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終章「星鍛目録」
第50話「獄中」
ピション、と冷たい雫が鼻の頭を叩いた。
たちまちノヅチが跳ね起きて、寝ぼけ眼で辺りを見渡した。
もっとも、この薄闇の世界には昼夜の別も無い。
頭上を見上げれば、天井間際に空いた通風孔よりわずかに光が差し込んでおり、それでかろうじて日中だと分かった。
ボロボロの外套を被り直し、あるだけマシの筵の上へと横になる。
瞳を閉じると、地上の物音が耳元にまで届いてきた。
銃口に促される団体の足音。
すすり泣く人の声。
何事か諍いを始める男たちの会話。
半狂乱になった女の悲鳴。
騒がしい事だ。
大きく溜息を吐き出しゴロリと寝返りを打つ。
もっとも彼らは自分とは違う、特別な囚人たちである。
自分のように雑にほったらかしにされる事はないだろう。
彼らの辛気臭い空気が地下まで降りて来ないのだけは、せめてもの救いであった。
北辺での魔王軍との決戦より、およそ一年。
魔王の死により、地上に残った魔物たちも統制を失い、各地では順当に掃討が進んでいるという。
尊い勇者の犠牲により、世界は救われた。
人類は苦難を乗り越え、ようやく輝かしい復興の時代が始まろうとしていた。
筈なのだが、この監獄までは、そのような喜ばしい話題も届かない。
ボルディノ要塞。
皇都に続く東方からの経路を塞ぐ要衝に在り、先の大戦においても魔王軍の猛攻を支え切った皇国の盾である。
現在は平時の役目に戻り、皇都に留め置けぬ特別な囚人たちを収監する監獄となっている。
かつてノヅチは、死刑執行人の一団に混ざり、この地でとある少年の最期を検分した事があった。
その彼も今は監獄の住人として、検分される時を待つ身である。
・
・
・
――ちりん
通路の奥から、不意に鈴の音が聞こえた気がした。
怪訝に体を起こすと、鉄格子の向こうに小さな灯が見えた。
洋灯の火は鈴の音と共に次第にこちらに近付いて、やがて格子の手前でぴたりと制止した。
網膜を焼く洋灯の光を片手で遮り、来訪者の姿を忌々しげに見上げる。
黒い男であった。
黒の山高帽に、黒の外套、男の姿は闇に溶け込み、白い面立ちだけが洋灯の光に浮かび上がる。
黒塗の鞘に納められた倭刀の柄には、不釣り合いな白銀の鈴が煌めいている。
刑罰の公正さを示す無垢なる銀は、皇都の処刑人の証である。
マニング・マウンライルド。
ノヅチと旧知の青年であり、当代随一と業前と目される死刑執行人であった。
不意の死神の到来に、ノヅチはパチパチと目を瞬かせ、ポツリと口を開いた。
「こいつは驚いたな……。
まさかアンタが来てくれるとは思わなかったよ」
「…………」
「へへ、だがまあ、アンタの腕なら断頭台より確かだな。
手前の刀の切れ味を自分自身で試せるとは、刀工冥利に尽きるって話だ」
「……これが告発書に見えるようなら、貴方も相当、ヤキが回ったって事ですよ」
「おほ!」
マニングはしばしの間、薄汚れたノヅチの姿をまじまじと観察していたが、やがて大きく溜息を吐いて、手にしたバスケットを掲げて見せた。
たちまちノヅチは喜色満面、格子越しに差し出されたバゲットをひったくるように奪い取った。
「正直、安心するより呆れましたよ。
まるで貴方は独房の主だ。
ここに放り込まれる人間というのは、もう少ししおらしい表情を作るものですよ」
「望みがあればな、悩みもすれば悔やみもするだろ。
だが生憎と天下は泰平なこって。
流れ者の槌振りなんぞ、生きてても死んでても同じ事さ」
マニングの言葉に軽口で応じながら、手にしたバゲットに齧り付く。
浅ましい話だが、死を恐れぬと気取った所で腹は減る。
ちょいちょいと指振るノヅチの催促に合わせ、マニングが葡萄酒の瓶を差し込む。
水代わりに流し込むには勿体ない上物だったが、今のノヅチにはそれを惜しむ余裕も無い。
ようやく胃の腑が満たされ人心地つくと、ノヅチ改めて顔を上げた。
「ふう、とにかく助かったよマニング。
こういう時、持つべき者は友人だな」
「そういう台詞は、もっと大事な友人に対して言ってあげたらどうです?」
「なに?」
言葉の意味を掴みかね、放り込まれた林檎を思わず取りこぼした。
マニングが洋灯を向けた方を見やると、壁際では険しい表情のロッカがノヅチを見下ろしていた。
どきり、とノヅチが内心委縮する。
「やあ、若旦那――」
「何をやってるんです! あなたはッ!!」
不意に怒声が爆発し、反射的にノヅチがビクン、と肩を竦めた。
「再三警告はしていた筈ですよ!
