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第5章 管理は誰のためにある
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アルトが異変を「異変」として認識したのは、数値の揺らぎからではなかった。むしろ逆だ。揺らぎが、あまりにも静かだったからだ。
評価管制室は今日も平常運転だった。端末に並ぶ指標はすべて許容範囲内に収まり、警告色は一つも灯っていない。オペレーターたちは淡々とログを処理し、判断補助AIは最適解を提示し続けている。理想的な光景だった。少なくとも、管理局が想定してきた「正しい世界」の姿そのものだ。
――それなのに。
アルトは、自分の胸の奥にわずかな引っかかりを覚えていた。理由は単純で、そして致命的だった。
「現場の声」が、どこにも存在しない。
ログは完璧だった。被害数は予測通りに収束し、支援物資の配分は効率化され、統計上の幸福度も微増している。だが、そのどれにも「人」が映っていない。悲鳴も、怒りも、感謝も、数字に変換された瞬間に消えている。
アルトは自分の端末を操作し、意図的に古い記録へと遡った。評価不能領域が最初に発生したとされる、数年前のログだ。そこには、管理対象外として切り捨てられた一連の行動記録が残されていた。
名前は伏せられている。座標も曖昧だ。だが、行動の軌跡だけが、異様なほど鮮明に浮かび上がっている。
――物資の再配分。
――非公式な避難誘導。
――管理区画外での戦闘。
どれも、管理局の基準では「非効率」で「危険」で「是正対象」だった。だが、その結果として救われた人数は、確実に存在している。救われたはずの人間たちは、ログの中では単なる誤差として処理され、評価表からは削除されていた。
アルトは、無意識のうちに唇を噛みしめていた。
「……正しい管理、か」
呟きは誰にも届かない。管制室の空調音が、すぐにかき消した。
そのとき、背後から落ち着いた声がかかる。
「迷っているようだな、アルト」
振り返ると、区域監査官ヴェルナーが立っていた。無駄のない姿勢、感情を感じさせない視線。管理局の理念をそのまま人の形にしたような男だ。
「評価不能領域の再確認ですか」
ヴェルナーは問いではなく、確認として言った。アルトは一瞬だけ言葉を選び、それから正直に答える。
「はい。数値上は問題ありません。ただ……」
「ただ?」
「……説明できない違和感があります」
ヴェルナーは眉一つ動かさなかった。
「説明できないものは、存在しないのと同じだ」
淡々とした言葉だった。それは責めでも忠告でもなく、管理局が長年積み上げてきた結論そのものだった。
「我々は感情で世界を救わない。救われたと“感じる”ことと、実際に救われたかどうかは別問題だ。数字は嘘をつかない」
アルトは反射的に答えそうになり、口を閉じた。数字は嘘をつかない。だが、数字に映らないものは、最初から無かったことにされる。
「……もし」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「もし、数字の外側に救いがあったとしたら。管理は、それを切り捨てるべきなんでしょうか」
管制室の空気が、一瞬だけ凍りついたように感じられた。
ヴェルナーはアルトを見下ろし、ほんのわずかに首を傾ける。
「君は優秀だ、アルト。だからこそ忠告する」
そして、はっきりと言った。
「救いを定義できない者が、世界を扱ってはならない」
その言葉は、正論だった。否定の余地はない。だが同時に、アルトの中で何かが、確実に音を立てて崩れ始めていた。
――定義できない救い。
――評価不能な希望。
かつて誰かが拾い上げたそれらは、今もどこかで息をしている。ログに残らず、記録に残らず、それでも確かに存在している。
アルトは、端末の画面を見つめたまま、初めて「管理されない未来」を想像していた。
それがどれほど危険で、どれほど人間的なものなのかを、まだ彼は知らない。
接触命令は、意外なほどあっさりと下りた。
管理局の判断は常に遅いか、あるいは冷酷なほど迅速だ。今回は後者だった。評価不能領域の拡張兆候が検知され、現地の「外部勢力」との直接交信が必要と判断されたのだ。
外部勢力――正式名称は「壁外居住区残存集団」。だが、アルトの端末に表示された仮称は簡潔だった。
EXILES(追放民)
通信回線は低帯域で、映像は粗い。ノイズ混じりの画面に映ったのは、仮設バリケードの前に立つ男だった。煤と埃にまみれた防護服、しかし背筋は異様なほどまっすぐ伸びている。
「こちらは管理局。評価管制オペレーター、アルト・――」
名乗りかけて、アルトは言葉を止めた。名を名乗ることが、この場において本当に意味を持つのか、迷ったからだ。
画面の男は、短く笑った。
「名乗らなくていい。どうせ、こっちの名前はログに残らない」
声音は荒れていない。ただ、疲労が染みついている。
「……あなたが、壁外指導者グレイですか」
「そう呼ばれてる。呼び方はどうでもいい」
男――グレイは、背後を一瞬だけ振り返った。画面の端に、寄せ集めの居住区が映る。瓦礫を積み上げた壁、簡易発電機、医療用と思しきテント。そのどれもが、管理局の想定図面より、ずっと脆く、ずっと生々しい。
