フロイント

ねこうさぎしゃ

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バルトロークの城

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 途端にバルトロークの艶冶えんやな顔は野卑な笑いに歪んだ。指を鳴らして虚空から黄金で出来た契約書と、やはり黄金に輝く羽ペンを出現させると、アデライデの手に握らせた。
「そこにサインをするのだ」
 アデライデは震える手で、契約書を部屋の中央の重厚なテーブルの上に置いた。鼓動は極限まで速まり、冷え切った体の内部では一抹の不安と逡巡とが熾火のようにくすぶっていた。だがアデライデは目をつぶり、一息に契約書にペンを走らせた。
 アデライデがサインするのを見届けたバルトロークは、嵐のような笑い声をあげた。毒々しい極彩色をまとった妖気が大気を揺るがし、アデライデは今更ながら自分の選択がもたらす恐ろしさに身を震わせた。ただフロイントの幸せだけを考えてバルトロークの申し出に頷いてしまったが、この先もう二度とフロイントに逢うことが叶わないかもしれないと思うと、アデライデの心は粉々に砕け散ってしまいそうだった。
 バルトロークは契約書を宙に消すと指を鳴らし、欲望を凝縮したような金に光る杯と葡萄酒を出現させた。頭上の豪奢なシャンデリアで揺れる蝋燭の火を受け、杯になみなみと注がれていく葡萄酒は、アデライデの心が流す赤い涙のようだった。
 バルトロークは青ざめて立ち尽くすアデライデを振り返り、ぎらぎらと光る瞳で言った。
「さぁ、アデライデ! 契約は成立した。祝杯を挙げようではないか!」
 アデライデは差し出された杯を震える手で押しのけると、悲しみや絶望や次々と沸き起こって来る感情を必死に押さえ、バルトロークに訴えた。
「その前に、フロイントに……あの方に、名前を授けてください……!」
 バルトロークは杯をテーブルに置き、アデライデをまじまじと見た。その冷たく暗い瞳に、アデライデの全身には怖気が走った。
 突然バルトロークは顔を伏せた。緑の長い髪に隠されて表情は見えなかったが、沈黙したままのバルトロークにアデライデは懸命に言い募った。
「わたしに約束したはずです、あの方の名づけ親になると……! 今わたしは契約書にサインしました。今度はあなたが約束を果たす番です……!」
 バルトロークは依然として顔を伏せ、沈黙したままだったが、その肩が小刻みに動いていた。訝しんで見たアデライデの前で、バルトロークはいきなり天を仰ぐと城中に響き渡らんばかりの声をあげて笑った。
「おお、我が妃アデライデ! そなたの魂はなんと高潔に光り輝くことか……! 我が身の行く末を顧みず、あのような愚かな下等の輩のためにわたしと契約を交わしたばかりか、この大公爵バルトロークに約束を果たせと迫ろうとは! やはりあのような下賤の者にそなたは分相応というもの。そなたはわたしの妃になるがふさわしい。美しきアデライデ、その無欲で汚れなき魂は、わたしの血肉を最高に沸き立たせてくれるぞ──!」
 アデライデの背中を冷たい汗が流れ落ちた。恐ろしい予感に全身が激しく震えていた。
 バルトロークは洪笑を静めると、世にも美しく嫣然と微笑んだ。
「可愛いアデライデ。そなたにひとつ忠告しよう。魔物との契約は慎重にするものだよ。今更言っても遅いがな」
「……どういうことです……?」
 アデライデは喉を詰まらせ、半ば喘ぐように訊いた。だが、バルトロークの唇が動いて予期した通りの言葉を耳にすることが恐ろしかった。
 バルトロークは髪をかき上げ、悠然と微笑んだまま答えた。
「わたしはね、アデライデ。言っておくが、もちろんあれに名をつけてやるにやぶさかではないのだよ。だがねぇ、アデライデ……。死んだ魔物、、、、、に名を与えてやっても意味はないのだよ」
「──え──……?」
 アデライデの目の前から、すべての光と色と音は、潮が引くように消えていった。
「……今、なんと──……?」
 バルトロークは大げさな身振りで肩をすくめた。
「だから、あれは死んだと言ったのだよ、、、、、、、、、、、、、、アデライデ」
 アデライデはゆっくりと首を振った。
「……いいえ、そんなはずは……そんなことはありえないわ。だってそうでしょう? あなたはずっとあの方が無事だと言っていました。わたしが名前をつけたばかりにあの方が罰を受けるところだったのを、あなたが放った雷が清算したと……。またその怪我のためにあの方が苦しんでいるということもないと……」
 バルトロークは低い声で笑った。
「アデライデ、そなたの無垢なる素直さには感動を禁じ得ぬな。わたしは確かにそう言ったが、しかしあれが『生きている』などとは一言も言わなかったぞ」
「……!」
 アデライデは息を呑んだ。
「わたしの術をまともに受けて死を免れる者などおらぬ。そう、あれは死んだ。ゆえにあれが苦しむことも、追われることもないと言ったのだ。如何に職務に忠実な魔界の処刑者といえども、死した魔物を追うことはかなわぬからな」
 バルトロークはそう言った後、込み上げてくる笑いを抑えきれぬと言った風に、再び大声を上げて笑った。
 アデライデは茫然自失し、立ち尽くしていた。まるで自分の心がどこか遠くに行ってしまったかのように、何も感じられなかった。目の前で笑い声をあげているバルトロークを見ても、現実から遊離して漂う遠景の中の彫像のようにしか見えなかった。
 ひとしきり笑い終えると、バルトロークはゆっくりとアデライデのそばに近寄った。身を屈め、ぼんやりと虚空を見つめているアデライデの白い耳に黒い唇を寄せて囁いた。
「アデライデ、そなたはわたしのもの……。今もはっきりと舌に残っているぞ、そなたの血の味がな。あの赤いザクロの実のような、そなたの甘美な血の味が──」
 バルトロークの爪が首筋をなぞり、アデライデは正気付いた。すぐ目の前に冷酷な笑みを浮かべて自分を覗き込んでいるバルトロークを認めた途端、激しい吐き気が込み上げ、口元を押さえてしゃがみこんだ。
 バルトロークはにやりと唇を歪め、足元にうずくまったアデライデを見おろして言った。
「今宵は我々の婚礼の宴。方々から名だたる魔族の紳士諸君が集まってくる。わたしは召使いどもが準備を整えるのを監督せねばならぬからひとまずは行くが、侍女にそなたの用意を手伝うよう命じておこう。ふふ、アデライデよ、宴を楽しみに待っているがよいぞ」
 アデライデの閉じた瞼からは涙があふれ、覆った口からは嗚咽が漏れた。
 バルトロークが勝利の笑い声を響かせて姿を消してしまうと、ひとり残されたアデライデは緑の絨毯が敷き詰められた床に突っ伏して大声で泣いた。
「フロイントが死んでしまったなんて嘘だわ……! あぁ、フロイント……フロイント……!」
 アデライデはフロイントの名を何度も呼んだ。だが、冷たく豪奢なバルトロークの城の一室に閉じ込められたアデライデの悲痛な叫びは厚い壁に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。ただ、高い天井に設けられた小さな天窓の向こうから、白っぽく輝く満月だけが、泣き叫ぶアデライデを見ているのだった。


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