僕の手紙を読んでなかったんですか?」
「手紙、ああ、手紙ね、見たよ、いや……」
憤怒の形相の若旦那に対し、ノヅチはいかにも気まずそうに言葉を濁し、拾い上げた林檎の埃を払い始めた。
確かに彼の言う通り、今日のような事態になるのは初めから明白だったのだ。
ロッカから警告の手紙が届いたのは、先の戦争の傷跡も癒えぬ秋口の事であった。
手紙には昨今の皇都の不穏な情勢が綴られ、ノヅチが拘束される可能性を上げ、しばらく都を離れるべきと、丁寧にも幾許かの路銀まで包んであった。
尋常ならざる文面に、さすがにノヅチも慌て、急ぎ山小屋を発つべく荷物をまとめようとしたのだが、そこでふっ、といつもの悪い癖が出た。
持っていく荷物など、何も無い。
当代の勇者に聖剣を打ったあの冬以来、ノヅチは一度も槌を握っていなかった。
山小屋の食料が尽きたその後は、木の実や魚や山菜を取り、時に炭焼きの真似事で小銭を稼ぐなどして、ただ死なないだけの暮らしを続けていた。
槌を振れない槌振りなんぞ、生きている価値は無い。
そんな自分が今更になって、あくせくと生き汚く逃げ回るなど、実に女々しい話ではないか?
それでいっそ、自身の最期を見定めてやるつもりになって、貰った路銀を酒代に変えると、のうのうと逮捕の時を待ち続けたのだった。
個人の心情はともかくとして、長年の友誼に泥を塗った事だけは間違いない。
煮え切らないノヅチの態度に対し、ロッカはずいと歩み寄り、格子の隙間に顔面を押し付けるようにして言った。
「今すぐにでも、ここを出ましょう。
あなたほどの人間が、こんな所に閉じ込められてて良いワケがない」
「出るったって、無理だろ、そりゃ……。
ただの喧嘩や掻っぱらいなら、こんな所にブチ込まれたりしないよ」
そう言って、ノヅチは困ったように頭を掻いて、目の前の林檎に齧り付いた。
「知ってるんだろ、俺の罪状?
警告をくれたのは君じゃないか」
ノヅチの反論に対し、今度はロッカの方が言葉を失った。
ふうっ、と傍らから溜息がこぼれ、押し黙ってしまった両者に代わり、壁際のマニングが次の台詞を引き継いだ。
「――昨年の魔王城での戦いの後。
もぬけの空となった玉座の間から、一振りの倭刀が発見された」
「…………」
「折れた刃の茎には『野槌』の銘が刻まれており、皇国はこれを魔王の剣と断定した。
魔王に与する者は、国家に反逆するにも等しい……、極刑が妥当ですね」
「ロクでもない話ですよ、まったく。
一時の政局の安定のために、あなたのような罪なき人々を陥れるなどと」
「政局?」
憤懣やる方ないと言ったロッカの言葉に、思わずノヅチは首を傾げた。
自分の罪はともかくとして、それが国家の運営にどう関係するというのだろうか?
「先の戦乱は、いわば魔王軍の侵略に対する防衛戦。
勝利した所で得る物は無く、戦後処理の苦難が残るばかりです」
ノヅチの疑念に答えるように、再びマニングが口を開いた。
「国政への不満が蔓延すれば、それに乗じて民衆を先導しようとする輩も出て来る。
共和主義者や不平貴族、過激な異教徒にテロリスト……。
国家の運営を阻む不届き者を、魔王の信徒と『認定』しては見せしめとする。
恐怖政治の類ですが、斯様に政情が不安定な時期には有効なのでしょうね」
「それが上の団体様って事かい?
ようやく魔王を倒した後がこれじゃあ、先が思いやられるな」
「……随分と他人事のように言いますね。
貴方だって被害者の一人なんですよ?
