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第1話
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「なあ、マスター」
ガヤガヤと騒がしい酒場で馴染みの客たちに混じることなく、1人寂しくカウンター席で酒を呑みながら店主へと声を掛ける。マスターと呼ばれた店主は、酒を注ぐ手を止めずに常連客でもある青年を一瞥した。
「なんか金儲けの話知らねえ?」
「知っていたら、ここで店を開いてねえな」
素っ気なく店主は返す。
少々年季の入った店は安酒を多く提供していることもあって、客層は口が裂けても上品とは言いがたい。今も飲めや歌えやと騒いでいるのは冒険者や下級兵士、労働者が多数を占めていた。安い酒とそれなりに美味い食事を食べられるとあって店内の席はほとんど埋まるほどに繁盛していた。
8席あるカウンター席は青年の他に2人組が1組、フードを目深に被った男が1人、店内の賑やかさに反して静かに酒を飲んでいた。
今は誰も彼もが陽気に酒を飲んでいるが、酒に呑まれて乱闘騒ぎも珍しいことではない。そんなときは白髪こそ目立ってはいるが、昔はそれなりに名の知れた冒険者だったらしい店主の手によって力づくで止められるか、騒ぎを聞きつけた警備兵によって一晩牢屋にぶち込まれる。騒がしくはあるが治安がいいこともあり、冒険者には見えない女性客の姿もちらほらと見られた。
「女に困らされることはあっても、金に困ったことがねえ奴がどうした」
髪こそありふれたダークブラウン色だが、平均よりも長身かつ服の上からでもはっきりと分かるぐらい無駄なくついた筋肉質な体に精悍な顔立ちをしている。女性にモテそうな顔立ちなだけあり、この店でも度々女性客から声を掛けられることも珍しくはない。今も数少ない女性客たちから視線を向けられているが、あえて気づかない振りをしていた。
時に恋人や夫がいる女性から声を掛けられてトラブルが起きたこともあるが、相手のいる女性との火遊びは一切せず、年齢に似合わず遊び慣れた独り身や未亡人と時折ふらりと姿を消す姿を店主は何度か目撃していた。
「妹がダラム病になった」
ダラム病――。その名に、店主は息を呑む。
症状としては微熱と体のだるさ。最初は風邪かと誤解されることも多いが数日経っても治癒することはなく、体の怠さから少しずつベッドから起き上がれる時間が少なくなっていく。数年かけて寝たっきりとなり、最後には昏睡から目覚めることなく衰弱死する奇病だった。
魔力の大小は関係なく、魔力を持つ成長途中の子どもや若者にだけある日突然発症することのある病。魔力のない平民は発症することはなく、魔力のある貴族のみで症例が見られたことから、別名貴族病とも呼ばれていた。今から50年ほど前にダラム・エバンズという名の医師が発症原因が魔力の変質であり、同時に治療法を見つけたことによりダラム病と呼ばれるようになった。
「治せねえ病気じゃない。ただ治療費が馬鹿高い上に、治療できる医者も少ねえ。妹が嫁に行くときのために貯めていた金もあるが、焼け石に水だ。流石に犯罪は無理だが、金のためならなんだってやる。マスター、金になりそうな話を知らないか?」
魔力が原因で引き起こされる病とあって治療薬も魔力を帯びた薬草が必要になる。魔力を帯びた薬草のほとんどは鮮度が命であり、自生しているところも数が少ない。そういった薬草を使った治療薬は高額だ。
患者も魔力持ちとあって発症例も少なく、治療できる医者もごく一握りだ。その大半は貴族が抱え込んでいる。高額な治療薬に貴族お抱えの医者に診てもらうとなれば莫大な費用が必要になる。平民の収入ではとても賄いきれるものではない。それこそ犯罪に手を染めない限り――。
縋る眼差しを向ける青年に、店主はそっと目蓋を伏せる。
「ウィリー、悪いことは言わない。諦めろ。ダラム病の特効薬にはA級パーティーに依頼を出さないと採れない素材が必要だ。俺ら平民がどんなに頑張って金をかき集めたところで、ダラム病は治せねえ」
A級パーティーへの依頼料は平民の収入の数十年分にもなる。高額な依頼料に、平民がA級パーティーを雇うことは一生かかってもあり得ない。
