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首輪
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10.首輪
慌ただしくしているうちに、約束の日はすぐにやってきた。
(流石に緊張してきた)
集合場所は駅に隣接したカフェ。一月会えなかったにも関わらず、兄はあっさりそこに座っていた。品のいいテーラードジャケットに、紺のロングコートを羽織ってきたようだ。目があって手招きされたので、微笑んでその元に向かう。
「久しぶりだな、哉兎」
「久しぶり。今回は帰国まで早かったね」
俺は、ダッフルコートにしようかと散々迷って、結局黒のジャンパーを選んだ。兄に、今の俺を知ってもらうためだ。あと、ちゃんと形を整えないと、俺の心はまたずるずると逃げようとするに決まっている。
「じゃあ、早速だけど移動しようか」
「うん。あのさ、その連れていきたいとこってどんなとこなの?」
「それは……ついてからのお楽しみだ!」
やけに上機嫌に笑う兄に、何だかうろたえた。気を使うから、どっかの高級フレンチとかじゃないといいけど。
電車で移動して、そこは実家からほど近い隣町の小綺麗な住宅街。町中に立つものとは少し違う、凝った作りの高級感あるマンションが立ち並ぶ。
「えっと、お店って住宅街の中にあるの?」
「店? うーん。ちょっと違うかな」
え、違うの? という言葉が脳裏に飛び交う。
ようやく違和感を感じ始めた。何か噛み合っていない気がする。
そのマンションの中の一つに、俺達は入った。革張りのソファが置かれたエントランスからカーペット敷きで、渡り廊下は室内になっている中廊下というやつである。床も壁も、凝ったデザインで統一されているが。非常階段だろうか、非常口のピクトグラムに照らされる扉だけが、のっぺりとグレーに塗られている。
「あのさ、本当、これなに?」
「へへへ」
兄はいたずらっぽく笑うと、ある一室の扉を開けた。
「入って」
促され、恐る恐る足を踏み入れる。中はやっぱり高級マンションだ。落ち着いた色合いの高そうな家具が揃えられ、生活感がない。
「す、すげー高級マンション……あれでしょ、シェフ呼んだりするキッチン」
「シェフかぁ。月に一回くらいなら、まあ、頑張れるかなー」
「……え、えっと、話が見えないんだけど」
「はははっ! サプライズ!」
兄が部屋にインテリアのように置いてあった箱を持ってきた。その黒い箱の蓋を取ると、箱の手前側がぱたんと倒れて、中の物が見える。
ソレは白色のcollar、つまり、首輪だった。
「それ、」
「留学が終わったら、お前にプレゼントしようと思ってたんだ」
目の前の状況に理解が追いつかない。DomからSubにプレゼントされる首輪は、特別な意味を持つ。贈ること自体がClaimという行為にあたり、与えられたそれを身につけるということは、SubがそのDomの庇護下にあると主張し、世間でいうと結婚に近い状態になる。ただ、結婚と違うのは、行った時点でSubはそのDomに、強い精神的支配を、本能的に受けてしまうということ。
(電話、しなきゃ)
緊張が駆け巡り、無意識に、ポケットに手を伸ばしてしまう。
「Stop!!!」
「ひっ」
それは、とても軽率な行為だった。 強いGlareが混ぜられた脅迫的なCommand。小さな悲鳴を上げて、俺は指一本動かせなくなる。兄がゆっくり近づいてくる。
(あ、あれ、薬、全然効いてない……)
その中で、ひたすら焦っていた。兄がCommandを使ってくる可能性も考えて、処方されている抑制剤を飲んでいた。Subの抑制剤は、被支配欲求を抑える他に、例えば見知らぬDomの悪意あるCommandからSubの身を守るために、Commandを効きにくくする効果もあるのだ。
なのに今、俺は声を出すどころか、瞬きや呼吸さえ辛い。
「……ちゃんと、処方箋飲んでるんだな。えらいえらい。これは「俺のSub用」に調整されてるから、俺以外のDomからきっちりお前を守ってくれる」
兄が俺の鞄を勝手に開けて、処方箋を取り出して眺めている。そんな話は初耳だ。そして今、伸ばしかけた格好のままになっている手の下のポケットから、スマホがつまみ出された。
「邪魔だから鞄の中入れとくな」
あまりに一方的に、通信手段を奪われた。冷や汗が止まらない。
「高校、楽しいか? あのアパート、掘り出し物だったろ。俺が家賃全額払ってるんだよ。お前が黙っといてって言ってたみたいだからさ、名義は父さんにしてあるんだけど」
兄の口から俺の知らないことがすらすら出てくる。どういうこと? じゃあ最初から、俺は距離を置くどころか、手元から一切抜け出せていなかったということ?
