61 / 95
前篇:夢の通ひ路
第二十七話 其の二
しおりを挟む
兵部卿宮の顔色がさっと変わった。
この様子ならば、彼ももちろん、「北山の天狗」は知っているのだろう。宮中でも有名なようだったし、むしろ知らないと言われるほうが不自然だ。
「まさか……天狗にお会いになられたのですか?」
「はい」
「しかし、あれはそう易々と人に会わぬはずですが」
「私のことは、気に入ったのだと、そう申しておりました」
「た、確かに…… 貴女を好ましく思わないはずがありません」
こんな空気の中で、兄と同じようなことを言う兵部卿宮に思わず小さく笑ってしまった。彼はまた、いつかの夜と同じように「なぜ笑うのです」と不思議そうにしている。
ふと心が軽くなって、随分とありがたかった。どこかでこんなふうに息をつかなければ、自分がもたない。全部捨ててもいい、現代に帰れなくてもいいという思いがどんどん大きくなっているような気がして、それに目を瞑り続けようとするのも辛かった。
今だって必死に耐えているのだ。傍にいたい、という言葉が、口をついて出ないようにと。
「これは、邸の者達、父母や兄にさえ伏せております。物の怪のこともあり、周りの者にこれ以上心配をかけたくないのです。ですから宮様も、どうかすべてを聞き終えましたら、こちらの件はお忘れいただけますか」
「承知しました」
「私は――、私は確かに天狗と呼ばれる翁に出会いました。そうして、いつか自分自身が消えることも彼から聞いたのです。いずれ記憶は戻る。しかしその時は、以前の人格も戻り、私は消滅するのだと」
「なんだって……それは間違いないのですか?」
「はい。かの天狗が申すことです、きっと真なのでしょう」
「天狗は時期も申したのですか、貴女がいつ消えてしまうのかと」
「いいえ、そこまでは聞いておりませんわ。ですが、いつかは必ず来るのだと思います」
本当は少し違う。
死にたがりの三の君にはこの身体に戻ることを拒否されているし、私が現代へ戻れるかどうかはその彼女にかかっていると言っても過言ではない。加えて言えば、現状、現代へ戻るのは絶望的だ。それを考えれば、兵部卿宮に話していることはほぼ嘘のようにはなってしまうが、しかし可能性が捨てきれない以上、このように話すしかない。
わずかでも現代へ戻れる可能性があるなら、三の君の意志を無視して兵部卿宮の妻となり、その状態のまま、いずれ自分だけがいなくなるだなんてこと、私にはできない。
彼は曖昧な態度では身を引いてはくれないだろうし、むしろ、はっきりとした理由があるほうがいい。
ここまで話したのだ、さすがにもう私を妻に欲しいとは思わないだろう。物の怪に取り憑かれた挙句、こんな面倒な事情を抱えている曰くつきの姫など……
「ですから、私は宮様の妻にはなれません」
声が震えないように努めて冷静に、ただ淡々とそう告げた。
告げたはずだったのだが、一向に返事はなく、顔をあげて見れば彼が笑みを浮かべている。そしてなぜか安心したように言ったのだ。
「姫の憂いはそのようなことですか」
そのような、こと?
「それだけが理由なのであれば、私は一向に構わぬ、と申し上げたい」
「宮様、何を……?」
「貴女がいつか消えてしまう存在でもいい。それならば、消えるまでは、どうか私と一緒にいてください」
何を言っているの……?
