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第9章 新たな関係
4.主従の誓い
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翌日の昼過ぎ。私とルクトは、今回の一番の目的である主従の誓いの研究者の家へと向かった。
研究者の家は灰色の石造りで建てられた平屋建てだが、この街の民家の3倍くらいもある大きな屋敷だった。
庭はあるが小さな花壇に可愛いお花が植えられている以外は、ただ芝が生い茂った感じのシンプルな状態だから、豪華な印象は伝わってこなかった。
これが2階、もしくは3階建てで立派な庭園があったなら、貴族の住む屋敷と変わらないように感じただろう。
「主従の誓いについて教えて欲しい?もちろん良いわよ。こちらにどうぞ」
立派な木製の扉をノックすると、黒髪に少し白髪の混じった女性が快く研究室に招き入れてくれた。
私はフードを被って屋敷を訪ねたが、中に通される時にフードは外した。
「突然訪ねてすみませんでした」
「いいえ。私達は主従の誓いを研究しているんだけど、話を聞きに訪ねてくる人はいないから嬉しいわ」
彼女は白いブラウス、黒いロングスカートの上に、フリフリの可愛い黄緑色のエプロンを身に着けていたから、この家の使用人かと思ったらどうやら研究者らしい。
研究者って、カッチリした服を着た小難しそうな顔をしている人ってイメージがあったけど、どうやらそれはあくまでもイメージだったようだ。
「随分と大きなお屋敷なんですね」
赤いカーペットが敷かれた廊下をゆっくりと歩いているが、廊下の先はまだ遠い。外から見ても大きな家だったが、実際に建物の中を歩いているとそれ以上に大きく感じた。
「ここはね、代々主従の誓いの研究をする人が引き継いでいる屋敷なの。私達は先代の研究者から引き継ぐまでは、別の街で誓いの研究をしていたの」
「研究を引き継ぐためだけに引っ越してきたのですか?」
「ええそうよ。主従の誓いの研究は、もう随分昔から行われているの。
過去の研究者達がまとめたレポート、文献、地方に伝わる民話や伝承、実験記録はとても膨大な量があるの。普通の屋敷ではとてもじゃないけどその資料を収めきれないから、資料を移動させるよりも、引き継ぐ研究者が引っ越してきたほうが早いのよ」
「そんなに膨大な量の資料があるんですか」
「この屋敷には、随分と深くまで掘られた地下倉庫があるから、資料はそこで保管しているの。さ、こちらにどうぞ」
通された広い応接間は研究部屋の一角にあり、部屋の奥の方では壮年の男性と様々な年齢の6人ほどの男女が思い思いに寛いでいた。
研究室というのは本棚がたくさんあったり、足音でさえうるさく感じるような静けさに包まれているかと思ったら、楽しそうな談笑の声が響いているし、まったりとした空気が流れていて私は面食らってしまった。
「どうぞこっちに座って」
ルクトと並んでソファに座ったが、奥にいる人たちから面白そうにジロジロ見られて、なんだか居たたまれなくなった。
「研究室っぽくなくてビックリしたでしょ?ここにいる人達は、みんな私達の研究に協力してくれている人達なの。
紹介するわね、私は研究者のレナフェ。こっちは同じく研究者で夫のトルネオよ」
白髪交じりだが若々しさに溢れた壮年の男性が、私達の目の前のソファに座るレナフェさんの隣に座った。歩き方や座り方、ちょっとした仕草にジェントルマンな上品さを感じるから、研究者ながらも貴族だろうか。
「初めまして。私はシェニカで、こっちはルクトです」
私がそう言ってルクトも紹介すると、ルクトは一応小さく会釈した。
「はじめまして。どっちが主人で従者なのかい?」
「今は誓いは破棄したんですが、私が主人で彼が従者でした」
「そうかい、主従の誓いのことだね?我々が知ってる範囲のことを教えてあげるよ」
トルネオさんが優雅に足を組みながら、話し始めた。
「主従の誓いというのは色々と条件が変わると効果も変わる、何とも不思議な誓いなんだ。まずは誓いの持つ全ての効果について教えてあげよう。
従者が見えない力に押さえつけられて、主人の意のままにさせるだけがこの誓いの効果じゃないんだよ。
まず1つが、匂いの効果だ。その効果も2種類ある。
1つ目は、従者は主人の匂いを感じ取ることができる。離れた場所にいても、従者は主人が通った道をその匂いで的確になぞって追いかけることが出来る。
2つ目は、従者も主人も互いの匂いに惹きつけられて、離れ難くなるんだよ。その反応を見ると、君の方は思い当たることがありそうだね」
2つ目の効果について思い当たることがあったかと考えていると、トルネオさんはルクトの方を向いて、穏やかながらもどこかイタズラっぽさを感じる微笑みを向けた。
「……ああ」
「えっ!そうだったの!?」
私は思わず声をあげて、トルネオさんの問に小さく同意の返事を発したルクトを見た。私はルクトの匂いを気にしたことはないが、彼は私の匂いをどういう匂いとして感じ取っていたのだろうか。
私の匂いは臭くなかっただろうか?歩いて移動することが多いけど、汗臭かったりしたのでは…。一応未婚で年頃の女の子なので、とても心配だ。
「効果はまだある。2つ目が繋がりの効果だ。
従者は主人と血で結ばれるから、主人の張った結界も自由に出入りできる。従者が白魔道士の場合でも、立場が上になる主人は出入り自由だ。
これは白魔道士なら有名な話だから、お嬢さんも知ってるだろう?」
「はい」
「血の繋がりの効果は、もう1つあってね。
従者は主人の匂いを感じられないくらい遠くにいても、帰巣本能みたいに主人の位置が何となく分かるし、無意識の内に主人の元に引き寄せられてしまう。
奴隷扱いされて今にも死にそうなのに、どうして主人の所から逃げないのかって不思議に思ったことはないかい?」
「ええ。あります」
