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練習は二週間に一回で、この日は俺にとって初めての練習だった。
練習を始める前に、俺は鎌田さんと鵜殿さんのレクチャーを受け、れっきとしたスポーツということは理解したが、いざやってみるとなると、少し恥ずかしい気がした。グローブを持った少年を見れば野球をやるのだと分かるが、長さ十メートルの棒を持った大人を見て何をするか察しが付く人は少ない。俺もそうだったから。
「大阪の岸和田って所にはフィーエルヤッペン協会があって、専用の練習場もあるみたいだから、市民の理解も少しはあるんだろうけど、ここはそうじゃないからね。この棒を持って歩いていたら職質にあったこともあるんだよ。酷い話だろう?」
職質うんぬんより、そんな協会があることの方が驚きだった。
「ところで、どうして二週間に一回なんですか?毎週でもよさそうなのに」
俺が質問すると、二人はとても嬉しそうな顔をした。きっと、ものすごく聞いてほしかったのだろう。
「実はね、僕ら以外にもこの競技をやっている人たちがいるんです。競い合い、高め合う。ライバルみたいなものです。本当は仲いいんですけどね、慣れ合いにならない為にもバラバラに練習しているんですよ。それに、チームで競い合うって、なんか素敵だし」
大阪には協会があるのだから、もちろん競技者もそれなりにいるのだろうと思ったが、驚いた。ひょっとして実は周りにも隠れフィーエルヤッペンが結構いるのだろうか。しかし、俺が更に驚いたのは、そのライバルというのは俺の知っている人物だということだ。
山下幸一。四十二歳、厄年。持病の腰痛をいつも愚痴っている隣町の高校の世界史教師だ。老け顔のくせに若作りしようとしてカツラなんか被っちゃいるが、地毛とカツラの色が微妙に違うし、大体カツラの方がハゲの面積より小さいから三日月ハゲになっている。生徒たちが「山下の頭はカツラか否か」で賭けをした時には、全員がカツラに賭けたせいで賭け自体が成立しなかったということも、俺は知っている。
そのせいとは言い切れないが、娘とは折り合いが良くないらしい。いわゆるギャルで、その手の免疫がない山下とはいつも大喧嘩なのだそうだ。時折連れて帰る彼氏は、娘がそのまま男になったようなギャル男で、彼の存在が山下のストレス貯蓄に多大な貢献をしているのだという。
どこまで本当か知らないが、俺の情報ではそうなっている。もちろん、情報の出所は明かせない。警察小説でも、自分の檀家は明かさないのが普通だ。
うちの高校とヤツの高校はともに野球部が強く、県大会の決勝でも俺が見ただけで四度当たっている。去年も決勝で当たり、延長戦の末うちの高校が敗れてしまった。野球部員たちは涙を流したが、それも正々堂々と全力を尽くした結果だと、固い握手で試合を終えた。
しかし、教師陣はそれでは終わらなかった。発端になったのがどちらかは分からない。俺たちは向こうが仕掛けてきたと思っているし、向こうは俺たちが仕掛けてきたと思っている。理由も定かではない。蘆溝橋事件のようなものだ。いずれにせよ、いまだ尾を引く長い抗争事件が勃発したのだった。
事態をそれなりに重く見た教育委員会の年寄りどもは、いつものことなかれ主義ほとばしるナァナァ体勢の元、歩み寄りによる手打ちを提案したが、その頃には双方派手に啖呵を切ってしまっていたので引っ込みがつかない状態だった。俺たちも公務員風を吹かせ、「追い追いね」と結論を後回しにし、それが今日の両校の関係を作り上げているのである。
ちなみに、仲が悪いのは教師たちだけで生徒間交流は盛んなようだ。特に野球部員たちは最高のライバルとして切磋琢磨している。どちらかが甲子園出場などとなれば、もう片方も練習に協力するのが習わしだ。
「それは負けられないね」
事情を聞いた鎌田さんと鵜殿さんは笑ったが、俺にとっては笑い事ではない。かけるプライドは個人のものでは終わらない。俺はこの瞬間、我が高を立って背負う覚悟を固めた。
ところで、フィーエルヤッペンという競技について読者諸君も少し知っていた方がよかろう。
