フロイント

ねこうさぎしゃ

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フロイント

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  声は厳とした響きで答えた。
『わたしははっきりと言い続けています。今すぐアデライデの元に行きなさい、と──』
 フロイントの内部に言い様のない怒りが込み上げ、押し殺した声で呻くように言った。
「……おまえは生死を司る精霊だと言ったな。だがそう言っておきながら、俺を死の淵に誘うわけでもなく、ただ鞭打ち、辱めるためだけにやって来たというのか?」
『いいえ、そうではありません。しかしわたしはあなたが立ち上がるまであなたを叱咤するでしょう』
 フロイントは心を責め立てられる強い痛みに瞼を閉じた。
「いたずらに絶望を煽り立てて俺を惨めにすることが目的なのか? ならばおまえの目論見は成功だ。もう満足だろう、消えてくれ……。俺を静かに死なせてくれ……」
 しかし閉じた瞼の向こうで月の光が一段強まり、容赦なくフロイントの瞼をこじ開けた。
『今この瞬間に絶望に値する何かがあるとするなら、それはあなたが自ら命を棄てようとしていることです。立ち上がりなさい、フロイント』
「やめろ……俺はバルトロークによって殺されたのだ……。仮に今ここで、生死を司ると言ったおまえが、俺に命を戻すようなことがあったとしても、それでどうなると言うのだ? アデライデを救うため、奴の城に行けと言うのか? 結果は同じだ……奴に再び殺されるだけだ……」
 半ば自暴自棄な口調で吐き捨てたフロイントに、声は手厳しく返した。
『あなたは、これまで本気で誰かと、何かと戦ったことがありますか? 自分は弱く劣っていると決め込み、あらゆる戦いから逃げていただけではないのですか? あなたは、戦う前に自ら負けを選んでいただけです。そのようなものは愚か者の言い訳に過ぎません』
 フロイントは強い力で心を殴られた気がして息を呑んだ。
『弱さを理由に運命から逃れることはできないのです。フロイント、アデライデはあなたの運命。そしてアデライデにとっても、あなたは運命なのです』
 フロイントは思わず大きく目を見開いた。ただアデライデを苦しめるだけの自分だったと思っていたフロイントにとって、その言葉は衝撃だった。
「……俺が、アデライデの、運命……?」
 苦しい吐息が漏れたが、それは絶望の痛みによるものではなかった。俄かに鼓動を打ち始めたフロイントに声は続けた。
『フロイント、あなたは何故アデライデをこの館に連れてきたのです? 自己の勝手な気まぐれだったのですか? そうではないはず。あなたはアデライデに運命を感じ取ったのです。フロイント、あなたは今ここですべてを諦め、手放しても構わないのですか? あなたの愛は、そのように簡単に棄て去れる程度のものだったのですか?』
「愛……?」
 フロイントは再び強い衝撃を受け、その言葉を繰り返した。
「愛……」
 愛という響きは舌の上に不思議に甘く新鮮な味わいを広げ、まばゆい輝きと高貴な香りに満ちてフロイントの心に迫ってくるようだった。静かな声が、床に倒れ伏しているフロイントの上に落ちてきた。
『あなたはアデライデを愛しているのではありませんか?』
 フロイントは胸の奥底から込み上げる想いに熱い息を吐いた。
「──そうか、そうだったのか。俺のこの想いが、人が愛と呼ぶものなのだな……」
 死に際のそれとは違う息苦しさが、フロイントに繰り返し切ないため息を吐かせる。
「……精霊よ、俺はアデライデを愛している──。この世のどんなものよりも強く深く、俺はアデライデを愛している」
 そう口にするフロイントの目には自然と涙があふれた。だがその涙は悲しみのためでも苦しみのためでもなく、喜びと感動のためだった。
