカが「うわマジで死んだみたいに話しちゃったうわあああ」と、勝手に死んだことにしていた自己嫌悪と、さっきまで話しかけていた言葉の恥ずかしさに声に出さずに身悶えしていた。
一方イリスは、
「兄ちゃんヒヤヒヤさせんといてえなもお~~~~~~~!!」
ぼろぼろ流れる涙をサキの上着で拭きながら、ぽかぽかと(力加減ができていないのか、聞こえてくるのはドンドン)拳で叩く。ここまできてようやく自分が心配されていたと自覚できたのか、サキは短く「すまない」と謝った。
「はー……ホントにもう起きないかと思ったぜ……」
「なんでみんなサキを死んでるみたいに言うの」
ベルシエルは元から丸い瞳をさらに丸くして首を傾げている。
──……いや、きみの様子もなかなかにややこしかったせいでもあるんだけど、なんて言えばきっと怒るんだろうなぁ……。
ヴィルは曖昧な、気の抜けた笑みを浮かべるしかない。
思えばさっきまでのベルシエルの態度は単純に、サキが起きてこないのと、みんなが彼を死んだように扱っているせいで不機嫌になっていたからなのだろう。現にサキが起きた今、ベルシエルの表情は穏やかそのもの。花も霞むような、柔らかく愛らしい笑顔をサキへと向け、
「サキ、おかえりなさい。えっと、濡れたままいると、風邪引くんだよね?」
少しズレている確認めいた心配のセリフを投げかける。サキは未だ泣きじゃくっているイリスを宥めつつ、そんな彼女の頭にぽん、と手のひらを乗せた。
「ああ、ただいま。お前のおかげで助かった」
その言葉に、ベルシエルは頬を赤らめていっそう微笑みを深くする。親に褒められて嬉しい幼子のような彼女の様子は、先程まで船の上にあった張りつめた空気を霧散させるには充分だった。
船員たちの安堵と喜びの声があちこちから上がる。サキはそれらには関心はないのか、寝起きとは思えないほどしっかりと立ち上がり、甲板に乗っている目のないウツボのような頭に向かって歩き出した。その後ろにひょこひょことベルシエルが続く。
「海に落ちた者は何人だ?」
「三人です」
サキの問いに近くにいた船員が答えた。それに珍しく、サキの表情に驚きの色が浮かぶ。
「少ないな」
「セレーネさんが落ちる前に船に戻してくれてたんス!」これは別の船員。やや興奮気味に頬を上気させている。
「ベルシエルが?」
「だって、落ちたらサキ、困るでしょう?」
彼女らしい答えだ。ほめてほめて、というのを隠せていないベルシエルの頭を再び撫でてやりながら、サキは短く「捜索はできそうか?」と尋ねる。
問われた船員は、静かに首を横に振った。
「ひどく荒れていましたから、難しいでしょう。救命艇もこいつにやられましたし、こいつをどかさない限り、船も動かせなさそうですし」
「そうか」
忌々しげに眉を顰める船員。その様子に、もやもやしたものがヴィルの胸にこみ上げてきた。それを振り払うように顔を上げて、甲板に横たわる巨大な生き物を見据えた。
「……このでかいのはなんなんだ?」
「水竜の一種だな。恐らく魔力を食う系の魔物だ。俺達はこいつの『夢』の中にいたわけだ」
ヴィルの問い掛けに答えながら、サキは竜の口元まで近付いて、まじまじと眺めていた。
「悪魔ってのの気配があったんでしょう? 近付いて大丈夫なの?」
シェスカが問い掛ける。
「肉体もその『内側』も、どちらもベルシエルの力でとどめを刺している。問題はない」
「――あ、手に持ってたアレ!」
『核』の場所を示していた、あの球状の光。確か、ベルシエルの力を視覚化したものだと言っていた。
思い出した! と声を上げたヴィルに、サキは頷いて続ける。
「『核』がこちらを侵食した時に腕ごと食わせた。あいつらには毒みたいなものだからな」
「それで助からなかったらどうしたのよ……」