フィーエルヤッペンというのはオランダ国発祥のスポーツだ。かのオランダ国から伝わったものはエレキテルやら顔の真ん中でフルへッヘンドしているものだけではない。それはそうと、かのオランダ国には運河が多い。運河沿いに生まれる鳥の卵を求め、その運河を棒で飛び越えたことからこのスポーツが始まったのだそうだ。
さて、競技の方法は簡単。まず長さ八メートルから十三メートルの棒を用意していただきます。次にその棒を川に隣接する桟橋に立て掛けていただき、競技者様は幅一メートルほどの助走台を真っ直ぐ棒に向かって走ってください。踏み切り台ではジャンプして立て掛けてある棒にしがみ付き、そのままよじ登ってください。そのまま対岸に向かって倒れて行き、着地していただくと競技完成です。その際、横に倒れて水に落ちないようにお気をつけください。ですが、万が一斜めに倒れた始めた場合は素早く手を離して水に落ちてしまってください。向こう岸に頭を打ち付けて天国まで飛んでいくよりは、いくらかマシでしょうから。
理論より感覚だと、最初から鎌田さんや鵜殿さんのアドバイスもほどほどに、とりあえず一度飛んでみることになった。初めてなのだから、失敗は仕方がない。だが、失敗したら水面に叩きつけられて痛いんじゃないだろうか。痛いのは程度の大小に関係なく嫌いだ。不安で頭がいっぱいになった。
俺は大きく息を吸い、水の中に棒を突き刺し、桟橋に立てかけた。俺の体を支えるのがこの一本の棒だけかと思うと、少し心もとない感じがした。
深呼吸をして走り出した。フィーエルヤッペン経験など微塵もないド素人だ。棒に捕まったはいいが離すことができず、おまけに大きく横に傾いたので、俺は大きな水音をたててずぶ濡れになることになった。
「ね、意外と難しいでしょう」
体をブルブルと震わす俺に向かって鎌田さんが言った。
「離せないもんですね、手」
そうでしょう、そうでしょうと、鵜殿さんも頷いている。俺はなんだか急に可笑しくなって笑い出した。見知らぬ人に勧められるまま水に飛び込んだ己が可笑しかったのか、ずぶ濡れのまま得体の知れぬ充実感を滾らす己が可笑しかったのか定かではない。二人も、そんな俺を見て楽しそうに笑っている。
俺はこうしてこの競技、フィーエルヤッペンを始めることになった。
練習を始める前に、俺は鎌田さんと鵜殿さんのレクチャーを受け、れっきとしたスポーツということは理解したが、いざやってみるとなると、少し恥ずかしい気がした。グローブを持った少年を見れば野球をやるのだと分かるが、長さ十メートルの棒を持った大人を見て何をするか察しが付く人は少ない。俺もそうだったから。
「大阪の岸和田って所にはフィーエルヤッペン協会があって、専用の練習場もあるみたいだから、市民の理解も少しはあるんだろうけど、ここはそうじゃないからね。この棒を持って歩いていたら職質にあったこともあるんだよ。酷い話だろう?」
職質うんぬんより、そんな協会があることの方が驚きだった。
「ところで、どうして二週間に一回なんですか?毎週でもよさそうなのに」
俺が質問すると、二人はとても嬉しそうな顔をした。きっと、ものすごく聞いてほしかったのだろう。
「実はね、僕ら以外にもこの競技をやっている人たちがいるんです。競い合い、高め合う。ライバルみたいなものです。本当は仲いいんですけどね、慣れ合いにならない為にもバラバラに練習しているんですよ。それに、チームで競い合うって、なんか素敵だし」
大阪には協会があるのだから、もちろん競技者もそれなりにいるのだろうと思ったが、驚いた。ひょっとして実は周りにも隠れフィーエルヤッペンが結構いるのだろうか。しかし、俺が更に驚いたのは、そのライバルというのは俺の知っている人物だということだ。
山下幸一。四十二歳、厄年。持病の腰痛をいつも愚痴っている隣町の高校の世界史教師だ。老け顔のくせに若作りしようとしてカツラなんか被っちゃいるが、地毛とカツラの色が微妙に違うし、大体カツラの方がハゲの面積より小さいから三日月ハゲになっている。生徒たちが「山下の頭はカツラか否か」で賭けをした時には、全員がカツラに賭けたせいで賭け自体が成立しなかったということも、俺は知っている。
そのせいとは言い切れないが、娘とは折り合いが良くないらしい。いわゆるギャルで、その手の免疫がない山下とはいつも大喧嘩なのだそうだ。時折連れて帰る彼氏は、娘がそのまま男になったようなギャル男で、彼の存在が山下のストレス貯蓄に多大な貢献をしているのだという。