テゼルで見たように、主人から暴行を受けている従者を何人も見た事がある。
どの従者も、自由になれる時間があるにも関わらず何故逃げ出そうとしないのかと、本当に不思議に思った。
「逃げたいのに逃げられないのが、この帰巣本能のような効果のせいなんだよ。
多分、主人から与えられる血に、従者を主人の一部として取り込む効果があるんだろうね。だから白魔道士が結界を張っても出入り自由だし、離れていても従者を引き寄せるんだろうね。
他にも効果はある。
主人のそばに常に従者がくっついていても、主人はそれを嫌がらない傾向があるんだ。
条件が重なってその状態が続くと、主人は従者だけをそばにいることを許し、同じようにしてくる者を寄せ付けなくなる。
そして最後には互いが近くにいなければ落ち着かなくなる」
ルクトは私の護衛だから近くにいるのが当たり前だと思っていたけど、彼がそばにいると安心できた。
それは彼が私を守ってくれるからという他に、この効果の影響もあったのだろうか。
「そして最後に。2人が惹かれ合い、深く求め合うようになると、互いの性別に関わらず身体の相性は最高なんだよ」
「なっ!」
私は熟れたトマトのように顔が一気に真っ赤になったのを、嫌でも自覚した。
「あら可愛い。その反応ということは、お2人はまだなのかしら?」
「そ、そういう関係じゃないんです」
恥ずかしくて隣に座るルクトの顔が見れない。ルクトも顔が赤くなっているのだろうか。
「お嬢さんはまだ若いし、女性だから分からないかもしれないね。
誓いの有無に関係なく、男という生き物は、目の前に素敵な女性がいたら触れたいと思うものなんだよ。
2人が良好な関係を維持したまま今まで何も無かったのは、彼が性欲を他の事で発散してたからじゃないかな。彼はお嬢さんをとても大事にしているんだね」
「は、はぁ…」
私は小さく返事を返すしかなかった。まさか主従の誓いにこんな効果があるなんて思ってもみなかった。
トルネオさんの言う通り、ルクトが私に嫌がることなんてしないから、大事に扱ってくれていると思う。
ルクトだって性欲のある若い男性であることをすっかり忘れていた。
「この誓いは本当に不思議なものでね。主人と従者の関係の深さによって、表れる効果のレベルに差があるんだ」
「今、私達が話したのは関係が良好な場合の効果なの。
奴隷扱いをしている関係の場合、当然だけど従者は主人を憎むようになる。その関係になると、今話した効果はどんどん薄らいで行くの。
そうなると匂いを感じなくなったり、一緒に居ても心地いいといった効果が感じられなくなって、最後は離れたくても離れられない帰巣本能と、結界の出入りの自由という血の繋がりの効果だけが残るの。
だから奴隷扱いを受ける従者は、逃げられないのよ」
「そ、そうなんですか」
「従者の女性を奴隷扱いする男性に聞き取りをしたの。
女性は何となく男性と離れがたい感じがするし、逃げ出そうと離れても自然と男性の元に戻ってしまうから仕方なく側にいる。
男性の方は、女性が便利な存在だから側に居させてるだけで、別にその女性だけを側に居させたいなんて微塵も思っていない、と言っていたの。
この2人は互いに好意なんて持ってないし、ましてや身体を繋げたいなんて全く思ってなかった。
奴隷扱いされている間柄で、身体の相性が最高だったらどうしようかと思ってたんだけど、そうならないことが分かった時は本当に安心したものよ」
「主従の誓いは、何度でも結び直せるけど誓いを交わせるのは1人だけ。
だから我々はこの研究のために、色んな条件を作り、色んな人と誓いを交わしては破棄してきた。
この主従の誓いはその名前からよく奴隷の契約と言われているが、先人の研究者達がこうして色々研究した結果、我々は『夫婦の誓い』だと思ってるよ」
「この誓いは、想い合わないと奴隷契約に近いけど、想い合うと夫婦の誓いになるってことね」
「夫婦の誓い…」
「従者は匂いで主人の場所を探し、離れていても主人の元へ自然と帰る。
主人は従者を諫める力を持つが、従者が側に居なければ落ち着かなくなる。
そして仲が深まると、互いに求め合って繋がりをより深くする」
「ある地方に伝わる御伽噺に、こんな話があったのよ。
はるか昔、夫の浮気に悩んだ高名な黒魔道士がいたの。
その黒魔道士は自分だけを愛してほしくて、夫の浮気癖を治そうと相手の自由を奪う呪いをかけた。
自由を奪われた夫は、高名な白魔道士に解呪してもらってまた浮気を始めた。
解呪されたことに腹を立てた黒魔道士は、解呪した白魔道士の所に文句を言いに乗り込んだ。
黒魔道士は浮気に悩んでいること、自分だけを愛してほしくて呪いを編み出したことを話すと、同情した白魔道士はこう言ったの。
『一方的に相手の気持ちや行動を抑えつけようとすると、必ず逃げ出そうとするものです。貴女の望みを叶えるには、呪いをかけるのではなく誓い合えばいいのです。
呪いならば解呪出来るが、誓いは白魔道士にも解くことは出来ないのですから』と。
そして黒魔道士と白魔道士は協力して、『夫婦の誓い』を編み出した。
黒魔道士は早速その誓いを夫と交わすと、夫は妻だけを愛するようになり、妻も夫をより深く愛するようになったという物語よ。
誓いを交わした後、想い合わなければ奴隷契約になってしまうのは何故だか分からない。でも、過去の研究者によれば、それは夫にどこにも行って欲しくないと固執した黒魔道士の思いの残滓じゃないかと言われているわ。
この話は後世の誰かがお伽話として考えたのか、本当の話なのかは分からないけど、私たちはこの話が本物であれ作り話であれ、信じるに値する話だと思ったの。だから『夫婦の誓い』だと思っているのよ」
「なるほど…。あの、少し頭を整理するために質問していいですか?」
「どうぞ」
「見ず知らずの2人がこの誓いを交わすと、本人の意思に関係なく離れがたくなったり、匂いで惹きつけられたりするんですよね?