「この部屋は、お前と住むために買ったんだよ。だから、高校やめて引っ越ししよう。……一年通ったんなら、もう満足しただろ? あまり長居してもお前に学歴なんか要らないから、時間の無駄っていうか。それで、お前には俺の仕事のサポートしてもらおうと思ってさ。パソコンも二台買ったんだ~」
俺を無視して話し続ける兄に、俺は初めて、本当の恐怖を感じた。それと同時に、俺が兄をおかしくしてしまった、という自責の念が胸に張りついてくる。ただ、後悔してももう遅い。説得の言葉は一言も出ない。二人で決めたSafe wordすらも。
「……あー、服邪魔だな。俺の趣味じゃないんだよね、そのパーカー。Strip(脱いで)」
身体が、恐怖で跳ねる。でも、その長年刷り込まれた声で言われると、もう、反射的に裾に手をかける。
(や、いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ! な、なんで、体が勝手に)
「早くしろ! ずっと言ってきただろ。SubはDomに奉仕するために、裸でいるのに慣れろって。この一年で忘れたなら、またしっかり復習しておかないとな」
普通の兄弟に戻るため、封をしていた記憶が、頭の中を駆け巡る。
小学校の夏休み、両親が仕事でいない午後に、初めて兄に裸にされて、フェラチオをした。上手くできないと仕置きとして縄で縛られたり、自発的な排泄を禁止されて、兄の目の前で放尿したこともある。
「よし。これですっきりしたよ」
まるで部屋の片付けでも終わったような風に言う兄の前に、全裸の俺がいた。ただ縮こまって立っている。
なら俺は、そんな十もいかない小児には至極不適切なPlayで、深く傷付き、悲しいほど貞淑になったのか。答えは違う。俺はそれが、心の底から愉しかった。
生まれたときから、自分の中には空洞の部分があって、それがふと、幼稚園の図画工作の時間なんかの、平和な時間に疼くのだ。奉仕しろ、悦べ、と囁いてくる。それを十全に満たしてくれるのが、兄だったのだ。
(でも、今はもう分かる。兄は、ちゃんと兄だった。その尊さを破綻させて快楽を貪るのは、俺はもう嫌だ)
「テレビの前、絨毯の所に立って。Go」
ふらふらと、指定された場所に歩いていく。決意は固くても、意志は兄に握られていた。
「kneel」
足から力が抜けて、跪く。それでも俺は、何とか藻掻いて、Commandから抜け出そうと体を強張らせる。
(くそっ、解けろ! 自分で決着つけるんだろ!)
そんな気持ちだけで、俺は本能に打ち勝とうとしていた。
だが、兄が首輪を手に取る、それを見た瞬間。心臓が急速に鼓動の速度を上げた。
「あ、ああ……」
Subは、その意味を理解してしまったら、概念から逃れられない生き物だ。俺があれをCollarだと認識した時点で、Claimの準備は整う。
自分の中の冷静さという糸が、ぱつんと切れた。
(た、助けて、助けて炎弥!!!!)
炎弥の顔が浮かぶ。あの大好きな人を置いて、俺は兄と契りを結ぶんだ、と、唐突に悟ってしまった。兄が目の前に立つ。
「お……おに……い、ちゃ……」
目から、大粒の涙が溢れ出す。兄は、その絶望の表情の俺の髪を乱暴に掴み、仰け反らせる。
「あッ」
「泣いても無駄。もう、決定事項だから」
冷たい皮の感触が首筋に当たった時、これまでに至る全てを後悔した。移動の途中で逃げていれば。メッセージをよく読んでおけば。炎弥の忠告を聞いていれば。相反して身体は、全ての意志を放棄して動かない。
かちり、と鍵の閉まる音がする。
もう、なんか、いいや。
今まで荒ぶっていた感情が、まるで死に絶えていくように平坦になる。どうしてかまるで分からないが、とにかく静かになった。
「哉兎」
上を見ると、微笑む朔馬の顔がある。俺はどんな顔をしていいか分からず、真似して笑った。すると彼が跪いて、俺にキスをする。舌が入って、唾液を吸われて、とても気持ちいい。夢中になって愛撫を受け入れる。
「ん、ぅ……朔馬……ぁ」
「哉兎……」
見つめ合って、またキスに戻る。しばらく絡み合って、寝室に連れて行かれた。カーテンが締まったそこは、昼中だというのに夜の様相を呈している。そこで、四つん這いになって、ベッドに腰掛けた朔馬の性器を咥える。舐めて啜って、卑猥な音が立つ。
「んっ、はあ、上手くなったなぁ……お前の口は俺を気持ちよくできるように、しっかり躾けたからな……」
口を這わせるたび貧相な尻と、股にぶら下がった性器が無様に揺れる。そこに知性体の品性など欠片もない。
「っ、うぅんっ」
きっと、自分の精子によく似た精子が、俺の口の中に注ぎ込まれる。俺はそれを、いつも通り一滴残らず飲み干した。
「……哉兎、シャワー、浴びておいで……」
ガラスの中のバスルームで、お湯を浴びる。Playで冷えた体が温まった。妙な多幸感に包まれて、あまり何も考えられない。考えたくない。
お湯が、懐かしい匂いを洗い流してしまうなら、もうそれを受け入れるしかない。だってもう、俺は的場朔馬のSubになってしまった。
「……?」
ふと、気配を感じる。何となく、シャワールームを出た。用意されたバスローブを着て、床が大理石の狭い廊下に出る。
(なんか、鳴ってる)
微かな、何かが等間隔で呼んでいる。朔馬はリビングにいるようだ。音は、すぐそこの部屋の中で鳴っている。
静かに扉を開けた瞬間、ブー、ブーという音が部屋に鳴り響いているのが分かる。そこは物置のような場所で、引っ越しダンボールとか、物が雑多に詰め込まれて、それが部屋の中腹ほどまでを埋め尽くしていた。
思い当たるとしたら、俺の鞄だった。きっと俺が帰れないように、朔馬が俺の持ち物をこの山の向こうに投げたのではないか。寝室に行く前、彼が廊下に出ていったのはそのためか。
このダンボールを踏み越えていけば、隣の部屋の彼にも聞こえる。全ては手遅れだ。そう思って、踵をかえそうとした。が。
ヴー! ヴー!