「聞きたいことがあるんだろ」
アルトは、用意していた質問を思い出せなかった。統計的に最適な問い、感情を排した確認事項、評価用の定型文。すべてが、この光景の前では意味を失っている。
代わりに、口からこぼれたのは、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問だった。
「……あなたたちは、なぜ管理区域に戻らないんですか」
グレイは即答しなかった。しばらく沈黙し、それから静かに言った。
「戻れないんじゃない。戻らなかった」
「評価基準を満たせば、再編成の――」
「基準、だろ」
遮るように、グレイが言った。
「子どもが一人、病気で動けなかった。だから列から外れた。それだけで、区域外行きだ。合理的だろ?」
アルトの喉が、わずかに鳴った。
「救える人数を最大化するには、正しい判断です」
そう言った瞬間、自分の声が、ひどく遠くに感じられた。
グレイは怒らなかった。責めもしない。ただ、事実を積み上げるように続ける。
「ここにいるのは、判断から零れ落ちた連中だ。誰かを置いていけなかった奴、誰かに引き返した奴、数値を無視した奴」
画面の向こうで、誰かが咳き込む音がした。グレイは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻す。
「それでも生きてる。管理されてないだけでな」
アルトは、評価不能領域のログを思い出していた。物資の再配分、非公式な避難、管理区画外での戦闘。誰かが、誰かを置いていかなかった結果だ。
「……あなたたちは、正しくない」
そう言うと、グレイは薄く笑った。
「知ってる」
その即答が、アルトの胸を強く打った。
「正しくない。でも、ここには人がいる」
通信が、ふっと揺らぐ。ノイズの向こうで、グレイの声が続いた。
「管理は悪じゃない。俺たちも、管理があったから生き延びた。でもな」
少しだけ、声が低くなった。
「正しさだけで切った世界は、切った数だけ、外に溢れる」
回線が切れたのは、その直後だった。
アルトは、しばらく端末を見つめ続けていた。報告書を書く時間は、とうに過ぎている。是正勧告を出すこともできた。だが、指は動かなかった。
代わりに、彼はログに一行だけ、追記した。
――評価不能領域、拡張。
――原因:現地の選択行動。
――備考:数値化不能。
保存を押した瞬間、警告が表示される。
「当該記述は最適化に寄与しません」
アルトは、初めてその警告を無視した。
管理は、世界を救うためにある。
だが――救いとは、誰が定義するものなのか。
その答えを、彼はまだ持っていない。ただ確かに、以前よりも深く、重く、問いを抱えていた。
評価管制室の照明は、今日も変わらず白い。
だがアルトの目には、その光が、ほんのわずかに眩しく感じられていた。
評価管制室は今日も平常運転だった。端末に並ぶ指標はすべて許容範囲内に収まり、警告色は一つも灯っていない。オペレーターたちは淡々とログを処理し、判断補助AIは最適解を提示し続けている。理想的な光景だった。少なくとも、管理局が想定してきた「正しい世界」の姿そのものだ。
――それなのに。
アルトは、自分の胸の奥にわずかな引っかかりを覚えていた。理由は単純で、そして致命的だった。
「現場の声」が、どこにも存在しない。
ログは完璧だった。被害数は予測通りに収束し、支援物資の配分は効率化され、統計上の幸福度も微増している。だが、そのどれにも「人」が映っていない。悲鳴も、怒りも、感謝も、数字に変換された瞬間に消えている。
アルトは自分の端末を操作し、意図的に古い記録へと遡った。評価不能領域が最初に発生したとされる、数年前のログだ。そこには、管理対象外として切り捨てられた一連の行動記録が残されていた。
名前は伏せられている。座標も曖昧だ。だが、行動の軌跡だけが、異様なほど鮮明に浮かび上がっている。
――物資の再配分。
――非公式な避難誘導。
――管理区画外での戦闘。
どれも、管理局の基準では「非効率」で「危険」で「是正対象」だった。だが、その結果として救われた人数は、確実に存在している。救われたはずの人間たちは、ログの中では単なる誤差として処理され、評価表からは削除されていた。
アルトは、無意識のうちに唇を噛みしめていた。
「……正しい管理、か」
呟きは誰にも届かない。管制室の空調音が、すぐにかき消した。
そのとき、背後から落ち着いた声がかかる。
「迷っているようだな、アルト」
振り返ると、区域監査官ヴェルナーが立っていた。無駄のない姿勢、感情を感じさせない視線。管理局の理念をそのまま人の形にしたような男だ。
「評価不能領域の再確認ですか」
ヴェルナーは問いではなく、確認として言った。アルトは一瞬だけ言葉を選び、それから正直に答える。
「はい。数値上は問題ありません。ただ……」
「ただ?」
「……説明できない違和感があります」
ヴェルナーは眉一つ動かさなかった。
「説明できないものは、存在しないのと同じだ」
淡々とした言葉だった。それは責めでも忠告でもなく、管理局が長年積み上げてきた結論そのものだった。
「我々は感情で世界を救わない。救われたと“感じる”ことと、実際に救われたかどうかは別問題だ。数字は嘘をつかない」
