32 / 51
笑顔の裏にあるものは
しおりを挟む
明日の昼休み、美術準備室に来て。
ただし、取り巻きを全て撒いてから
来る事。
壁に取り付けられた棚には、ごちゃごちゃと置かれた美術の道具。その下に、デッサンのモチーフに使っていたであろう胸像と、適当に立て掛けられた何枚ものキャンバス。そのどれもが埃をかぶり、この場所が久しく使用されていない事を示していた。
授業で使う物は全て美術室に置かれているため、担当教師がここに立ち入る事がないのだ。
部屋の真ん中には、いつからあったのだろうかというローテーブルと長めのソファー、隅には事務机と事務椅子が置かれていた。それらは埃をかぶっておらず、碧乃が利用するであろう事を予測した先輩が綺麗にしてくれたのだと推測できる。
本当、あの人には頭が上がらない。
窓の側に事務椅子を持ってきて座る碧乃は、頬杖をついて外を見ながら、ぼんやり思考を巡らせていた。
「…………」
怒りを露わにする事は、自分の内を晒すに等しい。
…私の中にあるものは、決して誰にも見せてはいけない。
これは、人として抱いてはいけないものだから。
人を悲しませるものだから。
だから怒りを抑えようと、消そうと思った。
あれ以上深く関わられたら、話さずにはいられなくなる。
自分のせいで悲しい思いはしてほしくない。どんなに相手が酷くても。
だって、それは不本意な悲しみだから。
聞いたらきっと、彼は後悔の念に苛まれてしまう。聞くんじゃなかった、と。
けれど、普通である事を破壊された衝撃があまりに大きく、抑えが効かなくなってきてしまった。
このままでは……あれが外へ出てきてしまう。
「っ……」
頭の奥に痛みが走る。
その痛みを打ち消すように、飴を1つ口に入れる。
これは、小さい頃からの癖のようなもの。心に負荷がかかると、何とかしようとして頭を使い過ぎ、無性に糖分が欲しくなるのだ。そして甘い物を摂取する事で、心を元の状態に戻していた。
「……」
甘い味に、頭の痛みをやり過ごす。
彼を、許さなければ。怒りの根源を絶たなければ。
そう思い、今日この場に呼び出した。
周囲の目がないこの場所ならば、きっとそれが叶うはず。
敢えてあんな文章にしたのは、必死になってやってくるであろう彼を見たら、可笑しさに笑いが込み上げると思ったから。
人を許すのは、笑ってしまうのが一番手っ取り早い。
……ごめんなさい、先輩。
私は、怒りをぶつけるなんてできません。してはいけない事だから。そうする方が辛いから。
つい、と扉に目を向ける。
さぁ早く来て。
私にその滑稽な姿を見せて。
ちゃんと笑ってあげるから。
怒りを鎮めてみせるから。
あなたの沈んだ心も、浮上させてあげる。
ただ1つ、触れる事だけは許せないけど。
さぁ、早く。この甘い味がなくなる前に。
§
ドタドタと全速力で階段を駆け上がり、目的の扉を真っ直ぐ目指すと、その中に乱雑に滑り込んだ。
バタンと扉を閉め、辿り着けた事に安堵する。
「やっ…やっと…着いた……」
「な…なんでっ……俺まで、こんな目にっ…」
隣で同じく肩で息をする圭佑が、途切れ途切れの不満を漏らす。
「し、しょうが…ないだろ……こうでもしないと…撒けなかったんだから」
「俺は…走りは専門外だっ…はぁ」
「…ふふっ」
「あ…」
「え?…」
笑う声が聞こえ、窓の方に顔を向けると、頬杖をついて座る斉川がクスクス笑ってこちらを見ていた。
「…やっぱり、あなたは期待を裏切らないね。ふふふ」
「え……」
わらっ…てる……。なんで……?『期待』って……何?