あの、私、そういう効果を感じた覚えがなくて…」
「ほう。お嬢さんの方は効果を感じなかったか。ということは、貴女は彼に異性としての好意を抱かなかったということかな?
この誓いはね、憎み合う奴隷関係になろうが、互いを想い合う夫婦の関係になろうが、スタート地点は一緒なんだよ」
「えっと…?」
「お嬢さんには効果は薄く感じたかもしれないが、初対面でも誓いを結ぶと、最初は何となくそう感じる程度だが、主人と離れがたい、匂いに惹きつけられる、従者を側に居させても嫌ではない、という効果は必ずあるんだ。
そこから先、効果が強くなるのか弱くなって消えていくのかは、2人の間の関係が深まるかということになるんだよ。
分かりやすく言うと、この誓いは愛情と憎しみが両端に乗ったシーソーが、どちらに傾くかによって効果が変わるんだ。
相手に対して好意を抱いて想いが深まると、今話した効果が強くなり上手くいけば『夫婦の誓い』になる。
相手に対して憎しみを持つようになると、その効果は徐々に薄らぎ、最後は離れたくても離れられない『主従の誓い』になる」
「ごくたまに同性の人が信頼の証として誓いを交わす人がいるけど、その2人は想い合うこともなければ憎しみを持つこともない。
その時はずっと誓いを交わした時のような、微かな匂いや居心地の良さを感じる程度よ。これがお嬢さんの状態に近いってことじゃないかしら。
あくまで好意を抱くかは本人達次第だから、一方だけが好意を寄せる事だってあり得るけど、その時は想った方だけに効果が強く現れるの。
例えば従者が主人に好意を抱いた場合、想われた主人が強い想いを抱く従者を相手にしきれなくなって誓いを破棄するの。
逆に主人が従者に好意を抱いた場合、従者が想いに応えてくれないことに絶望して、主人は誓いを破棄するの。
こんな風に一方だけが好意を寄せることになると、主人は誓いを破棄する結果になるのよ。
だから、あくまでも誓いを交わした後にその2人が互いに惹かれ合うのか、一方だけが好意を寄せるのか、何も想い合わないのか、憎しみ合うのか。どういう関係になるかは本人達次第なのよ」
「そ、そうですか…」
私はルクトを1人の護衛だとしか見なかったけど、彼はどういう状態だったのだろうか。
聞いてみたい気もするが、なんとなく気恥ずかして隣が見れない。ルクトはどんな顔をしているんだろうか。
「どうだろうか。我々はお二人の力になれたかな?」
「はい、とても」
「君の方はどうかい?色々と思い当たることはあったかな?」
「あぁ。色々納得出来た。俺からも1つ聞きたい。奴隷にされてる方からの誓いの破棄は出来ないのか?」
「残念だけど、この誓いから解放出来るのは主人による破棄の呪文だけよ。
ただし、この誓いは2者間で行うものだから、どちらか一方が病気や事故などで先に死んでしまった場合には、相手が居なくなった以上、誓いは自然と消えてしまうわ」
「そうか。なら、奴隷扱いされてる従者はそのままなのか」
「残念ながらそういうことだな。
まだ何かあったら是非聞きに来てくれ。我々はこの研究を先の研究者引き継いでまだ数年だから、見終わっていない過去の研究レポートもある。
次に来た時は別の話も出来るかもしれない。その時には2人の体験談なども話してほしいね。些細なことでも研究の役に立つかもしれないからね」
「はい、ありがとうございました。また機会があれば是非伺います」
ソファから立ち上がると、向かいに座っていたレナフェさんが立ち上がって私ににっこりと微笑みかけた。
「お嬢さん、ちょっと健康相談がしたいんだけど良いかしら?」
「え?あ、はい」
部屋の隅に案内されると、彼女から冷えの症状が酷い時の対処法を教えてほしいと相談された。
そういう相談は治療院でもよくあるので、私は鞄から身体を温める効果のある茶葉を取り出して分けてあげた。
「茶葉まで頂いて申し訳なかったわ。代金はおいくらかしら」
「いいえ。これくらい無料で大丈夫です。それに今回はこちらが無料で色々と教えて頂いた立場ですから」
私がそう言うと、レナフェさんは微笑んだまま小声で喋りかけてきた。
「彼、見た目は怖いけど、とても優しい人なのね。貴女をとても大事にしてるのが初対面でも伝わってくるわ」
「えぇ。見た目で怖がられることは多いんですけど、優しい所もあるんです」
チラリとルクトを見ると、部屋の隅に立ったままこちらを無表情で見ている。レナフェさんが私に危害を加えないか油断なく見守ってくれているようだ。
「貴女達なら夫婦の誓いになりそうね」
「え?そ、そんな関係じゃないんです」
「ふふっ。そういうことにしてあげるわ。誓いを結んでいる間、貴女が効果をあまり感じなかったのは、彼を1人の男性として見ていなかったからだと思うの」
「た、確かにそうですね…」
私は今回『ルクトも性欲のある若い男性』と指摘されるまで、すっかり忘れていたのだ。さすが研究者、私の1つの反応で全てが筒抜けにされたみたいで、なんだかとても恥ずかしい。
「彼は今まで貴女を大事にしてくれていたと思うの。そうするのは、単に護衛だからって理由だけじゃなくて、ちゃんと1人の女性として扱っているからだと思うわ。
だから今度は貴女も1人の男性として彼をちゃんと見てあげてね」
「えっと…。は、はい」
レナフェさんを見ると、とても嬉しそうな顔をして私の頭をポンポンと撫でるように軽く叩いた。