かつてそれなりに名の知れた商家の1人娘がダラム病を発症したが治療薬の代金が払えず亡くなり、商家も1人娘の治療で資金が底をついて潰れたとしばらく噂になったことがある。平民よりも資金があったはずの商家でさえダラム病を治す術がなかったのだ。魔力を持って生まれた平民がダラム病を発症すれば治療する術はない。治療方法が見つかった今でも、ダラム病は特権階級の人間以外には不治の病だった。
「嫌だ。妹は、リタは俺の最後の家族なんだ……っ」
片手で顔を覆いながらウィリーと呼ばれた青年はうつむく。
数年前まで青年は帝都の学園に在籍していた。騎士の家に生まれ、周囲からは将来騎士になることを嘱望され、本人もまた騎士になることを疑うことなく信じていた。実技、学科共に成績優秀だったこともあり、将来は近衛騎士も夢ではない。そんな風にささやかれていたが、卒業まで残り1年を切ったときに事故に巻き込まれ両親共に亡くなった。
帝都の学園の学費は安くはない。身寄りが亡くなった生徒は退学を余儀なくされるが、成績優秀者だったことから学園から奨学金の話や、男児に恵まれなかった騎士の家から複数養子を条件に援助の話もあった。その全てを断り、自ら退学の道を選んだのは病弱な妹がいたからだった。
6歳年下の妹は当時10歳だった。産まれたときから体が弱く、よく風邪を引いては寝込んでいた妹は成人まで生きられないかもしれないと医者から言われていた。それでも両親を亡くした青年に取ってはたった1人の妹だった。
養子の条件に妹も一緒であることを望んだが、成人まで生きられるか分からない病弱な娘。無事に成人できたとしても結婚に必要な条件でもある子どもを産めるかも分からない。出した条件に首を静かに横に振る者、病弱な妹までは面倒見切れないと言い切って断る者、孤児院に入れてしまえと返してきた者、反応は様々だったが誰も妹も引き取ってくれる人はいなかった。
病弱な妹が孤児院で生き残れるとは思えない。一時的に妹を預かってくれていた遠縁も、病弱なことを理由に引き取ることに難色を示していた。妹を守れるのは最早自分ただ1人だけだと気づいたあとの行動は早かった。
周囲が引き留める中強引に学園を退学し、兵士となる道を選んだ。将来は近衛騎士かと嘱望された身としてはあまりにも落ちぶれてしまったが、全ては妹を守るためだ。安月給ではあるけれど両親が残してくれた蓄えもあり、妹と2人慎ましく生きるには事足りた。ダラム病を発症しなければ――。
たった1人の妹を育てるために輝かしい未来を捨て兵士となったことを知っている店主は、掛ける言葉を見つけられなかった。気の毒に思いながらも、どうすることもできない。他の仕事を紹介したところで焼け石に水だ。
普段なら泥酔前に声を掛けて止めるところだが、今日だけは見逃してやろう。泥酔した常連であろうと閉店となれば問答無用で店から追い出すが、なんだったら朝まで置いても良いと気遣う店主は目の端に映った影に顔を上げた。
カウンター席の端、フードを目深に被りながら静かに酒を呑んでいた男が椅子から立ち上がる。そのまま男は青年へと近づくと声を掛けた。
「――金が必要か?」
落ち着いた声は騒然とした店内でもスルリと青年の耳に届いた。ゆるりと顔を上げ、声の主へと振り返る。
目深に被ったフードで顔こそ見えないが、声の感じからして年若くはない。着ている服も平民に寄せているが、どこかちぐはぐに見える。男が貴族であることは軽く酒に酔っていた青年でもすぐに分かった。
「聞き耳を立てていたわけではないが、話は聞かせてもらった。どうだ、1つ金になる話を聞いてみる気はあるか?」
ごくりと息を呑む。
絶望から一転。これは神がくれた幸運か、それとも悪魔が仕掛けた罠か。
四方から感じた視線に、カウンター席の2人組と店内にいる何人かがこの男の護衛だと気づく。店内に護衛が5人か6人。もしかしたらもう数人ぐらい潜ませているかもしれない。
「お貴族様がなんでまた、こんな平民しかいない安酒ばっかり置いてある酒場に?」
ふっと男はフードの中で笑う。
騒然とした店内ではカウンター席の緊張感に気づくことなく、誰も彼もが楽しげに酒を飲んでいた。ここだけが外界と切り離されたような錯覚に陥る。
「腹の探り合いは嫌いではないが、たまにはこういうところで安酒も飲みたくなってね」
店主を見れば、顔をそらされた。男が貴族であること、時折安酒を呑みに酒場に来ていることは店主も知っていて黙認していたということだ。