すぐには理解できなかった。
兵部卿宮はなんと言った? 一向に構わぬと…… 嘘、だってそんな簡単な問題じゃない。私は絶対に消える、と言った。それなのに、なぜ。
こんな反応は想像もしなかった。次の言葉を言おうにも、やはり唇が震えて声が出てこない。
視界の中央で彼が微笑む。いつもの、あの綺麗な顔で。そうして、もう一度、私に分かるようにゆっくりと繰り返した。
「ずっと、一緒にいましょう。あなたが消えてしまうまで、ずっと」
「いいえ、できません、私は……このような不確かな身で、どうして頷けるでしょうか」
「傍にいてほしいのです。もし明日貴女が消えてしまうのだとしても、今この時の私は幸せです。それを、貴女が消えるまででいい、積み重ねていきたい。貴女を愛した時間だけは消えない、この手に残るでしょう」
「……しかし……以前の人格が戻ったら? その時はどうなさるおつもりなのですか」
三の君のことだから、自分が知らないうちに結婚していただなんて、驚愕し、尼になりたいと言い出すような気がする。
「おそらくですが、彼女は出家を望むと思うのです」
「その時はその時、彼女の意志を尊重します。尼になるならそれでもいい、離縁したいというのであればそのようにいたしましょう。いずれにしろ、彼女に対しても無責任な行いは決してしないとお約束いたします」
まっすぐ言い切った兵部卿宮の言葉に、嘘はないのだろう。
そういう人だから私は惹かれたのだ。
三の君にはどう言おう……何と説明すればいい?
彼女がこの身体に戻ると決めたそのときは、「この人は大丈夫、きっと貴女を悪いようにはしないし、今後の貴女が幸せになれるように尽力してくれるから」と訴えて、状況をどうにか理解してもらうしかない。出家も離縁も自由にできると言えば、あるいは彼女も考えを変えるかもしれない。
そう思いはじめている時点で、私の心はもう一つの答えに偏り始めていた。
「私が愛したのは他の誰でもない、貴女自身です。外見の美しさも勿論貴女の魅力ですが、私は、記憶を失ったという今の貴女がいい」
兵部卿宮は、「私」を見てくれている。この世に本当は存在してはいけない、「私」という人間を。
ただ一人、三の君としてではなく、「私」を認めてくれているのだ。
それが、どれほど私にとって嬉しくて幸せなことか。
「貴女がいつもどこか暗い顔をしていらっしゃったわけが、ようやく私にも理解できました。お一人で抱え込み、随分とお辛かったでしょう。この先は、私にも貴女の苦しみを共に背負わせて下さい」
今度こそ、頬を熱い雫が濡らした。それを止めようとも思わなかった。彼の輪郭が厚い涙の膜にじわりと滲んでいく。
私はこの手を伸ばしてもいいのだろうか。我慢しないでこの人の手を取ってもいいのだろうか。
この世界にいる間だけ、彼の妻として暮らす。
そんな、私に都合のいい時間を本当に願ってもいいの?
「まだ他に不安なことはおありですか」
「いいえ……ですが、宮様は、本当にそれでよろしいのですか」
「いつか貴女を失うよりも、今貴女を失ってしまう方が私は怖い。後悔など、決していたしません。人というものは、いつその生涯を終えるか分からぬものです。私とて、明日死ぬやもしれぬ。どちらが先かなど、誰にも分からないでしょう。であるなら、私はその時まで貴女といたい。限りある時間ならば、貴女と過ごしたいと思います」
「……宮様……」
「泣かないで。もう一度、伺います。姫、私の北の方になって下さいますか」
甘く優しく問いかけてくる声に、もう白旗をあげるしかなかった。
ずるい、この人はずるい。私の不安や、三の君への罪悪感さえも引き受けると言っているのだ。それ以上の口説き文句なんて、きっと見つからない。
好きになってはいけない人だ。
