名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第二章

幼女魔王と農民の別離

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 ソフィは馬の背中にしがみつきながら、アデルの名前を呼び続けた。馬が自分の体をひたすら揺らし続けるが、ソフィにはもう前に進んでいるのかどうかもわからなかった。駆歩で進んでいた馬が、わずかに速度を落とす。
 空の端を染めていた茜色はすでに黒にとって代わられようとしていた。ソフィは勇気を振り絞って顔をあげた。どうやら森を抜けたらしい。馬の首越しに平原が広がっているのが見えた。下り坂の先に盆地が広がっている。この盆地がどこまで続いているのか、薄暗くてよくわからなかった。だが、その先のほうにも森が見える。
 一旦速度を落とした馬だったが、平地が続いているのを見て今度はさらに速度を上げて襲歩の姿勢に入った。

「わっ、わわ」

 馬の揺れはさきほどまでと比べ物にならないほど強くなった。同時に、速度も段違いに増す。
「止まれ! 止まるのじゃ!」
 ソフィがそう声をかけるが、馬は止まる気配がない。森から盆地へ至る下り坂を一気に下り、馬の魔物は平原へと至った。足の短い草がまばらに生える草原を、馬の魔物が全速力で駆ける。




「おのれ、止まらんか! 止まれ!」
 ソフィが制止の言葉をかけるが、それでもなお馬の魔物は駆け続けた。平原に入ってからの速度はソフィが体験したことがないほどの速さだった。どうにか開いた目には、何もかもが後ろへと吹き飛ばされていくのが見えるだけ。
「この馬め! 魔王の言うことが聞けんのか?! 止まれ!」
 そう叫んだ瞬間に、馬の魔物が速度を落とした。馬はやがて停止し、ゆっくりと首を高く上げる。馬が止まったことで、ソフィはようやく安心して息を吐き出すことができた。
 馬のたてがみにしがみついていたので、両手はがちがちに固まって開くのにも苦労した。揺れの中で何度も腹を馬の背にぶつけたので、体中が痛む。
 ソフィはおっかなびっくりという様子で馬から降りようと右足を下ろした。地面まで足が届かない。足の先を伸ばしてみるが、どこに地面があるのかはわからなかった。もうどうしようも判断して、ソフィは思い切ってたてがみを掴んでいた手を離す。

「のわっ?!」

 思ったよりも地面は足より遠いところにあり、ソフィは地面に転がってしまった。体中のあちこちが痛む。怪我はしていないはずだが、馬に全力でしがみついていたので力が入らない。
 どうにか立ち上がり、ソフィは抜け出てきた森へと視線を戻した。森のあちこちからわらわらと魔物が現れる。坂を下る大量の魔物に、魔王でありながらそれらを恐ろしいものだと感じてしまう。
 異形の魔物たちは坂を下り、やがて平原でまばらに立ち止まる。

「アデル……」

 ソフィはその名前を呼んだ。無事なのだろうか。やはり戻らなければいけない。しかし、もう一度馬に乗るのは嫌だった。そもそも、一人では馬の背に乗れない。
 自分の足で向かうしかないと思った。ソフィはもう一度森に入るために、スカートの裾をばたばたとはためかせて走った。裾が邪魔で、ソフィは両手で裾を摘み上げて走る。

 ソフィが走り出して数分経った頃、森の中からソフィが乗っていたのと同じ馬の魔物が飛び出てくるのが見えた。
 その背にアデルが乗っている。

「アデル! よかった、生きておったのか!」
 走り寄ってくる馬に、ソフィが近づく。
「魔物よ止まれ! 魔王の命令じゃ!」
 その言葉が届いたのか、アデルを載せていた馬がたたらを踏んで足を止める。

