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第二部 第三章
おっぱい
しおりを挟むリディアの柔らかな胸の感触を腕で味わいながら、アデルは町への道を歩いた。日差しの暖かさとリディアの体温のせいで体中に汗がじんわりと滲む。腕に当たる感触は甘美で、この手で直接味わいたいと思ってしまうほどだった。
だが、そんなことをしてはならない。もしそれを知ってしまえば、後戻りできないほどリディアに溺れてしまいかねない。
何か難しいことでも考えながら気を紛らわせようと思い、アデルは昔読んだ本の内容を思い返した。自分でも答えに辿り着けなかった問いについて考えていると、心臓の鼓動も少しは落ち着いてくる。
そうやって歩いていると、あともう少しで町の入り口というところまで来ていた。安堵の溜息を吐いていると、リディアがくいっと腕を引っ張ってくる。
「なに難しい顔してるのよ。あたしと一緒なんだから、余計なこと考えないでよ」
「あ、いや……。うむ、確かに失礼であったな」
一緒にいる相手を蔑ろにして考え事に耽るというのは悪かった。
アデルが一度首を軽く振る。もうここで腕を組むのをやめるべきだろう。そう思ってリディアに声をかけようとした時、町の入り口に見知った人がいるのに気づいた。
向こうもこちらに気づいたようで、お互いの視線がぶつかる。
町の入り口にいたのは、パン屋のジルの奥さんであるユーリさんだった。金髪の長い髪を三つ編みにして、肩の前に垂らしている。おっとりした感じの美人なので、年齢よりも随分と若く見える人だ。
彼女の胸はその柔らかい顔つきとは異なって随分と大きく、おそらくシシィのものよりも大きいかもしれない。
そのユーリが大きな目をさらに大きく見開いて、口を右手で覆った。
「ア、アデルさん?」
何やら驚いている様子だったので、アデルは努めて冷静に言葉を返した。
「こんにちは奥さん。いい天気ですのう。ところで何やら誤解のようなものが生じておりそうな気がするので、まずは落ち着いてわしの話を」
「アデルさん、まさか浮気ですか?! そ、そんな!」
「いやいやいや、あのですね、これはそういうのではなく」
「アデルさんにはソフィちゃんというお嫁さんがいるじゃないですか」
「いや、ソフィはわしの嫁とかではなくて、これリディア、もう腕を放してくれ」
小声でリディアに告げると、リディアは素直に腕を放してくれた。ちらりとリディアの横顔を伺おうとするが、帽子のつばのせいでよく見えない。それでもなんとなく理解できる。リディアはユーリの胸を凝視しているのだ。
ユーリは口元を手で覆ったままよろよろと後ずさる。彼女の瞼がぴくぴくと揺れていた。
「そんな……、アデルさんが女ったらしの暴力男だっていう噂は、ただの噂話だと思っていたのに」
女ったらしも暴力男も異なる蔑称だが、それを並べられるとまるで自分が女に暴力を振るっていたかのように聞こえてしまう。
アデルは大慌てで口を大きく開いた。
「いやいやいや、全然違います! どこのどいつがそんなデタラメを吹聴しておるのやら」
「でも、アデルさん、昔は酷い暴れん坊で気に入らない人はぶん殴って回ってたとか、この町の女はわしの物じゃ、とか叫んでたとか」
「誤解! 誤解です! いや本当に! そりゃ多少喧嘩はしましたが、別に暴れん坊とかではなくてですね、わしは」
どうにか落ち着いてもらいたいのだが、ユーリは肩をわずかに上げて唇を手で覆ったまま言葉を続ける。
「でも実際に会ったアデルさんは気のいい人で、噂は所詮噂だって思ってたんです。でも、女ったらしっていうのは本当だったんですか?」
「違います! いや本当に違いますってば!」
「本当ですか?!」
「本当です! わし健全! っていうかこの美人と以前会ったでしょう」
「それは覚えてますけれど、そこまで仲良くしてるということは……」
「いやまぁ確かに仲良くはしてたかもしれませんが、これには深い理由があるのですよ」
「それは?」
「それは……」
言ってみたものの、考えていなかった。
アデルは片手を広げて示し、頭の中で踊り狂う言葉たちの中から適当なものを掴んだ。
「その、わしは別にソフィと夫婦というわけでもないし、誰とも夫婦というわけでもなく、つまりは自由の身であって、誰と何をしていようがそう咎められる筋合いはないわけで……」
焦りながら口に出した言葉に、自分でも戦慄してしまう。ユーリも驚きを通り越して若干引き気味だった。
「アデルさん、それはそうかもしれませんが……、ソフィちゃんがかわいそうですし、無責任なような」
「うっ……」
そんな言い方をされると心が痛む。自分とソフィは別に夫婦でもなければ恋仲でもないが、自分が他の女と必要以上に仲良くしているのはソフィの健やかな成長にとって問題だろう。
とにかく、落ち着いて話せばなんとか誤魔化せるはずだ。
そう思って頭を回転させていると、隣にいたリディアがぽつりと呟いた。
「おっぱい……」
「おおい?!」
リディアはこの会話中ずっとユーリの胸を凝視していたらしい。もしかしたら、触りたいと思っていたのかもしれない。
リディアはその欲望を今まで抑えつけていたのだろう。しかし、そんな呟きが喉から漏れるほどまでに欲望が膨らんでいたようだ。
リディアの言葉を耳にしたユーリが、慌てて胸を両腕で隠した。その顔は恥ずかしさのせいか真っ赤になり、唇が震えている。
アデルは何か言うべきだと口を開いたが、何を言えばいいのかわからなかった。
ユーリが顔を赤くしたまま、わずかに俯く。
「あの、もしかしておっぱい出てました?」
出てたら困る!