どこまで本当か知らないが、俺の情報ではそうなっている。もちろん、情報の出所は明かせない。警察小説でも、自分の檀家は明かさないのが普通だ。
うちの高校とヤツの高校はともに野球部が強く、県大会の決勝でも俺が見ただけで四度当たっている。去年も決勝で当たり、延長戦の末うちの高校が敗れてしまった。野球部員たちは涙を流したが、それも正々堂々と全力を尽くした結果だと、固い握手で試合を終えた。
しかし、教師陣はそれでは終わらなかった。発端になったのがどちらかは分からない。俺たちは向こうが仕掛けてきたと思っているし、向こうは俺たちが仕掛けてきたと思っている。理由も定かではない。蘆溝橋事件のようなものだ。いずれにせよ、いまだ尾を引く長い抗争事件が勃発したのだった。
事態をそれなりに重く見た教育委員会の年寄りどもは、いつものことなかれ主義ほとばしるナァナァ体勢の元、歩み寄りによる手打ちを提案したが、その頃には双方派手に啖呵を切ってしまっていたので引っ込みがつかない状態だった。俺たちも公務員風を吹かせ、「追い追いね」と結論を後回しにし、それが今日の両校の関係を作り上げているのである。
ちなみに、仲が悪いのは教師たちだけで生徒間交流は盛んなようだ。特に野球部員たちは最高のライバルとして切磋琢磨している。どちらかが甲子園出場などとなれば、もう片方も練習に協力するのが習わしだ。
「それは負けられないね」
事情を聞いた鎌田さんと鵜殿さんは笑ったが、俺にとっては笑い事ではない。かけるプライドは個人のものでは終わらない。俺はこの瞬間、我が高を立って背負う覚悟を固めた。
ところで、フィーエルヤッペンという競技について読者諸君も少し知っていた方がよかろう。
フィーエルヤッペンというのはオランダ国発祥のスポーツだ。かのオランダ国から伝わったものはエレキテルやら顔の真ん中でフルへッヘンドしているものだけではない。それはそうと、かのオランダ国には運河が多い。運河沿いに生まれる鳥の卵を求め、その運河を棒で飛び越えたことからこのスポーツが始まったのだそうだ。
さて、競技の方法は簡単。まず長さ八メートルから十三メートルの棒を用意していただきます。次にその棒を川に隣接する桟橋に立て掛けていただき、競技者様は幅一メートルほどの助走台を真っ直ぐ棒に向かって走ってください。踏み切り台ではジャンプして立て掛けてある棒にしがみ付き、そのままよじ登ってください。そのまま対岸に向かって倒れて行き、着地していただくと競技完成です。その際、横に倒れて水に落ちないようにお気をつけください。ですが、万が一斜めに倒れた始めた場合は素早く手を離して水に落ちてしまってください。向こう岸に頭を打ち付けて天国まで飛んでいくよりは、いくらかマシでしょうから。
理論より感覚だと、最初から鎌田さんや鵜殿さんのアドバイスもほどほどに、とりあえず一度飛んでみることになった。初めてなのだから、失敗は仕方がない。だが、失敗したら水面に叩きつけられて痛いんじゃないだろうか。痛いのは程度の大小に関係なく嫌いだ。不安で頭がいっぱいになった。
俺は大きく息を吸い、水の中に棒を突き刺し、桟橋に立てかけた。俺の体を支えるのがこの一本の棒だけかと思うと、少し心もとない感じがした。
深呼吸をして走り出した。フィーエルヤッペン経験など微塵もないド素人だ。棒に捕まったはいいが離すことができず、おまけに大きく横に傾いたので、俺は大きな水音をたててずぶ濡れになることになった。
「ね、意外と難しいでしょう」
体をブルブルと震わす俺に向かって鎌田さんが言った。
「離せないもんですね、手」
そうでしょう、そうでしょうと、鵜殿さんも頷いている。俺はなんだか急に可笑しくなって笑い出した。見知らぬ人に勧められるまま水に飛び込んだ己が可笑しかったのか、ずぶ濡れのまま得体の知れぬ充実感を滾らす己が可笑しかったのか定かではない。二人も、そんな俺を見て楽しそうに笑っている。
俺はこうしてこの競技、フィーエルヤッペンを始めることになった。
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