「? あれで死ぬわけがないだろう。『夢』で追った怪我が、現実の肉体に影響を及ぼすはずがない。あの『夢』での出来事を、現実と認識しない限りは四肢が千切れようと死にはしない。逆に言えば、あの中では己の認識こそが全てだ。例えば──」
そう言いながら、ホルスターから銃を引き抜いた。そのまま黙って、竜の額に一発。乾いた音を立てて弾が撃ち込まれる。
ほんの小さな、親指の爪ほどの凹みが、ほかの場所より少しだけ薄い鱗に出来ていた。
「これが、この銃の本来の威力だ。俺の魔力を弾として込めてある。威力は実弾と変わらないが、こうして衝撃が当たるだけで殺傷能力は高くはない」
「あれ? その銃ってもっとばーん! ってせえへんかった?」
目をぱちくりとさせながら、手振りを交えつつイリスがヴィルとシェスカの顔を見る。
「認識の差だ。銃の威力をとんでもないものだと思っていたんだろう。持たせて正解だったな」
「……ちょっとバカにしてるだろあんた!」
「むしろ褒めてるぞ」
本当だろうな、それ。表情が読めないため、嘘か本当かがわかりにくいにも程がある。
少し微妙な気持ちになっているヴィルをよそに、サキは躊躇いなく酒場の扉を潜るような気安さで竜の口を開いて中を覗き込んだ。脇に控えていた船員が二人ほど、そのまま口を開いたまま固定させている。
「興味があるなら見るか?」
そのあまりの躊躇いのなさに半ば放心気味のヴィルたちに振り返りつつ、尋ねた。
問われたシェスカとイリスは勢いよくぶんぶんと首を横に振った中、ヴィルはしっかりと縦に振った。ちょっとした好奇心というやつだ。こんな大きな魔物は見たことがない。
それを確認したサキは、船員たちに指示を出し、招くように竜の口を更に大きく開かせる。
おそるおそる、中を覗いた。血の気の失せた、生白い口内は、どことなくカエルの腹を彷彿とさせる。顎を縦に割ろうとするような一直線の傷と、それから喉を潰すようにある、めくれ上がり、盛り上がり、押し潰された肉。そして残骸のように残る蟲たち。
……やっぱり見なければよかったかもしれない。
せり上がってくる胃の内容物を押し込めるように手のひらを口元に当て、ヴィルは竜の口内から視線を外した。
目のないウナギやウツボを思わせる、鱗に覆われた顔が代わりに目に入る。おそらく耳のあたりにあるヒレが、陽の光を反射して不思議な色に輝いていた。このヒレでさえ、ヴィルの身長ほどはあるのではないかと錯覚するほど、とにかく巨大だ。
「オレ、竜なんて初めてだ」
「竜はその凶暴性から同種喰いやら討伐やらで数が減っている。今でも容易く竜が見れるのは、リエンの最北部くらいだ」
淡々と、サキ。
「それ、リヴァイアサンっていうんだって。海を荒らして、巻き込んだ人間を消しちゃうって噂、サキは知ってる?」
「ああ、聞いたことがあるな」
ベルシエルに相槌を打ちつつ、彼は口内の傷や、大きく抉れている喉元の傷を確かめたりしている。
そしてなにかに気付いたのか、すっ、と瞳が鋭く細められた。
「ベルシエル。蜘蛛は見たか」
「ううん、見てない。でも、」
ふるふると、首を振るベルシエルは、そこで言葉を区切ると、
「この子のできもの、かたち、蜘蛛みたいだったよ」
それがどうかしたの? と問いかける。ヴィルもまた状況が掴めず、ただ頭を捻るしかない。
「蜘蛛って、あの節足動物の蜘蛛だよな。なにかあるのか?」
「蜘蛛は、魔族共の配下だ」
「──今なんて言った?」
耳ざとく聞いていたらしいシェスカが、つかつかとこちらへ詰め寄ってきた。その表情は抜き身の刃のように険しい。その後ろからジェイクィズがついてくる。それに続くように、イリスもこちらへやって来た。きょろきょろと、何かを探すように視線を彷徨わせている。
「魔族は蜘蛛を配下として世界中に散らせている。恐らくその蜘蛛たちが情報を集め、主の元へ持っていっているんだろう」
