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前篇:夢の通ひ路

第十四話 其の一

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 くどくどくどくど。

 実に長い兄の説教が続く続く。やっと終わったかと油断すれば、最初に戻ってまた同じ内容を繰り返すのだ。小梅並みに長くて耳だこだ。いや、小梅以上か。いい加減終わらないだろうか。

 さすがの小梅も同じことを思っているのだろうか、自分のことは棚に上げて少し疲れた顔をしていた。

「聞いているのか。女が自ら尼になるなどと……お前は左大臣家の姫という立場を忘れたのか!」
「はい、心から反省しておりますわ、お兄様」
「その場にいらした父上、母上のお気持ちを考えると胸の潰れる思いだ。ことに母上が、此度のことでどれほどお心を痛めたか」
「はい、申し訳なく思っておりますわ、お兄様」

 私の経験上、こういうときは下手に言い訳などせず、はいはいと素直に聞くのがよいのだ。相手のボルテージが上がっているときに何か言おうものなら、倍になって返ってくるのが大抵のパターンである。

 あれほど父が口外禁止を徹底したのに、左大臣家の女房には兄のスパイでもいるのだろうか。それとも、宮中で人気の高い兄に微笑まれると、ころっと何でも話してしまうか。

 あの出家騒ぎを起こした三日後、話を聞いたらしい兄は私のところまですっ飛んできて、すさまじい勢いで怒鳴った。「お前は何を考えているのだ!」と。
 その言葉を皮切りに、やれ「尼になることがどういうことか分かっているのか」とか、やれ「両親にどれほど心労を与えたのか分かっているのか」とか、終わりの見えないお説教をされているという訳である。
 まさか、兄にこんな一面があろうとは。すべては妹である三の君を思ってのことなのであろうが、幾分重すぎるのだ。もっと、さらっとした注意だけで終わってくれればいいものを、と思うのだが、それは私の勝手な願いだ。

 鞍馬山への参詣も、兄に知れたらと思うと別の意味で恐ろしい。ばれたらそれはその時と思っていたが、いざ兄のこういう側面を見ると、そうも言ってられない。もう何が何でもあの参詣は隠し通さなくてはいけない。

「しかし、お前には幸せになってもらいたいと私も思っているのだよ。お前がそれほど宮様が嫌だというのならば、此度の件、思いつめた部分もあったのであろうが」

 驚いた。
 まさか、最後の最後で、私に寄り添うこんな言葉が飛び出てくるとは。

「お兄様は、宮様と私が結婚した方がよいと思わないのですか?」
「お前がそれを望むのならば無論そうだが、少なくとも今のお前はそうではないのだろう? であれば、私だってお前の味方をするさ。お前は別に行き遅れているわけでもないし、こんなに可愛らしいのだ。妻にと望む者は、何も宮様だけではないだろう。実際、朝霧宰相中将がそうじゃないか」
「中将様との結婚は万が一にもございませんわ」

 すかさず言うと、兄が声をあげて笑う。

「そうだな、あいつだけはやめてくれよ。いずれお前が本当に結婚したいと思えた相手とするのがよいと思っているよ。とはいえ、私もお前も左大臣家の名を背負うておる。すべてが心のままにとはそう易々とはいかぬだろうな」

 どこか、重みのある言葉だった。

 兄の結婚は、望まぬものだったのだろうか。
 兄の北の方は、先帝の弟宮の娘だと聞いていた気がする。年は三の君と同じくらいのはずだが、それ以上の情報を私は知らない。その婚姻が政治的な意味を持つものだったとしても、不思議には思わなかった。
 平安時代にはそういった婚姻での結びつきが多々あったからだ。特に家の繁栄に繋がったのは、帝や東宮との結婚だけれども。

 あれほど話し続けていた兄がすっかり黙り込んでしまったので、私は何か違う話題を探してみることした。といっても、特にこれといってないので、つい数分前まで飛び交っていた名前を言うしかなかった。話の流れとしては、自然ではある。

