浮世剣戟心中

兎沙

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拾:道行

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累の「連れて行ってほしい場所がある」という願い出から、二人は累がかつて生まれ育ったという、人里離れた農村跡を訪れた。
今はもう、崩れた藁葺き屋根と、荒れ果てた田畑に根雪が残るばかりの死んだ村。

「……もう、誰もいない。俺を知る人間も、俺が帰る場所も」

累は、村外れの古い墓標の前に立ち、白い息を吐きながらどこか遠い目をして直実を見た。
「あんたがいれば、それでいい。あんただけが、俺の、たった一人の……」

直実は、そのか細い肩を抱き寄せた。

「……累。俺がお前のすべてになる。二度と離しはしない」

累は直実の胸の中で肩を震わせたが、それは啜り泣きではなかった。
儚げに伏せた顔には「成った」という歓喜が満ち溢れていた。

(ああ、やっと名前で呼んでくれたね。……愛してるよ、俺の『死神』)

自分がかつてここで『師』を斬った時の、刀に伝わる確かな手応えを思い出す。

ここで、殺した。
あの日と同じ、冬の匂いがする。

この場所こそが『心中』の場所に相応しいと、そう確信した。


農村跡から戻った夜、町にも雪が降ってきた。
縁側でそれを眺める累を、直実が「体を冷やすな」と抱き寄せた。

「……春になったら、庭に畑を作ろうか。累の好きな野菜を植えよう」
「……ああ、いいね。何がいいか考えておくよ」

寒さを和らげるために、同じ布団で身を寄せた。
直実は、凍えるように震える累の細い肩を、壊れ物を扱うように後ろから抱き寄せる。

厚い手のひらで脇腹を包むと、指先に伝わってきたのは、あるはずのない場所での不自然な隆起――累を抱くたびに、直実の心臓を冷たく撫でる、歪曲した肋骨の感触だった。

直実の指が、その歪みをなぞる。

「ああ、気になる? 十になる前かな。……その時の『お父さん』、最初は優しかったのに、俺の痛がる顔が大好きでさ。動けなくなるまで蹴られて、そのまま放置されたら、勝手にこうなっちゃった」

累は事もなげに、どこか他人事のように笑ってみせた。
だが、その声は凍てつく空気に混じり、肺の奥で喘鳴が鳴るような、かすかな熱を孕んだ湿り気を帯びている。

直実は、言いようのない戦慄と、臓腑を焼かれるような怒りに震えた。

(累……お前はこの小さな身体で、どれほどの地獄を這いずってきたのだ)

直実の目には、その無関心な言動さえも、この歪んだ骨を守るために必死に纏った『諦観』にしか見えなかった。

この歪んだ骨が肺を圧迫し、彼から呼吸を奪い、命さえを削っているのだろう。
その理不尽な残酷さに、直実の正義感は悲鳴を上げた。

「……済まなかった。今まで、お前を一人にしていて、本当に済まなかった」

直実は累をさらに強く抱きしめた。
その歪んだ骨を、己の真っ当な肉体で押し包み、無理やりにでも矯正してやりたいとすら、傲慢な救済の念を燃やした。

「……そんな顔するなよ。あんたはもう、俺を離さないでいてくれるんだろ。あんたさえ居てくれるなら、過去なんて……どうだって、いいんだ」

直実の胸に顔を埋めた累は、暗闇の中で静かに口角を吊り上げた。

そう。もう過去など、どうだっていいのだ。
直実が慈しむように触れているその「歪んだ骨」こそが、累に人間としての生ではなく、化生として斬られる死を定めた運命の証。
その運命こそが、愛おしい『死神』を己のもとに遣わせたのだ。

体など、生きるためにいくらでも切り売りしてきた。
だが、ただ一度きりの死だけは、直実以外には渡さない。


しかし累は、直実に抱かれながら、一瞬だけ「この温もりの中で穏やかに死ぬ自分」も夢想していた。

もう、生き延びる希望などは無い。
それは己が、一番よく分かっている。

だが、直実に病を明かし、医者に診せれば、あと幾許かは生きられるかもしれない。
春を迎えて、直実と畑を作って、蒔いた種が実を結んで。
それを見届けて、暖かな日差しの中で、直実の体温を感じながら終わりを迎える。

