AFTER ZERO:Crisis Ⅲ ~残される境界~

AZ Creation

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第21章:拾えない未来

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――拾えるはずだった。
――拾えていたはずだった。
――でも世界が、それを許さなくなった。

地下の裂け目から抜けた瞬間、空気が変わった。

湿った冷気。
鉄の匂い。
遠くで鳴る金属音。

だが一番違ったのは――空の気配だった。

上を見上げると、監視ドームの光膜が薄く広がり、
境界一帯の夜を“半透明の檻”に変えていた。

セイルが苦く笑う。

「……空が、閉じたな」

ミナトは息を切らしながら周囲を見回した。

「前はここ、もっと抜けてた」
「見つかる前に、消えられたんだよ」

ノクスは静かに言った。

「消えられる場所を、潰してきてる」

シオンはレムを抱きしめたまま、震えた声で吐き捨てる。

「救済…って言葉、もう信用できない」

レムは黙っている。
さっきアルトに触れられた腕を、小さく握りしめていた。

消えかけた瞬間の感覚が、まだ残っているのだろう。

そして――それは“始まり”の感覚でもあった。

誰も言葉にしない。
言葉にしたら、現実になるから。

彼らが向かったのは、境界に残された古い中継拠点だった。

廃ビルの二階。
割れた窓。
カーテン代わりのシート。

中に入ると、そこには先客がいた。

女。

防寒と砂埃の混じる古い装備。
医療バッグ。
目の下に疲労が深い。

ミオ――かつてユウと行動した、廃墟の偵察兵。

RRD-RUINS-002。
そのカードの顔が、現実の人間としてそこにいた。

シオンは息を呑む。

「……ミオ?」

ミオは顔を上げ、シオンたちを見て、
それからレムを見て、目を細めた。

「来たか」
「最悪のタイミングで」

ノクスが不機嫌そうに言う。

「いつも最悪のタイミングで世界が回るだけだ」

ミオは苦笑する。

「それが崩壊後だよ」

ミナトが一歩前へ。

「ミオさん、ルートは?逃げ道は?」

ミオは首を振った。

「……死んだ」

その一言が、部屋の空気を凍らせた。

セイルが静かに尋ねる。

「“どの”ルートが?」

ミオは答える。

「全部だよ」
「少なくとも、ユウが残してたやつは」

その瞬間、シオンは胸が詰まった。

ユウの痕跡。
拾われた未来。
管理外の生存ルート。

――それが、死んだ。

つまり、世界が“拾うこと”を拒否し始めた。

ミオは床に座り込み、端末を取り出した。

古い通信端末。
管理局製ではない。

「この数日で起きたこと、話す」
「聞ける?」

シオンは頷いた。

ノクスが皮肉っぽく笑う。

「聞くしかないだろ」

ミオは続けた。

「管理局が、“境界の余白”を消し始めた」

「監視ドームだけじゃない。
 配給の裏ルート、地下の抜け道、
 瓦礫の下の隠し倉庫…」

「全部、“事故防止”って名目で塞いできた」

セイルが冷たく言う。

「事故防止は正しい」
「だから止められない」

ミオは頷いた。

「そう。正しいから、誰も反対できない」

シオンの喉が鳴る。

(正しいことが、未来を殺す)