「な、なんで…」
「あーあ。そんな可笑しな姿見たら、怒る気全然なくなっちゃった。どうしてくれるの?」
「え!だ、だって、斉川が撒けっていうから!」
「それでそんなに頑張ったんだ。馬鹿なくらい素直だよね、本当」
「ば、馬鹿…」
呆れた言葉がグサッと刺さる。
斉川それ痛い…。
「まぁいいや。2人共とりあえずそこ座って。あ、一応扉の鍵閉めといてね」
真ん中のソファーを示しながら、斉川は自分の椅子をその向かい側に引っ張ってきた。
圭佑と顔を見合わせ、大人しくその指示に従った。
「あ、あのー…」
隣に座る圭佑がおずおずと手を挙げると、自分を指差した。
「なんで俺まで呼び出されてる訳?」
「だって…今回の首謀者はあなたでしょ?山内君」
「へ……」
平然と言い放たれたその言葉に、圭佑の表情がピシリと固まる。
「昨日、そもそもなんであんな大事になったのかちょっと考えてみたんだよね。なんで、あんな強引な手段を取ってまで私と那奈ちゃんを引き離そうとしたのか。今までただ睨むだけに留めてたのに」
腕を組んで背もたれに寄りかかる斉川は、真っ直ぐに圭佑を見据えた。
「それは…誰かが何かを吹き込んだから」
目の前に、黒い笑みが現れた。
圭佑の顔からサーッと血の気が引いていく。
「いくら那奈ちゃんがやり過ぎたからって、騒ぎを起こす程必死になるのはおかしいよねぇ?誰かがそうするように仕向けたと考えるのが、自然だと思わない?」
「……」
「そして…それができるのはただ1人」
ニコリと笑いかけられ、圭佑は深々と頭を下げた。
「………すいませんでした」
謝罪を聞き、斉川はふっと黒さを消した。
「全く……何を思ってそうしたんだか」
「いや、あの、それは…」
「いいよ、言わなくて。大体分かるから」
「あ……はい…」
ため息をつくと、斉川はこちらに視線を向けた。
「あなたも…どうしてあんなやり方を取っちゃったかな」
「う……ご、ごめん…」
「これに懲りて、その考えなしな性格を改めてくれると嬉しいんだけどなぁ?」
「っ!!」
彼女の笑みに恐怖を感じ、全力でこくこくと頷いた。
もう絶対馬鹿な行動はしませんっ!!!
青ざめる2人に反省の色を認めると、斉川は表情を和らげた。
「……それで?」
「え…?」
「勉強ははかどってるの?」
「あ…」
べ、勉強…。
ばつの悪さに目が泳ぐ。
「いや…あ、あの……それが…全く…」
「だろうね」
「うっ……」
またしても言葉がグサッと刺さる。
なんか…棘が鋭くなってない?
「じゃあ、分からない所は訊きにくれば?」
「……え?」
突然の提案に目をしばたたく。
「い…いいの…?」
「だって、関係を断絶して落ち込まれる方が面倒くさい」
「め、面倒くさい…」
「どうせ、勉強が全然手に付かなくなって赤点取って、バスケも禁止されて更にどん底まで落ち込むんでしょ。そんなの、私がそうしたみたいでなんか嫌」
「ぐっ……うぅ…」
棘が何度も急所に深く突き刺さる。
だから斉川痛いって…。
思わず胸の辺りをさする。
すると、斉川はじーっとこちらを見つめ、緩慢な動作で首を傾げた。
「え…な、何?」
無垢な仕草にドキッとしつつ、次の棘に身構える。
「うーん……やっぱり、何かご褒美があった方が頑張りやすい?」
「へ?」
ご褒美?
「この間の約束、有効にしといてあげようか?」
「約束?って何の?」
「『目標達成したら』ってやつ」
「え…」
目標達成?……っていうと……………えええええ?!
「マジで?!」
光毅は身を乗り出す勢いで驚いた。隣の圭佑も目を丸くしている。
対する斉川は、耳に手をやり顔をしかめていた。
「相変わらずうるさいなぁ。その反応もうちょっと何とかならない?」
「いや、だって!!え、ほ、本当に?!ご飯作ってくれるの?!」
その言葉に、彼女はクスッと笑いかけた。
「目標達成したらだよ」
光毅の顔がパァッと輝く。
勉強できたら斉川のご飯!!!
「するっ!!絶対する!!」
全力で頷いてみせると、斉川と圭佑が同時に吹き出した。
「え?あ、あれ?」
戸惑いを露わに、肩を震わせる2人を交互に見やる。
「…っ、ふふっ……」
「お前やっぱ犬だ…くくっ…」
「は?!」
犬?!
「ち、違う!!俺は犬じゃない!!」
「あはは、分かった分かった。犬じゃねぇ、馬鹿で単純な人間だ」
「なっ!」
「はー……やっぱりあなたは面白い」
「!!」
妖艶ともとれる笑みをゆるりと向けられ、途端に顔が熱を帯びる。
「ああ、そうだ。ちなみに目標は前より高く設定しておくから」
「え!嘘!なんで?!」
「『なんで』?それ訊く?」
鋭く睨まれ、体がキュッと縮み上がる。
「いっ!?ごめんなさいっ!」
「じゃあ全教科50点以上ね」
「うえぇ?!ご、50点っ?!」
「何?」
「無理じゃん!そんなの!!」
やっと赤点を脱出したばっかなのに!!
「無理なら達成しなくていいよ。こちらとしても好都合だし」
「そ、そんなぁ…」
あまりにも情けない声に、圭佑は再び吹き出した。
その様子にむっとして、とりあえず蹴りを入れとく。
「笑うな!」
「いっった!!お前すねはやめろ!すねは!!」
光毅は頭を抱えた。
うぅーご飯食べたい!でも全教科なんて絶対無理!
食べたい!でも無理!
食べたいっ!!無理!!
だあーーーーー!!!どうしろってんだよ?!!
