フロイント

ねこうさぎしゃ

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六つめの願い

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「俺はおまえに俺の死ぬ姿を見せたくないのだ。かと言って俺におまえの亡骸を抱かせるようなことだけはさせてくれるな。アデライデよ、魂なき魔物の死して行くべき世界がどんなものであるか知っているか? ──虚無だ。何もない暗黒が広がる世界に永劫縛り付けられるのだ。そんな世界に赴く俺の最期に目にする光景が俺の腕の中の死せるおまえのむくろであるなど、俺には到底耐えられない。そんな責め苦を俺に負わせたいなどと望まないでくれ。アデライデよ、頼む──。どうか俺の意を酌み、ラングリンドに戻ってくれ──」
「……それならば──」
 アデライデのフロイントの手首を握りしめる手がわずかに緩んだ。その手はかすかに震えていた。
「わたしの願いを叶えてください」
「おまえの願い……?」
「今夜は新月──。わたしの六つ目の──最後の願いを叶えてくださる夜のはず」
「それはそうだが……」
 動揺を隠しきれないフロイントに、アデライデは強い意思を滲ませた声で言った。
「わたしの最後の願い、聞いてくださいますか?」
 アデライデの様子はフロイントの動揺を更に大きく顫動せんどうさせるようだった。最期の時を迎える前にアデライデの願いを叶えてやりたい気持ちは真実としてフロイントの中にあったが、何を言い出すか予想のできないアデライデの強い瞳がフロイントを不安にさせた。
「フロイント?」
「……お前は何を願いたいのだ……?」
 アデライデは瞳に宿った光を強め、きっぱりとした口調で言った。
「魔物に──。フロイント、わたしをあなたと同じ魔物に変えてください」
 フロイントは息を呑み、瞠目した。
 アデライデは迷いのないまっすぐな視線を、見開かれたフロイントの赤い瞳にぴったりと当て、
「刑の執行者の刃が魔物にしか及ばないと言うのなら、わたしも魔物になってそれを受けるまでです」
「──アデライデ、いったいおまえは何を言い出す……」
 アデライデは静かな凛とした眼差しで言葉を続けた。
「フロイント、あなたこそわたしの思いを理解してくださるべきではありませんか? わたしはあなたによってこの館に連れて来られ、共に過ごすうちにあなたを深く愛しました。それなのに今更一人で生きて行くように言われても、それはわたしにとっては寒空の下、食べる物も着るものもなく放り出されるばかりか、命をも奪われるのと同じことです。あなたなしに、この先幸福を感じることなどあり得ません。もし少しでもわたしをこの館に連れてきたことに対して責任を感じてくださるのなら、わたしを一緒に連れて行ってくださるべきではありませんか?」
 フロイントは一言も発することができないまま、ただ黙って立ち尽くしていた。だがその体の内側では燃え盛る炎のような驚喜が、フロイントのすべてを根底から覆さんばかりに激しく揺れ動いていた。
 アデライデは無言のまま自分に見入るフロイントの赤い瞳にゆっくりと灯り始めた光を見ると、気持ちが通じたことを覚って無垢な微笑みを見せた。
「こんなにも誰かを愛せるなんて、ラングリンドにいた頃のわたしは知りませんでした。あなたに愛され、そしてあなたを愛しているということが、わたしに信じられないくらいの勇気を与えてくれるのです。わたしのあなたへの愛は魂で感じる愛──。あなたはもはやわたしの魂も同然なのです。あなたを失うことは、わたしの魂を失うことにも等しいのです」
 アデライデの中には美しく芳しい光の花園が築き上げられていくようだった。今まで眠っていた力強い光の花々が、一斉に芽吹いて咲き誇るのを感じた。その花園に佇んで、アデライデは愛が自分をこんなにも強くしてくれるということに、感動にも似た感慨が自分を微笑ませる喜びに瞳を輝かせていた。
 フロイントもまた妙なる光の花園に佇んでいるような心持ちに、歓喜の念を禁じ得ずにいた。魔物に変えてほしい──そう言ったアデライデの魂は一層輝き、その光を強めていた。よく見知ったはずであるアデライデの可憐な微笑みは、いつにも増して神聖な光を湛えてフロイントに迫るようだった。
 アデライデを愛し、共に過ごす日々のなかで、フロイントは人の魂の実体、その正体というものを垣間見るような気でいたが、アデライデの瞳を通して今はっきりとその本質を目の当たりにした思いだった。