それはアルトが言っていたことだ。
でも理解するのと、体験するのは違う。

ミオはさらに言う。

「ユウの痕跡も、同じ」

「“拾える場所”を残してたのに、
 そこを全部“整理”された」

ミナトが震える声で言った。

「……ユウは、そんなの予測してた?」

ミオは一瞬黙り、そして答える。

「予測してたと思う」
「だから最後に――“残し方”を変えた」

ミオが医療バッグの奥から、小さな金属ケースを取り出した。

傷だらけ。
錆びている。
だが不自然に軽い。

セイルが目を細める。

「それは?」

ミオは言った。

「ユウの“最後の拾い物”」
「……じゃないな」

「ユウが最後に残した、“拾わせる未来”」

ノクスが眉を上げた。

「拾わせる、だと?」

ミオは頷く。

「ユウは、拾う側だった」
「でも最後は“拾わせる側”になった」

シオンはケースを見つめた。

それは、ユウ本人ではない。
ユウは姿を消した。

でも、痕跡だけは残っている。

彼がいないことが、逆に重い。

ミオはケースを開けた。

中には、紙が一枚。

手書きのメモ。
インクは滲み、文字は荒い。

そしてもう一つ。
黒い小さなチップのようなもの。

ミオが紙を読み上げる。

「――拾うな」

一瞬、全員が固まった。

ミオは続ける。

「“拾うな。今は拾うな。
拾うと回収される。
拾うなら、消える覚悟で拾え。
消えたくないなら、拾わせろ。”」

シオンの背筋が凍った。

拾うと回収される。

つまり、救済・登録・保護が
拾う行為そのものを“追跡可能”にした。

ユウのやり方は、もう通用しない。

世界が変わった。

ミナトが震える声で言う。

「それ…ユウが言うのかよ」

「拾うなって…ユウが…?」

ミオは目を伏せた。

「……ユウだって拾いたかったと思う」

「でも拾った瞬間、
 拾った人間も一緒に回収される」

「管理局の“善意”が、
 拾う行為を罪に変えた」

セイルが静かに呟く。

「希望が制度になると、希望は檻になる」

ノクスが舌打ちした。

「綺麗に言うな。胸焼けする」

だが、その胸焼けこそが現実だった。

シオンは紙の端に、もう一行あるのを見つけた。

震える指で指す。

「……これ」

ミオは頷き、読み上げる。

「“境界の裂け目が生きているなら、
そこは管理できない。
管理できない未来だけが、残る。”」

裂け目。

さっきの地下の黒線。

Δの共鳴。

シオンは息を呑む。

(裂け目は、“道”だった)

(ユウのルートが死んだ後の、最後の道)