ああ、それは。
思っていたよりは、悪くないのかもしれない。


――だが、足りない。
泥を啜り、人を欺き、この浮世を強欲な化生として生きてきたのだ。
その己が地獄に落ちる手土産が、安らかな看取り程度の温もりで足りるはずがない。

直実の愛も、憎しみも。その高潔な魂さえも、すべて。
根こそぎ奪い、道連れにして逝かなければ、足りはしない。

己がいなくなった後も、直実は生きて長い人生を送るだろう。
いくら愛を誓ったところで、たった半年を共に過ごしただけの居候を看取った記憶など、いずれ年月に薄められ、心の奥底に埋もれてしまう。

それは累にとって、何よりも耐え難いことだった。


翌日、体調の優れない累を心配した直実は道場を休むと言い出したが、累はそれを制して自分が道場へ同行することで納得させた。

指導を終えた直実は、累の脇差の手入れをすると申し出た。
累は微笑み、「あんたになら任せる」と大事そうに差し出した。

直実の脳裏からは、累を伴って訪れたあの死んだ村の景色が焼き付いて、離れないでいた。
根雪に埋もれた墓標の前で、累がこぼした「帰る場所がない」という独白。

(……この子には、もう俺しかいないのだ)

道場の静寂の中で、直実は累から預かった脇差を、神体でも扱うかのような手つきで膝に置いた。

累は先日、あの蓮の簪――数多の男を葬ってきたであろう牙を、直実の手に委ねた。
そして今、この脇差がある。

累が「亡き父の形見」だと言って、その細い腕で大切に抱えていた、唯一の絆。
それを「任せる」と預けられた重みは、直実にとって、単なる鉄の重さではなかった。

(簪という『毒』を捨て、父の形見という『心』までをも、俺に預けてくれた。……あの子は、本当の意味で、俺と生きる決意をしてくれたのだな)

直実が買い与えた紺鼠色の着物に身を包み、庭の鶏と戯れる累の姿を思い出す。
あの泥溝の中で牙を剥いていた化生の面影は、今や直実の注ぐ「正しき愛」によって、清らかな青年の微笑みへと塗り替えられた……直実はそう信じて疑わなかった。

「……累。お前の過去も、その業も、すべて俺が引き受けよう」

独りごちた直実の声には、使命感を超えた、ある種の陶酔が混じっていた。

丁子油の香りが、道場に満ちる。
直実は丁寧に、慈しむように、累の『心』であるはずの刀を拭い始めた。

丁寧に錆を落とし、丁子油を塗るその時。
月光に照らされた刀身に、亡き師が愛した独特の逆足の刃文が浮かび上がる。

そして、見つけてしまう。
柄の内側に隠された、師が刻んだ銘を。

直実の震える手から、目釘抜きが床へ落ち、乾いた音を立てた。

鼻を突く丁子油の香りが、突如として死臭のように冷たく変質する。
目の前にあるのは紛れもなく、亡き師の魂そのものであるはずの脇差。
それを先ほどまで、自分はあろうことか「愛おしい累の心」だと思い込み、熱心に磨き上げていた。

その事実が、直実の指先から血の気を引き、心臓をどろりとした泥で埋め尽くしていく。

「……累。お前、は……」

掠れた声で名を呼ぶ。
その名はもはや、慈愛の響きを持たず、呪いのように部屋に充満した。

「なあに、『直実』」

背後から伸びてきた細い腕が、直実の首に優しく、しかし絞首刑の縄のように絡みついた。
累は直実の肩に顎を乗せ、鏡の中の自分たちを眺めるように、うっとりと目を細める。

あんなにも欲していた累から名で呼ばれることが、今の直実にとってはまるで悪夢のようだった。

「ふふ、いい顔だね。……俺がずっと見たかったのは、その、絶望に濁ったあんたの瞳だよ」

累は直実の耳朶を軽く噛み、熱い吐息と共に囁いた。

「ねえ、直実。俺の最後の隠し事を教えてあげる」

凍ったように動けない直実の手から脇差を取り、柄を組んでそれを構えてみせる。

その構えは、直実と同じもの。
否。
直実の師の癖までも、正確に写したものであった。

「俺に剣を教えてくれたのは、あんたの師。そして、『これ』で命を奪ったのが、この阿古屋累だよ」
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