「やればできるんじゃなかったの?」
「!?」
目の前の彼女は、なんとも楽しげに笑みを浮かべた。その目には意地悪さが宿っていた。
「うぅー……斉川の意地悪…」
「意地悪?どの口がそれを言ってるの?」
「うぐっ…」
「だはははは!!完全に立場逆転だな!」
「うるさい!!」
また蹴りを入れるも、軽々とよけられた。
「おっと!2度も当たるかバーカ」
「なっ?!くっそ!!」
苛立つままに圭佑に掴みかかった。
「お?やるか?」
「騒ぐなら外でやって」
「っ!……はい…」
静かな声音にピタリと動きを止め、しずしずとソファーに座り直した。
むー…、やっぱりどうしても手料理食べたい。
「まぁせいぜい頑張って。約束はちゃんと守るから」
「うぅー……分かった」
こうなったら絶対達成してやる!
斉川は1つため息をつくと、2人に退出を促した。
「じゃあ、話はこれで終わりね。もう教室戻っていいよ」
「え?斉川は戻らないの?」
「うん。もうちょっとここにいる。誰かさんのせいで、教室にいると疲れるから」
「う…ごめん」
「そういやぁ、なんで呼び出し場所がここだったんだ?」
室内を見渡しつつ、圭佑は斉川に問いかけた。
「あ、そういえば…」
光毅はチラッと美術室に繋がる扉に目を向けた。
そこは、斉川が谷崎に自身を襲わせた場所。
圭佑の話を思い出すだけで、心臓が苦しい程に締め付けられる。
「ああ、それは私がここの鍵を持ってるから」
「なんで持ってんだよ?」
「これね…」
斉川は鍵の事を簡単に説明した。
「…それで、部長が使って良いって言うから借りたの」
「へぇー、そんなもんが美術部に存在してたとはねぇ。あ!だからあの時もこの場所使ったのか!」
「!」
「あっ!…」
斉川にキッと睨まれ、圭佑は慌てて口をふさいだ。
「……」
こいつ自分で墓穴掘ってるよ…。
すると、何かに気付いたように斉川は光毅を真っ直ぐに見つめた。
「!……え、何?」
「…なんで……『あの時って何?』って、訊かないの…?」
「っ!!」
しまった!!
目を見開く光毅に全てを悟り、彼女はゆるりと圭佑を射抜いた。
「……言ったな?」
「ひぃっっ!!?」
目を合わせてしまった圭佑は、青を通り越して白くなった。
恐怖のあまり、ガバッと床に土下座を決め込む。
「ごっ!ごめんなさいごめんなさいっ!!そんなつもりは全然なかったんですけど、俺のせいで落ち込む光毅見てたらなんか、いやものすごく可哀想になってきちゃって、んでつい色々話しちゃって、そしたらあのなんと言いますかうっかり?そううっかり!口が滑ってしまいまして、それでそれでこわーい問い詰めにあっちゃったもんだから話さずにはいられなくって…」
「……」
尚も言い訳を続ける圭佑を呆れ顔で見ていた斉川は、それを指差して光毅に話しかけた。
「これ放置でいいかな?」
「あ、ああ…いいと思う。しばらく止まんないから」
「あっそ」
軽く肩をすくめ圭佑から離れるように椅子を光毅の方へ寄せると、何かを探るように顔を覗き込んできた。
「?!!」
さっきよりも近い距離から見つめられ、光毅はビクリと体を強張らせた。全てを見透かす真っ直ぐな瞳に、意識を持っていかれそうになる。
さ…斉川……その目……だめ……!
「……」
「…っ…あの……ど…ど、どしたの…?」
油断すると疼くものが暴走してしまいそうで、ソファーの淵を思い切り掴んで体をがっちり固定した。
「……話を聞いた割には、そこまで落ち込んでないね」
「え…?」
って、あれ?……なんか甘い匂い…。これって……。
こちらの心情を読み終えたのか、斉川は覗き込むのをやめて再び背もたれに寄りかかり、クスッと笑った。
「何をどう話したのかは分からないけど、そこは山内君のおかげなのかな」
「……」
「…一応訊くけど、谷崎に接触して事を蒸し返そうなんて気はないよね?」
「っ!」
今度は鋭く睨まれ、慌てて首を振った。
「ないない!絶対ない!!そんな事してまた斉川が危ない目に遭ったら困るし!」
「そう。ならいいけど」
「……」
え……それで終わり…?
視線をそらす平然とした横顔に、心臓がキュッと締め付けられた。
彼女と自分の間に一瞬壁が見えた気がした。
あの匂いは、彼女の精神が消耗している証拠。そうさせたのは、間違いなく自分。
それなのに。
どうして…そんなにあっさりと話を終わらせられるんだ?
そんなに俺と関わりたくない…?
人と関わりたくない?
「………なぁ」
「ん?」
「なんで…怒らないんだ?」
光毅は苦しさを胸に斉川を見つめた。
「俺が悪いんだよ?余計な事ばかりして、それなのに何にも気付かないで馬鹿みたいにヘラヘラしてて…。こんな奴、嫌って当然だろ?なんで…」
「そんな痛そうな顔する人に、どう怒れと?」
「え…」
痛そうな顔…?