でもその道は安定していない。
危険すぎる。
そして――“消える”可能性がある。

レムが小さく言った。

「……ぼく、さっき消えた」

全員がレムを見る。

レムは唇を噛んで続ける。

「消えるの、怖い」
「でも…消えたら、拾われるの?」

ミオが答えられず黙る。

セイルが代わりに言った。

「消えたら拾われるんじゃない」
「消えること自体が、拾われない未来だ」

ノクスが笑った。

「救いになってねえな、それ」

シオンはレムの肩を抱き直した。

「大丈夫」
「大丈夫だから」

だが、その声は震えていた。

大丈夫じゃない。

拾えない未来が、ここにある。

その時、外で音がした。

低い音。
規則的な振動。

セイルが立ち上がり、窓の隙間から外を見る。

「……来た」

ミナトが顔色を変える。

「追跡…?」

ノクスが呟く。

「監視ドームの範囲だ」
「ここはもう“安全地帯”じゃない」

ミオが息を吐いた。

「言っただろ。ルートは死んだ」

そしてミオは、ケースの中の黒いチップを掴み、シオンに押し付けた。

「これを持っていけ」

シオンが問う。

「なに、これ?」

ミオは短く答えた。

「“型番欠落ビーコン”」

シオンの瞳が開く。

それは第1幕の発端。
“救われたのに記録がない”事件の核。

つまり――ユウが残した、“非ログ救助”の最後の鍵。

ミオは言った。

「ユウが最後に拾ったのは、これ」
「拾ったのに記録が残らない救済装置」

「だから世界が壊れた」

「管理は“説明できない救済”を許さない」
「許さないから、境界を閉じた」

ミオはシオンの目を見た。

「そして君は、まだ救いたいんだろ」

シオンは答えた。

「……救いたい」

「救いたいけど、救い方が分からない」

ミオは言った。

「分からなくていい」

「でも決めろ」
「救うなら、拾い方を変えろ」

外の音が近づく。

ラザルの回収班。
もしくは別の部隊。

アルトが時間を作ったとしても、長くはない。

ノクスが低く言った。

「行くぞ」
「ここはもう燃えてる」

セイルがミナトを見る。

「裂け目へ戻るのか?」

ミナトは唇を噛み、頷く。

「戻るしかない」
「道が死んだなら、裂け目しか残ってない」

シオンは最後にミオを見る。

「一緒に来て」

ミオは首を振った。

「私はここに残る」
「ここの人間を…拾う」

それは、ユウのやり方だった。
そして今、それが一番危険な選択だ。

シオンの目が潤む。

「死ぬよ…」

ミオは笑った。

「死ぬかもしれない」
「でも生き残るかもしれない」

「それが、“拾う”ってことだ」

シオンはビーコンチップを握りしめた。

それは軽い。
なのに重い。

未来の重さ。

そしてそれは、拾える未来ではなく、
拾わせる未来へ変わった。

外の足音が階段を上がり始める。

ミオが扉に手をかけ、シオンたちを追い立てるように言った。

「行け!」
「裂け目を使え!」

「ここから先は、管理が追える!」

シオンは振り返り、叫ぶ。

「ミオ!」

ミオは振り返らず、最後に言った。

「ユウは、姿を消した」
「でも、拾い方は残った」

「お前が拾え」

扉が閉まる。

そして同時に、上階の壁が揺れた。

衝突音。
破壊音。

回収が来た。

拾えない未来が、追いついた。

――逃げるほど、世界は“正しく”追い詰めてくる。

階段の軋む音が、背中を殴った。

重い靴音。
金属の擦れる音。
短い命令の声。

回収班が、ミオの拠点に入った。

シオンは喉の奥が焼けるように痛かった。

ミオは残った。
残って、拾うと言った。

拾うことが、世界で一番危険になったのに。

それでも拾う――それがユウのやり方だった。

(私たちは、拾う資格があるのか)

そんな問いが浮かびかけた瞬間、ノクスが低い声で言う。

「立ち止まるな」
「背中の感情は、撃たれる」

その言葉が冷たいほど正確で、シオンは歯を食いしばって頷いた。

夜の路地裏。
崩れた瓦礫。
朽ちた車体。
薄い霧。

そして空には、監視ドームの光膜が確実に広がっていた。

昔の夜は、闇だった。
今の夜は、監視の淡い明るさだ。

見えないのに、見られている。

その感覚が、肌に張り付く。

セイルが端末を確認する。

「追跡波が増えてる」
「……空が“鳴ってる”」

ミナトは吐き捨てた。

「空が鳴るってなんだよ」
「もう自然が全部機械になってんじゃねえか」

ノクスは笑う。

「元から機械だったんだよ」
「人間を管理するってのはそういうことだ」

そして一瞬、ノクスの目が遠くを見る。

「……ただ今回は、境界まで全部覆ってきた」

シオンの腕の中で、レムが小さく震えていた。

「……さむい」

シオンはレムを抱きしめ直す。

「寒くない、寒くないよ」

けれど、その震えは寒さじゃない。

消えかけた時と同じ震えだった。

世界が彼を薄くする震え。

レムは呟く。

「……また、きえる?」

シオンは答えられない。

代わりに、握りしめたビーコンチップを触った。

ユウが残した最後の拾い物。
型番欠落ビーコン。

“救われたのに記録がない”矛盾。

希望のはずの物。

だけどその希望は、今や追跡の匂いもする。

裂け目の地点は近かった。

地下鉄遺跡の入口。
崩落したホーム。
封鎖された鉄扉。

ミナトが瓦礫を押しのける。

「ここだ」
「ここが生きてるなら、まだ道になる」

セイルが言った。

「“生きてる”の意味が怖いけどな」

ノクスが鼻で笑う。

「生きてる道なんて、道じゃねえ」
「獣だ」

その言葉通りだった。

地下へ降りた瞬間、空気が変わった。

湿り気。
鉄の腐敗。
そして、音が遠くなる。

まるで世界がここだけ別の層に沈んでいる。

シオンは背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。

(ここは――管理が届かない場所)

(なのに、届こうとしてくる場所)