バイブレーションが再開した。それはもっと近い。俺の足元だ。目を見開く。
そこには、布団の山に半分埋もれるように落ちた、自身のスマートフォンがあった。画面には「遠島」の文字。
途端に、燃え上がるように、感情が蘇ってきた。十六年に比べれば、ほんの四カ月だったかもしれない。でも、俺は炎弥に出会って、変わった。愛想笑いは傷つくと知った。好きな服を買えた。自分の美しいところを知った。
帰りたい。あの、暖かい胸の中に。
躊躇いに、手が震える。それでも身体は、契約を遂行しようとしている。
(……兄ちゃん)
深呼吸をして、ゆっくりそれを掴み上げ、通話ボタンを押す。殴られているみたいに頭が痛い。
「哉兎! 聞いてるか? 哉兎だよな」
張り詰めても優しい声に、必死に返事をしようとする。そして俺は、ただスマホを耳に当てたまま、震えながら黙っている。反抗への警告が、脱力となって現れていた。首輪を取れば、とも思うが、多分それをすると気絶してしまう。
「哉兎……いるよな。分かるぞ。今どこだ……」
切り捨てられた涙が、再び溢れた。話したいのに、体が震えて声が出ない。あと、あともう少しなのに。……ごめんなさい。
「ぁ」
電話口の向こうが一瞬静かになって、耳鳴りの中、聞こえた。
「逃げろ」
足が、跳ねるように動いた。スリッパを脱ぎ捨てて、素足で廊下を駆け抜けて、靴に足を突っ込む。
直後、音に気づいた兄の荒々しい声と足音が、後ろから聞こえた。
「逃げろ! とにかくそこから離れろ! 電話切るなよ!」
折れそうになる心を、炎弥の叱咤が何とか繋ぎ止める。廊下に出て、非常階段に飛び込んだ。
「哉兎! 止まれ! 何やってるんだっ!」
「逃げろ。聞くな逃げろ」
二人分の階段を駆け下りる暴力的な音が、嵐のように鼓膜を打ち付ける。それでも、俺は炎弥の声を聞いた。エントランスホールを駆け抜けて、建物の外へ。そこは真冬の街だった。凍える冬空の下を、バスローブ一枚で走るのは多分、長くは持たない。
「はぁ、は、はぁ……」
「哉兎! 大丈夫か! 動けてるか!」
「う、ん……!」
(考えろ、逃げ込める場所……)
行きに歩いた道をなりふり構わず走る。運の悪いことに、昼間の住宅街に人はいない。
(人は駄目だ。こんな格好で助けを求めても、後から来た兄の方を信用するに決まってる。それに今電話を切られたら、またあのSub spaceに引き戻されてしまう。そうなったら、また戻って来れる自信がない)
その時小さな公園が目に入った。奥に公衆トイレ。急カーブを切って、走り込む。個室に入って扉を閉めた。
「ふぅ、ふう、はぁ、は……っ」
「哉兎? すごい音したけど、大丈夫かっ」
電話口の声が上ずっている。
「炎弥……ありがとう……」
「お礼はちゃんと顔見てから聞く。今どこにいんだよ。すぐ行くから」
「ここは……隣町の、住宅街……住所、送る。あと何か服持ってきて。俺が着れるやつ。上と下……」
位置情報のメッセージを送った瞬間、既読がついた。
「え、まじか」
「ん……?」
「今俺、ここから近いわ。チャリ借りて行く! トージ! チャリと……この干してるジャージ借りる!」
電話口の向こうで、はあ!? という誰かの困惑した声が聞こえた。何か軽く口論しているようだが、スマホを降ろしているらしくよく聞こえない。やがて、ガタガタと風の音がして、外を移動し始めたのが分かる。
「ったく……もしもし哉兎? 俺も行くけど、警察とかも呼んどけよ。いや、俺が呼ぼうか?」
「警察……多分役に立たない。兄貴に引き渡されるだけ。証拠、あるし」
「証拠?」
少し体が冷えてきて、小刻みに震え始める。
「collar……つけられた、の……」
「……。はぁ……やっぱりな」
「俺……馬鹿でごめん……っ、もう、迷惑かけてばっかりで、結局泣いて、本当に、どうしようもない……」
「懺悔も後でな! さっきから声震えてるけど、お前寒いのか?」
「だ、大丈夫。その、一応羽織ってる、から」
「……あと五分でつかなかったら、電話切って、警察呼ぶからな」
うん、と返事をしようと口を開けた時。
「おーい。誰と電話してる?」
突然響いた兄の声に、スマホを落としそうになった。こんこん、と扉を叩かれる。