 ──魂とは愛そのもののことなのだな──。

 名状しがたい感慨にフロイントは震える息を吐き出した。
 暗闇に生きる魔物が人間の魂を欲するのは、蝋燭の炎に群がる蛾の性質にも似た本能ゆえの衝動だとばかり思って来たが、無意識のうちに愛を渇望し、光を渇仰するが如く求めるせいかもしれない。そう思えば、魔物というものは、例えようなき哀れな生き物であると思えて仕方がなかった。
 フロイントの手からは力が抜け、アデライデの小さな両手にその重みのすべてがかかり、自然とふたりの手はアデライデの喉元から下へと落ちていった。
 フロイントはアデライデの深い湖のような瞳を見つめた。水底に自分の姿が映し出されていた。異形の魔物の姿の自分が、アデライデの清らかな湖に抱かれている幻影に、フロイントの心は奥底から癒されていくようだった。
「……人間のおまえには自らの魂の輝きを見ることはできないかもしれない。しかしアデライデよ、おまえの魂は余人にはない美しさをたたえ、尊い光にあふれている。魔物になるということは、この世に二つとないおまえのその魂を捨てるということだぞ……? その上おまえは、俺と共にその命をも終わらせたいと、そう望むのだな……? 人が死してから得られる安らぎ──魂なき者にはそれが与えられず、ただ際限なき暗黒に、永劫に閉じ込められるのだぞ──?」
 アデライデは毅然とした静けさを漂わせて答えた。
「かまいません。あなたの存在なくして生きながらえる苦しみに比べれば、たとえあなたと共に冷たく暗い地の底に縛りつけられることになったとしても、それこそがわたしの安らぎとなるでしょう」
 フロイントは目を伏せた。頬を静かに涙が伝う。流れる涙はそのままフロイントの内側に清い泉を滾々こんこんと湧きだし、深い湖を生むようだった。フロイントを満たして広がるその湖は、体の奥底でアデライデの抱える聖なる湖と混ざり合い、ひとつの海となるようだった。アデライデへの抑えきれない想いが、生まれたばかりの海の底で大きな潮の流れを作ってフロイントをのみ込んでいく──。
「──アデライデ……おまえこそが、魂なき魔物の俺の魂だ──」
 熱い吐息の混じった声で囁いたフロイントの頬に、アデライデのやわらかくあたたかな手が触れた。アデライデの指先のぬくもりに、フロイントは伏せた目を上げ、アデライデを見つめた。
「フロイント……あなたはご自分の命も厭わないほど、わたしを深く愛して守り抜いてくださいました。そのようなことが魂のない者にできるでしょうか? フロイント、前にも申し上げましたが、あなたは魔物などではありません。わたしにはわかるのです……」
「アデライデ……」
「フロイント……、わたしの最後の願いを叶えて頂けますか?」
 アデライデの問いかけに、フロイントはしばらく黙ったままアデライデをじっと見つめ返していたが、やがて潤んだ赤い目を閉じた。
「……おまえの想いも覚悟も、俺のこの身に染み入るようによくわかった。俺には分不相応な幸せだとは心得た上で、それでも俺の心は歓喜にむせび泣いている……。アデライデよ、俺とても本音を言えばおまえと離れるのは辛く、またおまえを一人残すことも心残りではある……」
「それでは──」
 アデライデの青く澄んだ瞳が喜びの輝きを放った。期待のこもった指先が強くフロイントの手を握る。
 だがフロイントは閉じた瞼を開け、寂しい微笑を頬に乗せて静かに首を振った。
「……アデライデよ、その願いを叶えることはできない。人間は魔道に堕ちることはあっても、魔物に変わることはないのだ」
 アデライデは言葉を失ってフロイントを見つめた。



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