名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

カールの受難

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 太陽が昇り行く中、カールは自宅の裏で木剣を振り回していた。まだ体の小さなカールにとっては重たく感じられたが、それでも一心不乱に木剣を振る。
 鶏の世話を終えた後、こうやって素振りをするのがここ最近の日課だった。

「はっ、やっ!」

 素振りをする度に心が晴れやかになってゆくような気がした。心の底に溜まっていた澱が洗い流されてゆくような気さえしてくる。
 朝の爽やかな空気も相まって、カールは心の汚れが消えてゆくような心地を味わった。

 いつもより沢山素振りをしたせいか、体はぽかぽかと暖まってくる。

「ふぅ……」

 カールは一息吐いて額に浮かんだ汗を拭った。この汗のように、自分の中の汚い感情が流れ出てしまえばいいのに、そう思わずにはいられなかった。
 昨日、望まない形でソフィの着替えを覗くようなことをしてしまった。ソフィのように可愛い女の子の着替えを見て、カールの心は乱れた。

 それだけならまだしも、昨日のお芝居が終わってからのことが気にかかっていた。
 ソフィは広場の端でしゃがみこんでいたのだが、上からだとソフィの胸元を見ることが出来た。さらに、スカートが短かったため、ソフィの太腿さえも見ることが出来たのだ。

 目を逸らさなければいけないと思ったのに、出来なかった。それもこれも、自分の心が弱いせいだ。
 しかも、そうやってソフィを見ていた瞬間をアデルに見られてしまった。

 アデルに自分の汚らしい感情が知られてしまい、思わず逃げ出してしまったが、あの後ソフィにこの事実を伝えたのだろうか。
 それを思う度に叫びたくなるような後悔に襲われた。もしソフィに嫌われてしまったらと思うと、カールの心は濁流に浮かぶ木の葉のように翻弄されてしまう。


「ああ、どうしよう……」

 素振りをやめてしまうと、また心に不安の雲がむくむくと湧き上がる。ソフィに嫌われたり、村の人たちに嫌われてしまえば、もう生きてゆけない。
 最悪の想像が何度も頭によぎってしまい、よく眠れなかった。


「どうしよう」


 カールは溜め息を吐いて木剣の先で地面を突いた。左手の手の平で柄尻を支え、そこに軽く体重を乗せる。
 憂鬱な気分に襲われて溜め息を吐いたその時、後ろから声をかけられた。

「カールよ、こんなところで何をやっておるのじゃ」
「うわぁ!」

 カールの両肩がびくんと跳ね上がる。突然声をかけられて、カールの心拍数が上がった。しかも、この声はソフィのものだ。
 おずおずと振り向くと、ソフィが朝日の中に立っているのが目に入った。濡れ烏の黒い髪は長く、秋の爽やかな風に揺れている。ソフィは訝しげにカールのことを見ていた。

「ソ、ソフィちゃん?!」
「なんじゃそんなに驚いて、妾がここにおってはいかんのか」
「いや、そういうわけじゃないけど」

 ソフィは不満そうに目を細めた。今気づいたが、ソフィの服がいつもと違った。普段はワンピースにエプロンがついたような服を着ているが、今日は黒い服を着ている。あれは確か、ソフィと最初に出会った日にソフィが着ていた服だ。
 いつだったかリーゼが言っていた、あの服は仕立てが良いので、とても高価な物に違いないと。服のことはよくわからないけれど、確かに布も質が良さそうだし、あちこちにフリルのようなものがついていて、手が込んでいるのがわかった。

 その黒い服はソフィによく似合っている。ただでさえ可愛いソフィがそんな服を着ると、普段よりもっと可愛く見えてしまう。
 つい見とれてしまったが、よくよく考えればそれどころではない。


 ソフィは昨日、アデルからあの事を聞いたのだろうか。つまり、自分がソフィのことをいやらしい目で見てしまっていたことを知っているのだろうか。
 一体どちらなのかがわからない。ソフィの様子は普段と変わりなく、特に軽蔑の感情を見せるようなこともしていない。