裂け目は前回と違っていた。

壁に走る黒線は、より太く、より多い。
まるで蜘蛛の巣。
空間が、何度も引き裂かれた痕が残っている。

セイルが目を細める。

「……裂け目が荒れてる」
「誰かが無理矢理触ったな」

ノクスが吐き捨てた。

「ラザルか」

ミナトが壁に手を当てる。

「……熱い」

シオンも触れた。

確かに、壁が熱を持っている。
金属のはずなのに、体温みたいに。

レムが小さく息を吸った。

「……ここ、においがする」

「ログのにおいじゃない」
「……ひとが、いるにおい」

その言葉が、全員を凍らせた。

ここに人がいる?
裂け目の向こう?
それとも――ここに残っている?

遠くで音がした。

カン、カン、と金属を叩く音。
規則的。
そして、異様に落ち着いている。

セイルが手を上げて止まる。

「誰だ」

暗闇の中から、人影が現れた。

長身。
黒い外套。
背中に古い銃。
目元が深い影に隠れている。

だが、その動きに“現場の癖”があった。

無駄がない。
撃たれない距離。
立つ位置。

ノクスが低く言った。

「……生きてたのか」

男は小さく笑った。

「生きてるよ」
「生きてるだけだ」

シオンは息を止めた。

その声は、知らない。
でも、ミオの話の中で何度も聞いた“気配”だ。

男はゆっくり名乗る。

「ハヤト」
「……ユウの、元仲間だ」

RRD-RUINS-005。
夜襲のスナイパー・ハヤト。

ユウ本人ではない。
だがユウの影を最も濃く背負う男。

シオンは心臓が跳ねた。

(ユウと直接会わない)
そのルールの中で、限界まで近づく存在。

ハヤトは裂け目を見て、軽く舌打ちした。

「荒れてるな」
「お前ら、触っただろ」

ミナトが言い返す。

「触ったのは管理局だよ」
「回収のためにな!」

ハヤトは肩をすくめる。

「どっちでも同じだ」
「裂け目は、触れば触るほど暴れる」

シオンが尋ねる。

「あなたは、ここで何を?」

ハヤトは答えた。

「拾えるものがまだ残ってるか確認してる」
「……いや」

「拾えなくなったものを見に来た」

その言葉が胸に刺さった。

拾えなくなったもの。

それは未来だ。

ハヤトはシオンの手元を見た。

ビーコンチップ。

一瞬だけ、目が鋭くなる。

「……それ、ミオから?」

シオンは頷いた。

「託された」
「ユウが残したって」

ハヤトの喉が動く。

「ユウは、“残した”んじゃない」
「……“逃げた”んだよ」

シオンの眉が揺れる。

「逃げた?」

ハヤトは言う。

「ユウは未来を拾うために動いてた」
「でも途中で分かった」

「拾うほど、追跡が増える」
「拾うほど、回収が正当化される」

「拾った未来が、管理の燃料になる」

シオンの指が震える。

(そんなの…救済じゃない)

ハヤトは続ける。

「だからユウは、拾うのをやめた」
「最後は…拾う行為自体を“消した”」

「姿を消すことで、ルートの追跡を止めた」

「……自分を切り捨てたんだ」

その言葉は、刃物のように静かだった。

その時、ビーコンが微かに震えた。

カチ…カチ…と小さな音。

シオンの手の中で、黒いチップが熱を持つ。

セイルが反応する。

「鳴ってる…」

ミナトが顔色を変える。

「まさか、追跡信号?」

ノクスが低く言った。

「違う」
「これは…“呼んでる”」

レムが目を見開き、囁く。

「……ここ、あぶない」

「ぼく、また…うすくなる」

その瞬間、レムの輪郭が揺れた。

視界がぶれる。

身体の縁が、薄くなる。

空間が彼を“引っ張っている”。

シオンが叫ぶ。

「レム!!」

レムの足元に、黒い線が走った。

裂け目の黒線が、床を伝って伸びる。
まるで彼を引きずり込む手のように。

ミナトがレムを掴もうとするが、指が空を切る。

触れたはずなのに触れない。

(消える――!)