『では、アデライデを奪い去ったバルトロークが、あなたと同じようにアデライデを愛するでしょうか?』
 声の問いかけに、フロイントの濡れた赤い瞳に炎が灯った。
「バルトロークがアデライデを俺のように愛することなどない。俺以上にアデライデを愛する者など、この世にいるものか」
 フロイントの声には力が戻っていた。
『ならば、立ち上がるのです。アデライデをあの魔物の手から取り返すのです』
 偉大な希望と歓喜の叫びが、消えかけていたフロイントの命の炎を勢いよく燃え上がらせた。
『暗き世界で永き孤独に囚われし魔物フロイントよ、アデライデを──あなたの魂を救いに行くのです──!』
「おおおお────っ!」
 力強く脈動し始めた命の激しさそのままのフロイントの咆哮に、館全体が大きく鳴動し、全身から立ち昇る妖気に呼応するかの如く、窓の外の冴えた夜気もが震えていた。己の中の未知なる力を解き放つように叫ぶフロイントを、押し寄せる光の洪水が包み込んだ。
 あたたかく鼓舞するような光の中、フロイントはゆっくりと、しかし力強く床に手を突いた。片膝を立て、立ち上がろうとするフロイントを放すまいとするかのように、全身に暗黒の重みがのし掛かる。全身に絡みつき、再び地の底に引き摺り下ろそうとする力をはねのけようと、フロイントは更に声を上げて叫んだ。アデライデの美しい微笑が浮かび、フロイントの内部に宿った魔力の火が燃え盛る。だが次の瞬間、アデライデをその冷たく残虐な腕に抱え、侮蔑と嘲りの嗤いを向けるバルトロークの姿が過った。黒く鋭い爪の先を向け、今まさにいかづちを撃たんとするバルトロークの残忍な嗤い顔に、フロイントの叫びは頂点に達した。渾身の力で立ち上がった瞬間、フロイントを暗黒の虚無に縛りつけていた鎖は最早その役目を放棄し、粉々に砕け散った。
 輝く光の中に立ったフロイントの見開かれた赤い瞳からは霞が消え、しんしんと注がれる光がただれた皮膚を癒やして元通りに戻していった。光は同時に体内にまで浸透し、傷ついた内臓にまで染み渡った。フロイントの全身は、まるで神妙な精気に触れたかのように、強く大きな力がみなぎり始めていた。鳥に変化していたバルトロークの治癒の術などは低俗で愚劣な戯れにしか過ぎなかったのだ。これこそが本物の癒し──聖なる力であるのだという確信に、フロイントの心には抑えきれないほどの感動と喜びが激しくたぎるようだった。全身にはかつてない力強さ──魔力の躍動が溢れ、雲よりも高く舞い上がれそうなほどの軽さを感じ、精神は見事に研ぎ澄まされて体の隅々にまで鋭気を行き渡らせていた。
「……精霊よ、おまえの言ったとおり、俺はまだ死ぬ時期ときではないようだ」
 フロイントは魔力を試すように何度か拳を握った。拳を握るたびに、発動を待ちかねた力が躍った。
「これはおまえの力なのか?」
 フロイントは光の渦の中、顔を上げた。しかし目を開いたままではいられないほどの眩さに、思わず顔の前に手を翳した。掲げた掌の向こうに、慈愛の込もった厳かな声の答えが響いた。
『フロイント、それはあなたが成したこと──あなたの愛が引き出したあなた本来の力です。あなたは今、愛によって生まれ変わり、真実の自分に目覚めたのです』
 言葉で語ることなど到底できそうもない喜悦が駆け巡り、フロイントは全身を震わせた。
『真より出でし愛の前にはどのような闇も消え去ります。さぁフロイント、行くのです。アデライデを取り戻すのです』
 フロイントは決然と頷くと、目のくらむような光の中、黒い翼を大きく広げた。ひとつ羽ばたかせると、固く閉じられていた正餐室の窓は翼の生んだ風に叩かれ、音を立てて勢いよく開いた。フロイントは大きく床を蹴って窓から飛び出すと、月光の満ち満ちる夜空へと駆け昇っていった。




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