「じゃあ、この竜は『私』を狙ってきた可能性がある……?」
「可能性はゼロではないが、少ないだろうな」
「なんでそう思うんだよ、隊長殿は?」
あやしーじゃん。と、ジェイクィズ。
「皮膚の変色具合から、腫瘍自体かなり古いものに見える。それに、こいつの『内部』にも蜘蛛はいなかった。名残は見られたがな」
「名残って?」これはヴィルが問うた。
「『核』が入っていた巨大な繭があっただろう。あれは蜘蛛の糸だ。それもかなり古い。状況から、蟲に喰われたとは考えにくい。恐らく長い年月を経て、『核』と同化したんだ」
「そんなことが有り得んのかねェ……」
サキは淡々と事実と、そこから導き出される可能性の高い事象を述べている。そのことを理解してはいるものの、納得はしていない、という様子のジェイクィズ。
シェスカは顎に手を当てて考え事に没頭しているようだった。きっと、本当に《奴ら》の仕業ではないのかと考えているのだろう。ヴィルとしては、何か口を挟むにしても何も知らなすぎる故に、ただそんな彼らの様子を眺めているしかできなかった。
しばらく無言の思考があちこちで交わされる。
「なぁ、」
その静寂を破ったのは、ずっと黙って話を聞いていたイリスだった。少しだけ俯いて、前髪で瞳が隠される。きゅっと唇を引き結んで、何かを言いあぐねているようだった。言いたいことはあるのに、言葉がまとまらない。そんな風に見える。何度もぱくぱくと口を開けては、上手く紡ぎ出せずに押し黙る。
「イリス?」
全員の視線が、イリスへと集まる。彼女は落ち着かなさそうに、耳元の赤い花を模したピアスを触っていた。そしてやっと、言葉を見つけたのか、ばっと大きく顔を上げた。
「あたし、話についていかれへんねんけどな、教えて欲しいことあんねん」
不安げに、イリスの瞳が揺れている。どこかその声も震えていた。
「どうしたの、イリス?」
寄り添うように、シェスカは彼女の側に立った。優しく、あやすように、震えている肩に手を乗せ、イリスが落ち着くように、イリスを急かさないように、じっと次に続く言葉を待つ。
「あたし、海に浮かんどったんやんな? ……他に、誰もおらんかった……?」
その問いは、一瞬理解できなかった。しかしすぐに、ヴィルの脳裏にあの『夢』でのイリスとの会話が浮かんだ。
──イリスは、仲間たちとはぐれていたのだ。
シェスカたちを探している間、イリスはたくさんの人たちの名前を叫んで、探し続けていた。不安そうな顔など見せず、無事を信じて、ひたすらに。
不安ではないわけがないのだ。イリスはまだ幼い少女で、仲間たちとずっと楽しく旅をしてきて。その仲間たちが見つからず、自分ひとりが取り残されるように生きている。
それは、とても辛いことではないか。ヴィルは少しでもそれがマシにならないかと、イリスを見つけた時の様子を思い返す。シェスカとジェイクィズがこちらを見ていた。その視線は、諦めを含んでいる。
──私たちは見ていない。あなたは?
シェスカの無言の問い。必死で記憶を掘り起こして、掘り起こして、それでもそこにイリスの望む答えが見つからなくて、ヴィルは強く前髪を握りしめた。その様子は、答えを言葉にするよりも明確だった。
こちらの様子を確認したサキは、ベルシエルに二、三言、何かを確認して、淡々と、事務的に。感情をまったく滲ませず、イリスに向かって告げる。
「────ああ。確認していない」
「──っ!!」
動揺を隠そうと、イリスはすぐに俯いた。けれど、その震えは誰が見ても明らかだった。そんなイリスを、シェスカは自らの腕の中へ引き寄せ、静かに抱きしめる。やがて漏れてくる、押し殺したような嗚咽。
「イリス……」
なんと声をかけたらいいのかわからず、ヴィルはただ名前を呟くしか出来ない。
そんな中で、
ビィ──────────ッ!