ハヤトが一歩前に出た。

銃を構える。

だが撃つのではない。
黒線の“先”を狙う。

彼は低く言った。

「動くな」
「撃てば悪化する」

そして、ポケットから小さな金属片を取り出し、床へ投げた。

カン、と音が鳴る。

その瞬間、黒線が一瞬だけ止まった。

シオンは驚く。

「……何したの?」

ハヤトは短く答えた。

「“拾い物”だ」
「ユウのやり方」

「裂け目は“意志”に反応する」
「強く掴むと、引きちぎられる」

「だから、餌を投げる」
「未来じゃないものを」

シオンの喉が鳴る。

(未来じゃないものを投げる)

それは残酷で、優しい。

レムの輪郭が戻った。

ほんの少しだけ。

シオンは息が詰まるほど抱きしめた。

「大丈夫…大丈夫…」

レムは小さく頷いた。

だがビーコンは鳴り続けている。

カチ、カチ。
脈拍みたいに規則的。

セイルが言った。

「ビーコンが裂け目と同期してる」
「つまりこれ…」

ノクスが言葉を引き継ぐ。

「道を開く鍵だ」
「同時に、道が開いた瞬間に“追われる鍵”でもある」

ミナトが吐き捨てる。

「最悪じゃねえか」

ハヤトが淡々と言う。

「崩壊後に“最悪じゃない選択”なんて無い」

そしてハヤトはシオンを見る。

「行くなら今だ」
「裂け目が完全に荒れる前に」

シオンは唇を噛んだ。

ミオが残った。
アルトが取り残された。
ルートは死んだ。

拾えない未来が、追ってくる。

それでも彼女は言った。

「行く」
「私たちは――拾う」

ハヤトが小さく笑った。

「……いい目だ」

「ユウも、そんな目をしてた」

その時、上階から轟音がした。

バン、と鉄扉が叩かれる音。
スピーカー越しの声。

「――境界区域の住民へ」
「登録のため、順次誘導する」

「抵抗は不要」
「救済を開始する」

救済。

その言葉が地下にまで落ちてきて、
シオンは心底気持ち悪くなった。

救済が近づいてくる。

救済が、奪いに来る。

裂け目の黒線が、ゆっくりと“開き始める”。

空間が裂け、向こう側の暗闇が見える。

でもそこは別世界ではない。

管理の届かない未来。
評価不能の未来。

そして――戻れない未来。

シオンはレムの手を握り、
ミナト、セイル、ノクスを見る。

「行くよ」

ノクスが笑う。

「言われなくても行く」

セイルは頷き、ミナトは息を吸う。

そしてハヤトが最後に言った。

「……アルトを拾うなら、今のうちだ」

シオンの胸が跳ねた。

アルト。

境界に残された男。

敵だった男。
今は境界に立つ男。

拾えるのか。
拾うべきか。

シオンは答えを出せないまま、裂け目へ踏み出した。

黒線が眩しく光った。

光じゃない。
“無”が広がる感覚。

そして世界が、一拍遅れて壊れた。

――拾うために進んだ。
――だが、拾うほどに世界は壊れた。
それでも、進むしかなかった。

裂け目の中に踏み込んだ瞬間――
音が、消えた。

いや、正確には“遠ざかった”。

爆発も。足音も。
スピーカーの救済宣言も。

全部が薄い布越しに聞こえるようになり、
代わりに別の音が立ち上がる。

心臓の音だ。

シオンの鼓動。
レムの小さい鼓動。
ミナトの荒い呼吸。
セイルの落ち着いた脈。
ノクスの不気味な静けさ。

全員の“生存”だけが、ここでは音になる。

そして次の瞬間、床が歪んだ。

地面が液体みたいに揺れ、
壁が紙みたいに撓む。

セイルが短く言う。

「…ここは、座標じゃない」

ミナトが目を見開く。

「は?」

セイルは続ける。

「ここは道じゃない」
「“状態”だ」

ノクスが笑った。

「状態で移動とか、意味わかんねえ」

ハヤトは無言で先を歩く。
振り返らず、ただ“慣れた足取り”で進む。

ユウの仲間。