後ろ盾のない異邦人ほど面倒の無い生贄は、他にありませんから」
「絶対に許される事じゃないですよ、こんなのは。
あなたが鍛えた聖剣が無ければ、世界は闇に包まれていたと言うのに。
誰も真実を知ろうとしない。
世界を救った英雄を、ありもしない罪で弑そうというんだ」
「……ああ」
そこまで説明されて、ようやくノヅチにも合点が言った。
ようするに、二人は誤解しているのだ。
確かに今の皇国は最低最悪なのかもしれないが、それはノヅチの現状とは、一切何の関係も無い話である。
一瞬、次の言葉を告げるのを躊躇った。
だが、己の立場も顧みず窮地に駆け付けてくれた友人たちに対し、不実を働く訳にはいかない。
「二人には悪いが、残念ながら身に覚えがありすぎる。
確かに俺は四年ほど前、魔王を名乗る女の為に、倭刀を一振り仕上げたよ」
「――!」
「ば、馬鹿な!?
何を、一体何を言ってるんです、ノヅチさん」
思いもよらぬ告白を受け、二人が一斉にノヅチの方を振り返った。
立ちはだかる鉄格子をすがるように握り締めたロッカに対し、ノヅチは静かに首を振った。
「事実さ。
その金で親父殿の仕事場を買い戻したんだ」
「そんな……、なぜ、何故なんです?
あなたほどの槌振りが、よりによって、魔王などと!」
何故?
そう問われ、ノヅチの次の言葉が止まった。
一体、何故あんな事になったんだったろうか?
率直に思い返してみれば、単に脅されていたから、という話になろう。
それも自分一人の命だけではない。
ともすれば相方の命まで奪われかねない窮地であった。
正直にそれを告白して、泣きながら友人たちに謝罪すれば、彼らは許してくれるだろうか?
いや、だがしかし、自分は金を受け取ってしまっている。
自身の作に絶対の自信があったから、思い切りふんだくってやったのだ。
あまつさえ、これ見よがしに茎に銘まで刻んで来た。
力尽くで脅されて仕方なく打った、などとは口が裂けても言えまい。
……いい加減、正直になるべきだと思った。
ノヅチが魔王の刃を鍛える気になったのは、そのような表面的な理由ではない。
「ヤツは……、魔王は、親父殿の作刀のファンだったんだ」
「えっ?」
「言った通りさ。
この地上でただ一人、あの女だけが、流浪の刀工、出乃羽斎槌の業を正しく評価してくれた。
不世出の鬼才と、乱世に生まれるべき槌振りだった、とまで絶賛したよ」
「…………」
「俺にはそれが嬉しくて、同時に激しく嫉妬したんだ。
俺だって東島の子だ、サイヅチの子だ、俺にだって打てるんだ、って。
だからアイツに認められたくて、全身全霊で鍛え上げたんだ。
魔王の為の倭刀をな」
「それは……、けど、だけど……」
「わかっただろ?
俺は、俺の鍛えた剣で、自身の唯一の理解者を殺し。
同時に俺の剣を信じて戦った、何の罪も無い少女の心を裏切った!
それが俺の罪の全てだ!
今さら罰から逃れようとは思わねえ」
「だけどッ!」
ダン、とロッカの拳が石畳を叩いた。
突然の剣幕に、思わずノヅチも閉口した。
崩れ落ちる青年の懐から、一本の短刀が、カラン、と音を立てて大地に転がった。
「……だけど、そんなのは、どうしようもないじゃあないですか?