ダラム病の特効薬の1つがA級パーティーの冒険者に依頼を出さなければいけないことを知っていただけに、店主がその昔A級パーティーの冒険者だったという噂話に真実味が増す。元A級冒険者が帝都とはいえ庶民向けの酒場を開いているのか気になるが、今は関係ない。A級パーティーともなれば貴族からの依頼を受けることもあると聞く。男との関係もその時の繋がりだろう。
「それで、どうする?」
「……話を聞いてからだ。犯罪は、できない」
今すぐにでも大金がほしい。
切実な願望ではあるが、犯罪に手を染める決意だけはできなかった。妹のためであっても。否、妹のためだからこそ犯罪に手を染めて大金を手に入れ、その命を救ったところで妹は喜ぶどころか絶対に傷つく。今でも自分のせいで兄が騎士になれなかったと悔やんでいる妹に、自分のせいで兄が犯罪者になったという重しを背負って欲しくなかった。
犯罪に手を染められないと前置きすれば、男は空いていた隣の席へと腰を下ろした。
スッと伸びてきた右手が顎をつかむ。半ば無理矢理顔を男へと向ける形になった青年は顔をしかめながらも抵抗しなかった。
無骨な手をしているが、平民とは違いきちんと手入れされている手は奇麗なものだった。好き勝手に顔を動かされ、四方から見ながら男は1人納得して頷く。
「うん、いいな」
「なにが?」
「金のために男に抱かれる気はあるか?」
「……………………はっ?」
空耳か、それとも幻聴か。たっぷりの間を空けながら問い返す。
「正気、か……?」
「正気だ。それでどうする?」
妹のためにお前はどこまでできるかと、まるで挑発するかのように。どこか楽しげな声が尋ねる。
真綿でじわじわと締め付けられるような息苦しさを感じながらも、青年は覚悟を決めた。
「相手はあんたでいいんだよな」
「そうだ」
「男は何度か抱いたことはあるが、抱かれたことはないぞ」
過去何度か抱きたいと誘われたが、そういった誘いは全て断ってきた。男から抱いて欲しいと誘われたときは興味本位で何度か誘いに乗ってみたが、女とは違い硬い体は抱き心地が悪かった。性欲を発散したいときに誘われれば男でも誘いに乗ることはあったが、どちらかと言えば柔らかい女の体が好みだ。ただし男女共に本気の付き合いを望む相手からの誘いは全て断ってきた。
「処女か」
「男相手に処女もどうかと思うが」
意味合いとしては正しいが、感じた不快さに顔をしかめる。
「なら奮発してやらないといけないな」
言いながら男はどこからか取り出した硬貨を数枚カウンターの上へと置く。見慣れない硬貨に目を瞬かせ、それが金貨だと気づいた青年は思いがけない大金に思わず仰け反った。
ガヤガヤと騒がしい酒場で馴染みの客たちに混じることなく、1人寂しくカウンター席で酒を呑みながら店主へと声を掛ける。マスターと呼ばれた店主は、酒を注ぐ手を止めずに常連客でもある青年を一瞥した。
「なんか金儲けの話知らねえ?」
「知っていたら、ここで店を開いてねえな」
素っ気なく店主は返す。
少々年季の入った店は安酒を多く提供していることもあって、客層は口が裂けても上品とは言いがたい。今も飲めや歌えやと騒いでいるのは冒険者や下級兵士、労働者が多数を占めていた。安い酒とそれなりに美味い食事を食べられるとあって店内の席はほとんど埋まるほどに繁盛していた。
8席あるカウンター席は青年の他に2人組が1組、フードを目深に被った男が1人、店内の賑やかさに反して静かに酒を飲んでいた。
今は誰も彼もが陽気に酒を飲んでいるが、酒に呑まれて乱闘騒ぎも珍しいことではない。そんなときは白髪こそ目立ってはいるが、昔はそれなりに名の知れた冒険者だったらしい店主の手によって力づくで止められるか、騒ぎを聞きつけた警備兵によって一晩牢屋にぶち込まれる。騒がしくはあるが治安がいいこともあり、冒険者には見えない女性客の姿もちらほらと見られた。
「女に困らされることはあっても、金に困ったことがねえ奴がどうした」
髪こそありふれたダークブラウン色だが、平均よりも長身かつ服の上からでもはっきりと分かるぐらい無駄なくついた筋肉質な体に精悍な顔立ちをしている。女性にモテそうな顔立ちなだけあり、この店でも度々女性客から声を掛けられることも珍しくはない。今も数少ない女性客たちから視線を向けられているが、あえて気づかない振りをしていた。