「お兄様、兵部卿宮様とはどのようなお方なのですか? 内裏でお会いになっているのでしょう」
「お前は宮様が気になるのか?」
「え? いえ、そういうわけでは…… ただ、お父様もお母様も素晴らしいお方だとおっしゃいますので、どのようなお方なのかと思いまして」
「そうか。宮様は、そうだな、とても美しいお方で宮中でも人気があるよ。あの方の美しさは別格だ。笛の名手でもあり、いざ笛を吹かせれば右に出る者はいないと言われている。お詠みになる歌も漢詩もやはり素晴らしく、欠点という欠点はないのではないか。誰にでも分け隔てなくお優しく、いつでも穏やかににこにことしていらっしゃるし」

 うわー…… なんだか想像していたよりも完璧人間じゃないか。
 兄も随分優秀だと言われ将来を嘱望されているようだが、その兄にここまで言わしめるのだ。なかなかに才色兼備なのだろう。

「お兄様とは親交はございますの?」
「勿論、宮中で会えば挨拶程度の会話はするさ。ただ、朝霧中将と一緒にいることの方が多いかな」
「さようでございますか」
「ああ、一つおかしな噂を聞いたことがあるよ。その……」
「お兄様?」
「宮様は、未だ北の方を迎えておらず愛妾もいらっしゃらない。そのせいか……、男が好きなのではと言われていてね。供の者をいたく気に入っていると」

 えっ。まさかの男色??
 供の者……って。いやいや、まさか。

 浮かんだのは当然鷹衛さんだ。
 他にももちろんお付きの供人はいるだろうが、鷹衛さんくらいの美形だと、男性でも恋をしたっておかしくない。うん……そうね、あり得る。兵部卿宮が鷹衛さんを気に入って、そういう意味で傍に置いていたとしたら……

「これ、変な想像をしないように」

 兄に呼ばれ、私は一瞬で妄想の世界から戻された。
 美しいと言われる兵部卿宮と超絶美形の鷹衛さんの二人で、めくるめく男色の世界を頭の中に繰り広げるところだった。危ない危ない。

「宮様があまりにも何でも容易くできてしまうから、やっかみもあるのだろうよ。馬鹿馬鹿しい噂だ、すまぬ、つまらぬことを言ったな」
「い、いえ」
「ところで宮様はお前を気に入っていると聞いたが、お前、どこぞで宮様とお会いしたことでもあるのか? 文のやり取りもしておらぬのであろう」

 げっ。痛いところを突いてきた。
 それを聞かれたら困る。だって、鷹衛さんのことをどう説明したらいいのか……
 小梅だって知らないのに。

「有明中将様、姫様。お話し中、申し訳ありません。殿様がお見えになるそうです」

 話に割って入ったのは、小梅の声だった。

 助かった。思わず胸をなで下ろした。
 兄の追及の手は、説教並みにしつこそうだ。
 鞍馬寺参詣を誤魔化してくれた時の小梅の二の舞は勘弁してほしい。準備もしていない丸腰の状態で戦えるとは到底思えなかった。防戦一方のうちにどんどん踏み込まれ、あらいざらい吐かされそうな気がする。
 その兄が他に気を取られたのは幸いだった。

「父上が? では私は席を外そう」
「いえ、殿様は中将様も同席なさっていただいて構わないとのことでございます」

 兄も同席? なんだろう、大事な話か何かだろうか。
 そもそも、今日この時間に父が訪問するとは私も聞いていなかったはずだ。

 疑問に思っているうちに、几帳の向こう側にもう一人の気配が増えた。父が来たのだろう。

「おお、二人揃っておるな。ちょうどよい、お前もここにいなさい」
「ええ」
「姫、突然来てすまぬ。が、早めにお前たちの耳に入れたくての」
「お父様、いかがなさいました?」
「先ほど、宮様にご挨拶に伺ったのじゃ。その折に、此度の縁談の話をして参ったのだが、いやはや、大変なこととなった。姫よ。そなた、明日より姫宮様の元へ参るのだ」
「はい??」
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