斉川は椅子に横向きに座ると、背もたれに頬杖をついてゆるりと笑いかけた。
「怒ってほしいと言うのなら、ずっとヘラヘラしとけばいいのに」
「!?…で、でも、そんな事できる訳…」
「見たくないなぁ、その顔」
「っ!」
「どうせなら、困って狼狽えてる顔が良いなぁー」
「へ?!こ、困って、って…………え?」
彼女の顔にニコリと無垢な黒さが宿った。
「えぇっ!?」
ま、まさかっ!!?
「…迷惑かけたら、仕返しするって言ったよねぇ?」
「っっ!!!」
やっぱりぃぃーーーーー!!!
今度は光毅の顔が青を通り越した。
「さて、どうしてあげようか?前回の借りもあるし、1回で終わらせるより小さい事をいっぱい仕掛ける方が楽しそうだよなぁー」
「いっ、いいいっぱい?!!」
俺何されちゃうの?!!ってかどんだけするつもりだよ?!!
「さっきの質問に答えるとするならば……怒るより仕返しする方が楽しいから、だよ」
ふふ、と彼女は笑みを深くした。
「っっ!!!?」
2人はまさに蛇と蛙。
妖艶な黒蛇に見つめられた蛙は、目をそらす事も体を動かす事もできなくなった。
「あなたも楽しみにしておいてね。思い付くたびに仕掛けてあげるから」
その目は、あなたに拒否権はない、と言っていた。
「……………………はい…」
蛙は完全に囚われ、その毒牙にかかるのを待つばかりとなった。
承諾を聞くと、黒蛇はふっと姿を消した。
視線をそらされた事で呪縛が解け、全身の力が抜けるままにソファーにもたれかかった。
「はー………」
あー……俺…人生終わったかも……。
「…てか、あれいつまで続くの?」
「……え…?……あ」
放心状態からなんとか脱却し、彼女の視線の先を追うと、圭佑が未だ土下座の状態で言い訳をつらつらと並べていた。今は問い詰めてきた時の光毅がいかに怖かったかを語っている所だった。
「うるさいから、もう止めさせて。山内君には何もしないから」
「あ、ああ…はい」
斉川の指示に大人しく従い、光毅は圭佑を立たせに行った。
§
「お、おい、もう立て。お前はお咎めなしだと」
「んあっ?え!マジで?!!」
腕を掴まれ上体を起こされた状態で、圭佑は斉川を振り仰いだ。
「今回はばらさないでおいてあげるよ。あなたのおかげで、そこまで酷く落ち込んでないみたいだし」
「いいの?!俺生きてる?!命繋いだ?!!やった!!!」
「その代わり」
「っっ!」
ガッツポーズを決めようとした腕が、ビクッと動きを止める。
斉川はニコリと笑いかけた。
「あなたに1つ、いい事を教えてあげる」
「え…い、いい事って……?」
「萌花ちゃん、あなたの事に気付き始めてるよ」
「へ…………んぇえええっ?!!」
驚愕の事実に目を剥くも、斉川は平然と先を続ける。
「最近よく言ってるよ、『私、なんだか山内君に避けられてる気がする』って」
「何だってぇ?!!」
圭佑は大げさな動作で頭を抱えた。
「嘘?!なんで?!だって、ちゃんとおかしくないように話しかけたりしてたじゃん!!」
「挙動不審過ぎるよ。話してる時の表情とか仕草とか、前と全然違うよ?」
「んな事言われたってさぁー!!前どうしてたかなんて覚えてねぇよ!!意識的にやってた訳じゃねぇんだから」
「だからって、あの子の前で作り笑いが通用する訳ないでしょ」
「ぐっ!……」
確かに…。そういや、俺…無理矢理笑ってたな……。
彼女が一番嫌いとする顔を、自分がしていたという事か。
「このままだと、あなたの気持ちに気付くのは時間の問題だねぇ。私がばらすまでもないかも」
「そんな!?まだダメだって三吉ちゃーーーん!!」
俺はまだ君を守り抜けてない!!
見合う男にもなれてない!!
本人に言えるはずもない訴えを、頭を抱えるまま天井にぶつけた。
どうしよう?
どうしたらいい?
どうすれば、まだ気付かれないでいられる?