彼女は私のお母さんと同じくらいの世代だと思うが、何だか年の離れたお姉さんのような親近感を感じた。
私とルクトは屋敷から出て、珍しく無言のまま宿へと戻った。
ルクトと誓いのことで喋りたい気もしたのだが、私の頭と胸の中でレナフェさんから言われた言葉がグルグルと渦巻いていて、思考がまとまらない状態になっていてまともに話せそうになかった。
「お前、顔が赤いぞ。大丈夫か?あの女の研究者に何か変なことでも言われたのか?」
ルクトの言葉に思わず見上げると、切れ長で鋭い印象を受ける茶色の目が心配そうに私を見下ろしていた。
ーー今度は貴女も1人の男性として彼をちゃんと見てあげてね。
ルクトと目が合った瞬間、レナフェさんのその言葉が鮮明に再生されて、私の頭の中は一気にゴチャゴチャし始めた。
「あ、いや。ううん。ちょっと色々と考えることがあって、頭がパンクしそうなだけだよ」
「よく分かんねぇけど、あんまり無理すんなよ」
主従の誓いのこと、レナフェさんからの言葉が一晩中私の思考を奪っていて、何度もベッドの上でゴロンゴロンと寝返りを打つことになった。
まとまらない頭でも分かったことは、『簡単に主従の誓いは結ぶものではない』という当たり前の教訓と、『ルクトを1人の男性として見るってどうすれば良いんだろう』という疑問だけだった。
ーーーーーーーーー
研究者の家から宿への帰り道、シェニカは頬を赤く染めたまま、何だか落ち着きのない感じで俯き加減に歩いていた。
主従の誓いの効果で「身体の相性が最高だ」と言われた瞬間、俺の隣にいたシェニカは茹でダコを通り越して、破裂寸前の赤い風船に見えた。
そんな真っ赤な状態は収まったが、それからずっと頬は赤いままだった。
普通なら「へぇ〜そうなんだ」とサラリと聞いて終わりな気がするが、そんなに照れるようなことだったのだろうか。
あいつは情報屋で普通に話を聞いただけで「かっこよく見えた」とか言うし。
そういうのは、コロシアムの時とかにそう思うもんだと思っていたが、試合の後にそんなこと言われた記憶はない。
あいつのポイントが良くわからない。謎だ、謎すぎる。
屋敷の玄関を出る瞬間、女の研究者がすれ違いざまに「お節介を焼かせてもらったわ」と俺だけに聞こえるように小声で言ってきたが、何を言われたのだろうか。
女に何を言われたのか聞きたいが、シェニカのこの落ち着かない様子では、とても聞けそうになかった。
宿の部屋に戻ると、風呂に入ってベッドに大の字になって寝転んだ。
夕食の時も相変わらずシェニカは頬を赤くしていて、時折黒い髪がボサボサになるくらい頭を掻いていた。何をそんなに考えているのか謎だ。
「はぁ…。やっぱりあの匂いの効果は誓いの影響だったのか」
テゼルの街で気付いた3つの違いは、今日の話で確信に変わった。
奴隷達が解放されるためには、自分の主人が死ぬのを待つか、主人に誓いを破棄してもらうしかない。主人の方から破棄してもらうことが一番穏便な方法だが、現実的に考えて一番難しい。
これは恐らく禁じ手になるだろうが、自殺出来ない従者達が協力し合い、互いを刺し違えるように自殺するか、誰かに頼んで自分の主人を殺してもらうか、という方法が考えられる。
だが、これらの方法は成功すれば良いが、失敗すればたちまち犯罪者として扱われ、奴隷よりも自由のない生活を送ることになる。
理不尽な扱いを受ける奴隷に解放の条件を教えてやりたいが、とてもじゃないけどリスクが高くて言えそうにない。
もし教えるとしても、早く主人が死ねば良いという事と、主人が破棄してくれれば良いな、としか言いようがない。
そして。
あいつに一方的に好意を抱いた俺は、惹きつけられる甘い匂いや、突き動かされる衝動のままに、あいつが起きている内に襲いかかっていれば、誓いを破棄されて護衛はクビになっていたというのも確信した。
誓いを破棄した後とはいえ、寝込みを襲ったことがバレてもマズイだろう。
リスクを避けるために、今後の野宿の時にあいつに触れるのをどうするか考えものだ。
寝込みとは言え、キスをして身体に触れた時の、あの感触を味わってしまっているから、「やらない」という選択を選ぶことはまったく考えなかった。
いつかあいつを俺のものにした時、もう一度主従の誓いを結んで、身体の相性がどれほど良いのか試してみたくなる。
とりあえず今は、いかに迅速かつ自然体で、理性と欲望がせめぎ合うギリギリのラインでやれるかが勝負だ。
俺は次の野宿がいつになるのか楽しみで、なかなか眠れなかった。
研究者の家は灰色の石造りで建てられた平屋建てだが、この街の民家の3倍くらいもある大きな屋敷だった。
庭はあるが小さな花壇に可愛いお花が植えられている以外は、ただ芝が生い茂った感じのシンプルな状態だから、豪華な印象は伝わってこなかった。
これが2階、もしくは3階建てで立派な庭園があったなら、貴族の住む屋敷と変わらないように感じただろう。
「主従の誓いについて教えて欲しい?もちろん良いわよ。こちらにどうぞ」
立派な木製の扉をノックすると、黒髪に少し白髪の混じった女性が快く研究室に招き入れてくれた。
私はフードを被って屋敷を訪ねたが、中に通される時にフードは外した。
「突然訪ねてすみませんでした」