「居るんだろ。寒いから帰ろう?」
妙に甘い声が、扉の向こうから聞こえた。紛れてきていた頭痛が、また再開する。
(あ、ああ……)
首の違和感が、存在を主張してくる。激しい風の音が耳元で聞こえる。
「哉兎! 開けろ!」
ひゅ、と喉が鳴った。兄の怒声。さっきより強く、扉が叩かれる。
「Come」
「ぁ、あぁ……」
立ち上がろうとする衝動を、トイレの蓋の上に蹲って阻止した。
「炎弥ぁ……」
「ん!? どうした!」
思わず呟いてはっとした。そうだ、電話……。
「な、なんで……危ない、自転車」
「はあ? こっちの心配してる場合か? イヤホンだよ。って、んなことどうでも」
「い、いい。なんか、何か喋って……」
「哉兎! Come(こい)!」
「ひぐっ」
「今……おい、どこかに隠れてるのか?」
扉が、一層激しく叩かれる。
「こ、公衆、トイレ……ぅ、ぐ……公園の……、あ、兄貴来ちゃったぁっ」
「哉兎っ、……すまん、耐えろ! 何か、それらしい住宅街に入った! いいか! 絶対開けるな! はぁ、はあ……そうだな、喋り……何がいいかな……」
「おい……はは、困ったな、俺の何が不満なんだよ……ずっと二人で、頼り合って生きてきただろ。それを今更、他に好きな奴ができたからなかったことにとか、都合良すぎるだろ。なあ」
一番痛い傷に、塩を揉み込まれている。
「首輪、つけてくれたじゃん。もう俺のものだよお前は。いい加減認めろって!」
「……哉兎。Domっーのはさ。自分のパートナーには横暴な生き物なわけ。多分お前の兄貴は、筋通せっていうことを言ってるつもりなんだろうけどさ。それは言っちゃえば、お前が俺の都合のいい奴になれってことなの」
炎弥の声に重なって、雑音が入る。それは少し遅れて聞こえる、扉を叩く音。
「畜生……」
朔馬は、自身のパートナーである弟にCommandを拒否され、汗をかきながらそう呟く。再び拳を振り下ろそうとした時。
「おい」
後ろから声をかけられた。警察、という考えが浮かんで、愛想笑いで振り返る。
「え?」
そこには、黒いモッズコートを着た金髪の男。その顔に見覚えがあった、忘れもしない。あの時、俺の哉兎の腕を掴んだ不良。
(こいつだ。哉兎が、外で作ったDom)
激しい敵愾心が、朔馬の心を埋め尽くす。弟は、この子供のDomより、俺の方が劣っていると判断したのだ。それが絶対的に許せない。
「お前……っ、何だよ。びっくりしたな。哉兎は君を呼んでたのか。……今すぐ立ち去れ。もう哉兎は俺の所有物だ。金輪際、近づくことも許さない。今日、ここに来たことも含めて、君の親御さんに訴えさせてもらう。くれぐれも」
その時。後ろで金属が動く音がした。目の前の男の視線が、朔馬を見ていない。そう最初から。
朔馬が振り返ると、泣き腫らした顔の哉兎が、扉を開けて立っていた。バスローブ姿にスニーカー、手にはスマートフォンだけを持って、首元には白い首輪。
「か……」
朔馬が名を呼ぼうとした、その真横を、哉兎は通り過ぎていく。
ただ近づいただけで、暖かい腕に抱きしめられた。手を広げたわけでも、目配せをしたわけでもない。見上げると、炎弥と目があった。見つめ合ったまま、頬を撫でられる。
「すごく冷えてる。髪も濡れたままじゃん」
「炎弥、は、汗だく……」
彼はさっとコートを脱いで、俺に掛けた。さっきより肌に近くなって、より一層暖かい胴にしがみついて、暖を取る。
「なんか、分かんねぇですけど。こいつが寒い中こんな薄着で、自分が扉開けられねぇってわかってんなら、俺を威嚇する前に哉兎の心配するべきなんじゃないすか」
頭がふわふわして、何を言っているのかはよくわからないが、炎弥の声が怖い。俺は言う。
「炎弥……あんまり、お兄ちゃんのこと、責めないで」
だんだん、俺の意識は微睡んで、落ちていく。
最後に俺の名前を呼んだのは、炎弥だった。
慌ただしくしているうちに、約束の日はすぐにやってきた。
(流石に緊張してきた)
集合場所は駅に隣接したカフェ。一月会えなかったにも関わらず、兄はあっさりそこに座っていた。品のいいテーラードジャケットに、紺のロングコートを羽織ってきたようだ。目があって手招きされたので、微笑んでその元に向かう。