そんなことは分かっている、十分だ。もう理解した。それでもこの心を止められない。今はこの先のことは考えられないし、考えたいとも思わない。それくらいの恋をこの人にしたのだから。
「三の君」としてではない、「私」を望んでくれたこの人を、二度も拒絶なんてできるわけがない。
誰にも許されなくていい。ただ、彼しか見えない。
どうしようもなく彼だけが好きだ。
「私と共に生きて下さいますか」
「……はい」
泣きながらはっきりと頷いた私を、彼がその腕に閉じ込めたのはほぼ同時のことだった。
「姫、愛しています」
胸いっぱいに広がった幸福感を抱きしめるように、私も彼の背中に腕を回した。
この様子ならば、彼ももちろん、「北山の天狗」は知っているのだろう。宮中でも有名なようだったし、むしろ知らないと言われるほうが不自然だ。
「まさか……天狗にお会いになられたのですか?」
「はい」
「しかし、あれはそう易々と人に会わぬはずですが」
「私のことは、気に入ったのだと、そう申しておりました」
「た、確かに…… 貴女を好ましく思わないはずがありません」
こんな空気の中で、兄と同じようなことを言う兵部卿宮に思わず小さく笑ってしまった。彼はまた、いつかの夜と同じように「なぜ笑うのです」と不思議そうにしている。
ふと心が軽くなって、随分とありがたかった。どこかでこんなふうに息をつかなければ、自分がもたない。全部捨ててもいい、現代に帰れなくてもいいという思いがどんどん大きくなっているような気がして、それに目を瞑り続けようとするのも辛かった。
今だって必死に耐えているのだ。傍にいたい、という言葉が、口をついて出ないようにと。
「これは、邸の者達、父母や兄にさえ伏せております。物の怪のこともあり、周りの者にこれ以上心配をかけたくないのです。ですから宮様も、どうかすべてを聞き終えましたら、こちらの件はお忘れいただけますか」
「承知しました」
「私は――、私は確かに天狗と呼ばれる翁に出会いました。そうして、いつか自分自身が消えることも彼から聞いたのです。いずれ記憶は戻る。しかしその時は、以前の人格も戻り、私は消滅するのだと」
「なんだって……それは間違いないのですか?」
「はい。かの天狗が申すことです、きっと真なのでしょう」
「天狗は時期も申したのですか、貴女がいつ消えてしまうのかと」
「いいえ、そこまでは聞いておりませんわ。ですが、いつかは必ず来るのだと思います」
本当は少し違う。
死にたがりの三の君にはこの身体に戻ることを拒否されているし、私が現代へ戻れるかどうかはその彼女にかかっていると言っても過言ではない。加えて言えば、現状、現代へ戻るのは絶望的だ。それを考えれば、兵部卿宮に話していることはほぼ嘘のようにはなってしまうが、しかし可能性が捨てきれない以上、このように話すしかない。
わずかでも現代へ戻れる可能性があるなら、三の君の意志を無視して兵部卿宮の妻となり、その状態のまま、いずれ自分だけがいなくなるだなんてこと、私にはできない。
彼は曖昧な態度では身を引いてはくれないだろうし、むしろ、はっきりとした理由があるほうがいい。
ここまで話したのだ、さすがにもう私を妻に欲しいとは思わないだろう。物の怪に取り憑かれた挙句、こんな面倒な事情を抱えている曰くつきの姫など……
「ですから、私は宮様の妻にはなれません」
声が震えないように努めて冷静に、ただ淡々とそう告げた。
告げたはずだったのだが、一向に返事はなく、顔をあげて見れば彼が笑みを浮かべている。そしてなぜか安心したように言ったのだ。
「姫の憂いはそのようなことですか」
そのような、こと?
「それだけが理由なのであれば、私は一向に構わぬ、と申し上げたい」
「宮様、何を……?」
「貴女がいつか消えてしまう存在でもいい。それならば、消えるまでは、どうか私と一緒にいてください」
何を言っているの……?
