AFTER ZERO:Crisis Ⅲ ~残される境界~

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第2章:観測監査官・シオン

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――彼女は“救うために”、正しさの側に立った。

境界保護所を出た瞬間、風がシオンの頬を殴った。
砂埃が肌に刺さる。
乾いた粒が唇に触れて、味がした。

錆びた空気の味。
崩壊後の世界は、呼吸のたびに「ここはもう昔じゃない」と告げてくる。

保護所の入口を振り返ると、薄い壁と鉄柵が見えた。
どれも新しい材料じゃない。
どれも“残り物”だ。
この世界は、すべてが残り物で作られている。

なのに――
そこには確かに、命が詰まっていた。

救われた少年。
救われた女性。
救助者の存在を証明できない矛盾。
そして端末に浮かんだ、わずかな記号。

Δ。

言葉にならない違和感が、胸の底に沈んでいる。
それは恐怖じゃない。
もっと厄介なものだ。

「……正しさが、壊れていく音」

シオンは自分でも聞こえないほど小さく呟いた。

彼女は観測監査官。
“正しさ”が正しく動いているかを監査する職。
つまり、正しさを信じていなければ成立しない仕事だ。

だが今、正しさの側で救われたはずの人間が、正しさに怯えている。

――正しい側が、消す。

その言葉は、彼女の皮膚の内側に残ったまま離れない。

シオンはフードを被り、端末を閉じた。
通信回線も切る。
この境界では、電波が命取りになる。
ログは武器になる。
誰かの位置が、“処理対象”になる。

歩き出す。
目的地は配給台帳の保管区画――境界の中心にある、半地下施設。

そこは、救済の入口であり、管理の刃先でもある。

舗装が剥がれた道。
崩れた看板。
骨組みだけ残った古い商店街。

――救うために、正しさから“逸脱する”。

銃口は、音より先に空気を変える。
世界が静かになり、呼吸が遅くなる。

配給台帳保管区画の奥――登録端末前。
少年の目の前に、警備兵が立っていた。

撃つつもりがあるわけじゃない。
だが撃てる場所にいる、ということが威圧なのだ。

そしてこの境界では、威圧が制度そのものになる。

「どいてください」
警備兵がシオンに向けて、淡々と言った。

視線は冷たい。
感情がないのではない。
感情を“置いてくる”訓練を受けている。

「この対象は――」
警備兵が端末の画面を見る。

そこには、登録できないエラー。
評価値未表示。
処理不可。

彼は決まり文句を吐く。

「処理対象外です。
 秩序維持のため、排除します」

排除。
救済の中枢で、排除が宣言される。

シオンは一歩も退かなかった。

「排除の根拠は?」
彼女の声は鋭かった。
監査官の声だ。

警備兵は僅かに眉を動かした。
監査官権限は現場の武器を止める。

「……評価値が出ない」
「ログに残らない」
「管理不能」

「管理不能だから排除?」
シオンは言った。
「それは救済ではない」

警備兵の目が僅かに揺れた。
だが、彼は命令側に立つ人間だ。

「救済は“管理可能な者”に優先される」
彼は言う。
「今この瞬間も、配給列には飢えた人間がいる」

列の人々がこちらを見ている。
その目は怯えと期待が混ざっている。

誰かを救えば、誰かが救われない。
それが現実だ。

シオンは、その現実を知らないわけじゃない。
だが、受け入れた瞬間、救済は制度に飲まれる。

「列を守るために、目の前の命を捨てる?」
シオンは問う。

警備兵は答えなかった。
沈黙が返事だ。

リリスが一歩前に出て、柔らかい声で言った。

「観測監査官・シオン。
 あなたの判断は理解できます。
 でも、あなたは“例外”を作ろうとしている」

例外。
この世界で最も恐れられる言葉。

例外は誤差を生み、
誤差は制度を壊し、
制度が壊れると人が死ぬ。

それは間違っていない。
間違っていないからこそ、厄介だ。

「例外を作るんじゃない」
シオンは言った。
「“例外が存在している事実”を、隠させないだけ」

リリスは眉を下げ、ほんの少しだけ悲しげに微笑んだ。

「隠しているわけじゃありません。
 扱えないだけです」

扱えない。
その言葉は、人間を物扱いにする魔法の言葉だ。

扱えないものは――捨てられる。

