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第二章

その5

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 吐き捨てるように言った王子に、ヴォロンテーヌは静かに近寄って来ると、ヤギが噛んだ王子の手をそっと取ったので、王子の心臓はひときわ高く脈打ち、手には汗が滲むようでした。
 ヴォロンテーヌは王子の手に怪我がないことを確認すると、安心したように微笑み、それから王子の顔をしっかりと仰ぎ見ると、優しい微笑と物腰はそのままでしたが、はっきりとした口調でミシオン王子に言いました。
「王子さま、どんな生き物であっても、天によって慈しまれ、憐れまれております。天がそのようになさるのに、どうしてわたくし達がそうしないということがあるでしょうか。わたくし達は生あるすべてのものに対して、慈悲と感謝を示すべきだとはお思いになりませんか。わたくし達の生活はすべて命ある何ものかの忍耐によって成り立っているのですから」
 ミシオン王子はヴォロンテーヌの柔らかく、しかし凛と響く声によって全身がしびれたようになり、涙さえこぼれそうになりました。ヴォロンテーヌはまるで幼子を諭すときのように、そのあたたかくしなやかな両手の指先で、ミシオン王子の手をそっと包み込むように握りました。

「王子さま、どうぞこのヤギたちにも慈悲をお与えください。わたくし達の生活を助けてくれる友としてこの子たちを見れば、彼らが決して愚かな生き物ではないと言うことがおわかりになるはずです。わたくし達が慈悲深く尊敬を持って接するならば、ヤギたちも愛でもってわたくし達に報いてくれるでしょう」
 ミシオン王子はそっとヴォロンテーヌの手を握り返すと、潤んだ瞳もそのままに、素直な胸の内を言葉にしました。
「ありがとう、ヴォロンテーヌ。あのように滋味に溢れた乳をくれるヤギたちを、わたしは無意識のうちに下等なものと位置づけ、それを改めようとはしなかった。もし今日、こうしてヤギたちが鏡となってわたしの愚かな思い込みを映し出し、そしてあなたが私の誤りに気付かせてくれなかったら、わたしはずっと本当の意味で物事を深く理解することはないままだったろう」
 王子の熱のこもった視線と言葉に、ヴォロンテーヌは急に我に返ったようになって急いで王子の手を放し、一歩下がって頭を垂れました。
「出過ぎたことを申しましたこと、どうかお許しください」
「いや、そんな風に言わないでください。どうかこれからも、わたしの心と目と耳を、あなたの言葉でひらかせてほしい」
「王子さま、農夫の娘でしかないわたくしが、そのようなお言葉を賜れましたことに感謝いたします。けれどわたくしの言葉などは父の内より出る言葉に比べれば、未熟なものでしかありません」
「ヴォロンテーヌ、そうおっしゃるのは、つまりあなたが深く尊い考えを持つに至ったのは、やはりルーメンのそばにいて、朝な夕なにさまざまなことを教えられたからだと思うのですか」
「そうです、王子さま。父はいつもわたくしを慈しんで、ほんとうに大切に育ててくれましたが、わたくしが父について特に感謝することは、わたくしが適切な判断をできるように、よく物事について教えてくれたことです。それでわたくしは今こうして、迷うことなく自分の心に従うことを選択していられるのだと思っています」
 ミシオン王子はそのとき急に、自分の胸の奥に、なにか郷愁の気持ちのようなものが芽生えて切なく身を焦がすのを感じました。それは不思議な気持ちでしたが、決して不快なものではなく、寧ろミシオン王子に深い安心感のようなものを抱かせるのでした。



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