剣の罪は、仕手にこそある。
剣、それ自体に善悪なんて、あろうハズが無い……」
青年が震える手で、短刀の鞘を抜き放つ。
たちまち澄み切った蒼穹のような刃が洋灯の下に現れた。
惚れ惚れするほど、良い鉄だ。
この牢獄では、あの日の空ももう見えない。
「あなたの……、あなたの剣は、美しい……」
胸中の言葉を絞るようにして、かろうじてロッカが呻いた。
鮮やかな蒼の地金の上に、ボロボロと大粒の涙が落ちる。
いいじゃないか。
ノヅチの中で、ストン、と何かが腑に落ちた。
親父殿の時は、一人だった。
その最期を知る者も、自らの作の評価を知る術すらも持ちえなかった。
鉄格子を挟んで、ノヅチはドカリと胡坐を掻き、俯くロッカの肩を軽く叩いた。
「君がそう言ってくれるなら、俺にはもう、他に何もいらないよ」
「…………」
「ありがとう、友よ」
ノヅチの言葉を受け、静寂の監獄に、再び嗚咽の声が洩れ始めた。
皇都の死神は独房の壁に体を預け、向かい合う槌振りたちの姿を、無言で見つめ続けていた。
たちまちノヅチが跳ね起きて、寝ぼけ眼で辺りを見渡した。
もっとも、この薄闇の世界には昼夜の別も無い。
頭上を見上げれば、天井間際に空いた通風孔よりわずかに光が差し込んでおり、それでかろうじて日中だと分かった。
ボロボロの外套を被り直し、あるだけマシの筵の上へと横になる。
瞳を閉じると、地上の物音が耳元にまで届いてきた。
銃口に促される団体の足音。
すすり泣く人の声。
何事か諍いを始める男たちの会話。
半狂乱になった女の悲鳴。
騒がしい事だ。
大きく溜息を吐き出しゴロリと寝返りを打つ。
もっとも彼らは自分とは違う、特別な囚人たちである。
自分のように雑にほったらかしにされる事はないだろう。
彼らの辛気臭い空気が地下まで降りて来ないのだけは、せめてもの救いであった。
北辺での魔王軍との決戦より、およそ一年。
魔王の死により、地上に残った魔物たちも統制を失い、各地では順当に掃討が進んでいるという。
尊い勇者の犠牲により、世界は救われた。
人類は苦難を乗り越え、ようやく輝かしい復興の時代が始まろうとしていた。
筈なのだが、この監獄までは、そのような喜ばしい話題も届かない。
ボルディノ要塞。
皇都に続く東方からの経路を塞ぐ要衝に在り、先の大戦においても魔王軍の猛攻を支え切った皇国の盾である。
現在は平時の役目に戻り、皇都に留め置けぬ特別な囚人たちを収監する監獄となっている。
かつてノヅチは、死刑執行人の一団に混ざり、この地でとある少年の最期を検分した事があった。
その彼も今は監獄の住人として、検分される時を待つ身である。
・
・
・
――ちりん
通路の奥から、不意に鈴の音が聞こえた気がした。
怪訝に体を起こすと、鉄格子の向こうに小さな灯が見えた。
洋灯の火は鈴の音と共に次第にこちらに近付いて、やがて格子の手前でぴたりと制止した。
網膜を焼く洋灯の光を片手で遮り、来訪者の姿を忌々しげに見上げる。
黒い男であった。
黒の山高帽に、黒の外套、男の姿は闇に溶け込み、白い面立ちだけが洋灯の光に浮かび上がる。
黒塗の鞘に納められた倭刀の柄には、不釣り合いな白銀の鈴が煌めいている。
刑罰の公正さを示す無垢なる銀は、皇都の処刑人の証である。
マニング・マウンライルド。
ノヅチと旧知の青年であり、当代随一と業前と目される死刑執行人であった。
不意の死神の到来に、ノヅチはパチパチと目を瞬かせ、ポツリと口を開いた。
「こいつは驚いたな……。
まさかアンタが来てくれるとは思わなかったよ」
「…………」
「へへ、だがまあ、アンタの腕なら断頭台より確かだな。
手前の刀の切れ味を自分自身で試せるとは、刀工冥利に尽きるって話だ」
「……これが告発書に見えるようなら、貴方も相当、ヤキが回ったって事ですよ」
「おほ!」
マニングはしばしの間、薄汚れたノヅチの姿をまじまじと観察していたが、やがて大きく溜息を吐いて、手にしたバスケットを掲げて見せた。
たちまちノヅチは喜色満面、格子越しに差し出されたバゲットをひったくるように奪い取った。
「正直、安心するより呆れましたよ。
まるで貴方は独房の主だ。
ここに放り込まれる人間というのは、もう少ししおらしい表情を作るものですよ」
「望みがあればな、悩みもすれば悔やみもするだろ。
だが生憎と天下は泰平なこって。
流れ者の槌振りなんぞ、生きてても死んでても同じ事さ」
マニングの言葉に軽口で応じながら、手にしたバゲットに齧り付く。
浅ましい話だが、死を恐れぬと気取った所で腹は減る。
ちょいちょいと指振るノヅチの催促に合わせ、マニングが葡萄酒の瓶を差し込む。
水代わりに流し込むには勿体ない上物だったが、今のノヅチにはそれを惜しむ余裕も無い。
ようやく胃の腑が満たされ人心地つくと、ノヅチ改めて顔を上げた。
「ふう、とにかく助かったよマニング。
こういう時、持つべき者は友人だな」
「そういう台詞は、もっと大事な友人に対して言ってあげたらどうです?」
「なに?」
言葉の意味を掴みかね、放り込まれた林檎を思わず取りこぼした。
マニングが洋灯を向けた方を見やると、壁際では険しい表情のロッカがノヅチを見下ろしていた。
どきり、とノヅチが内心委縮する。
「やあ、若旦那――」
「何をやってるんです! あなたはッ!!」
不意に怒声が爆発し、反射的にノヅチがビクン、と肩を竦めた。
「再三警告はしていた筈ですよ!