シオンは少年の腕を掴んだ。
体温が低い。
震えている。
だが目は、死んでいない。

少年は小さく呟いた。

「……あなた、正しい側の人間だろ」

その言葉は、ナイフみたいに刺さる。

正しい側。
救う側。
でも同時に切る側。

シオンは答えた。

「正しい側にいるから、止められる」

少年は笑わなかった。
信じてもいない。
だが――その目は少しだけ動いた。

「私が監査対象として引き取る」
シオンは改めて宣言した。
「登録局員の判断ではなく、観測監査官の裁量で処理する」

リリスの目が静かに細くなる。

「監査官裁量の使用申請、記録します」

その瞬間、空気が変わった。
記録。
ログ。
それはこの世界における“拘束の鎖”だ。

シオンの脳裏に、さっき見たΔの揺れが蘇る。
端末の一瞬の歪み。
心拍が同期するような感覚。
世界が“変な方向へズレた”一瞬。

あれはただの誤作動じゃない。

だが今、それを言えば――
もっと大きな刃が動く。

シオンは少年を連れて、歩き出した。

「待て」
警備兵が言う。

「止める権限は?」
シオンが返す。

警備兵は言葉を失った。
監査官は“上位の権限”だ。
現場の秩序より、“制度の自己監査”が優先される。

リリスは穏やかな声で付け加えた。

「観測監査官。
 あなたがこの対象を守るなら、あなたが説明してください」

シオンは扉へ向かいながら、振り返らずに言った。

「説明できないものが増えている」
「だから私はここにいる」

扉が開く。

冷えた廊下。
奥へ伸びる蛍光灯の光。
その光は、命を照らす光ではなく、処理を照らす光だ。

***

廊下を抜け、半地下の外へ出た瞬間、
少年が息を吐いた。

「……助かった、のか」

言葉が軽い。
信じていない声。
それでも、息が続いていることが救いだ。

シオンは少年を見た。
血が滲んだ服。
手の汚れ。
目の奥に潜む“逃げ癖”のような警戒。

「名前は?」
シオンが問うと、少年は少し黙った。

「……レム」
「呼び名だけだ。登録名じゃない」

登録名じゃない。
その言い方が、すべてを表している。

この世界では名前すら制度の所有物になる。

「レム」
シオンはその名を繰り返した。
「どこから来た」

レムは首を振った。

「境界の外。
 ……でも、外って言っても、どこまでが外か分からない」
「道が変わる。戻れない」

道が変わる。
戻れない。

それはただの迷子ではない。
境界そのものが“地形として変質している”ような言い方だ。

「誰に運ばれた?」
シオンはもう一度聞く。

レムは目を逸らし、ぽつりと言った。

「……拾う人」
「顔は見てない」

「顔を見てないのに、拾われた?」

レムは頷いた。

「影みたいだった」
「でも、手はあった」
「冷たかった。でも……怖くなかった」

影みたい。
手があった。
怖くなかった。

それは矛盾した表現なのに、妙に生々しい。

シオンは息を吸った。

――ユウの痕跡だ。

ユウは姿を消した。
英雄にならない。
伝説にもならない。
でも各地に“説明できない生存”が残った。

今、この少年はその“説明できない生存”の側にいる。

「あなたは評価不能領域に触れたことがある?」
シオンが問うと、レムは小さく笑った。

「俺は、最初からそうだよ」
「生きてるだけで、邪魔なんだろ」

その言葉は、若すぎる諦めだった。
この世界の子供は、諦めるのが早い。
諦めないと死ぬからだ。

シオンは拳を握る。

「邪魔じゃない」
「あなたは……“増えてる”」

レムが目を細める。

「増えてる?」

シオンは言った。

「記録できない生存。
 管理に拾われない未来。
 それが増えてる」
「あなたはその中心にいる」

レムは鼻で笑った。

「中心なんて、嫌だな」
「中心は狙われる」

その通りだ。
中心は処理される。

シオンは少年を連れて、施設から離れた。
監視塔が背後に残る。
銃座の影が伸びる。
ドーム骨組みが空を切り取っている。

境界の空が“閉じていく”感覚があった。

その時、シオンの端末がもう一度震えた。

暗号化された短い通知。
さっきと同じ回線。
夜の回線。

「逃げ道は二つ」
「一つは消える」
「もう一つは“拾う側”が残した」
「ミナトへ」

ミナト。
境界の案内人。

シオンは端末を握りしめた。
この回線を知っているのは、夜の者たちだ。