「…私が協力しようか?」
「え?」
顔を向けると、首を傾げる斉川と目が合った。
「あなたに抱いてる違和感を完全に取り除く事はできないけど、気付くのを先伸ばしにする事はできるよ」
「ほ、本当か?!」
「うん。まぁ、あの目がどこまで見抜いているのか未知数だから、いつまでできるか分かんないけどね。それでも良いなら」
圭佑の顔に光が宿った。
「それでも良い!!その間に全部片を付ける!頼んだ斉川!!」
パンッと顔の前で両手を合わせ、必死の様相で頭を下げた。
「分かった。じゃあ代わりに、私にも協力してくれる?」
「するする!何でもする!!俺は何をすればいい?」
「黙ってて。私が口止めした事、今後するであろう事全て」
「え……黙ってる?ってか、今後?今後なんてあるのか?」
「あるかも知れないから、念のため」
「そ、それって…」
「どうするの?するの?しないの?しないならいいよ、私も協力しないから…」
「わー!!待った待った!!やる!協力させて頂きます!!」
「そう。じゃあよろしく。…あ、そうだ。あと…」
「?」
斉川はすっと光毅を指差した。
「そこの人に仕返しする時は加担してもらうから」
「へ?」
「っ!?」
ビクッと光毅の肩が跳ねる。
隣に立つ彼をよく見ると、なんとも青白い顔をしていた。
「あ、何?お前そんな事になってたの?」
「……」
まるで死刑宣告でも受けたかのような光毅は、やめろと訴える目でこちらを睨んだ。
その様子に、圭佑はニヤリと笑みを浮かべた。
…良かったなぁ、また構ってもらえて。
「喜んで」
「んなっ?!な、なんでだよ?!!」
「だってなんか面白そうじゃん?」
「お前まで楽しもうとすんじゃねぇ!!!」
「うるさい」
「っ!!」
圭佑に掴みかかろうとした光毅の動きは、斉川の一言で見事に止められた。
今度こそ出ていけと言われ、圭佑と光毅は美術準備室の扉を抜けた。
「…ああ、そういえば。もう1ついい事があったんだった」
「!?…な、何だよ…?」
扉を閉める手を止めた斉川の言葉に、圭佑は身構えた。
「最近ね、萌花ちゃん無理に笑うって事しなくなってきたよ」
「え……?」
「そうする必要がなくなったって言うのが正しいのかな。…影で活躍する騎士様のおかげかもね」
斉川はクスッと笑った。
「!!?」
「それじゃ」
「あ!!ちょっと待て!!何が騎士…」
パタンと扉は閉められた。
「くっそ…斉川め」
光毅は圭佑の顔を覗き込むと、ニヤッと笑った。
「圭佑、顔あか」
「だっ!!う、うるせっ!!」
圭佑は光毅から逃げるように慌てて踵を返し、階段の方へ歩き出した。
斉川のバカ!!恥ずかしい事さらりと言ってんじゃねぇよ!!!
§
あー…行っちゃった。ってか、圭佑のあんな顔初めて見た。
つい、と閉められた扉に目を向ける。
…すごいな、斉川。
彼女の言葉は、なんとも容易に人の心に入り込んでくる。それは、心に届く言葉を正確に選んでいるから。そして決して嘘がないから。
さらりとやってのけてしまう程に、彼女の感覚は鋭い。
「……」
一体どこが人間失格なんだろう…?
こんなにすごい能力を持っているのに。
と、先程の黒蛇が一瞬目の前をちらついた。
「!?……」
ゾクリと戦慄が背中を駆け上がる。
……ま、まぁ、あんな風に楽しめるのは普通じゃないと思うけど。
再び黒蛇が現れる前に、光毅は圭佑の後を追いかけた。
§
2人の気配が消えたのを確認し鍵をかけると、碧乃は扉に背を預けた。
人知れずクスリと笑みを浮かべる。
…これでもう大丈夫。私の中に、もう怒りはない。
あるのは、2つのおもちゃを手に入れられた喜び。
彼らが私の心に近付く事は、二度とない。私がさせない。
そんなもの考える暇がない程、存分に振り回してあげる。私から離れたくなるくらいに。
「…………」
顔に笑みを貼り付けたまま、ポケットから飴を取り出し、口に放り込む。
ほら、外にはあなたの嫌いな楽しい事がたくさんあるよ。
だから、私の中から出てきちゃだめだよ…………悪魔。
ただし、取り巻きを全て撒いてから
来る事。
壁に取り付けられた棚には、ごちゃごちゃと置かれた美術の道具。その下に、デッサンのモチーフに使っていたであろう胸像と、適当に立て掛けられた何枚ものキャンバス。そのどれもが埃をかぶり、この場所が久しく使用されていない事を示していた。
授業で使う物は全て美術室に置かれているため、担当教師がここに立ち入る事がないのだ。
部屋の真ん中には、いつからあったのだろうかというローテーブルと長めのソファー、隅には事務机と事務椅子が置かれていた。それらは埃をかぶっておらず、碧乃が利用するであろう事を予測した先輩が綺麗にしてくれたのだと推測できる。
本当、あの人には頭が上がらない。
窓の側に事務椅子を持ってきて座る碧乃は、頬杖をついて外を見ながら、ぼんやり思考を巡らせていた。
「…………」
怒りを露わにする事は、自分の内を晒すに等しい。
…私の中にあるものは、決して誰にも見せてはいけない。