アルトは反射的に答えそうになり、口を閉じた。数字は嘘をつかない。だが、数字に映らないものは、最初から無かったことにされる。
「……もし」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
「もし、数字の外側に救いがあったとしたら。管理は、それを切り捨てるべきなんでしょうか」
管制室の空気が、一瞬だけ凍りついたように感じられた。
ヴェルナーはアルトを見下ろし、ほんのわずかに首を傾ける。
「君は優秀だ、アルト。だからこそ忠告する」
そして、はっきりと言った。
「救いを定義できない者が、世界を扱ってはならない」
その言葉は、正論だった。否定の余地はない。だが同時に、アルトの中で何かが、確実に音を立てて崩れ始めていた。
――定義できない救い。
――評価不能な希望。
かつて誰かが拾い上げたそれらは、今もどこかで息をしている。ログに残らず、記録に残らず、それでも確かに存在している。
アルトは、端末の画面を見つめたまま、初めて「管理されない未来」を想像していた。
それがどれほど危険で、どれほど人間的なものなのかを、まだ彼は知らない。
接触命令は、意外なほどあっさりと下りた。
管理局の判断は常に遅いか、あるいは冷酷なほど迅速だ。今回は後者だった。評価不能領域の拡張兆候が検知され、現地の「外部勢力」との直接交信が必要と判断されたのだ。
外部勢力――正式名称は「壁外居住区残存集団」。だが、アルトの端末に表示された仮称は簡潔だった。
EXILES(追放民)
通信回線は低帯域で、映像は粗い。ノイズ混じりの画面に映ったのは、仮設バリケードの前に立つ男だった。煤と埃にまみれた防護服、しかし背筋は異様なほどまっすぐ伸びている。
「こちらは管理局。評価管制オペレーター、アルト・――」
名乗りかけて、アルトは言葉を止めた。名を名乗ることが、この場において本当に意味を持つのか、迷ったからだ。
画面の男は、短く笑った。
「名乗らなくていい。どうせ、こっちの名前はログに残らない」
声音は荒れていない。ただ、疲労が染みついている。
「……あなたが、壁外指導者グレイですか」
「そう呼ばれてる。呼び方はどうでもいい」
男――グレイは、背後を一瞬だけ振り返った。画面の端に、寄せ集めの居住区が映る。瓦礫を積み上げた壁、簡易発電機、医療用と思しきテント。そのどれもが、管理局の想定図面より、ずっと脆く、ずっと生々しい。
「聞きたいことがあるんだろ」
アルトは、用意していた質問を思い出せなかった。統計的に最適な問い、感情を排した確認事項、評価用の定型文。すべてが、この光景の前では意味を失っている。
代わりに、口からこぼれたのは、ずっと胸の奥に引っかかっていた疑問だった。
「……あなたたちは、なぜ管理区域に戻らないんですか」
グレイは即答しなかった。しばらく沈黙し、それから静かに言った。
「戻れないんじゃない。戻らなかった」
「評価基準を満たせば、再編成の――」
「基準、だろ」
遮るように、グレイが言った。
「子どもが一人、病気で動けなかった。だから列から外れた。それだけで、区域外行きだ。合理的だろ?」
アルトの喉が、わずかに鳴った。
「救える人数を最大化するには、正しい判断です」
そう言った瞬間、自分の声が、ひどく遠くに感じられた。
グレイは怒らなかった。責めもしない。ただ、事実を積み上げるように続ける。
「ここにいるのは、判断から零れ落ちた連中だ。誰かを置いていけなかった奴、誰かに引き返した奴、数値を無視した奴」
画面の向こうで、誰かが咳き込む音がした。グレイは一瞬だけ視線を逸らし、すぐに戻す。
「それでも生きてる。管理されてないだけでな」
アルトは、評価不能領域のログを思い出していた。物資の再配分、非公式な避難、管理区画外での戦闘。誰かが、誰かを置いていかなかった結果だ。
「……あなたたちは、正しくない」
そう言うと、グレイは薄く笑った。
「知ってる」
その即答が、アルトの胸を強く打った。
「正しくない。でも、ここには人がいる」
通信が、ふっと揺らぐ。ノイズの向こうで、グレイの声が続いた。
「管理は悪じゃない。俺たちも、管理があったから生き延びた。でもな」
少しだけ、声が低くなった。
「正しさだけで切った世界は、切った数だけ、外に溢れる」
回線が切れたのは、その直後だった。
アルトは、しばらく端末を見つめ続けていた。報告書を書く時間は、とうに過ぎている。是正勧告を出すこともできた。だが、指は動かなかった。
代わりに、彼はログに一行だけ、追記した。
――評価不能領域、拡張。
――原因:現地の選択行動。
――備考:数値化不能。
保存を押した瞬間、警告が表示される。
「当該記述は最適化に寄与しません」
アルトは、初めてその警告を無視した。
管理は、世界を救うためにある。
だが――救いとは、誰が定義するものなのか。
その答えを、彼はまだ持っていない。ただ確かに、以前よりも深く、重く、問いを抱えていた。
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だがアルトの目には、その光が、ほんのわずかに眩しく感じられていた。
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