NIGHT UNION。
もしくは、NIGHT RECLAIMERS。
どちらにせよ――管理外の秩序。

「……あなた、誰と繋がってる」
レムがシオンを見た。
疑いではなく、確認の目。

シオンは答えた。

「まだ分からない」
「でも、あなたを殺さない側だ」

レムは少しだけ笑った。
それは初めて見せる“生きてる笑み”だった。

「なら、行こう」
「この世界は、分からない奴の方が生き残る」

***

境界の裏路地へ入る。
瓦礫の隙間。
廃材の壁。
配給列が見えなくなる位置。

そこから先は、制度の目が届かない。
つまり、秩序が届かない。

だが同時に――
救済も届かない。

「ここから先は、戻れない」
シオンは自分に言い聞かせるように呟いた。

レムは即答した。

「戻る場所なんて、最初からないよ」

その言葉が痛かった。
彼が若すぎるから痛い。
こんな言葉を言える年齢であってはいけない。

シオンは歩きながら考える。

なぜリリスは“善意”で拘束を進めるのか。
なぜ制度は希望を数値化するのか。
なぜ評価不能領域は“扱えない”とされるのか。

答えは一つだ。

――制度が、恐れている。

何を?
無秩序を。
暴動を。
崩壊を。

でも本当は違う。

制度が恐れているのは、
“制度が定義できない希望”だ。

希望は管理できない。
管理できない希望が増えると、制度は存在理由を失う。

だから制度は、希望を数値化する。
適合させる。
選別する。

その瞬間、希望は希望じゃなくなる。

シオンは歯を食いしばった。

救済を守るために、救済を殺す。
それが今、起きようとしている。

そしてレムは、その最初の犠牲になりかけた。

「観測監査官」
レムが突然言った。

「なんで助けた」

シオンは即答できなかった。
答えは簡単なはずなのに、
簡単な言葉はこの世界で嘘になる。

「……助けたかったから」
シオンはようやく言う。

レムは目を細めた。

「それだけ?」

シオンは頷いた。

「それだけでいい。
 それだけが残る」

レムは少し黙って、呟いた。

「……拾う人みたいだな」

その言葉が胸の奥で響いた。

拾う人。
ユウ。

ユウは世界を変えない。
革命もしない。
ただ拾う。

その行為が、未来を繋いだ。

シオンはその影に触れた気がした。
直接ではない。
でも確かに、ユウの思想がここにある。

そして同時に、アルトの言葉も蘇る。

――残す判断。

壊さない。
消さない。
残す。

ユウとアルト。
二つの思想が、間接的に重なり始めている。

その交差点に、シオンが立っている。

そして、その中心にレムがいる。

「ミナトに会えば分かる」
シオンは言った。
「この境界の裏ルート」
「拾われた未来の匂い」
「それを繋げる人間」

レムは頷いた。

「会えるなら会いたい」
「……俺、こういうの詳しくないから」

その時、空が一瞬だけ暗くなった。

雲ではない。
影でもない。

“ノイズ”だ。

監視ドームの骨組みの向こうで、
空が波打ったように見えた。

シオンの心臓が跳ねる。

今のは、目の錯覚ではない。
施設で見た“歪み”と同じ。

レムが立ち止まった。

「……来てる」

「何が?」

レムは空を見上げる。

「説明できないやつ」
「でも、説明される前に……捕まる」

捕まる。
拘束される。
登録される。
そして消えるかもしれない。

その瞬間、背後から足音がした。
複数。
規則正しい。
訓練された足音。

警備兵だ。
追ってきた。

監査官裁量は“止める権限”だが、
同時に“追跡対象”にもなる。

シオンはレムの腕を引いた。

「走る!」

レムは迷わず走った。
迷わないのは、逃げ慣れているからだ。

瓦礫の間を抜ける。
廃ビルの影を滑る。
地下通路の入口へ。

その入口に、誰かが立っていた。

影の中。
背は高くない。
でも立ち方が“道を知っている者”のそれだった。

彼はフードを被り、顔を半分隠している。
目だけが、こちらを見ている。

その目は、無機質じゃない。
人間の目だ。
でも、妙に冷静だ。

「――遅い」
その人物が言った。

声は若い。
しかし軽くない。

「ミナト?」
シオンが問う。

人物は頷き、短く言った。

「案内する」
「でも条件がある」

「条件?」

ミナトはレムを見る。
次にシオンを見る。