これは、人として抱いてはいけないものだから。
人を悲しませるものだから。
だから怒りを抑えようと、消そうと思った。
あれ以上深く関わられたら、話さずにはいられなくなる。
自分のせいで悲しい思いはしてほしくない。どんなに相手が酷くても。
だって、それは不本意な悲しみだから。
聞いたらきっと、彼は後悔の念に苛まれてしまう。聞くんじゃなかった、と。
けれど、普通である事を破壊された衝撃があまりに大きく、抑えが効かなくなってきてしまった。
このままでは……あれが外へ出てきてしまう。
「っ……」
頭の奥に痛みが走る。
その痛みを打ち消すように、飴を1つ口に入れる。
これは、小さい頃からの癖のようなもの。心に負荷がかかると、何とかしようとして頭を使い過ぎ、無性に糖分が欲しくなるのだ。そして甘い物を摂取する事で、心を元の状態に戻していた。
「……」
甘い味に、頭の痛みをやり過ごす。
彼を、許さなければ。怒りの根源を絶たなければ。
そう思い、今日この場に呼び出した。
周囲の目がないこの場所ならば、きっとそれが叶うはず。
敢えてあんな文章にしたのは、必死になってやってくるであろう彼を見たら、可笑しさに笑いが込み上げると思ったから。
人を許すのは、笑ってしまうのが一番手っ取り早い。
……ごめんなさい、先輩。
私は、怒りをぶつけるなんてできません。してはいけない事だから。そうする方が辛いから。
つい、と扉に目を向ける。
さぁ早く来て。
私にその滑稽な姿を見せて。
ちゃんと笑ってあげるから。
怒りを鎮めてみせるから。
あなたの沈んだ心も、浮上させてあげる。
ただ1つ、触れる事だけは許せないけど。
さぁ、早く。この甘い味がなくなる前に。
§
ドタドタと全速力で階段を駆け上がり、目的の扉を真っ直ぐ目指すと、その中に乱雑に滑り込んだ。
バタンと扉を閉め、辿り着けた事に安堵する。
「やっ…やっと…着いた……」
「な…なんでっ……俺まで、こんな目にっ…」
隣で同じく肩で息をする圭佑が、途切れ途切れの不満を漏らす。
「し、しょうが…ないだろ……こうでもしないと…撒けなかったんだから」
「俺は…走りは専門外だっ…はぁ」
「…ふふっ」
「あ…」
「え?…」
笑う声が聞こえ、窓の方に顔を向けると、頬杖をついて座る斉川がクスクス笑ってこちらを見ていた。
「…やっぱり、あなたは期待を裏切らないね。ふふふ」
「え……」
わらっ…てる……。なんで……?『期待』って……何?
「な、なんで…」
「あーあ。そんな可笑しな姿見たら、怒る気全然なくなっちゃった。どうしてくれるの?」
「え!だ、だって、斉川が撒けっていうから!」
「それでそんなに頑張ったんだ。馬鹿なくらい素直だよね、本当」
「ば、馬鹿…」
呆れた言葉がグサッと刺さる。
斉川それ痛い…。
「まぁいいや。2人共とりあえずそこ座って。あ、一応扉の鍵閉めといてね」
真ん中のソファーを示しながら、斉川は自分の椅子をその向かい側に引っ張ってきた。
圭佑と顔を見合わせ、大人しくその指示に従った。
「あ、あのー…」
隣に座る圭佑がおずおずと手を挙げると、自分を指差した。
「なんで俺まで呼び出されてる訳?」
「だって…今回の首謀者はあなたでしょ?山内君」
「へ……」
平然と言い放たれたその言葉に、圭佑の表情がピシリと固まる。
「昨日、そもそもなんであんな大事になったのかちょっと考えてみたんだよね。なんで、あんな強引な手段を取ってまで私と那奈ちゃんを引き離そうとしたのか。今までただ睨むだけに留めてたのに」
腕を組んで背もたれに寄りかかる斉川は、真っ直ぐに圭佑を見据えた。
「それは…誰かが何かを吹き込んだから」
目の前に、黒い笑みが現れた。
圭佑の顔からサーッと血の気が引いていく。
「いくら那奈ちゃんがやり過ぎたからって、騒ぎを起こす程必死になるのはおかしいよねぇ?誰かがそうするように仕向けたと考えるのが、自然だと思わない?」
「……」
「そして…それができるのはただ1人」
ニコリと笑いかけられ、圭佑は深々と頭を下げた。
「………すいませんでした」
謝罪を聞き、斉川はふっと黒さを消した。
「全く……何を思ってそうしたんだか」
「いや、あの、それは…」
「いいよ、言わなくて。大体分かるから」
「あ……はい…」
ため息をつくと、斉川はこちらに視線を向けた。
「あなたも…どうしてあんなやり方を取っちゃったかな」
「う……ご、ごめん…」
「これに懲りて、その考えなしな性格を改めてくれると嬉しいんだけどなぁ?」
「っ!!」
彼女の笑みに恐怖を感じ、全力でこくこくと頷いた。
もう絶対馬鹿な行動はしませんっ!!!
青ざめる2人に反省の色を認めると、斉川は表情を和らげた。
「……それで?」
「え…?」
「勉強ははかどってるの?」
「あ…」
べ、勉強…。
ばつの悪さに目が泳ぐ。
「いや…あ、あの……それが…全く…」
「だろうね」
「うっ……」
またしても言葉がグサッと刺さる。
なんか…棘が鋭くなってない?
