名も無き農民と幼女魔王

寺田諒

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第二部 第三章

離別

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 アデルは朝日の中でシシィの体を抱き締めた。胸の内から、シシィの体温がゆらゆらと立ち上ってきて、その匂いに酔ってしまいそうになる。
 シシィの首に唇を当てて肌を吸い上げると、シシィはか細い声をアデルの耳元で漏らした。

「や、だめ」

 そんな声を出されてしまうと、余計に燃え上がってしまいそうになる。シシィの体が強張っているのを感じて、アデルはそっと唇を離した。
 シシィの顔はほんのりと赤く染まっていて、翡翠の瞳は濡れて輝いている。

 謝ろうかと思ったが、ぐっと堪えた。

「シシィが帰ってきたら、もっと強く、色んなところをこうやって味わいたいものじゃな」
「あ……」

 シシィは恥ずかしげに目を伏せ、それから手に持った大きな杖を胸の前に掲げた。するとシシィの前になにやら楕円形の光の輪が浮かんだ。
 それが何なのかアデルにはわからなかったが、シシィはその楕円形を覗き込んで自分の首元を確認していた。
 おそらく鏡を出す魔法か何かなのだろう。シシィは首の左側がどうなっているのかその魔法の鏡で確かめ、軽く杖を振って鏡を消した。

 シシィが桃のように色づいた唇をゆっくりと開く。

「あなたの、跡が残っている」
「うむ、残っておるのう。ははは、お揃いじゃな」

 アデルは自分の首元をシシィに示した。自分では見えないので、そこがどうなっているのかはわからない。ただ、シシィが言うにはいくらか跡が残っているらしい。
 シシィの唾液のせいで、吸われた場所だけ若干ひんやりしている。

「さて、名残惜しいこと甚だしいが、さすがにそろそろ送り出さねばな」

 シシィはゆっくりと時間をかけて頷き、同意を示してくれた。その速度の遅さに名残惜しさが見えてしまう。

「ではシシィ、さっきも言ったように、何があっても必ず無事に帰ってきてくれ。それだけがわしの願いじゃ」
「わかっている」

 シシィにとっては、この旅に危険性など見出していないのだろう。ほんの少し遠出する程度にしか思っていないのかもしれない。
 それでも心配になってしまう。リディアやソフィのほうがよっぽどシシィのことを信頼しているに違いない。


 惜しむ気持ちが再び沸いてきて、シシィの体を抱き締めたくなる。それではいつまで経ってもシシィが出発できない。
 シシィにとっては大したことがない旅なのに、男の自分がこうやってうろたえているのだから情けない話だ。


 やはり我慢できず、アデルはシシィの肩に手を置いた。ゆっくりと顔をシシィに近づけ、桃色の唇に軽く口付けをする。
 柔らかな感触。そのまま貪りたくなった。

 岩を地面から引き剥がすかのように、気合と労力を込めて唇を離した。
 太陽は既に朝の気だるさを振り払い、地上を鮮やかな色合いへと変えようとしている。肌にまとわりつくような風が二人の間をすり抜けてゆく。


 シシィの肩から手を離す。
 もうこれ以上ここに留まるのは間違っているはずだ。シシィもそれがわかっているから、名残惜しそうではあったが、馬のほうへと歩いていった。
 出番を察したのか、馬が大きく首を上げてシシィに擦り寄っている。

 シシィは荷物の外側に杖を固定した。鐙に足をかけ、慣れた様子でするりと鞍の上へと飛び乗る。
 こちらを見下ろして、シシィがいつもと変わらない声で言う。

「……行って来る」
「おう、気をつけるんじゃぞ」
「気をつける」
「うむ、帰ってきたらお祝いで美味しいものを作るでな」
「……それもいいけれど、その時は、あなたと二人きりの時間が欲しい」
「そうじゃな」
「二人きりの夜と、二人きりの朝も……」
「おお、それはなんというか気恥ずかしいが、一晩中シシィと一緒にいられるのであれば、わしはもう色々と我慢ができんので、大変なことになるかもしれん」
「大変なこと……」

 シシィの顔がぽっと赤く灯った。その赤を振り払うようにシシィが首を振る。
 それから真面目な口調で言った。

「わたしがいない間、沢山我慢して」
「ははは、そうする」
「わたしが帰ってきたら……、その我慢を……」

 そこまで言ってシシィが口を閉ざす。まだ続きを言うのかと思ってしばらく待ったが、シシィは顔を背けてしまった。
 そっぽを向いたまま、やや早口で言う。

「もう行かなければいけない」
「ああ、何度も言うが無事に帰ってきてくれ。他のことなどどうでもよいから」

 シシィは頷き、それから両踵で馬の腹を蹴った。それと同時に、待ってましたとばかりに馬が駆け出す。
 鬱憤を晴らすかのような走りっぷりにシシィも困惑したようで、速度を落とそうとしていた。だがそれでも馬は駈歩で走り続ける。

 ただでさえ小さなシシィがどんどん小さくなってゆく。
 アデルはその光景をじっと見つめていた。

 一週間で戻ると言っていたが、都会までの距離を考えればまず不可能だろう。もう少しかかるかもしれない。
 ただ、一週間などと言われてしまうとどうしても意識してしまう。
 あまり慌てず焦らず、どっしりと構えられればいいのだが、それが出来る気がしない。

「何事もなければよいが……」


 小さくなってゆくシシィを見ながら、アデルはシシィの無事を祈った。




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