ユウのやり方を知ってる人間。

だからこそ――この場所に適応している。

裂け目の中は、景色が一定じゃない。

崩れた地下鉄のホームが見えた次の瞬間、
廃ビルの内部みたいな空間になる。

壁には管理局の配線。
次の瞬間には、瓦礫だけの空洞。

現実が、編集ミスみたいに繋がっている。

ミナトが吐き捨てた。

「クソが」
「世界の読み込み失敗してんじゃねえか」

ノクスが小さく頷く。

「似たようなもんだ」

「管理は世界を“安定させる”」
「その管理が届かない場所は…こうなる」

シオンは息を呑む。

(ここが評価不能領域の正体…)

数値化されない。
ログが残らない。
存在が定義されない。

だから、世界が“形を保つ理由”を失っている。

レムが急に立ち止まった。

「……そこ」

シオンも止まる。

「どうしたの?」

レムは指差した。

何もない空間。
ただ暗いだけの壁。

けれどレムは確信している。

「そこに、いる」
「…ひとが、いる」

セイルが目を細める。

「見えるのか」

レムは頷いた。

「うん」
「でも…ほんとは、いない」

矛盾した言葉。

でもこの場所なら成立する。

存在しているのに、存在していない。

シオンの背筋が寒くなる。

(レムは“境界の向こう”が見える)

(レムは評価不能の子だから…)

その時、壁が一瞬だけ“記録”を吐いた。

無数の白い線が走り、
画面が一瞬だけ開く。

監視ログ。
いや、ログの残骸。

そこに映ったのは――

存在しないフレームだった。

映像の端に、誰もいないのに影がある。
人型の輪郭があるのに、顔がない。

そして、その輪郭の中心に
一瞬だけ黒い記号が滲んだ。

シオンは息を止めた。

(今の…何)

セイルが冷たく呟く。

「ログが“幻を撮った”」

ノクスが笑う。

「幻じゃねえ」
「…世界のバグだ」

ハヤトが初めて足を止め、低く言った。

「触るな」
「見てもいいが、触ったら戻れなくなる」

ビーコンが、さらに強く鳴り始めた。

カチ、カチ、カチ。

今度は“音”じゃない。
空間が鳴っている。

セイルが言う。

「出口が近い」
「ビーコンが“同期を完了”し始めてる」

ミナトが舌打ちした。

「つまり追跡も近いってことだろ」

ノクスが肩をすくめる。

「当然」

希望はいつも追跡される。

拾える未来は、回収される。

それが今の世界だ。

出口の光が見えた。

光じゃない。
裂けた空間の向こう側の“普通の暗闇”。

管理のある世界の暗闇。

ハヤトが振り返り、短く言った。

「出た瞬間、走れ」
「見つかったら終わりだ」

シオンは頷き、レムの手を強く握った。

レムは小さく呟く。

「…つよく、にぎると、きえるよ」

その言葉でシオンはハッとする。

(掴むと引きちぎられる)

(さっきハヤトが言ってた)

シオンは握る力を緩めた。
だけど離さない。

強く掴まず、手放さない。

それが“拾わせる”ということかもしれない。

裂け目を抜ける。

瞬間、音が戻った。

遠くの爆音。
回収班の怒鳴り声。
空の監視音。

そして冷たい風。

彼らが出た場所は――
境界の外れ、崩壊した物流道路の下だった。

瓦礫の橋脚。
崩れた輸送コンテナ。
積み上がった廃材。

だがそこに――人影があった。

一人。

膝をつき、息を荒くしている。
背中に血が滲む。

管理局の制服。
しかし、腕章は剥がれている。

顔を上げた瞬間、シオンは凍った。

アルト。

評価管制オペレーター。
管理の人間。
第2作の主人公。

そして今――
境界に取り残された男。

アルトの目がシオンを見た。

驚きはない。
怖れもない。

ただ、疲労と諦めがあった。

「……来たのか」

シオンは駆け寄りかけて止まった。

(拾う?)