「アデル! 大丈夫か?!」
「う……む」
 馬のたてがみを掴んだまま、アデルが視点の定まらない目をソフィのほうへと向けた。森の中ではよく見えなかったが、アデルの背は何か色が濃くなっている。アデルの足からぽたぽたと何か液体が零れた。
「アデル、おぬし、血が出ておるのか?!」
「ぐっ……」
 顔をしかめたアデルは、力を振り絞って馬から降りようと試みる。痛みに耐えながら、アデルはどうにか馬から降りることが出来た。
 意識が朦朧としているのか、アデルの頭がふらふらと揺れていた。立つことができず、地面に膝をつく。
「アデル、大丈夫か? 今すぐ回復魔法をかけてやるぞ」
 杖を握り締めたソフィが、呪文を詠唱した。手の平をアデルの背に向ける。傷が深いのか、なかなか傷が塞がらない。
 少し意識がはっきりしたのか、アデルが目を細めながらソフィを見た。

「ソフィ、無事じゃったか……」
「うむ、アデルも、無事とは言いがたいが」
「なにやらあちこち痛いが、まだ生きておる」
 ソフィはさらに魔力を注いでアデルの傷を癒すことに専念した。
「どうじゃアデル? 痛みは?」
「……ありがとうソフィ、背中はかなりマシになった」

 他にも怪我をしている箇所がある。ソフィはそれらにも回復魔法を使った。
 アデルに回復魔法をかけている間に、二人の周りには多くの魔物たちが集まってきていた。その魔物たちは二人を守るように円周上に二人を取り囲んでいた。
 それらの魔物の間を縫って、一頭の馬の魔物が駆けてくる。それに乗っていたのは緑色の魔物だった。
 ひらりと馬から飛び降りて、二人へ駆け寄る。

「何故こんなところにいる? 逃げたのではなかったのか?!」
「アデルを置いて妾だけ逃げられるわけがなかろう!」
 ソフィの怒鳴り声に、緑色の魔物が嘴を閉じた。ソフィがさらに続ける。
「何故妾だけを先に逃がした?!」
「落ち着け、今はそんなことを話してる場合じゃない、逃げなければ殺される」
「アデルを置いて逃げるくらいなら殺されるほうがマシじゃ!」
「……落ち着くんだ、この男はそんなことは望んでいない」

 膝を立てたアデルが、緑色の魔物に同意した。
「そやつの言う通りよソフィ、頼むから、そんなことは言わないでくれ」
「アデルまで何を言っておるのじゃ?! 妾だけが逃げて、生きて、それでどうなるというのじゃ?!」
「ソフィ……」
 アデルは浅く息を繰り返し、未だに続く痛みに耐えながらソフィの肩に手を置いた。
「そう言ってくれるのは嬉しい、しかし、わしはソフィに生きていて欲しい」
「ならばアデルよ、おぬしも生き残ることを考えるがよい! 妾は、アデルがおらねば、妾は、もう生きてゆけぬ」
「……ソフィ、馬鹿なことを」



 アデルにとって、ソフィが失われることだけは許容できなかった。ソフィと出会う前は死を望んでいた。このまま生きていても、心に空いた穴は埋まらないだろうと思っていた。寂しくて、辛くて、どうしようもできない。
 最期に、魔王と戦って死のう、そう思っていた。まさかその魔王がこんな幼女だとは思ってもみなかった。
 紆余曲折はあったが、ソフィは自分と共に来てくれた。寂しさは消え去った。もう、大切な誰かを失いたくはない。

 あの勇者に捕まれば、ソフィは想像もしたことがないような苦痛を味わうことになるだろう。自らの死を安らぎと信じて望むほどの苦痛と恥辱に落とされる。絶望よりもなお深い場所で心を砕かれ、そして殺されてしまう。
 それを想像しただけで、アデルは心が焼ききれるような痛みを感じた。我が身がいくら傷つこうと構わない。それは自分への報いなのだろう。しかし、ソフィが傷つくことだけは許せない。
 例えどんな犠牲を払ったとしても、それだけは避けなければならない。

 緑色の魔物が馬から降りる。ソフィの回復魔法で、アデルの傷はかなり癒されていた。これならばと、アデルはゆっくりと立ち上がる。
 失われた血までは戻らないのか、重たい眠気に襲われた時のような倦怠感が体を支配していた。