聞きなれない鐘の音が船に響く。
「スタイナー隊長! 通信です! 識別信号〇〇五、ジブリール哨戒船です!」
船員のひとりが、慌ただしく駆けてきた。腕には拡声器によく似た筒がくっついている箱を抱えている。箱には様々な突起と魔石が埋め込まれており、それなりの重量がありそうだ。ずっと鳴っている耳慣れない音は、そこから聞こえてくるようだった。
「繋げ」
サキがそう返すと、船員は箱を甲板に下ろし、いくつかの突起を押し込んだ。ザザザ、と雑音がした後、咳払いをする男の声が明瞭に聞こえてくる。
『おーう、坊主! こちら第三分隊アラン・ガジェッドだ!』
これまでの暗い空気を吹き飛ばすような、荒々しくも豪快な声。その声の主の名前には覚えがあった。
以前サンスディアで足止めを食らった時に見た、赤いジブリール制服に身を包み、大きな眼帯をした巨躯の男。
『救難信号で駆けつけてやったぞ! 感謝し──』
「こちら第一分隊サキ・スタイナー。礼は後日に。通信終わります」
『待て待て待て!』
ばっさりと。切り捨てるように応えるサキ。慌ててアラン・ガジェッドはおどけた声色を真面目なそれへと変えた。
『そちらの状況を知りたい。通信は生きているんだな?』
「ええ。この通りに。船自体の損傷も軽微です。『竜』さえ退ければ、簡単な修復で航行が可能かと……」
『竜だァ!? こっちの獲物取ったなスタイナー!!』
あまりの大声に、びりびりと船中が震える。頭が揺れていると錯覚しそうだ。あのサキでさえ、不快そうに眉根を寄せている。音を下げろ、と船員に仕草で指示を出し、アランへ問いかけた。
「……そちらで竜を追っていたんですか?」
『リヴァイアサンだろ? オロッセ海域からメエリタ大陸側に移動していると報告を受けて、第三分隊に──いや俺に、討伐命令が下っている。
──っと、今はそれより……』
アランがそこで何かを思い出したように言葉を区切ると、ザザザ、と。再び雑音。そしてすぐ後に、思いもよらない声が、船の中に響いた。
『イリス! そっちにイリスっちゅう女の子おりませんか!?』
若い女性の声。独特の訛り。そして、イリスの名前。
シェスカの胸に埋めていた顔をがばりと上げて、イリスは涙で濡れた瞳を声のする方へと向けた。
「──! その声……パウラ!?」
イリスが叫ぶような声を上げると、雑音混じりの音声に歓声のようなものが聞こえてきた。大勢の声だ。
イリスはつんのめりながら、シェスカの腕から抜け出して、箱の前へ、もっと声が聞こえるように駆け寄った。
『イリス! イリス! あんた無事やったんやね!? ケガない!?』
「っ、うん! うん!! あたし、平気やよ……!!」
涙声のまま、箱に縋り付くように。それでも笑顔を浮かべて、イリスは答える。
そんな彼女の様子を見て、シェスカは心底安心したような微笑みを浮かべていた。それを見て、ヴィルはやっと状況を飲み込めた。肩から力がふっと抜けていく。ジェイクィズも同じらしい。苦笑じみた、それでもあたたかい笑みを、イリスへと向けていた。
「なあパウラ、みんなは大丈夫なん……?」
『大丈夫……! 大なり小なりケガはしたけど、みんな生きとるよ……! あぁ、ほんま……っ! 見つかってよかった……!!』
パウラは嗚咽で言葉を詰まらせながら、これまでのことをかい摘んで話し始める。
パウラが言うには、イリスたちソルス・マノが乗っていた船は、リヴァイアサンによる嵐によって難破したものの、辛うじて生きていた救命艇で危機を脱し、そこをアランが指揮するジブリールの哨戒船に拾われたのだという。
一番最初に海へ投げ落とされたのがイリスで、そのまま行方がわからなくなっており、ずっと探し続けていたが、もはや生きていることさえ絶望的だと思っていたらしい。
何度も何度もかわるがわる、ソルス・マノのメンバーたちがイリスへと話しかけ、その度にイリスは笑ったり、怒ったり、泣いたりと、忙しなく表情を変えながらも、嬉しそうに応えていた。