(拾った瞬間、回収される?)

迷いが足を縛る。

アルトは笑った。

「近づくな」
「……拾うと、追われる」

シオンは息を呑んだ。

彼も知っている。

拾うことが罪になった世界を。

アルトは言う。

「俺は、もう回収対象になっている」
「“残す判断”が…制度化された」

「俺の発言が、救済計画の根拠になった」
「つまり俺は――責任の証拠だ」

その言葉がシオンを刺す。

アルトは悪役じゃない。
でも彼の善意が武器にされた。

第2幕の答えが、ここにある。

その時、遠くから声が響いた。

「――対象確認」

「GNC-CONTROL-001、アルト」
「回収命令、発令」

セイルの顔が硬くなる。

「…来た」

物流道路の上、崩れた高架に
白い光が走った。

ドローン。
監視カメラ。
そして人影。

是正執行官・ラザル。

その姿が見えた瞬間、空気が冷たくなる。

ラザルは無表情で叫んだ。

「抵抗する必要はない」
「救済を開始する」

救済。

その言葉が、ここでは銃声と同義だった。

アルトが低く言う。

「逃げろ」
「俺は…ここで終わる」

シオンは叫んだ。

「終わらせない!」

ミナトが怒鳴る。

「何言ってんだよ!お前が終わったら全部終わりだろ!」

ノクスが静かに言った。

「……拾うか」

セイルが短く頷く。

「拾うしかない」

彼らの意志が揃う。

だが――拾った瞬間、追跡が確定する。

ハヤトが一歩前に出て、アルトを見た。

「お前がアルトか」

アルトは目を細める。

「……ユウの仲間か」

ハヤトは答えない。

ただ一言だけ言った。

「拾うな」
「拾わせろ」

シオンは息を呑む。

ユウのメモと同じ言葉。

そしてその意味が、今ここで形になる。

シオンはアルトに向かって手を差し出した。

でも掴まない。

強く掴めば、引きちぎられるから。

「アルト」
「あなたが自分で立って」
「私の手を“選んで”」

アルトの目が揺れた。

救われる側としての屈辱。
管理の人間としての矜持。

でも今は、そんなものが命を殺す。

アルトは呻くように言う。

「……俺は、正しさで人を切った」

シオンは答える。

「正しさで救った命もある」

「でも、もう正しさだけじゃ足りない」
「一緒に…残しましょう」

アルトの手が震えながら伸びた。

そして――シオンの指先に触れた。

その瞬間。

空が一瞬だけ黒くノイズを吐いた。

監視ドームが、光膜の一部を“落とす”。

ログが乱れる。

存在しないフレームが、再び走る。

セイルが叫んだ。

「来る!」

ラザルが腕を上げ、命令する。

「回収」
「拘束」

ドローンが突進する。
銃口が光る。

ミナトが叫び、瓦礫を蹴って前へ出た。

「こっちだ!!」

ノクスが笑って走る。

「正面は損だろ!」

セイルは端末を投げ、ジャミング波を流す。

「今だけだ!」

ハヤトは一発も撃たない。
撃たずに、動線だけを殺す。

撃てば裂け目が荒れる。
撃てば追跡が“確定する”。

ユウの仲間は、撃たない。

代わりに、道を残す。

シオンはアルトの手を“引かない”。

アルトが自分で立つ。

自分の足で走る。

拾われるのではなく、拾う側へ踏み込む。

それが、境界の第三の形だ。

アルトは息を切らしながら言う。

「……俺を拾うな」
「俺に…拾わせろ」

シオンは頷く。

「うん」

レムが小さく呟いた。

「……さんにん」

「さんにん、そろった」

その瞬間、裂け目の黒線が
彼らの足元に細く走った。

だが今回は引きずり込まない。

まるで“道を示す線”のように伸びる。

そして空の監視ログに、
一瞬だけ新しい項目が出た。

誰も知らない分類。

誰も定義していない現象名。

――Δ

公表されない。
記録されるだけ。

世界はまだ気づかない。

だが確実に、発火寸前になった。
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