「“正しさ”を持ち込むな」
「ここは正しさで守れない」

その言葉は残酷だった。
だが、それが境界の裏側の現実だ。

シオンは頷いた。

「分かった」
「私は正しさを持ち込まない」
「救済を持ち込む」

ミナトは一瞬だけ目を細めた。

「……その言い方、危ない」
「でも嫌いじゃない」

ミナトは背を向け、地下通路へ入っていく。

シオンとレムは追う。
背後で警備兵の声が響く。

「止まれ!」
「対象を確保しろ!」

地下通路の入口が閉まる。
鉄の扉が落ちる。
ギリギリで遮断。

暗闇。
湿った空気。
遠くで水滴が落ちる音。

三人の呼吸だけが、ここにある。

シオンはようやく理解した。

自分はもう、境界の“表側”には戻れない。
正しい側にいるままでは、救えない。

だから、逸脱した。

そしてこの逸脱が――
次の物語を始める。

ミナトは暗闇の中で言った。

「ようこそ」
「境界の裏へ」

「ここには、ログがない」
「でも――未来はある」

その言葉で、シオンの胸の中に火が灯った。

微かな火。
まだ燃えない。
燃える資格がない。

でも確かに、そこにある。

そしてその火は、
4作目で“Δ”として発火する。

まだ先だ。
だが、もう始まっている。

道端には、積まれた廃材と、簡易バリケード。
鉄板に赤い塗料で、警告が書かれている。

「登録なき者、立入禁止」
「配給は記録に基づく」
「秩序を乱す者は排除」

排除。
この世界で、その言葉は銃声と同義だ。

シオンは歩きながら、自分の過去を思い出していた。

過去を思い出したいわけじゃない。
だが“今”を理解するために、脳が勝手に掘り返す。

彼女はもともと、境界の外側の人間だった。
管理局の中で育った者ではない。
選別され、救われ、内部に招かれた。

だからこそ、彼女は信じた。

管理は、人を救う。
合理は、命を守る。
正しさは、必要だ。

――そう信じたかった。

***

シオンがまだ幼い頃。
境界の外側には「夜」があった。

本当の夜じゃない。
照明がないだけの闇でもない。
“忘れられていく夜”だ。

配給は届かず、医療は届かず、
風邪は死に直結し、
怪我は感染で終わる。

生存は、運ではなく“偶然の積み重ね”だった。

幼いシオンは、母と二人で生きていた。

母は強かった。
強いというより、諦めなかった。

食べ物を探しに行き、戻ってきて、
余ったものを少し分けて、
誰かの傷を縫い、
夜が来る前に扉を塞ぎ、
毎日同じことを繰り返した。

それが“生きる”ということだった。

ある日、母が言った。

「正しい人がいるなら、助けてくれるはずだよ」

シオンはその時、世界を信じた。

正しさは、遠くにある。
でも存在する。
それが届けば、助かる。

その信念が、彼女の芯になった。

――届かなかった。

母は熱を出して倒れた。
薬がない。
医療がない。
祈るしかない。

シオンは母の手を握りしめながら、ずっと待った。
“正しい側”が来るのを。

来たのは、管理局の救援チームだった。

遅かった。
でも、来た。

彼らは母を見て、端末を開いて言った。

「評価値:低」
「医療リソース、配分外」

母は助けられなかった。

シオンは泣いた。
叫んだ。
怒った。
正しさが間に合わなかった。

だが、彼らはシオンを見て言った。

「子供は評価値が伸びる」
「回収対象」

そして、シオンだけが拾われた。

母の手から引き剥がされる瞬間、
彼女は初めて理解した。

正しさは、誰かを救う。
そして同時に、誰かを切る。

救われた自分が、救われなかった母の上に立っている。
その現実を、彼女は背負った。

だからこそ、彼女は管理局に入った。

母を救えなかった正しさを、
次は救える正しさにしたかった。

それが、観測監査官になった理由だった。

***

配給台帳施設の入口が見えた。
半地下へ降りる鉄階段。
上には監視塔。
銃座。
簡易ドームの骨組み。

――監視ドーム。

まだ完成していない。
だが、すでに空気が変わっている。
光が冷たい。
空が硬い。

シオンは階段を降りながら、背後に視線を感じた。

誰かが見ている。
監視塔か。
それとも、別の影か。

振り返っても、何もいない。

それでも、確かに“視線だけ”が残る。

この世界では、視線は武器になる。
見られた瞬間に、あなたは対象になる。