時に恋人や夫がいる女性から声を掛けられてトラブルが起きたこともあるが、相手のいる女性との火遊びは一切せず、年齢に似合わず遊び慣れた独り身や未亡人と時折ふらりと姿を消す姿を店主は何度か目撃していた。
「妹がダラム病になった」
ダラム病――。その名に、店主は息を呑む。
症状としては微熱と体のだるさ。最初は風邪かと誤解されることも多いが数日経っても治癒することはなく、体の怠さから少しずつベッドから起き上がれる時間が少なくなっていく。数年かけて寝たっきりとなり、最後には昏睡から目覚めることなく衰弱死する奇病だった。
魔力の大小は関係なく、魔力を持つ成長途中の子どもや若者にだけある日突然発症することのある病。魔力のない平民は発症することはなく、魔力のある貴族のみで症例が見られたことから、別名貴族病とも呼ばれていた。今から50年ほど前にダラム・エバンズという名の医師が発症原因が魔力の変質であり、同時に治療法を見つけたことによりダラム病と呼ばれるようになった。
「治せねえ病気じゃない。ただ治療費が馬鹿高い上に、治療できる医者も少ねえ。妹が嫁に行くときのために貯めていた金もあるが、焼け石に水だ。流石に犯罪は無理だが、金のためならなんだってやる。マスター、金になりそうな話を知らないか?」
魔力が原因で引き起こされる病とあって治療薬も魔力を帯びた薬草が必要になる。魔力を帯びた薬草のほとんどは鮮度が命であり、自生しているところも数が少ない。そういった薬草を使った治療薬は高額だ。
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「ウィリー、悪いことは言わない。諦めろ。ダラム病の特効薬にはA級パーティーに依頼を出さないと採れない素材が必要だ。俺ら平民がどんなに頑張って金をかき集めたところで、ダラム病は治せねえ」
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「嫌だ。妹は、リタは俺の最後の家族なんだ……っ」
片手で顔を覆いながらウィリーと呼ばれた青年はうつむく。
数年前まで青年は帝都の学園に在籍していた。騎士の家に生まれ、周囲からは将来騎士になることを嘱望され、本人もまた騎士になることを疑うことなく信じていた。実技、学科共に成績優秀だったこともあり、将来は近衛騎士も夢ではない。そんな風にささやかれていたが、卒業まで残り1年を切ったときに事故に巻き込まれ両親共に亡くなった。
帝都の学園の学費は安くはない。身寄りが亡くなった生徒は退学を余儀なくされるが、成績優秀者だったことから学園から奨学金の話や、男児に恵まれなかった騎士の家から複数養子を条件に援助の話もあった。その全てを断り、自ら退学の道を選んだのは病弱な妹がいたからだった。
6歳年下の妹は当時10歳だった。産まれたときから体が弱く、よく風邪を引いては寝込んでいた妹は成人まで生きられないかもしれないと医者から言われていた。それでも両親を亡くした青年に取ってはたった1人の妹だった。
養子の条件に妹も一緒であることを望んだが、成人まで生きられるか分からない病弱な娘。無事に成人できたとしても結婚に必要な条件でもある子どもを産めるかも分からない。出した条件に首を静かに横に振る者、病弱な妹までは面倒見切れないと言い切って断る者、孤児院に入れてしまえと返してきた者、反応は様々だったが誰も妹も引き取ってくれる人はいなかった。
病弱な妹が孤児院で生き残れるとは思えない。一時的に妹を預かってくれていた遠縁も、病弱なことを理由に引き取ることに難色を示していた。妹を守れるのは最早自分ただ1人だけだと気づいたあとの行動は早かった。
周囲が引き留める中強引に学園を退学し、兵士となる道を選んだ。将来は近衛騎士かと嘱望された身としてはあまりにも落ちぶれてしまったが、全ては妹を守るためだ。安月給ではあるけれど両親が残してくれた蓄えもあり、妹と2人慎ましく生きるには事足りた。ダラム病を発症しなければ――。
たった1人の妹を育てるために輝かしい未来を捨て兵士となったことを知っている店主は、掛ける言葉を見つけられなかった。気の毒に思いながらも、どうすることもできない。他の仕事を紹介したところで焼け石に水だ。
普段なら泥酔前に声を掛けて止めるところだが、今日だけは見逃してやろう。泥酔した常連であろうと閉店となれば問答無用で店から追い出すが、なんだったら朝まで置いても良いと気遣う店主は目の端に映った影に顔を上げた。