「いいえ。私達は主従の誓いを研究しているんだけど、話を聞きに訪ねてくる人はいないから嬉しいわ」
彼女は白いブラウス、黒いロングスカートの上に、フリフリの可愛い黄緑色のエプロンを身に着けていたから、この家の使用人かと思ったらどうやら研究者らしい。
研究者って、カッチリした服を着た小難しそうな顔をしている人ってイメージがあったけど、どうやらそれはあくまでもイメージだったようだ。
「随分と大きなお屋敷なんですね」
赤いカーペットが敷かれた廊下をゆっくりと歩いているが、廊下の先はまだ遠い。外から見ても大きな家だったが、実際に建物の中を歩いているとそれ以上に大きく感じた。
「ここはね、代々主従の誓いの研究をする人が引き継いでいる屋敷なの。私達は先代の研究者から引き継ぐまでは、別の街で誓いの研究をしていたの」
「研究を引き継ぐためだけに引っ越してきたのですか?」
「ええそうよ。主従の誓いの研究は、もう随分昔から行われているの。
過去の研究者達がまとめたレポート、文献、地方に伝わる民話や伝承、実験記録はとても膨大な量があるの。普通の屋敷ではとてもじゃないけどその資料を収めきれないから、資料を移動させるよりも、引き継ぐ研究者が引っ越してきたほうが早いのよ」
「そんなに膨大な量の資料があるんですか」
「この屋敷には、随分と深くまで掘られた地下倉庫があるから、資料はそこで保管しているの。さ、こちらにどうぞ」
通された広い応接間は研究部屋の一角にあり、部屋の奥の方では壮年の男性と様々な年齢の6人ほどの男女が思い思いに寛いでいた。
研究室というのは本棚がたくさんあったり、足音でさえうるさく感じるような静けさに包まれているかと思ったら、楽しそうな談笑の声が響いているし、まったりとした空気が流れていて私は面食らってしまった。
「どうぞこっちに座って」
ルクトと並んでソファに座ったが、奥にいる人たちから面白そうにジロジロ見られて、なんだか居たたまれなくなった。
「研究室っぽくなくてビックリしたでしょ?ここにいる人達は、みんな私達の研究に協力してくれている人達なの。
紹介するわね、私は研究者のレナフェ。こっちは同じく研究者で夫のトルネオよ」
白髪交じりだが若々しさに溢れた壮年の男性が、私達の目の前のソファに座るレナフェさんの隣に座った。歩き方や座り方、ちょっとした仕草にジェントルマンな上品さを感じるから、研究者ながらも貴族だろうか。
「初めまして。私はシェニカで、こっちはルクトです」
私がそう言ってルクトも紹介すると、ルクトは一応小さく会釈した。
「はじめまして。どっちが主人で従者なのかい?」
「今は誓いは破棄したんですが、私が主人で彼が従者でした」
「そうかい、主従の誓いのことだね?我々が知ってる範囲のことを教えてあげるよ」
トルネオさんが優雅に足を組みながら、話し始めた。
「主従の誓いというのは色々と条件が変わると効果も変わる、何とも不思議な誓いなんだ。まずは誓いの持つ全ての効果について教えてあげよう。
従者が見えない力に押さえつけられて、主人の意のままにさせるだけがこの誓いの効果じゃないんだよ。
まず1つが、匂いの効果だ。その効果も2種類ある。
1つ目は、従者は主人の匂いを感じ取ることができる。離れた場所にいても、従者は主人が通った道をその匂いで的確になぞって追いかけることが出来る。
2つ目は、従者も主人も互いの匂いに惹きつけられて、離れ難くなるんだよ。その反応を見ると、君の方は思い当たることがありそうだね」
2つ目の効果について思い当たることがあったかと考えていると、トルネオさんはルクトの方を向いて、穏やかながらもどこかイタズラっぽさを感じる微笑みを向けた。
「……ああ」
「えっ!そうだったの!?」
私は思わず声をあげて、トルネオさんの問に小さく同意の返事を発したルクトを見た。私はルクトの匂いを気にしたことはないが、彼は私の匂いをどういう匂いとして感じ取っていたのだろうか。
私の匂いは臭くなかっただろうか?歩いて移動することが多いけど、汗臭かったりしたのでは…。一応未婚で年頃の女の子なので、とても心配だ。
「効果はまだある。2つ目が繋がりの効果だ。
従者は主人と血で結ばれるから、主人の張った結界も自由に出入りできる。従者が白魔道士の場合でも、立場が上になる主人は出入り自由だ。
これは白魔道士なら有名な話だから、お嬢さんも知ってるだろう?」
「はい」
「血の繋がりの効果は、もう1つあってね。
従者は主人の匂いを感じられないくらい遠くにいても、帰巣本能みたいに主人の位置が何となく分かるし、無意識の内に主人の元に引き寄せられてしまう。
奴隷扱いされて今にも死にそうなのに、どうして主人の所から逃げないのかって不思議に思ったことはないかい?」
「ええ。あります」
テゼルで見たように、主人から暴行を受けている従者を何人も見た事がある。
どの従者も、自由になれる時間があるにも関わらず何故逃げ出そうとしないのかと、本当に不思議に思った。
「逃げたいのに逃げられないのが、この帰巣本能のような効果のせいなんだよ。
多分、主人から与えられる血に、従者を主人の一部として取り込む効果があるんだろうね。だから白魔道士が結界を張っても出入り自由だし、離れていても従者を引き寄せるんだろうね。
他にも効果はある。
主人のそばに常に従者がくっついていても、主人はそれを嫌がらない傾向があるんだ。