「じゃあ、分からない所は訊きにくれば?」
「……え?」
突然の提案に目をしばたたく。
「い…いいの…?」
「だって、関係を断絶して落ち込まれる方が面倒くさい」
「め、面倒くさい…」
「どうせ、勉強が全然手に付かなくなって赤点取って、バスケも禁止されて更にどん底まで落ち込むんでしょ。そんなの、私がそうしたみたいでなんか嫌」
「ぐっ……うぅ…」
棘が何度も急所に深く突き刺さる。
だから斉川痛いって…。
思わず胸の辺りをさする。
すると、斉川はじーっとこちらを見つめ、緩慢な動作で首を傾げた。
「え…な、何?」
無垢な仕草にドキッとしつつ、次の棘に身構える。
「うーん……やっぱり、何かご褒美があった方が頑張りやすい?」
「へ?」
ご褒美?
「この間の約束、有効にしといてあげようか?」
「約束?って何の?」
「『目標達成したら』ってやつ」
「え…」
目標達成?……っていうと……………えええええ?!
「マジで?!」
光毅は身を乗り出す勢いで驚いた。隣の圭佑も目を丸くしている。
対する斉川は、耳に手をやり顔をしかめていた。
「相変わらずうるさいなぁ。その反応もうちょっと何とかならない?」
「いや、だって!!え、ほ、本当に?!ご飯作ってくれるの?!」
その言葉に、彼女はクスッと笑いかけた。
「目標達成したらだよ」
光毅の顔がパァッと輝く。
勉強できたら斉川のご飯!!!
「するっ!!絶対する!!」
全力で頷いてみせると、斉川と圭佑が同時に吹き出した。
「え?あ、あれ?」
戸惑いを露わに、肩を震わせる2人を交互に見やる。
「…っ、ふふっ……」
「お前やっぱ犬だ…くくっ…」
「は?!」
犬?!
「ち、違う!!俺は犬じゃない!!」
「あはは、分かった分かった。犬じゃねぇ、馬鹿で単純な人間だ」
「なっ!」
「はー……やっぱりあなたは面白い」
「!!」
妖艶ともとれる笑みをゆるりと向けられ、途端に顔が熱を帯びる。
「ああ、そうだ。ちなみに目標は前より高く設定しておくから」
「え!嘘!なんで?!」
「『なんで』?それ訊く?」
鋭く睨まれ、体がキュッと縮み上がる。
「いっ!?ごめんなさいっ!」
「じゃあ全教科50点以上ね」
「うえぇ?!ご、50点っ?!」
「何?」
「無理じゃん!そんなの!!」
やっと赤点を脱出したばっかなのに!!
「無理なら達成しなくていいよ。こちらとしても好都合だし」
「そ、そんなぁ…」
あまりにも情けない声に、圭佑は再び吹き出した。
その様子にむっとして、とりあえず蹴りを入れとく。
「笑うな!」
「いっった!!お前すねはやめろ!すねは!!」
光毅は頭を抱えた。
うぅーご飯食べたい!でも全教科なんて絶対無理!
食べたい!でも無理!
食べたいっ!!無理!!
だあーーーーー!!!どうしろってんだよ?!!
「やればできるんじゃなかったの?」
「!?」
目の前の彼女は、なんとも楽しげに笑みを浮かべた。その目には意地悪さが宿っていた。
「うぅー……斉川の意地悪…」
「意地悪?どの口がそれを言ってるの?」
「うぐっ…」
「だはははは!!完全に立場逆転だな!」
「うるさい!!」
また蹴りを入れるも、軽々とよけられた。
「おっと!2度も当たるかバーカ」
「なっ?!くっそ!!」
苛立つままに圭佑に掴みかかった。
「お?やるか?」
「騒ぐなら外でやって」
「っ!……はい…」
静かな声音にピタリと動きを止め、しずしずとソファーに座り直した。
むー…、やっぱりどうしても手料理食べたい。
「まぁせいぜい頑張って。約束はちゃんと守るから」
「うぅー……分かった」
こうなったら絶対達成してやる!
斉川は1つため息をつくと、2人に退出を促した。
「じゃあ、話はこれで終わりね。もう教室戻っていいよ」
「え?斉川は戻らないの?」
「うん。もうちょっとここにいる。誰かさんのせいで、教室にいると疲れるから」
「う…ごめん」
「そういやぁ、なんで呼び出し場所がここだったんだ?」
室内を見渡しつつ、圭佑は斉川に問いかけた。
「あ、そういえば…」
光毅はチラッと美術室に繋がる扉に目を向けた。
そこは、斉川が谷崎に自身を襲わせた場所。
圭佑の話を思い出すだけで、心臓が苦しい程に締め付けられる。
「ああ、それは私がここの鍵を持ってるから」
「なんで持ってんだよ?」
「これね…」
斉川は鍵の事を簡単に説明した。
「…それで、部長が使って良いって言うから借りたの」
「へぇー、そんなもんが美術部に存在してたとはねぇ。あ!だからあの時もこの場所使ったのか!」
「!」
「あっ!…」
斉川にキッと睨まれ、圭佑は慌てて口をふさいだ。
「……」
こいつ自分で墓穴掘ってるよ…。
すると、何かに気付いたように斉川は光毅を真っ直ぐに見つめた。
「!……え、何?」
「…なんで……『あの時って何?』って、訊かないの…?」
「っ!!」
しまった!!