カウンター席の端、フードを目深に被りながら静かに酒を呑んでいた男が椅子から立ち上がる。そのまま男は青年へと近づくと声を掛けた。
「――金が必要か?」
落ち着いた声は騒然とした店内でもスルリと青年の耳に届いた。ゆるりと顔を上げ、声の主へと振り返る。
目深に被ったフードで顔こそ見えないが、声の感じからして年若くはない。着ている服も平民に寄せているが、どこかちぐはぐに見える。男が貴族であることは軽く酒に酔っていた青年でもすぐに分かった。
「聞き耳を立てていたわけではないが、話は聞かせてもらった。どうだ、1つ金になる話を聞いてみる気はあるか?」
ごくりと息を呑む。
絶望から一転。これは神がくれた幸運か、それとも悪魔が仕掛けた罠か。
四方から感じた視線に、カウンター席の2人組と店内にいる何人かがこの男の護衛だと気づく。店内に護衛が5人か6人。もしかしたらもう数人ぐらい潜ませているかもしれない。
「お貴族様がなんでまた、こんな平民しかいない安酒ばっかり置いてある酒場に?」
ふっと男はフードの中で笑う。
騒然とした店内ではカウンター席の緊張感に気づくことなく、誰も彼もが楽しげに酒を飲んでいた。ここだけが外界と切り離されたような錯覚に陥る。
「腹の探り合いは嫌いではないが、たまにはこういうところで安酒も飲みたくなってね」
店主を見れば、顔をそらされた。男が貴族であること、時折安酒を呑みに酒場に来ていることは店主も知っていて黙認していたということだ。
ダラム病の特効薬の1つがA級パーティーの冒険者に依頼を出さなければいけないことを知っていただけに、店主がその昔A級パーティーの冒険者だったという噂話に真実味が増す。元A級冒険者が帝都とはいえ庶民向けの酒場を開いているのか気になるが、今は関係ない。A級パーティーともなれば貴族からの依頼を受けることもあると聞く。男との関係もその時の繋がりだろう。
「それで、どうする?」
「……話を聞いてからだ。犯罪は、できない」
今すぐにでも大金がほしい。
切実な願望ではあるが、犯罪に手を染める決意だけはできなかった。妹のためであっても。否、妹のためだからこそ犯罪に手を染めて大金を手に入れ、その命を救ったところで妹は喜ぶどころか絶対に傷つく。今でも自分のせいで兄が騎士になれなかったと悔やんでいる妹に、自分のせいで兄が犯罪者になったという重しを背負って欲しくなかった。
犯罪に手を染められないと前置きすれば、男は空いていた隣の席へと腰を下ろした。
スッと伸びてきた右手が顎をつかむ。半ば無理矢理顔を男へと向ける形になった青年は顔をしかめながらも抵抗しなかった。
無骨な手をしているが、平民とは違いきちんと手入れされている手は奇麗なものだった。好き勝手に顔を動かされ、四方から見ながら男は1人納得して頷く。
「うん、いいな」
「なにが?」
「金のために男に抱かれる気はあるか?」
「……………………はっ?」
空耳か、それとも幻聴か。たっぷりの間を空けながら問い返す。
「正気、か……?」
「正気だ。それでどうする?」
妹のためにお前はどこまでできるかと、まるで挑発するかのように。どこか楽しげな声が尋ねる。
真綿でじわじわと締め付けられるような息苦しさを感じながらも、青年は覚悟を決めた。
「相手はあんたでいいんだよな」
「そうだ」
「男は何度か抱いたことはあるが、抱かれたことはないぞ」
過去何度か抱きたいと誘われたが、そういった誘いは全て断ってきた。男から抱いて欲しいと誘われたときは興味本位で何度か誘いに乗ってみたが、女とは違い硬い体は抱き心地が悪かった。性欲を発散したいときに誘われれば男でも誘いに乗ることはあったが、どちらかと言えば柔らかい女の体が好みだ。ただし男女共に本気の付き合いを望む相手からの誘いは全て断ってきた。
「処女か」
「男相手に処女もどうかと思うが」
意味合いとしては正しいが、感じた不快さに顔をしかめる。
「なら奮発してやらないといけないな」
言いながら男はどこからか取り出した硬貨を数枚カウンターの上へと置く。見慣れない硬貨に目を瞬かせ、それが金貨だと気づいた青年は思いがけない大金に思わず仰け反った。
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