アデルの感想が声帯を突き破りそうになったが、舌で無理矢理塞き止めた。ユーリはちゃんと服を着ているし、露出が高いわけでもない。
胸など出ていないし、そこまで慌てて胸を隠すようなことをする必要はないはずだ。
ユーリがちらりと視線をこちらに向けてくる。このような美人に上目遣いで見られると、人妻だとわかっていても心臓がドキリとしてしまう。
胸の話などに男の自分が何を言えばいいのかわからない。アデルは黙ったまま視線をあちこちに向けた。
ユーリが恥ずかしそうに俯く。
「あの、ちゃんと赤ちゃんにあげてるんですけど、たまに張っちゃうことがあって……」
「え……、あ、ああ、はぁ……」
何を言えばいいのかわからず、アデルは曖昧に相槌を打った。リディアが呟いたおっぱいというのを、ユーリは母乳のことを指しているのだと思ったらしい。
こっちは乳房そのもののことだと完全に思い込んで、ユーリの反応を理解するまで少々時間がかかった。リディアもおそらく母乳が滲んでいるとかそういうことではなく、乳房の大きさに関して悶々とした感情を持っていたのだろう。
ユーリが軽く頭を下げて言った。
「あの、それじゃわたしはちょっと家に戻りますね」
ユーリは照れくさそうに笑みを浮かべながら、町の中へと入っていった。アデルはその背を見えなくなるまで棒立ちになり、ユーリの姿が見えなくなった瞬間に肺の中の空気をすべて吐き出した。
なんだかよくわからないが、ユーリの誤解に関する話はうやむやになったようだ。
どうやって誤魔化そうと思っていたが、奇しくもリディアがぽつりと呟いた一言によって救われた。リディアがいて運が良かったと思うべきか、リディアのせいで面倒なことになってしまったと思うべきか。
こんなところで突っ立っていてもしょうがない。アデルは隣のリディアに声をかけた。
「リディア、とりあえず町に入ろうか」
「ねぇねぇ」
「あん? なんじゃ?」
「母乳ってどんな味なの? 美味しかった?」
リディアがこちらに首を向けてそう尋ねてきた。
アデルは呆れてしまい、軽口を叩こうかと思ったが、慌てて考え直した。
「いや、わしは覚えておらんな。そんなものを飲んでた頃は、本当に小さかったからな」
「ふーん」
リディアはこの答えに納得していないのか、特別大きな反応は見せなかった。
誰だって母乳を飲んでいた頃の記憶など存在しないだろう。だから、リディアがこんなことを尋ねてくるのは本来ありえないはずだ。
もしかしたらだが、リディアが乳児の頃は母乳をくれる存在がいなかったのかもしれない。それはつまり、母がいなかったということになる。
さらに、リディアは子どもがいつまで乳を飲むものなのかもよく知らないのかもしれない。
考えなしに軽口を叩いたなら、リディアの心を傷つけていた可能性もある。
リディアは何か考えているのか、人差し指の関節を顎の下に当てていた。しばらくしてから言う。
「まぁいいわ、あたしが自分で母乳を出せばわかることだし」
「……リディアよ、母乳というのは子どもを産まないと出ないものであってな」
「それくらい知ってるわよ」
馬鹿にされたと思ったのか、リディアが眉を寄せた。
それからリディアが胸を張って言う。
「あんたがその気になれば、あたしは母乳の出る女になるわ」
「すまんリディア、どう反応すればよいのかわからん」
「げへへ、今すぐ孕ませてやるぜ! とか言えばいいんじゃない?」
「とんだゲス野郎じゃな」
「ま、ゲスとかクズとかはともかく、期待してるわよ女ったらしさん」
リディアが肩を叩いてくる。
いい笑顔でそんなことを言われても、どう返せばよいのかわからなかった。
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