条件が重なってその状態が続くと、主人は従者だけをそばにいることを許し、同じようにしてくる者を寄せ付けなくなる。
そして最後には互いが近くにいなければ落ち着かなくなる」
ルクトは私の護衛だから近くにいるのが当たり前だと思っていたけど、彼がそばにいると安心できた。
それは彼が私を守ってくれるからという他に、この効果の影響もあったのだろうか。
「そして最後に。2人が惹かれ合い、深く求め合うようになると、互いの性別に関わらず身体の相性は最高なんだよ」
「なっ!」
私は熟れたトマトのように顔が一気に真っ赤になったのを、嫌でも自覚した。
「あら可愛い。その反応ということは、お2人はまだなのかしら?」
「そ、そういう関係じゃないんです」
恥ずかしくて隣に座るルクトの顔が見れない。ルクトも顔が赤くなっているのだろうか。
「お嬢さんはまだ若いし、女性だから分からないかもしれないね。
誓いの有無に関係なく、男という生き物は、目の前に素敵な女性がいたら触れたいと思うものなんだよ。
2人が良好な関係を維持したまま今まで何も無かったのは、彼が性欲を他の事で発散してたからじゃないかな。彼はお嬢さんをとても大事にしているんだね」
「は、はぁ…」
私は小さく返事を返すしかなかった。まさか主従の誓いにこんな効果があるなんて思ってもみなかった。
トルネオさんの言う通り、ルクトが私に嫌がることなんてしないから、大事に扱ってくれていると思う。
ルクトだって性欲のある若い男性であることをすっかり忘れていた。
「この誓いは本当に不思議なものでね。主人と従者の関係の深さによって、表れる効果のレベルに差があるんだ」
「今、私達が話したのは関係が良好な場合の効果なの。
奴隷扱いをしている関係の場合、当然だけど従者は主人を憎むようになる。その関係になると、今話した効果はどんどん薄らいで行くの。
そうなると匂いを感じなくなったり、一緒に居ても心地いいといった効果が感じられなくなって、最後は離れたくても離れられない帰巣本能と、結界の出入りの自由という血の繋がりの効果だけが残るの。
だから奴隷扱いを受ける従者は、逃げられないのよ」
「そ、そうなんですか」
「従者の女性を奴隷扱いする男性に聞き取りをしたの。
女性は何となく男性と離れがたい感じがするし、逃げ出そうと離れても自然と男性の元に戻ってしまうから仕方なく側にいる。
男性の方は、女性が便利な存在だから側に居させてるだけで、別にその女性だけを側に居させたいなんて微塵も思っていない、と言っていたの。
この2人は互いに好意なんて持ってないし、ましてや身体を繋げたいなんて全く思ってなかった。
奴隷扱いされている間柄で、身体の相性が最高だったらどうしようかと思ってたんだけど、そうならないことが分かった時は本当に安心したものよ」
「主従の誓いは、何度でも結び直せるけど誓いを交わせるのは1人だけ。
だから我々はこの研究のために、色んな条件を作り、色んな人と誓いを交わしては破棄してきた。
この主従の誓いはその名前からよく奴隷の契約と言われているが、先人の研究者達がこうして色々研究した結果、我々は『夫婦の誓い』だと思ってるよ」
「この誓いは、想い合わないと奴隷契約に近いけど、想い合うと夫婦の誓いになるってことね」
「夫婦の誓い…」
「従者は匂いで主人の場所を探し、離れていても主人の元へ自然と帰る。
主人は従者を諫める力を持つが、従者が側に居なければ落ち着かなくなる。
そして仲が深まると、互いに求め合って繋がりをより深くする」
「ある地方に伝わる御伽噺に、こんな話があったのよ。
はるか昔、夫の浮気に悩んだ高名な黒魔道士がいたの。
その黒魔道士は自分だけを愛してほしくて、夫の浮気癖を治そうと相手の自由を奪う呪いをかけた。
自由を奪われた夫は、高名な白魔道士に解呪してもらってまた浮気を始めた。
解呪されたことに腹を立てた黒魔道士は、解呪した白魔道士の所に文句を言いに乗り込んだ。
黒魔道士は浮気に悩んでいること、自分だけを愛してほしくて呪いを編み出したことを話すと、同情した白魔道士はこう言ったの。
『一方的に相手の気持ちや行動を抑えつけようとすると、必ず逃げ出そうとするものです。貴女の望みを叶えるには、呪いをかけるのではなく誓い合えばいいのです。
呪いならば解呪出来るが、誓いは白魔道士にも解くことは出来ないのですから』と。
そして黒魔道士と白魔道士は協力して、『夫婦の誓い』を編み出した。
黒魔道士は早速その誓いを夫と交わすと、夫は妻だけを愛するようになり、妻も夫をより深く愛するようになったという物語よ。
誓いを交わした後、想い合わなければ奴隷契約になってしまうのは何故だか分からない。でも、過去の研究者によれば、それは夫にどこにも行って欲しくないと固執した黒魔道士の思いの残滓じゃないかと言われているわ。
この話は後世の誰かがお伽話として考えたのか、本当の話なのかは分からないけど、私たちはこの話が本物であれ作り話であれ、信じるに値する話だと思ったの。だから『夫婦の誓い』だと思っているのよ」
「なるほど…。あの、少し頭を整理するために質問していいですか?」
「どうぞ」
「見ず知らずの2人がこの誓いを交わすと、本人の意思に関係なく離れがたくなったり、匂いで惹きつけられたりするんですよね?