救済の対象か、排除の対象か。

施設の前で、警備兵が銃を構えた。

「所属を示せ」

シオンは徽章を見せる。
観測監査官の証。

警備兵の表情が変わった。
恐れと安堵が混ざる。
監査官は“味方”であり、“監視者”でもある。

「……通ってください。
 ただし、記録閲覧は制限されています」

「制限の根拠は?」

警備兵は目を逸らした。

「……内部監査が入っている」

内部監査。
アルトが言っていた。

誤差が増えた結果、制度が最適化を始める。
最適化の第一段階は、“情報の囲い込み”だ。

シオンは頷き、施設内へ入った。

中は寒い。
冷却装置が動いている。
紙の台帳を守るための温度管理。
だが、この寒さは別の意味を持つ。

――人間の温度を下げるため。

受付には、端末が置かれていた。
登録端末だ。
配給を受ける者の指紋、虹彩、体温、脈拍。
あらゆる“生存の証明”が吸い取られる。

そこに、立入管理官がいた。
女性。短い髪。
姿勢が正しく、目が鋭い。

制服の色が違う。
GENESIS直轄。
境界管轄の人間ではない。

彼女はシオンを見て、淡々と言った。

「観測監査官・シオン。
 あなたの来訪は予定されていません」

シオンは言い返す。

「予定にない矛盾が増えています。
 ここで“非ログ救助”と“消失現象”が起きた」

管理官の眉がわずかに動いた。
だがすぐに戻る。
感情を見せない訓練を受けている。

「……その言葉は慎重に使ってください。
 “消失”などという表現は、現場を混乱させます」

現場を混乱させる。
便利な言葉だ。
真実を封じる時に使う。

シオンは一歩踏み込んだ。

「混乱しているのは現場ではない。
 現場は“見ている”。
 混乱しているのは、記録の方です」

管理官の目が冷たくなる。

「あなたは、正しさのために働くべきだ」

その言葉は正しい。
けれど、シオンの中で母の声が響く。

――正しい人がいるなら、助けてくれるはず。

シオンは答えた。

「私は正しさのために働いています。
 だから見逃せません。
 正しさが、誰かを消すなら」

管理官は少しだけ息を吐いた。
それは諦めではなく、判断の呼吸。

「……ここには“登録局員”がいます。
 彼女があなたに説明するでしょう」

登録局員。

救済の入口に立つ者。
善意を制度に変える者。

そして、物語の中で最も怖い存在になりうる者。

管理官は背後の扉を指した。

「通ってください。
 ただし、あなたが見たものは、あなたの責任になる」

シオンは扉を開ける。

中はさらに寒い。
端末が並ぶ。
台帳の棚が並ぶ。
人の列を捌くための、効率の空間。

そこに、若い女性がいた。
柔らかい顔。
優しい声を持っていそうな雰囲気。

しかし、目だけが“迷いのない正しさ”を持っている。

彼女は微笑み、名乗った。

「登録局員・リリスです。
 あなたが観測監査官・シオンですね」

シオンは胸の奥で、嫌な確信が生まれるのを感じた。

この人は、悪意がない。
善意で動く。
だからこそ、止めるのが難しい。

リリスは続けた。

「境界の救済を、もっと確実にするために。
 私たちは新しい手続きを導入します」

その言葉は、希望の響きを持っていた。

そして同時に、檻の鍵の音だった。

――救済は、優しさの顔をした“拘束”になり得る。

施設の空気は、静かすぎた。
人の息があるのに、命の音がしない。

配給台帳保管区画――救済の中枢。
そこに漂うのは、温もりではなく、処理の気配だった。

リリスは受付端末の横に立ち、まるで案内板のように整っていた。
柔らかい笑み。清潔な制服。
その存在だけで、ここが「安全な場所」だと思わせる。

シオンはその笑顔が怖かった。
善意は刃になる。
悪意よりもよほど深く刺さる。

「新しい手続き、とは?」
シオンが問いかけると、リリスは当然のように頷いた。

「救済の最適化です。
 境界は今、崩れやすい。人も、資源も、秩序も。
 だから救える可能性を最大化する仕組みが必要なんです」

それは正論だった。
この世界では、正論ほど反論が難しい。

「登録は、保護の入口です。
 ここで“拾われる命”を、拾い損ねないために」

拾い損ねないために。
言葉は、確かに優しい。

だが――

「拾い損ねない、というのは」
シオンは一歩踏み込む。
「拾う側が“拾う権限”を独占する、という意味では?」

