フロイント

ねこうさぎしゃ

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ラングリンド

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「……俺は、あなた方親子に、ほんとうにすまないことをしたと……」
 嗚咽しながらもなんとかそれだけを絞り出したフロイントの背中を、ミロンの手がやさしくさすった。
「フロイント、娘が申し上げた通り、もう苦しまなくてもいいのです。それにわしはさっき娘があなたを気遣ってあのように事実を少しばかり変えて話したことは、どうも実際ほんとうにその通りであったのだろうと思うのですよ。起こった出来事をその通りに見るだけなら、確かにあなたは突然アデライデをさらって行ったのかもしれませんが、しかしあなたがそうしたことで、あの子は世にもまれなる祝福に満ちた愛を得ることができたのです。
 それはあの子の魂がずっと望んでいたことに他ならず、となればあの子自身があなたを呼び寄せて、一緒になる道を選んだのだと言うことができるでしょう。だからあなたはアデライデに対して、ましてやわしに対して、何ら罪を背負うところなどないのではありませんか? 
 ──フロイント、わしはあなたがずっと罪悪感に苦しんで来られたこと、それこそがあなたの魂が無垢なる証だと思います。あなたはもう十分に苦しんで来られた。わしはあなたを責めようなどという気は一切ありません。寧ろ先ほど申し上げた通り、感謝しかないのです。だからもう自分自身を罰することはおやめになさるがよいでしょう。
 それに、わしはほんとうに嬉しくて仕方がないのですよ。人間は婚姻によって互いと結ばれるものですが、ただ当人たちのみに絆ができるだけではないのです。結婚とは相手の親や兄弟とも家族になることを世間に宣言するものでもあるのです。
 わしはあなたのような方と家族になれることがひたすらに嬉しく、この胸には喜びしかありません。もしあなたさえ構わなければ、わしはあなたをほんとうの息子と思いたいのです……」
 フロイントはその言葉を聞いた途端、はっとして顔を上げた。唐突にフロイントはミロンを前に感じた悲しみにも似た感情や、自分の罪をミロンに知られることを恐れた気持ちがどこから生じたのかに気がついた。
 フロイントは、アデライデの父であるミロンを目にした瞬間から──アデライデとミロンという父と娘の姿を目にし、その愛情というものを肌で感じ取った瞬間から、「家族」というつながりに切ない憧れを抱いたのだった。
 自分がけっして持つことのなかった特別な絆で結ばれた家族というものへの憧憬が苦しく胸を締めつけ、無意識のうちにこの絆に自分の身も結びつけたいと願っていた。
 もしも自分がアデライデをさらった張本人であると知られれば、永久にこの温もりに満ちたつながりを失うだろうという恐れが、フロイントの心を臆病にさせていたのだ。
 しかしミロンは大切な一人娘であるアデライデをさらったのが魔物であったフロイントだと知っても、その罪を責めないばかりか自分を罰することをやめるように諭し、ほんとうの息子と思いたいとさえ言って聞かせた。
 フロイントはミロンという一人の人間の上に、愛情深く、偉大さをさえ感じさせる「父性」というものを見、身に染みて感じる思いだった。
 感謝と喜び、そして女王に対するのとはまた違った畏敬の念に打たれて、フロイントは思わず顔を覆って泣いた。
 泣き続けるフロイントの背中をあたたかい掌でさすっていたミロンはフロイントの涙が落ち着いてきたのを見ると、森の早い秋の気配を宿す枯れ葉の上に、突然両膝を着いて跪いた。驚くフロイントの手を取って仰ぎ、ミロンは声を詰まらせながら言った。
「どうかアデライデを、わしの命の娘を頼みます……。そしてまた、このラングリンドのことも……国王陛下──」
 フロイントは強い衝撃を受け、一瞬は声も出せずに身を固くしていたが、すぐに我に返ると急いでミロンの体に手を添えて立たせた。しかし思いがけず国王陛下と呼び掛けられた驚きは、俄に体じゅうの血を逆流させ、フロイントの心臓を早鐘のように打たせていた。
 息を詰めて赤い目を見開き、ただじっとミロンを見つめていると、目の前で慎み深く佇むミロンの上には、アデライデの父であるという以上の心象──ラングリンドに暮らすすべての民の面影がほのめいて見えるようだった。
 フロイントは思わずミロンの手を取った。尊い労働の日々をうかがわせるミロンの手のあたたかさに触れながら、息子と思いたいと聞かされ、そしてまた国王陛下と呼びかけられたフロイントは、自分の波打つ心が水を打ったように静まっていくのを、神聖な面持ちで見ていた。
 慈父たるミロンの姿に、ラングリンドの──この世界に生きるすべての人々の存在を見出したこの瞬間、フロイントの心に広がる静かな湖の表には、俄かに結実した一つの強い想いが雫となって落ち、侵しがたいまでに気高い波紋を粛然と広げていった。
 フロイントは自分の体の中心に、光の国の王となる自覚と責任が確固たる意志となって芽生えたことを、まざまざと感じていた。
 まるで自分自身がその一つの意志の結晶であるかのような不可思議な崇高さに打たれて押し黙ったまま、ただ光を満たした瞳でミロンを──世界を見つめて立っていた。


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