「久しぶりだな、哉兎」
「久しぶり。今回は帰国まで早かったね」
俺は、ダッフルコートにしようかと散々迷って、結局黒のジャンパーを選んだ。兄に、今の俺を知ってもらうためだ。あと、ちゃんと形を整えないと、俺の心はまたずるずると逃げようとするに決まっている。
「じゃあ、早速だけど移動しようか」
「うん。あのさ、その連れていきたいとこってどんなとこなの?」
「それは……ついてからのお楽しみだ!」
やけに上機嫌に笑う兄に、何だかうろたえた。気を使うから、どっかの高級フレンチとかじゃないといいけど。
電車で移動して、そこは実家からほど近い隣町の小綺麗な住宅街。町中に立つものとは少し違う、凝った作りの高級感あるマンションが立ち並ぶ。
「えっと、お店って住宅街の中にあるの?」
「店? うーん。ちょっと違うかな」
え、違うの? という言葉が脳裏に飛び交う。
ようやく違和感を感じ始めた。何か噛み合っていない気がする。
そのマンションの中の一つに、俺達は入った。革張りのソファが置かれたエントランスからカーペット敷きで、渡り廊下は室内になっている中廊下というやつである。床も壁も、凝ったデザインで統一されているが。非常階段だろうか、非常口のピクトグラムに照らされる扉だけが、のっぺりとグレーに塗られている。
「あのさ、本当、これなに?」
「へへへ」
兄はいたずらっぽく笑うと、ある一室の扉を開けた。
「入って」
促され、恐る恐る足を踏み入れる。中はやっぱり高級マンションだ。落ち着いた色合いの高そうな家具が揃えられ、生活感がない。
「す、すげー高級マンション……あれでしょ、シェフ呼んだりするキッチン」
「シェフかぁ。月に一回くらいなら、まあ、頑張れるかなー」
「……え、えっと、話が見えないんだけど」
「はははっ! サプライズ!」
兄が部屋にインテリアのように置いてあった箱を持ってきた。その黒い箱の蓋を取ると、箱の手前側がぱたんと倒れて、中の物が見える。
ソレは白色のcollar、つまり、首輪だった。
「それ、」
「留学が終わったら、お前にプレゼントしようと思ってたんだ」
目の前の状況に理解が追いつかない。DomからSubにプレゼントされる首輪は、特別な意味を持つ。贈ること自体がClaimという行為にあたり、与えられたそれを身につけるということは、SubがそのDomの庇護下にあると主張し、世間でいうと結婚に近い状態になる。ただ、結婚と違うのは、行った時点でSubはそのDomに、強い精神的支配を、本能的に受けてしまうということ。
(電話、しなきゃ)
緊張が駆け巡り、無意識に、ポケットに手を伸ばしてしまう。
「Stop!!!」
「ひっ」
それは、とても軽率な行為だった。 強いGlareが混ぜられた脅迫的なCommand。小さな悲鳴を上げて、俺は指一本動かせなくなる。兄がゆっくり近づいてくる。
(あ、あれ、薬、全然効いてない……)
その中で、ひたすら焦っていた。兄がCommandを使ってくる可能性も考えて、処方されている抑制剤を飲んでいた。Subの抑制剤は、被支配欲求を抑える他に、例えば見知らぬDomの悪意あるCommandからSubの身を守るために、Commandを効きにくくする効果もあるのだ。
なのに今、俺は声を出すどころか、瞬きや呼吸さえ辛い。
「……ちゃんと、処方箋飲んでるんだな。えらいえらい。これは「俺のSub用」に調整されてるから、俺以外のDomからきっちりお前を守ってくれる」
兄が俺の鞄を勝手に開けて、処方箋を取り出して眺めている。そんな話は初耳だ。そして今、伸ばしかけた格好のままになっている手の下のポケットから、スマホがつまみ出された。
「邪魔だから鞄の中入れとくな」
あまりに一方的に、通信手段を奪われた。冷や汗が止まらない。
「高校、楽しいか? あのアパート、掘り出し物だったろ。俺が家賃全額払ってるんだよ。お前が黙っといてって言ってたみたいだからさ、名義は父さんにしてあるんだけど」
兄の口から俺の知らないことがすらすら出てくる。どういうこと? じゃあ最初から、俺は距離を置くどころか、手元から一切抜け出せていなかったということ?