リリスは眉を下げ、困ったように笑った。
まるで「誤解されている」と言う表情。

「独占ではありません。統一です。
 勝手な救助が増えた結果、境界は不安定になっている。
 あなたも、現場で見たでしょう?」

勝手な救助。
非ログ救助。

その言葉に、シオンの背骨が冷えた。

非ログ救助は、現場の人間にとっては“救い”だ。
しかし制度にとっては“勝手”になる。

救いと勝手は、同じ現象を違う視点で見た言葉だ。

「現場が不安定なのは救助のせいじゃない」
シオンは低く言った。
「不安定なのは“記録”の方です。
 救われたのに記録がない。
 記録された瞬間に消える」

リリスの笑みが、ほんの少しだけ止まった。

ただしすぐに戻る。
彼女は訓練されている。
異常を“異常として扱わない”ための訓練だ。

「消える、というのは誤解です。
 そのような事例は、正式には確認されていません」

「正式には、ね」
シオンは端末を叩くように操作した。
閲覧制限の警告が出る。
だが監査官権限なら、最低限の範囲は抜ける。

――空白。
救助ログが欠落。
配給台帳が欠落。
操作履歴が欠落。

確かに“正式には”存在しない。

なぜなら、存在しないように処理されているから。

シオンはリリスを見た。
彼女の目は、やっぱり迷っていない。

「あなたは本当に知らないの?」
「それとも、知っていて“知らないことにしている”?」

リリスは少しだけ息を吐いた。
そして、声のトーンを変えた。

優しさの声から、説明の声へ。

「観測監査官。
 あなたの役割は“理想を語ること”ではない。
 現場の揺れを、管理が処理できる形に整えることです」

整える。
それは救うことと、同義ではない。

それでもリリスの表情は穏やかだ。
自分が正しいと信じている人間の顔。

「今、境界には“希望”が増えすぎています」
リリスは続けた。
「希望は素晴らしい。
 でも希望は、増えると暴れます」

シオンは眉を寄せた。

「希望が暴れる?」

リリスは端末を指した。
登録端末の画面には、数値の欄がいくつも並ぶ。

体温。心拍。呼吸。脳波。
“生存の揺れ”を測るデータ。

「希望は数字にしなければ、扱えません」
リリスは淡々と言った。
「だから私たちは“希望適合値”を導入します」

希望適合値。

その単語を聞いた瞬間、
シオンは背後から誰かに首を撫でられたような寒気を感じた。

希望を数値化する。
希望を適合させる。
希望を選別する。

希望は、設計できない。
シリーズのテーマそのものを、否定する言葉だ。

「適合しない希望は、どうなる」
シオンの声が低くなる。

リリスは微笑みのまま答えた。

「保護対象から外れます。
 ただ、それだけです。
 切り捨てではありません。
 資源には限りがあるから、順番を決めるだけ」

――救う順番を決める。

第2作でアルトが理解した“管理の現実”。
正しさは救うが、同時に人を切る。

それを、リリスは悪意なく語っている。

「あなたは、怖くないの?」
シオンは言った。
「あなたの正しさは、誰かを消す」

リリスは首を傾げた。

「消すのではありません。
 “守れる範囲を守る”だけです」

その言葉は合理だった。
だが、合理は人間を救うためにあるはずなのに。

シオンは静かに問いを投げた。

「守れない範囲の人間は、人間じゃないの?」

リリスの目が一瞬だけ揺れた。

ほんの一瞬。
だが確かに揺れた。

それでも、彼女は答えを用意している。

「人間です。
 だからこそ、無理をして全員を救うと、全員が死ぬんです」

正しい。
間違っていない。

間違っていないのに、苦しい。

シオンの胸の中に、母の顔が浮かんだ。
救われなかった母。
評価値が低かった母。
守れる範囲の外側に置かれた母。

――正しい側は、助けてくれるはず。

その期待が裏切られた日、
彼女は正しい側に入った。
今度こそ救えるように。

なのに。

「あなたの正しさは、正しくない」
シオンは言った。
「正しさが目的になった瞬間、救済は死ぬ」

リリスは目を細めた。
怒ってはいない。
むしろ悲しんでいるように見えた。

「あなたは、理想が強すぎる」
リリスは静かに言った。
「理想は、境界では人を殺します」

その言葉は、刃のように刺さった。
なぜならそれは――半分は真実だからだ。

理想だけでは救えない。