 尋ねるべきかどうか悩んでしまう。ただ、もしソフィが何も知らなければ、尋ね方によっては変に思われてしまうかもしれないし、ソフィはその理由をアデルに訊いてしまうかもしれない。
 しかし、尋ねなければこちらの心は休まらないのだ。

 どうするべきか悩み、カールはおずおずと切り出した。

「あ、あのソフィちゃん」
「なんじゃ」
「昨日、あの、お芝居の後、アデル兄ちゃんが来たけど、その時、僕のことで何か言ってた?」
「む? なんじゃ藪から棒に」
「いや何も言ってないならいいんだ。気にしないで!」

 この反応を見る限りでは、アデルからあの事実を知らされてはいないようだ。きっと、アデルは自分のことを慮って内緒にしてくれているのだろう。
 アデルへの感謝が湧くのと同時に、罪悪感も重く圧し掛かってくる。

 知られていないということを喜んでいる。酷く自分勝手だと思えた。この天使のように清らかなソフィと比べて、今の自分はなんて汚らしいのだろう。
 やはり全てを打ち明けて謝罪したほうがいいのかもしれない。もう二度とそんな目で見ないと誓ったほうがいいのかもしれない。

 そう考えたが、ソフィに嫌われてしまったらと思うだけで唇は張り付いて動かない。
 どうしたらいいのか分からずこちらが悩んでいると、ソフィが先に口を開いた。

「カールよ、実は今日は頼みがあって来たのじゃ」
「えっ? 頼み?」
「うむ、そうなのじゃ。カールが暇なら妾と付き合って欲しいのじゃ」
「うん! 大丈夫だよ! 凄く暇だから! もう暇で暇で、どうしようかって思ってたから!」

 思わず意気込んでしまい、声が大きくなった。その声に驚いたのか、ソフィが半歩下がった。勢い良く言い過ぎたことに気づき、カールがぴたりと止まる。
 いけない、ソフィからのお誘いで心が一気に浮かれてしまった。

 ソフィはあまり深く気にしないことにしたらしく、一度頷いた。それからカールの持っていた木剣に目を向けた。

「ところでカールよ、一体何ゆえにそんなものを振り回しておるのじゃ」
「え? えーと……」

 どうして素振りなどしているのか気になったのだろう。その問いに答えるのは簡単だった。もっと強く、男らしくなって、ソフィのことを守れるようになりたいからだ。
 ただ、それを直接ソフィに言うことなど出来なかった。咄嗟に誤魔化そうとしてしまう。

「それは、やっぱり男だから、アデル兄ちゃんみたいに強くなりたいなぁって」
「ふむ……」

 あまり納得がいかなかったのか、ソフィは未だに訝しげな表情をしていた。ソフィが手を伸ばし、カールの右手首を取った。
 何をするつもりなのかわからず、カールはソフィの顔をまじまじと見てしまう。ソフィはカールの手の平に視線を落とし、目を細めてじろじろと眺め回した。

 ソフィはカールの手のひらに指を当て、その感触を確かめるかのようにぷにぷにとカールの手の平を押してゆく。どうやら剣タコが気になったらしい。
 角質化した剣タコに爪を当てて、その硬さを確かめている。それからソフィは目を細めたまま感心したように言う。

「どうやら普段から振っておるようじゃな。皮膚が硬くなっておるのじゃ」

 ソフィは暢気にそう言ったが、カールは皮膚ではなく体が硬直してしまって何も言うことができなかった。ソフィのように可愛い女の子が、手の平にぷにぷにと触れているのだ。
 指先で触れられる度にくすぐったくて、カールは転げまわりたくなってしまう。手の平に触られるだけでこんな気持ちになるだなんて、今まで知らなかった。

 ソフィが触ってくるだけで感覚が何倍も敏感になってしまったかのような気さえしてしまう。

「あわわ……」
「カチコチではないか、おのれカールめ、妾に隠れて日々鍛錬を積んでおったのじゃな」

 今はカチコチよりもソフィのプニプニの指のほうが気になってしまう。指先で手をなぞられ、硬さを確かめられ、それだけでカールは心臓がばくばくと暴れまわった。
 すぐ目の前にはソフィの顔がある。体の奥底で炎をまとった虫が暴れているのではないかと思うほどの耐え難い気持ちになった。