「この部屋は、お前と住むために買ったんだよ。だから、高校やめて引っ越ししよう。……一年通ったんなら、もう満足しただろ? あまり長居してもお前に学歴なんか要らないから、時間の無駄っていうか。それで、お前には俺の仕事のサポートしてもらおうと思ってさ。パソコンも二台買ったんだ~」
俺を無視して話し続ける兄に、俺は初めて、本当の恐怖を感じた。それと同時に、俺が兄をおかしくしてしまった、という自責の念が胸に張りついてくる。ただ、後悔してももう遅い。説得の言葉は一言も出ない。二人で決めたSafe wordすらも。
「……あー、服邪魔だな。俺の趣味じゃないんだよね、そのパーカー。Strip(脱いで)」
身体が、恐怖で跳ねる。でも、その長年刷り込まれた声で言われると、もう、反射的に裾に手をかける。
(や、いやだ、嫌だ嫌だ嫌だ! な、なんで、体が勝手に)
「早くしろ! ずっと言ってきただろ。SubはDomに奉仕するために、裸でいるのに慣れろって。この一年で忘れたなら、またしっかり復習しておかないとな」
普通の兄弟に戻るため、封をしていた記憶が、頭の中を駆け巡る。
小学校の夏休み、両親が仕事でいない午後に、初めて兄に裸にされて、フェラチオをした。上手くできないと仕置きとして縄で縛られたり、自発的な排泄を禁止されて、兄の目の前で放尿したこともある。
「よし。これですっきりしたよ」
まるで部屋の片付けでも終わったような風に言う兄の前に、全裸の俺がいた。ただ縮こまって立っている。
なら俺は、そんな十もいかない小児には至極不適切なPlayで、深く傷付き、悲しいほど貞淑になったのか。答えは違う。俺はそれが、心の底から愉しかった。
生まれたときから、自分の中には空洞の部分があって、それがふと、幼稚園の図画工作の時間なんかの、平和な時間に疼くのだ。奉仕しろ、悦べ、と囁いてくる。それを十全に満たしてくれるのが、兄だったのだ。
(でも、今はもう分かる。兄は、ちゃんと兄だった。その尊さを破綻させて快楽を貪るのは、俺はもう嫌だ)
「テレビの前、絨毯の所に立って。Go」
ふらふらと、指定された場所に歩いていく。決意は固くても、意志は兄に握られていた。
「kneel」
足から力が抜けて、跪く。それでも俺は、何とか藻掻いて、Commandから抜け出そうと体を強張らせる。
(くそっ、解けろ! 自分で決着つけるんだろ!)
そんな気持ちだけで、俺は本能に打ち勝とうとしていた。
だが、兄が首輪を手に取る、それを見た瞬間。心臓が急速に鼓動の速度を上げた。
「あ、ああ……」
Subは、その意味を理解してしまったら、概念から逃れられない生き物だ。俺があれをCollarだと認識した時点で、Claimの準備は整う。
自分の中の冷静さという糸が、ぱつんと切れた。
(た、助けて、助けて炎弥!!!!)
炎弥の顔が浮かぶ。あの大好きな人を置いて、俺は兄と契りを結ぶんだ、と、唐突に悟ってしまった。兄が目の前に立つ。
「お……おに……い、ちゃ……」
目から、大粒の涙が溢れ出す。兄は、その絶望の表情の俺の髪を乱暴に掴み、仰け反らせる。
「あッ」
「泣いても無駄。もう、決定事項だから」
冷たい皮の感触が首筋に当たった時、これまでに至る全てを後悔した。移動の途中で逃げていれば。メッセージをよく読んでおけば。炎弥の忠告を聞いていれば。相反して身体は、全ての意志を放棄して動かない。
かちり、と鍵の閉まる音がする。
もう、なんか、いいや。
今まで荒ぶっていた感情が、まるで死に絶えていくように平坦になる。どうしてかまるで分からないが、とにかく静かになった。
「哉兎」
上を見ると、微笑む朔馬の顔がある。俺はどんな顔をしていいか分からず、真似して笑った。すると彼が跪いて、俺にキスをする。舌が入って、唾液を吸われて、とても気持ちいい。夢中になって愛撫を受け入れる。
「ん、ぅ……朔馬……ぁ」
「哉兎……」
見つめ合って、またキスに戻る。しばらく絡み合って、寝室に連れて行かれた。カーテンが締まったそこは、昼中だというのに夜の様相を呈している。そこで、四つん這いになって、ベッドに腰掛けた朔馬の性器を咥える。舐めて啜って、卑猥な音が立つ。
「んっ、はあ、上手くなったなぁ……お前の口は俺を気持ちよくできるように、しっかり躾けたからな……」
口を這わせるたび貧相な尻と、股にぶら下がった性器が無様に揺れる。そこに知性体の品性など欠片もない。
「っ、うぅんっ」
きっと、自分の精子によく似た精子が、俺の口の中に注ぎ込まれる。俺はそれを、いつも通り一滴残らず飲み干した。
「……哉兎、シャワー、浴びておいで……」
ガラスの中のバスルームで、お湯を浴びる。Playで冷えた体が温まった。妙な多幸感に包まれて、あまり何も考えられない。考えたくない。
お湯が、懐かしい匂いを洗い流してしまうなら、もうそれを受け入れるしかない。だってもう、俺は的場朔馬のSubになってしまった。
「……?」
ふと、気配を感じる。何となく、シャワールームを出た。用意されたバスローブを着て、床が大理石の狭い廊下に出る。
(なんか、鳴ってる)
微かな、何かが等間隔で呼んでいる。朔馬はリビングにいるようだ。音は、すぐそこの部屋の中で鳴っている。
静かに扉を開けた瞬間、ブー、ブーという音が部屋に鳴り響いているのが分かる。そこは物置のような場所で、引っ越しダンボールとか、物が雑多に詰め込まれて、それが部屋の中腹ほどまでを埋め尽くしていた。
思い当たるとしたら、俺の鞄だった。きっと俺が帰れないように、朔馬が俺の持ち物をこの山の向こうに投げたのではないか。寝室に行く前、彼が廊下に出ていったのはそのためか。
このダンボールを踏み越えていけば、隣の部屋の彼にも聞こえる。全ては手遅れだ。そう思って、踵をかえそうとした。が。
ヴー! ヴー!
