名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

文字の大きさ
上 下
339 / 586
第二部 第三章

祈り

しおりを挟む




 暖かな日ではあったが、日は落ちるのは早い。夜が来るとわずかに寒くなってきたため、アデルは暖炉に火を入れた。テーブルの上には所狭しと料理が並べられている。その中央では数本の蝋燭が燭台の上でわずかに斜めに立ち、それぞれの顔を照らしていた。
 アデルはそれぞれの顔を順番に見ていった。リディアもシシィもソフィもいる。

「ごほん、今日は前祝いというか景気づけということで、ちょいとご馳走を作ってみたわけじゃ。さて、頂こうか」

 そう言うと、リディアが眉をしかめた。

「ちょっと待って、こういう時はちゃんとお祈りしなきゃダメよ」
「お、お祈り?」
「そうよ、今日は聖人の日でしょ」
「……そうじゃったかな」

 アデルは視線を上に向けて記憶を辿った。聖人の日と言っても、どの聖人を祀るかは地域差があるからどこでも一致するとは限らない。
 それにわざわざ聖人のあれこれを祝うほど信仰心に篤いわけでもない。しかしリディアが言うのであれば祈りの文言を唱えるくらいはわけない。

 アデルはソフィとシシィの顔を順番に見た。

「シシィはどうなんじゃ、別にお祈りとか構わんか?」
「わたしは構わない」
「ソフィはどうなんじゃろう。こっちの聖人にお祈り捧げてよいのか?」
「む? 何故じゃ?」
「何故って」

 ソフィの生まれは魔王の家系だ。そこはそこで何かしら違う宗教があるはずで、人間の流儀に沿うのに問題は無いのだろうか。
 その辺りについてはあまり深く訊いたことはない。

「ほれソフィは遠い地の尊い生まれなわけでじゃな、そこはそこで神様がいたりするんじゃろ。他のあれでもいいのかと思ってのう」
「それを言い出すと妾自身が神のようなものなのじゃ。しかし今はただの村娘、そんな細かいことは気にしたりせん。なんでもよいから早く食べたいのじゃ」

 随分と雑な考え方だったが、変に細かいよりはいいかもしれない。ソフィは宗教ごとよりも目の前のご馳走のほうがよほど大事らしい。
 ならこれ以上反対する必要もないだろう。

「よし、ではみんな食前のお祈りをするとしようか。それと明日のソフィの活躍も祈らねばな」
「妾の活躍はともかく、祈るためにはどうすればよいのじゃ?」
「よいか、まずこうやって手をがっしりと組む。それから両肘をテーブルの上に乗せてじゃな」
「肘をテーブルにつくとな。なんとも行儀が悪いのう」
「祈りじゃから気にするでない。そんでじゃな、軽く頭をこう下げて、手が額の前に来るようにする」

 そうやって説明して、ようやく準備が整った。ソフィはこれ以上何かを言うつもりもないらしく、黙って言うことを聞いている。何か言えば言うだけ食事が遅れると思っているのかもしれない。
 アデルは全員が祈りの姿勢を取っているのを見て頷いた。

 ソフィは初めてだからか、ただその姿勢を取っているだけというのが見え見えだった。シシィはまるで考え事に耽っているかのようで、それはそれで祈りには見えない。
 リディアはというと、随分と慣れた様子に見える。長い睫毛が伏せられ、細い指は組まれ、一人だけ静謐な空間の中にいるかのようだった。

 その横顔に思わず見とれてしまう。感情を顔に表しているリディアも美しいが、こうやって表情を消している姿はなお一層美しい。何故こんな人間離れした美貌の者が我が家にいるのか今更ながら不思議になってしまう。
 ボロ家に名画を飾るかのようで、釣り合わないこと甚だしい。

「おっと」

 いつまでもリディアに見とれている場合ではなかった。アデルは軽く首を振り、目を閉じた。

「えー、天におられます我らの父よ、あなたの名前が尊ばれますように……。あなたの国が来ますように……」

 そこまで唱えてアデルは詰まった。続きが思い出せない。よくよく考えれば、自分が唱える側に回るのは初めてのような気がした。聞くことはあっても唱えることはなかったのだ。
 なんとか続きを思い出そうと唸ってみるが、正しい文言が頭のどこに仕舞われているのかさっぱりわからない。

 業を煮やしたのか、リディアが小声で尋ねてくる。

「ちょっとアデル」

 ここは正直に言うしかない。

「……すまん、忘れた」
「もーっ! 何言ってるのよ、なんで覚えてないのよ!」

 目を開けてリディアに視線を向ける。リディアは信じられないとばかりに怒りの表情を見せていた。確かにこれを忘れる者がいたとしたら蔑まれても仕方がないだろう。
 自分でも少し驚きだ。

「のうリディア、続きはなんじゃったかのう」

 そう尋ねるとリディアは間髪を入れずに答えた。

「御旨の天に行わるる如く地にも行われんことを、でしょ」
「おお、さらっと出てきたのう。よし、ここはリディアに唱えてもらうとしようか」
「ダメよ、こういうのは家長の仕事なの。アデルはお父さんで、アデルがやらなきゃダメなの」

 リディアは真剣な様子でそう訴えてきた。いつもの軽い調子はまったく無い。これ以上リディアに何かを言うと本気で怒りかねないと思えた。
 確かに重要なことだ。あまりみっともないところを見せるわけにはいかない。

 アデルはリディアから残りをすべて聞き出し、その文言を頭の中に叩き込んだ。それから続きを唱えた。
 リディアがどこでこの祈りを覚えたのかは知らないが、自分が知るものと比べて随分と古いように思えた。こういうものにも地域差があるのだろう。

 祈りを終えて食事を始めた。ソフィは空腹で待たされたせいか随分と食べる調子が早い。
 シシィも普段の健啖さを発揮しているし、リディアも美味しそうに食べていた。手間隙かけて準備した甲斐があった。

 平和な食卓を眺めながら、アデルが一人頷く。
 明日は忙しい日になるだろう。
 何事もなくソフィが楽しめればいい。そう祈った。





しおりを挟む

処理中です...