 緑色の魔物が、ソフィに向かって馬に乗るように指示している。ソフィはそれを拒んでいた。緑色の魔物が言うことは正しいだろう。敵の狙いはソフィだ。それを達成するためには、あの勇者と魔法使いはこの平原に集まった魔物たちの陣を抜かなければいけない。
 いくら勇者が強いとはいえ、これだけの魔物がひとつの指揮の下で動けばひとたまりもないはずだ。その間に、ソフィは安全な場所へと逃げればいい。ソフィならばどこに行ったとしても暮していけるだろう。そして、勇者の手の届かない場所で、新しい生活を送ってくれればいい。
 最初は誰かから何かを奪わなければいけないかもしれないが、ソフィの回復魔法であればすぐに医者として収入を得ることが出来るだろう。
 金の使い方、扱い方はすでに教え終わっている。無知ゆえに金銭を騙しとられるということもないだろう。

 自分は、一緒にはいけない。時間を稼がなければいけない。
 あの魔法使いは、自分のことをまだ殺さないと言った。自分に利用価値を見出している。
 情報と、人質としての価値、あの魔法使いが狙っているのはその二つだろう。人質に取られてしまえば、ソフィが従ってしまうかもしれない。その結果何がもたらされるのか、ソフィにはきっと解っていない。

 自分が捕らえられたとしても、すぐには殺されないだろう。人質としての価値が無かったとしても、情報は欲しいはずだ。呪いをかけたなどというハッタリもかましておいた。自分が拷問を受ける中で、それを解いてやると言えばソフィが遠くへ逃げるための時間が少しは稼げるだろう。
 この緑色の魔物が何者かはわからないが、ソフィに忠誠を誓っているのは確かだ。ならば、自分ではなく、この緑色の魔物がこれからソフィを守ってやればいい。


 アデルは足を引きずりながら、緑色の魔物へと近づいた。どうにか力の入る左手で、アデルは緑色の魔物の首を掴んだ。
「おぬしに訊きたいことがある。おぬしは、魔物を軍勢を指揮して人間の軍を攻撃したか、二年ほど前のことじゃ」
 首を捕まれた緑色の魔物は、ほんの少しだけ目を細めてアデルを見た。
「……ある、俺がやった」
 アデルはカッと目を見開き、眉を吊り上げた。憤怒の形相で緑の魔物の首を掴む。
「貴様がわしの戦友を殺したのか! 貴様がわしの上官を殺した! 貴様が、わしから仲間を奪い去った! 魔物め、その嘴でわしの仲間を殺せと指示したのか?! 貴様が、こいつの為にやったのか?! こいつのほうが大事か?!」
「だからなんだ? それのどこが悪い」
「貴様ッ!」
 アデルは掴んだ手を押して緑色の魔物を地面に倒した。

「アデル?! 何をやっておるのじゃ?!」
 ソフィがアデルに触れようとした。その手を、アデルが振り払う。空中で手を叩かれ、ソフィが言葉を無くした。


 アデルはゆっくりとソフィのほうへ視線を向けた。怒りを瞳に宿し、憎しみを言葉に乗せてソフィに怒鳴る。
「お前になど会わなければよかった! お前の下僕が、わしの仲間を殺した! お前のせいだ! お前を守るために、わしの戦友は、わしの上官は殺されてしまった!」
「あ……」
 あまりの剣幕に、言葉の鋭さに、ソフィが唇を中途半端に開いたまま固まった。伸ばした手が空中で震えている。

「お前のような奴のせいで、わしの仲間が、死んでしまった! もう、お前の顔など見たくない、消えろ、わしの前から消えろ! もうわしの前からいなくなれ!」
 アデルの怒鳴り声を聞き終えて、ソフィはゆっくりと手を下ろした。震える声で、ソフィが言う。
「……そうか」
「消えろ、もう会話もしたくない、顔も見たくない、どこかへ行け、去れ」
「……」

 アデルはソフィに背を向けて、まだ勇者がいるであろう森に視線を向けた。
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