バイブレーションが再開した。それはもっと近い。俺の足元だ。目を見開く。
そこには、布団の山に半分埋もれるように落ちた、自身のスマートフォンがあった。画面には「遠島」の文字。
途端に、燃え上がるように、感情が蘇ってきた。十六年に比べれば、ほんの四カ月だったかもしれない。でも、俺は炎弥に出会って、変わった。愛想笑いは傷つくと知った。好きな服を買えた。自分の美しいところを知った。
帰りたい。あの、暖かい胸の中に。
躊躇いに、手が震える。それでも身体は、契約を遂行しようとしている。
(……兄ちゃん)
深呼吸をして、ゆっくりそれを掴み上げ、通話ボタンを押す。殴られているみたいに頭が痛い。
「哉兎! 聞いてるか? 哉兎だよな」
張り詰めても優しい声に、必死に返事をしようとする。そして俺は、ただスマホを耳に当てたまま、震えながら黙っている。反抗への警告が、脱力となって現れていた。首輪を取れば、とも思うが、多分それをすると気絶してしまう。
「哉兎……いるよな。分かるぞ。今どこだ……」
切り捨てられた涙が、再び溢れた。話したいのに、体が震えて声が出ない。あと、あともう少しなのに。……ごめんなさい。
「ぁ」
電話口の向こうが一瞬静かになって、耳鳴りの中、聞こえた。
「逃げろ」
足が、跳ねるように動いた。スリッパを脱ぎ捨てて、素足で廊下を駆け抜けて、靴に足を突っ込む。
直後、音に気づいた兄の荒々しい声と足音が、後ろから聞こえた。
「逃げろ! とにかくそこから離れろ! 電話切るなよ!」
折れそうになる心を、炎弥の叱咤が何とか繋ぎ止める。廊下に出て、非常階段に飛び込んだ。
「哉兎! 止まれ! 何やってるんだっ!」
「逃げろ。聞くな逃げろ」
二人分の階段を駆け下りる暴力的な音が、嵐のように鼓膜を打ち付ける。それでも、俺は炎弥の声を聞いた。エントランスホールを駆け抜けて、建物の外へ。そこは真冬の街だった。凍える冬空の下を、バスローブ一枚で走るのは多分、長くは持たない。
「はぁ、は、はぁ……」
「哉兎! 大丈夫か! 動けてるか!」
「う、ん……!」
(考えろ、逃げ込める場所……)
行きに歩いた道をなりふり構わず走る。運の悪いことに、昼間の住宅街に人はいない。
(人は駄目だ。こんな格好で助けを求めても、後から来た兄の方を信用するに決まってる。それに今電話を切られたら、またあのSub spaceに引き戻されてしまう。そうなったら、また戻って来れる自信がない)
その時小さな公園が目に入った。奥に公衆トイレ。急カーブを切って、走り込む。個室に入って扉を閉めた。
「ふぅ、ふう、はぁ、は……っ」
「哉兎? すごい音したけど、大丈夫かっ」
電話口の声が上ずっている。
「炎弥……ありがとう……」
「お礼はちゃんと顔見てから聞く。今どこにいんだよ。すぐ行くから」
「ここは……隣町の、住宅街……住所、送る。あと何か服持ってきて。俺が着れるやつ。上と下……」
位置情報のメッセージを送った瞬間、既読がついた。
「え、まじか」
「ん……?」
「今俺、ここから近いわ。チャリ借りて行く! トージ! チャリと……この干してるジャージ借りる!」
電話口の向こうで、はあ!? という誰かの困惑した声が聞こえた。何か軽く口論しているようだが、スマホを降ろしているらしくよく聞こえない。やがて、ガタガタと風の音がして、外を移動し始めたのが分かる。
「ったく……もしもし哉兎? 俺も行くけど、警察とかも呼んどけよ。いや、俺が呼ぼうか?」
「警察……多分役に立たない。兄貴に引き渡されるだけ。証拠、あるし」
「証拠?」
少し体が冷えてきて、小刻みに震え始める。
「collar……つけられた、の……」
「……。はぁ……やっぱりな」
「俺……馬鹿でごめん……っ、もう、迷惑かけてばっかりで、結局泣いて、本当に、どうしようもない……」
「懺悔も後でな! さっきから声震えてるけど、お前寒いのか?」
「だ、大丈夫。その、一応羽織ってる、から」
「……あと五分でつかなかったら、電話切って、警察呼ぶからな」
うん、と返事をしようと口を開けた時。
