フロイント

ねこうさぎしゃ

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六つめの願い

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「俺は最初の願いを叶えるとき、おまえが家に帰りたいと願うことを禁じた。卑劣なやり方だったと思う……すまなかった……」
 目を伏せるフロイントを、アデライデは瞬きもせずに見つめた。フロイントが先を続けるのが怖かった。これ以上は聞きたくない──アデライデは不安と怖れにおののきながら、それでも耳をふさぐこともできず立ち尽くし、ただフロイントを見上げ続けた。
 フロイントは再びアデライデをまっすぐに瞳の中に映すと、静かな声で言った。
「アデライデよ、それはもう忘れてくれ。おまえが家に──ラングリンドに帰ることを望むなら、そう願ってもよい」
 アデライデは青ざめた。震えを帯びた小さな声をどうにか絞り出して言った。
「……フロイント、それはそうしろと言う意味ですか……? あなたはもうわたしと一緒にいるつもりがないということですか……?」
 フロイントは俄かに顔を曇らせて首を振った。
「アデライデ、断じてそんなつもりで言ったのではない。ただ、俺はおまえのほんとうの願いを尊重し、叶えてやりたいと思っているだけなのだ」
 アデライデの瞳には見る間に涙が浮かび上がった。フロイントをじっと見上げ、首を振りながら悲しみに打ちひしがれた声で言った。
「……フロイント、あなたはあなたの命に懸けてわたしを生涯愛すると誓ってくれました。もしその誓いが破られるときは、あなたの命でもって贖うと……。それなのに、あなたはわたしを追い払おうとなさるのですか……?」
「何を言うのだアデライデ。俺がおまえを追い払うなどと──」
「でも、それではどうしてそのようなことをおっしゃるのですか?」
「俺はおまえがほんとうに幸せでいられるようにしてやりたいのだ。だからおまえが心から願うことを叶えてやりたい。おまえの幸せこそが俺の願いでもあるのだ。だから……」
 アデライデはとうとう顔を覆って泣き出した。
「どうして今更そんなことをおっしゃるのですか? わたしはあなたに申し上げたはずです……あなたといると幸せなのだと……。わたしが心から願うことはたった一つです」
 アデライデは涙に濡れた顔を上げ、フロイントをまっすぐに見つめて言った。 
「あなたと共にいたいということ、ただそれだけです」
 アデライデの言葉にフロイントの黒い翼が震えた。大きく見張った赤い瞳が揺れ動く。
 アデライデは言葉を続けた。
「わたしがラングリンドに帰りたいと願うなどと、あなたはほんとうに思っていらっしゃるのですか?」
 押し黙って見つめるフロイントに一歩踏み込んで近づくと、アデライデはその厚い胸に両手を置いた。つま先で立ってフロイントの顔に近づき、懸命に訴えるように言った。
「それに、今更ラングリンドに帰ったところでわたしの居場所はありません。けれどそれを理由にここにいたいと言うのではありません。わたしは心から、真実あなたと共にいたいと思っているのです。フロイント、あなただってほんとうにわたしにそんなことを願ってほしいなんて思ってはいないのではありませんか? あなたがそうおっしゃるのは、そう言わねばならない理由があるからなのではありませんか? どうかそんな悲しいことをおっしゃる代わりに、わたしにすべてを打ち明けてください。この数日、あなたが何かに悩み、苦しんでいらっしゃることはわかっていました。非力な人間のわたしではあなたの苦悩を取り除くことはできないかもしれません……。でも、あなたがいつもわたしに寄り添ってくださるように、わたしもあなたに──あなたの心に寄り添っていたいのです」
 フロイントは呼吸も止めて、懸命に訴えるアデライデを見つめた。
 アデライデは新たな涙が浮かんで言葉を詰まらせそうになるのを堪えながら、尚もフロイントに言い縋った。
「この数日間、わたしの胸は不安と悲しみに張り裂けそうでした。あなたが何かに苦しんでいらっしゃることがわかっていながら、何もできないでいる自分に惨めさも感じました。フロイント、どうかお願いです。それがあなたのやさしさだとしても、わたしをあなたの心から締め出さないでください。あなたの悩みを解決するお役には立てないとしても、あなたの苦しみを分かち合うことはできるはずです」
 フロイントは堪えきれず、ついに右手で両目を押さえて泣き出した。
「アデライデ……すまない……。おまえにそのようなことを言わせるとは──」
 アデライデは自身も頬に涙をこぼしながら、両手でフロイントの左手を握った。
「──話していただけますか?」
 フロイントは瞼を覆っていた右手を下ろすと、
「……わかった、話そう──」
 赤い色の濃くなった目をアデライデに向けて頷いた。



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