『あー、悪いな。そろそろお喋りは終わりだ。替わってくれ。こらこらブーイングすんな! 続きは再会した時にとっとけ!』
おしゃべりなソルス・マノの面々に、いつまでも終わりが見えなかったのか、アランが割って入る。
『──ってゆーワケだ。こちらでソルス・マノのメンバーを数十名保護している。そっちに合流するから待っているように』
「了解」
サキが短く返して、通信が切られる。ふっつりと、静かになる甲板。
すっかり放心しているイリスに歩み寄りながら、シェスカは少しだけ眉を下げて、柔らかく微笑んだ。
「よかったわね、イリス」
「……うん。……──うん!」
振り返ったイリスは、まるで太陽のように眩しい笑顔を見せてくれた。
そのすぐ後、遠くからこちらへ呼び掛ける声が聞こえた。すっかり視認できるほどに近付いた船から手を振っているのは、ソルス・マノの人たちだろうか。
イリスは彼らに応えるように、満面の笑みで大きく手を振っている。
彼女たちを見守るように見つめるサキとベルシエル。
ジェイクィズは今回の件で船員たちと仲良くなったらしい。わいわいとなにか話し込んでいる。
そんな様子を少し離れたところで、ヴィルはぼんやりと眺めていた。
「……どうしたの? 浮かない顔して」
シェスカが不思議そうに顔を覗き込んでくる。心配して見に来てくれたようだ。
「あ、いや……。……もし、オレが飛び込んでなかったらさ、イリスは助からなかった代わりに、船員さんたち海に落ちなかったんだよなって、思って……」
自分でもうじうじしていると思う。けれど、犠牲者の数を船員たちから聞いた時から、考えずにはいられなかった。
こうしてイリスも、ソルス・マノの人たちもみんな無事だったのに、こちらは三人海に落ちて、捜索すら困難で、無事かどうかも絶望的で。
もっと上手く……例えばヴィルではなく、サキやジェイクィズがあそこへ飛び込んで、イリスを助け出したなら、結末は変わっていたのかもしれない、と。
正直に思うところを打ち明けると、シェスカの瞳がすっ、と細められた。怒っているような、そんな視線。
「後悔してるの?」
「……たぶん、ちょっとだけ」
苦笑混じりに答える。誰もこの事について、よくも軽率な行動をと、ヴィルを詰ったり責めたりしないのが、逆に堪えていた。
そんなヴィルを見ていたシェスカは、ゆっくり息を吐くと、静かに切り出した。
「……船の旅ってね、本当はもっとずっと危険なんだって」
「?」
「嵐なんて日常茶飯事で、遭難だってよくあること。数日風が来なくて船が動かない、なんてこともあるし、病気が船の中に蔓延してみんな死んじゃうことだってある。本で読んだことがあるわ」
「シェスカ?」
前を、晴れた空の下に広がる海を見つめたまま、シェスカは続ける。
「誰が死んでも、おかしくないのよね。本当は。私でも、あなたでも。船員さんだって。
海に関わる以上、私たちとは比べ物にならないくらい、そういうことに対して、重くて辛い覚悟をしてるんだと思う。
あ、だから、死んだってしかたないって言ってるんじゃないのよ?」
「……うん」
「あなたが助けたから。助けるって選んだから、イリスはここにいるの」
「……うん」
「助けたことを後悔して、助けなかったことを後悔してたら、きっと、誰も浮かばれないわ」
シェスカはそう言うと、ぎゅっと組んだ腕に顔を埋めた。
これはシェスカなりに、励ましてくれているのだろうか。ただ苛立っただけかもしれないけれど。少しだけ、重苦しいものは軽くなっていた。
「……そう、だな。うん。ありがとう」
「なんでお礼言ってるのか、わからないわね」
シェスカはそのまま目蓋を下ろして、潮風を受けている。ヴィルもそれに倣って、目蓋を下ろした。
遠くに喜びの声が聞こえる。
二人はそれを聞きながら、ただ黙って目を閉じていた。
まるで、黙祷のように。
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