「おーい。誰と電話してる?」
突然響いた兄の声に、スマホを落としそうになった。こんこん、と扉を叩かれる。
「居るんだろ。寒いから帰ろう?」
妙に甘い声が、扉の向こうから聞こえた。紛れてきていた頭痛が、また再開する。
(あ、ああ……)
首の違和感が、存在を主張してくる。激しい風の音が耳元で聞こえる。
「哉兎! 開けろ!」
ひゅ、と喉が鳴った。兄の怒声。さっきより強く、扉が叩かれる。
「Come」
「ぁ、あぁ……」
立ち上がろうとする衝動を、トイレの蓋の上に蹲って阻止した。
「炎弥ぁ……」
「ん!? どうした!」
思わず呟いてはっとした。そうだ、電話……。
「な、なんで……危ない、自転車」
「はあ? こっちの心配してる場合か? イヤホンだよ。って、んなことどうでも」
「い、いい。なんか、何か喋って……」
「哉兎! Come(こい)!」
「ひぐっ」
「今……おい、どこかに隠れてるのか?」
扉が、一層激しく叩かれる。
「こ、公衆、トイレ……ぅ、ぐ……公園の……、あ、兄貴来ちゃったぁっ」
「哉兎っ、……すまん、耐えろ! 何か、それらしい住宅街に入った! いいか! 絶対開けるな! はぁ、はあ……そうだな、喋り……何がいいかな……」
「おい……はは、困ったな、俺の何が不満なんだよ……ずっと二人で、頼り合って生きてきただろ。それを今更、他に好きな奴ができたからなかったことにとか、都合良すぎるだろ。なあ」
一番痛い傷に、塩を揉み込まれている。
「首輪、つけてくれたじゃん。もう俺のものだよお前は。いい加減認めろって!」
「……哉兎。Domっーのはさ。自分のパートナーには横暴な生き物なわけ。多分お前の兄貴は、筋通せっていうことを言ってるつもりなんだろうけどさ。それは言っちゃえば、お前が俺の都合のいい奴になれってことなの」
炎弥の声に重なって、雑音が入る。それは少し遅れて聞こえる、扉を叩く音。
「畜生……」
朔馬は、自身のパートナーである弟にCommandを拒否され、汗をかきながらそう呟く。再び拳を振り下ろそうとした時。
「おい」
後ろから声をかけられた。警察、という考えが浮かんで、愛想笑いで振り返る。
「え?」
そこには、黒いモッズコートを着た金髪の男。その顔に見覚えがあった、忘れもしない。あの時、俺の哉兎の腕を掴んだ不良。
(こいつだ。哉兎が、外で作ったDom)
激しい敵愾心が、朔馬の心を埋め尽くす。弟は、この子供のDomより、俺の方が劣っていると判断したのだ。それが絶対的に許せない。
「お前……っ、何だよ。びっくりしたな。哉兎は君を呼んでたのか。……今すぐ立ち去れ。もう哉兎は俺の所有物だ。金輪際、近づくことも許さない。今日、ここに来たことも含めて、君の親御さんに訴えさせてもらう。くれぐれも」
その時。後ろで金属が動く音がした。目の前の男の視線が、朔馬を見ていない。そう最初から。
朔馬が振り返ると、泣き腫らした顔の哉兎が、扉を開けて立っていた。バスローブ姿にスニーカー、手にはスマートフォンだけを持って、首元には白い首輪。
「か……」
朔馬が名を呼ぼうとした、その真横を、哉兎は通り過ぎていく。
ただ近づいただけで、暖かい腕に抱きしめられた。手を広げたわけでも、目配せをしたわけでもない。見上げると、炎弥と目があった。見つめ合ったまま、頬を撫でられる。
「すごく冷えてる。髪も濡れたままじゃん」
「炎弥、は、汗だく……」
彼はさっとコートを脱いで、俺に掛けた。さっきより肌に近くなって、より一層暖かい胴にしがみついて、暖を取る。
「なんか、分かんねぇですけど。こいつが寒い中こんな薄着で、自分が扉開けられねぇってわかってんなら、俺を威嚇する前に哉兎の心配するべきなんじゃないすか」
頭がふわふわして、何を言っているのかはよくわからないが、炎弥の声が怖い。俺は言う。
「炎弥……あんまり、お兄ちゃんのこと、責めないで」
だんだん、俺の意識は微睡んで、落ちていく。
最後に俺の名前を呼んだのは、炎弥だった。
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