僕の手紙を読んでなかったんですか?」
「手紙、ああ、手紙ね、見たよ、いや……」
憤怒の形相の若旦那に対し、ノヅチはいかにも気まずそうに言葉を濁し、拾い上げた林檎の埃を払い始めた。
確かに彼の言う通り、今日のような事態になるのは初めから明白だったのだ。
ロッカから警告の手紙が届いたのは、先の戦争の傷跡も癒えぬ秋口の事であった。
手紙には昨今の皇都の不穏な情勢が綴られ、ノヅチが拘束される可能性を上げ、しばらく都を離れるべきと、丁寧にも幾許かの路銀まで包んであった。
尋常ならざる文面に、さすがにノヅチも慌て、急ぎ山小屋を発つべく荷物をまとめようとしたのだが、そこでふっ、といつもの悪い癖が出た。
持っていく荷物など、何も無い。
当代の勇者に聖剣を打ったあの冬以来、ノヅチは一度も槌を握っていなかった。
山小屋の食料が尽きたその後は、木の実や魚や山菜を取り、時に炭焼きの真似事で小銭を稼ぐなどして、ただ死なないだけの暮らしを続けていた。
槌を振れない槌振りなんぞ、生きている価値は無い。
そんな自分が今更になって、あくせくと生き汚く逃げ回るなど、実に女々しい話ではないか?
それでいっそ、自身の最期を見定めてやるつもりになって、貰った路銀を酒代に変えると、のうのうと逮捕の時を待ち続けたのだった。
個人の心情はともかくとして、長年の友誼に泥を塗った事だけは間違いない。
煮え切らないノヅチの態度に対し、ロッカはずいと歩み寄り、格子の隙間に顔面を押し付けるようにして言った。
「今すぐにでも、ここを出ましょう。
あなたほどの人間が、こんな所に閉じ込められてて良いワケがない」
「出るったって、無理だろ、そりゃ……。
ただの喧嘩や掻っぱらいなら、こんな所にブチ込まれたりしないよ」
そう言って、ノヅチは困ったように頭を掻いて、目の前の林檎に齧り付いた。
「知ってるんだろ、俺の罪状?
警告をくれたのは君じゃないか」
ノヅチの反論に対し、今度はロッカの方が言葉を失った。
ふうっ、と傍らから溜息がこぼれ、押し黙ってしまった両者に代わり、壁際のマニングが次の台詞を引き継いだ。
「――昨年の魔王城での戦いの後。
もぬけの空となった玉座の間から、一振りの倭刀が発見された」
「…………」
「折れた刃の茎には『野槌』の銘が刻まれており、皇国はこれを魔王の剣と断定した。
魔王に与する者は、国家に反逆するにも等しい……、極刑が妥当ですね」
「ロクでもない話ですよ、まったく。
一時の政局の安定のために、あなたのような罪なき人々を陥れるなどと」
「政局?」
憤懣やる方ないと言ったロッカの言葉に、思わずノヅチは首を傾げた。
自分の罪はともかくとして、それが国家の運営にどう関係するというのだろうか?
「先の戦乱は、いわば魔王軍の侵略に対する防衛戦。
勝利した所で得る物は無く、戦後処理の苦難が残るばかりです」
ノヅチの疑念に答えるように、再びマニングが口を開いた。
「国政への不満が蔓延すれば、それに乗じて民衆を先導しようとする輩も出て来る。
共和主義者や不平貴族、過激な異教徒にテロリスト……。
国家の運営を阻む不届き者を、魔王の信徒と『認定』しては見せしめとする。
恐怖政治の類ですが、斯様に政情が不安定な時期には有効なのでしょうね」
「それが上の団体様って事かい?
ようやく魔王を倒した後がこれじゃあ、先が思いやられるな」
「……随分と他人事のように言いますね。
貴方だって被害者の一人なんですよ?