 顔面は火で炙られているかのように熱いのに、すべての血が抜かれたかのように体が冷たくなる。
 プニプニと触られているし、ソフィのプニプニが気になるし、むしろソフィのプニプニをプニプニしたいし、カールの頭はもう爆発寸前だった。


「だ、ダメだ!」

 カールは左手に持った木剣で自分の頭を殴った。カンッと高い音が鳴り、目の奥で火花が飛び散る。

「のわっ?! な、なんじゃカール、いきなりどうしたのじゃ?!」

 頭に走る痛みが少しだけカールを冷静にさせてくれた。だが、ソフィはこちらの行動に仰天し、目を白黒させている。
 変なことをしてしまった。早く誤魔化さなければと思って、カールは涙目で釈明を始めた。

「えっと、頭に虫が止まってて……」
「だからといって棒で叩く必要はないのじゃ」

 もっともな指摘だったが、本当のことを言うわけにはいかない。カールが黙ったまま頭を手で押さえていると、ソフィはカールの右手を頭からどけた。
 何をするのかわからずカールが黙っていると、頭をぐっと引き寄せられた。

 ソフィはカールの頭を自分の顔の前に持ってきて、カールの髪をかきわける。

「どうやらタンコブはまだ出来ておらんようじゃ」
「ソ、ソフィちゃん?!」

 ソフィがこちらの頭頂を覗き込んでいるせいで、カールのすぐ眼前にはソフィの胸があった。平坦で何も無い胸部だったが、ソフィの胸に顔を近づけているという事実だけでカールの心が沸騰してしまう。

「はわわわわ」
「まったく、妙なことをしおってからに。頭を棒で叩くなど阿呆の所業なのじゃ」
「うわああっ!」

 カールはソフィの手を振り払い、後ろへと跳び下がった。同時に木剣が手を離れて地面に転がり甲高い音を立てる。カールは下がった勢いで後ろに倒れそうになったが、ぐっと堪えた。
 あれ以上ソフィの胸元に抱かれていたら、頭がおかしくなってしまう。
 突然のことに、ソフィは状況を掴めないようだった。不思議そうにこちらを見ている。
 理解できないものを見ているかのようで、カールの内心に焦りが生じた。すぐに誤魔化さなければいけないと思ったが、何を言えばいいのかわからない。

 ソフィは呆れてしまったようで、溜め息を吐いて両手を腰に当てた。

「まったく、何をやっておるのじゃ。変なことばかりしおって」
「ち、違うよ、僕は、その……」
「なんじゃ? 言いたいことがあるならはっきりと言うのじゃ」
「う……」

 はっきり言えるわけがない。ソフィのことが好きなだけでなく、ソフィに触られたり、ソフィに近づいたりするだけで心臓が破裂しそうになるのだ
 それだけならまだしも、ソフィの体に対して止められないほどの興味が出てしまう。こんなことが知られてしまえば、ソフィはもう二度と口を利いてくれなくなるだろう。

 だから、絶対に知られてはいけない。
 冷や汗をたらたら流しながら、言い訳の言葉を探す。

 ソフィはもうこれ以上何かを言うつもりはないらしく、溜め息を吐いて首を振った。

「まぁよいのじゃ、そんなことよりカールよ、今日は妾に付き合ってもらうのじゃ」
「う、うん……、でも何を?」
「町へ行くのじゃ。と、いうよりもエルナの家に行くのじゃ」
「エルナちゃんの家に?」

 一体何の用事があるのかはわからないが、ソフィはエルナに会いに行くつもりらしい。エルナの家は町でも有名なお金持ちなので、どこに家があるのかは知っている。
 ただ、いきなり会いに行ってもエルナがいるのかどうかも、会ってくれるのかどうかもわからない。

 そこまで考えて、カールは思いなおした。エルナがいてもいなくてもどちらでもいい。ソフィと一緒に町まで歩いたり、エルナが不在ならそのまま町で一緒に過ごすこともできる。
 もしかしたら今日は素敵な一日になるかもしれない。
 カールがそう考えていると、ソフィはにやりと笑みを浮かべた。


「ふふふ、エルナに妾のしつこさを思い知らせてやるのじゃ」




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