あの、私、そういう効果を感じた覚えがなくて…」
「ほう。お嬢さんの方は効果を感じなかったか。ということは、貴女は彼に異性としての好意を抱かなかったということかな?
この誓いはね、憎み合う奴隷関係になろうが、互いを想い合う夫婦の関係になろうが、スタート地点は一緒なんだよ」
「えっと…?」
「お嬢さんには効果は薄く感じたかもしれないが、初対面でも誓いを結ぶと、最初は何となくそう感じる程度だが、主人と離れがたい、匂いに惹きつけられる、従者を側に居させても嫌ではない、という効果は必ずあるんだ。
そこから先、効果が強くなるのか弱くなって消えていくのかは、2人の間の関係が深まるかということになるんだよ。
分かりやすく言うと、この誓いは愛情と憎しみが両端に乗ったシーソーが、どちらに傾くかによって効果が変わるんだ。
相手に対して好意を抱いて想いが深まると、今話した効果が強くなり上手くいけば『夫婦の誓い』になる。
相手に対して憎しみを持つようになると、その効果は徐々に薄らぎ、最後は離れたくても離れられない『主従の誓い』になる」
「ごくたまに同性の人が信頼の証として誓いを交わす人がいるけど、その2人は想い合うこともなければ憎しみを持つこともない。
その時はずっと誓いを交わした時のような、微かな匂いや居心地の良さを感じる程度よ。これがお嬢さんの状態に近いってことじゃないかしら。
あくまで好意を抱くかは本人達次第だから、一方だけが好意を寄せる事だってあり得るけど、その時は想った方だけに効果が強く現れるの。
例えば従者が主人に好意を抱いた場合、想われた主人が強い想いを抱く従者を相手にしきれなくなって誓いを破棄するの。
逆に主人が従者に好意を抱いた場合、従者が想いに応えてくれないことに絶望して、主人は誓いを破棄するの。
こんな風に一方だけが好意を寄せることになると、主人は誓いを破棄する結果になるのよ。
だから、あくまでも誓いを交わした後にその2人が互いに惹かれ合うのか、一方だけが好意を寄せるのか、何も想い合わないのか、憎しみ合うのか。どういう関係になるかは本人達次第なのよ」
「そ、そうですか…」
私はルクトを1人の護衛だとしか見なかったけど、彼はどういう状態だったのだろうか。
聞いてみたい気もするが、なんとなく気恥ずかして隣が見れない。ルクトはどんな顔をしているんだろうか。
「どうだろうか。我々はお二人の力になれたかな?」
「はい、とても」
「君の方はどうかい?色々と思い当たることはあったかな?」
「あぁ。色々納得出来た。俺からも1つ聞きたい。奴隷にされてる方からの誓いの破棄は出来ないのか?」
「残念だけど、この誓いから解放出来るのは主人による破棄の呪文だけよ。
ただし、この誓いは2者間で行うものだから、どちらか一方が病気や事故などで先に死んでしまった場合には、相手が居なくなった以上、誓いは自然と消えてしまうわ」
「そうか。なら、奴隷扱いされてる従者はそのままなのか」
「残念ながらそういうことだな。
まだ何かあったら是非聞きに来てくれ。我々はこの研究を先の研究者引き継いでまだ数年だから、見終わっていない過去の研究レポートもある。
次に来た時は別の話も出来るかもしれない。その時には2人の体験談なども話してほしいね。些細なことでも研究の役に立つかもしれないからね」
「はい、ありがとうございました。また機会があれば是非伺います」
ソファから立ち上がると、向かいに座っていたレナフェさんが立ち上がって私ににっこりと微笑みかけた。
「お嬢さん、ちょっと健康相談がしたいんだけど良いかしら?」
「え?あ、はい」
部屋の隅に案内されると、彼女から冷えの症状が酷い時の対処法を教えてほしいと相談された。
そういう相談は治療院でもよくあるので、私は鞄から身体を温める効果のある茶葉を取り出して分けてあげた。
「茶葉まで頂いて申し訳なかったわ。代金はおいくらかしら」
「いいえ。これくらい無料で大丈夫です。それに今回はこちらが無料で色々と教えて頂いた立場ですから」
私がそう言うと、レナフェさんは微笑んだまま小声で喋りかけてきた。
「彼、見た目は怖いけど、とても優しい人なのね。貴女をとても大事にしてるのが初対面でも伝わってくるわ」
「えぇ。見た目で怖がられることは多いんですけど、優しい所もあるんです」
チラリとルクトを見ると、部屋の隅に立ったままこちらを無表情で見ている。レナフェさんが私に危害を加えないか油断なく見守ってくれているようだ。
「貴女達なら夫婦の誓いになりそうね」
「え?そ、そんな関係じゃないんです」
「ふふっ。そういうことにしてあげるわ。誓いを結んでいる間、貴女が効果をあまり感じなかったのは、彼を1人の男性として見ていなかったからだと思うの」
「た、確かにそうですね…」
私は今回『ルクトも性欲のある若い男性』と指摘されるまで、すっかり忘れていたのだ。さすが研究者、私の1つの反応で全てが筒抜けにされたみたいで、なんだかとても恥ずかしい。