すぐには理解できなかった。
兵部卿宮はなんと言った? 一向に構わぬと…… 嘘、だってそんな簡単な問題じゃない。私は絶対に消える、と言った。それなのに、なぜ。
こんな反応は想像もしなかった。次の言葉を言おうにも、やはり唇が震えて声が出てこない。
視界の中央で彼が微笑む。いつもの、あの綺麗な顔で。そうして、もう一度、私に分かるようにゆっくりと繰り返した。
「ずっと、一緒にいましょう。あなたが消えてしまうまで、ずっと」
「いいえ、できません、私は……このような不確かな身で、どうして頷けるでしょうか」
「傍にいてほしいのです。もし明日貴女が消えてしまうのだとしても、今この時の私は幸せです。それを、貴女が消えるまででいい、積み重ねていきたい。貴女を愛した時間だけは消えない、この手に残るでしょう」
「……しかし……以前の人格が戻ったら? その時はどうなさるおつもりなのですか」
三の君のことだから、自分が知らないうちに結婚していただなんて、驚愕し、尼になりたいと言い出すような気がする。
「おそらくですが、彼女は出家を望むと思うのです」
「その時はその時、彼女の意志を尊重します。尼になるならそれでもいい、離縁したいというのであればそのようにいたしましょう。いずれにしろ、彼女に対しても無責任な行いは決してしないとお約束いたします」
まっすぐ言い切った兵部卿宮の言葉に、嘘はないのだろう。
そういう人だから私は惹かれたのだ。
三の君にはどう言おう……何と説明すればいい?
彼女がこの身体に戻ると決めたそのときは、「この人は大丈夫、きっと貴女を悪いようにはしないし、今後の貴女が幸せになれるように尽力してくれるから」と訴えて、状況をどうにか理解してもらうしかない。出家も離縁も自由にできると言えば、あるいは彼女も考えを変えるかもしれない。
そう思いはじめている時点で、私の心はもう一つの答えに偏り始めていた。
「私が愛したのは他の誰でもない、貴女自身です。外見の美しさも勿論貴女の魅力ですが、私は、記憶を失ったという今の貴女がいい」
兵部卿宮は、「私」を見てくれている。この世に本当は存在してはいけない、「私」という人間を。
ただ一人、三の君としてではなく、「私」を認めてくれているのだ。
それが、どれほど私にとって嬉しくて幸せなことか。
「貴女がいつもどこか暗い顔をしていらっしゃったわけが、ようやく私にも理解できました。お一人で抱え込み、随分とお辛かったでしょう。この先は、私にも貴女の苦しみを共に背負わせて下さい」
今度こそ、頬を熱い雫が濡らした。それを止めようとも思わなかった。彼の輪郭が厚い涙の膜にじわりと滲んでいく。
私はこの手を伸ばしてもいいのだろうか。我慢しないでこの人の手を取ってもいいのだろうか。
この世界にいる間だけ、彼の妻として暮らす。
そんな、私に都合のいい時間を本当に願ってもいいの?
「まだ他に不安なことはおありですか」
「いいえ……ですが、宮様は、本当にそれでよろしいのですか」
「いつか貴女を失うよりも、今貴女を失ってしまう方が私は怖い。後悔など、決していたしません。人というものは、いつその生涯を終えるか分からぬものです。私とて、明日死ぬやもしれぬ。どちらが先かなど、誰にも分からないでしょう。であるなら、私はその時まで貴女といたい。限りある時間ならば、貴女と過ごしたいと思います」
「……宮様……」
「泣かないで。もう一度、伺います。姫、私の北の方になって下さいますか」
甘く優しく問いかけてくる声に、もう白旗をあげるしかなかった。
ずるい、この人はずるい。私の不安や、三の君への罪悪感さえも引き受けると言っているのだ。それ以上の口説き文句なんて、きっと見つからない。
好きになってはいけない人だ。
そんなことは分かっている、十分だ。もう理解した。それでもこの心を止められない。今はこの先のことは考えられないし、考えたいとも思わない。それくらいの恋をこの人にしたのだから。
「三の君」としてではない、「私」を望んでくれたこの人を、二度も拒絶なんてできるわけがない。
誰にも許されなくていい。ただ、彼しか見えない。
どうしようもなく彼だけが好きだ。
「私と共に生きて下さいますか」
「……はい」
泣きながらはっきりと頷いた私を、彼がその腕に閉じ込めたのはほぼ同時のことだった。
「姫、愛しています」
胸いっぱいに広がった幸福感を抱きしめるように、私も彼の背中に腕を回した。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
68
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる