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第二章

その4

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 あるとき、王子はルーメンが飼っているヤギの中に、乳の出の悪い一頭がいることに気がつき、良い草を食べさせてやろうと、村のはずれにある牧草地へと連れて行くことにしました。そこは何度かルーメンと一緒にヤギたちを連れて行ったことがあり、広々とした豊かな緑の草が風を受けて波立つ美しいところだったので、ミシオン王子はその場所をとても気に入っていました。
 この日ルーメンは他の仕事に取り掛かっていたので、王子ははじめてたったひとりでヤギを連れて出ることにしました。ところが、いつもは大人しく人の言うことを聞くヤギたちが、王子の指示になかなか従おうとしませんでした。やっとのことで牧草地にまで連れてきましたが、ヤギたちはまるで王子のことなど眼中にないと言った様子で、勝手気ままに広い牧草地をばらばらに走り回ったので、王子はヤギを追いかけてへとへとになってしまいました。
 ヤギたちが王子をからかうようにひらりひらりと身をかわしては悠々と涼しい顔をしているのを、荒い息を吐きながら見ているうちに、王子はヤギたちが自分のことを軽んじ、侮っているように思えて来て、だんだんと腹立たしい気分でいっぱいになり、苛立っていきました。
  そこへ昼食のパンをくるんだ布を持って、ヴォロンテーヌがやって来ました。王子はヴォロンテーヌが草原を吹く風にその豊かな長い髪を揺らし、あたたかい黄金色の太陽の光に包まれながら歩いてくる美しい姿を目にすると、まるで女神を前にしたかのように感動し、心には喜びの気持ちが爆発しそうになりましたが、一方でヤギたちに振り回されて四苦八苦している自分の姿を見られる恥ずかしさも湧き上がってきました。その間にもヤギたちは王子の目を盗み、てんでに逃げ出そうとするので、王子は必死にヤギたちを追わねばなりませんでした。
 王子は恥ずかしさと怒りのために顔を紅潮させ、自分のふがいなく情けない間抜けな姿が、ヴォロンテーヌの美しい瞳に映し出されることを恥じましたが、しかしヴォロンテーヌはいつもと変わらない控えめでありながらも穏やかで優しい微笑をたたえながら、王子に近づいてきました。
「やぁ、ヴォロンテーヌ」
 とうとうヴォロンテーヌが王子のそばに立ったので、王子は恥ずかしさのために半ば引きつった笑顔を浮かべながらあいさつをしました。
「王子さま」
 ヴォロンテーヌは片足を引いて軽く膝を折って、非常に品の良い礼儀にかなった会釈をしました。これほど美しいあいさつをする人は宮廷の貴婦人の中にもいませんでした。
 それから不意に、ヴォロンテーヌはミシオン王子をまっすぐに見つめました。ヴォロンテーヌにこんな風にまともに見られたことははじめてだったので、王子はその美しい蜂蜜色の瞳に全身を強く打たれたようになり、心臓はにわかに鼓動を早め、呼吸は浅くなって、息苦しくさえなりました。ミシオン王子はこのときはっきりと、より強く、自分の心が痛いほどに声を上げて叫んでいることがわかりました。
 ──ああ、わたしはヴォロンテーヌをこんなにも愛している!
 その深く熱烈な想いのために、王子はほとんど死にかけていたと言っても過言ではありませんでした。
 しかしそのとき、いきなり腰のあたりにドンと衝撃が走るのを感じ、驚いて振り向いて見ると、ヤギが一頭、王子に頭突きをしているのでした。王子は恥ずかしさと怒りでいっぱいになり、そのヤギを乱暴に捕まえようとしました。それはほとんど殴りつけるような勢いでしたが、ヤギは素早く身をかわすと、いきなり王子の手に噛みつきました。噛みつかれた痛みと驚きと愛する人の前で恥をかかされた屈辱とで、王子はヴォロンテーヌの前であるにもかかわらず、
「動物というのは、なんと愚かなものなのか」
 と、思わず悪態をついてしまいました。

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