「彼は今まで貴女を大事にしてくれていたと思うの。そうするのは、単に護衛だからって理由だけじゃなくて、ちゃんと1人の女性として扱っているからだと思うわ。
だから今度は貴女も1人の男性として彼をちゃんと見てあげてね」
「えっと…。は、はい」
レナフェさんを見ると、とても嬉しそうな顔をして私の頭をポンポンと撫でるように軽く叩いた。
彼女は私のお母さんと同じくらいの世代だと思うが、何だか年の離れたお姉さんのような親近感を感じた。
私とルクトは屋敷から出て、珍しく無言のまま宿へと戻った。
ルクトと誓いのことで喋りたい気もしたのだが、私の頭と胸の中でレナフェさんから言われた言葉がグルグルと渦巻いていて、思考がまとまらない状態になっていてまともに話せそうになかった。
「お前、顔が赤いぞ。大丈夫か?あの女の研究者に何か変なことでも言われたのか?」
ルクトの言葉に思わず見上げると、切れ長で鋭い印象を受ける茶色の目が心配そうに私を見下ろしていた。
ーー今度は貴女も1人の男性として彼をちゃんと見てあげてね。
ルクトと目が合った瞬間、レナフェさんのその言葉が鮮明に再生されて、私の頭の中は一気にゴチャゴチャし始めた。
「あ、いや。ううん。ちょっと色々と考えることがあって、頭がパンクしそうなだけだよ」
「よく分かんねぇけど、あんまり無理すんなよ」
主従の誓いのこと、レナフェさんからの言葉が一晩中私の思考を奪っていて、何度もベッドの上でゴロンゴロンと寝返りを打つことになった。
まとまらない頭でも分かったことは、『簡単に主従の誓いは結ぶものではない』という当たり前の教訓と、『ルクトを1人の男性として見るってどうすれば良いんだろう』という疑問だけだった。
ーーーーーーーーー
研究者の家から宿への帰り道、シェニカは頬を赤く染めたまま、何だか落ち着きのない感じで俯き加減に歩いていた。
主従の誓いの効果で「身体の相性が最高だ」と言われた瞬間、俺の隣にいたシェニカは茹でダコを通り越して、破裂寸前の赤い風船に見えた。
そんな真っ赤な状態は収まったが、それからずっと頬は赤いままだった。
普通なら「へぇ〜そうなんだ」とサラリと聞いて終わりな気がするが、そんなに照れるようなことだったのだろうか。
あいつは情報屋で普通に話を聞いただけで「かっこよく見えた」とか言うし。
そういうのは、コロシアムの時とかにそう思うもんだと思っていたが、試合の後にそんなこと言われた記憶はない。
あいつのポイントが良くわからない。謎だ、謎すぎる。
屋敷の玄関を出る瞬間、女の研究者がすれ違いざまに「お節介を焼かせてもらったわ」と俺だけに聞こえるように小声で言ってきたが、何を言われたのだろうか。
女に何を言われたのか聞きたいが、シェニカのこの落ち着かない様子では、とても聞けそうになかった。
宿の部屋に戻ると、風呂に入ってベッドに大の字になって寝転んだ。
夕食の時も相変わらずシェニカは頬を赤くしていて、時折黒い髪がボサボサになるくらい頭を掻いていた。何をそんなに考えているのか謎だ。
「はぁ…。やっぱりあの匂いの効果は誓いの影響だったのか」
テゼルの街で気付いた3つの違いは、今日の話で確信に変わった。
奴隷達が解放されるためには、自分の主人が死ぬのを待つか、主人に誓いを破棄してもらうしかない。主人の方から破棄してもらうことが一番穏便な方法だが、現実的に考えて一番難しい。
これは恐らく禁じ手になるだろうが、自殺出来ない従者達が協力し合い、互いを刺し違えるように自殺するか、誰かに頼んで自分の主人を殺してもらうか、という方法が考えられる。
だが、これらの方法は成功すれば良いが、失敗すればたちまち犯罪者として扱われ、奴隷よりも自由のない生活を送ることになる。
理不尽な扱いを受ける奴隷に解放の条件を教えてやりたいが、とてもじゃないけどリスクが高くて言えそうにない。
もし教えるとしても、早く主人が死ねば良いという事と、主人が破棄してくれれば良いな、としか言いようがない。
そして。
あいつに一方的に好意を抱いた俺は、惹きつけられる甘い匂いや、突き動かされる衝動のままに、あいつが起きている内に襲いかかっていれば、誓いを破棄されて護衛はクビになっていたというのも確信した。
誓いを破棄した後とはいえ、寝込みを襲ったことがバレてもマズイだろう。
リスクを避けるために、今後の野宿の時にあいつに触れるのをどうするか考えものだ。
寝込みとは言え、キスをして身体に触れた時の、あの感触を味わってしまっているから、「やらない」という選択を選ぶことはまったく考えなかった。
いつかあいつを俺のものにした時、もう一度主従の誓いを結んで、身体の相性がどれほど良いのか試してみたくなる。
とりあえず今は、いかに迅速かつ自然体で、理性と欲望がせめぎ合うギリギリのラインでやれるかが勝負だ。
俺は次の野宿がいつになるのか楽しみで、なかなか眠れなかった。
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