現場では、理想は遅れる。
遅れた救済は、死になる。

でも。
理想を捨てた救済は、救済じゃない。

その瞬間、遠くで警報が鳴った。

低い音。
耳の奥を圧迫するような振動。

施設内の空気が変わる。
警備兵が走る。
受付の端末が赤く点滅する。

リリスは端末を確認し、淡々と告げた。

「……また来ましたね。非ログ救助」

シオンは息を呑む。

「また?」

リリスは言った。

「境界の外で負傷者が発見された。
 搬送は済んでいる。
 でも搬送ログが無い。
 誰が運んだか、記録が無い」

それは“勝手な救助”として処理される。

「対象者は?」
シオンは問う。

リリスは画面を見て答える。

「少年。年齢推定16。
 評価値は……」
一瞬、言葉が止まる。

「……出ません」

評価値が出ない。

シオンの背中が冷える。
評価不能領域。

アルトが残した“誤差”。
ユウが増殖させた“拾われた未来”。

「……連れてきて」
シオンは言った。

リリスは首を横に振った。

「無理です。
 彼はすでに登録端末の前にいます。
 登録して保護する。
 それが救済です」

登録端末の前。

――消える。

シオンは走った。

受付を抜け、台帳棚の奥を抜け、
登録端末が並ぶ区画へ向かう。

遠くに人の列が見えた。
配給の列。
登録の列。

列の中央、少年が一人。
顔色は悪い。
服は裂けて血が滲んでいる。
それでも目は、鋭い。

その目がシオンを見た瞬間――
少年は小さく首を振った。

“来るな”と。

シオンは足を止めた。
心臓が跳ねる。

少年は震える手で、端末に触れようとしている。

触れたら。
記録される。
そして消えるかもしれない。

シオンは叫んだ。

「触るな!」

列の人々が振り返る。
警備兵が動く。
だが、遅い。

少年の指先が端末に触れた。

その瞬間、世界が一度だけ歪んだ。

音が消える。
空気が一瞬だけ止まる。
照明が明滅する。

そして――

端末の画面に、意味不明な文字列が流れた。
数字でもなく、コードでもなく、記号でもない。

……いや、違う。

記号だけが、浮かんだ。

Δ

それは一瞬だった。
だが確かに、そこにあった。

次の瞬間、少年は――

消えていなかった。

だが、周囲の人々がざわつく。

「……今、何か光った」
「端末、変じゃない?」
「登録できたのか?」

リリスが駆け寄り、端末を確認する。
顔色が変わった。

「……登録、できていない」

少年は息を荒くしながら呟いた。

「……だから言った。
 “境界は閉じる”って」

シオンは少年に近づき、低い声で問う。

「あなたは、誰に運ばれた?」

少年は答えなかった。
ただ、目を伏せる。

そして小さく言った。

「拾われた。
 それだけだ」

拾われた未来。

その言葉が、この場の全員に届いたわけじゃない。
でもシオンには届いた。
刺さった。
焼き付いた。

救済の入口で、救済が拒否された。
記録が、拒否された。

正しさが、拒否された。

リリスは少年を見て、静かに言った。

「……あなたは保護できません」
「評価値が出ない人間を、制度は扱えない」

その瞬間、警備兵が銃を構えた。
排除の合図。
正しさの刃先。

シオンは咄嗟に、少年の前に立った。

「この子は私が監査対象として引き取る」
「登録局員の判断ではなく、監査官の判断で処理する」

リリスの目が揺れる。
初めて、明確に揺れる。

「……そんなことをすれば、あなたが責任を負う」
「あなた自身が、“誤差”になる」

シオンは、静かに言った。

「それでいい」

救いたい。
救うために正しさの側に立った。
なら、救うために正しさを止める。

その決意が、彼女の中で初めて形になった。

シオンは少年の腕を掴む。

「行くよ」

少年は頷かなかった。
でも、拒まなかった。

その瞬間、シオンの端末が震えた。
外部回線。
暗号化された短い通知。

――夜の回線。

送り主不明。
だが内容は一文だけ。

「境界の案内人を探せ」
「ミナトが待っている」

ミナト。
第3章の名。

境界の空気が、さらに冷える。
監視ドームの骨組みが、外で軋む音がした。

救済は、始まったばかりなのに。
もう救済の形をしていない。
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