後ろ盾のない異邦人ほど面倒の無い生贄は、他にありませんから」
「絶対に許される事じゃないですよ、こんなのは。
あなたが鍛えた聖剣が無ければ、世界は闇に包まれていたと言うのに。
誰も真実を知ろうとしない。
世界を救った英雄を、ありもしない罪で弑そうというんだ」
「……ああ」
そこまで説明されて、ようやくノヅチにも合点が言った。
ようするに、二人は誤解しているのだ。
確かに今の皇国は最低最悪なのかもしれないが、それはノヅチの現状とは、一切何の関係も無い話である。
一瞬、次の言葉を告げるのを躊躇った。
だが、己の立場も顧みず窮地に駆け付けてくれた友人たちに対し、不実を働く訳にはいかない。
「二人には悪いが、残念ながら身に覚えがありすぎる。
確かに俺は四年ほど前、魔王を名乗る女の為に、倭刀を一振り仕上げたよ」
「――!」
「ば、馬鹿な!?
何を、一体何を言ってるんです、ノヅチさん」
思いもよらぬ告白を受け、二人が一斉にノヅチの方を振り返った。
立ちはだかる鉄格子をすがるように握り締めたロッカに対し、ノヅチは静かに首を振った。
「事実さ。
その金で親父殿の仕事場を買い戻したんだ」
「そんな……、なぜ、何故なんです?
あなたほどの槌振りが、よりによって、魔王などと!」
何故?
そう問われ、ノヅチの次の言葉が止まった。
一体、何故あんな事になったんだったろうか?
率直に思い返してみれば、単に脅されていたから、という話になろう。
それも自分一人の命だけではない。
ともすれば相方の命まで奪われかねない窮地であった。
正直にそれを告白して、泣きながら友人たちに謝罪すれば、彼らは許してくれるだろうか?
いや、だがしかし、自分は金を受け取ってしまっている。
自身の作に絶対の自信があったから、思い切りふんだくってやったのだ。
あまつさえ、これ見よがしに茎に銘まで刻んで来た。
力尽くで脅されて仕方なく打った、などとは口が裂けても言えまい。
……いい加減、正直になるべきだと思った。
ノヅチが魔王の刃を鍛える気になったのは、そのような表面的な理由ではない。
「ヤツは……、魔王は、親父殿の作刀のファンだったんだ」
「えっ?」
「言った通りさ。
この地上でただ一人、あの女だけが、流浪の刀工、出乃羽斎槌の業を正しく評価してくれた。
不世出の鬼才と、乱世に生まれるべき槌振りだった、とまで絶賛したよ」
「…………」
「俺にはそれが嬉しくて、同時に激しく嫉妬したんだ。
俺だって東島の子だ、サイヅチの子だ、俺にだって打てるんだ、って。
だからアイツに認められたくて、全身全霊で鍛え上げたんだ。
魔王の為の倭刀をな」
「それは……、けど、だけど……」
「わかっただろ?
俺は、俺の鍛えた剣で、自身の唯一の理解者を殺し。
同時に俺の剣を信じて戦った、何の罪も無い少女の心を裏切った!
それが俺の罪の全てだ!
今さら罰から逃れようとは思わねえ」
「だけどッ!」
ダン、とロッカの拳が石畳を叩いた。
突然の剣幕に、思わずノヅチも閉口した。
崩れ落ちる青年の懐から、一本の短刀が、カラン、と音を立てて大地に転がった。
「……だけど、そんなのは、どうしようもないじゃあないですか?
剣の罪は、仕手にこそある。
剣、それ自体に善悪なんて、あろうハズが無い……」
青年が震える手で、短刀の鞘を抜き放つ。
たちまち澄み切った蒼穹のような刃が洋灯の下に現れた。
惚れ惚れするほど、良い鉄だ。
この牢獄では、あの日の空ももう見えない。
「あなたの……、あなたの剣は、美しい……」
胸中の言葉を絞るようにして、かろうじてロッカが呻いた。
鮮やかな蒼の地金の上に、ボロボロと大粒の涙が落ちる。
いいじゃないか。
ノヅチの中で、ストン、と何かが腑に落ちた。
親父殿の時は、一人だった。
その最期を知る者も、自らの作の評価を知る術すらも持ちえなかった。
鉄格子を挟んで、ノヅチはドカリと胡坐を掻き、俯くロッカの肩を軽く叩いた。
「君がそう言ってくれるなら、俺にはもう、他に何もいらないよ」
「…………」
「ありがとう、友よ」
ノヅチの言葉を受け、静寂の監獄に、再び嗚咽の声が洩れ始めた。
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とうとうキレてしまいました
なんで旅行ということで大型連休を取ったのですが
飛行機に乗って寝て起きたら異世界でした……
スキルが簡単に得られるようなので頑張っていきます