目を見開く光毅に全てを悟り、彼女はゆるりと圭佑を射抜いた。
「……言ったな?」
「ひぃっっ!!?」
目を合わせてしまった圭佑は、青を通り越して白くなった。
恐怖のあまり、ガバッと床に土下座を決め込む。
「ごっ!ごめんなさいごめんなさいっ!!そんなつもりは全然なかったんですけど、俺のせいで落ち込む光毅見てたらなんか、いやものすごく可哀想になってきちゃって、んでつい色々話しちゃって、そしたらあのなんと言いますかうっかり?そううっかり!口が滑ってしまいまして、それでそれでこわーい問い詰めにあっちゃったもんだから話さずにはいられなくって…」
「……」
尚も言い訳を続ける圭佑を呆れ顔で見ていた斉川は、それを指差して光毅に話しかけた。
「これ放置でいいかな?」
「あ、ああ…いいと思う。しばらく止まんないから」
「あっそ」
軽く肩をすくめ圭佑から離れるように椅子を光毅の方へ寄せると、何かを探るように顔を覗き込んできた。
「?!!」
さっきよりも近い距離から見つめられ、光毅はビクリと体を強張らせた。全てを見透かす真っ直ぐな瞳に、意識を持っていかれそうになる。
さ…斉川……その目……だめ……!
「……」
「…っ…あの……ど…ど、どしたの…?」
油断すると疼くものが暴走してしまいそうで、ソファーの淵を思い切り掴んで体をがっちり固定した。
「……話を聞いた割には、そこまで落ち込んでないね」
「え…?」
って、あれ?……なんか甘い匂い…。これって……。
こちらの心情を読み終えたのか、斉川は覗き込むのをやめて再び背もたれに寄りかかり、クスッと笑った。
「何をどう話したのかは分からないけど、そこは山内君のおかげなのかな」
「……」
「…一応訊くけど、谷崎に接触して事を蒸し返そうなんて気はないよね?」
「っ!」
今度は鋭く睨まれ、慌てて首を振った。
「ないない!絶対ない!!そんな事してまた斉川が危ない目に遭ったら困るし!」
「そう。ならいいけど」
「……」
え……それで終わり…?
視線をそらす平然とした横顔に、心臓がキュッと締め付けられた。
彼女と自分の間に一瞬壁が見えた気がした。
あの匂いは、彼女の精神が消耗している証拠。そうさせたのは、間違いなく自分。
それなのに。
どうして…そんなにあっさりと話を終わらせられるんだ?
そんなに俺と関わりたくない…?
人と関わりたくない?
「………なぁ」
「ん?」
「なんで…怒らないんだ?」
光毅は苦しさを胸に斉川を見つめた。
「俺が悪いんだよ?余計な事ばかりして、それなのに何にも気付かないで馬鹿みたいにヘラヘラしてて…。こんな奴、嫌って当然だろ?なんで…」
「そんな痛そうな顔する人に、どう怒れと?」
「え…」
痛そうな顔…?
斉川は椅子に横向きに座ると、背もたれに頬杖をついてゆるりと笑いかけた。
「怒ってほしいと言うのなら、ずっとヘラヘラしとけばいいのに」
「!?…で、でも、そんな事できる訳…」
「見たくないなぁ、その顔」
「っ!」
「どうせなら、困って狼狽えてる顔が良いなぁー」
「へ?!こ、困って、って…………え?」
彼女の顔にニコリと無垢な黒さが宿った。
「えぇっ!?」
ま、まさかっ!!?
「…迷惑かけたら、仕返しするって言ったよねぇ?」
「っっ!!!」
やっぱりぃぃーーーーー!!!
今度は光毅の顔が青を通り越した。
「さて、どうしてあげようか?前回の借りもあるし、1回で終わらせるより小さい事をいっぱい仕掛ける方が楽しそうだよなぁー」
「いっ、いいいっぱい?!!」
俺何されちゃうの?!!ってかどんだけするつもりだよ?!!
「さっきの質問に答えるとするならば……怒るより仕返しする方が楽しいから、だよ」
ふふ、と彼女は笑みを深くした。
「っっ!!!?」
2人はまさに蛇と蛙。
妖艶な黒蛇に見つめられた蛙は、目をそらす事も体を動かす事もできなくなった。
「あなたも楽しみにしておいてね。思い付くたびに仕掛けてあげるから」
その目は、あなたに拒否権はない、と言っていた。
「……………………はい…」
蛙は完全に囚われ、その毒牙にかかるのを待つばかりとなった。
承諾を聞くと、黒蛇はふっと姿を消した。
視線をそらされた事で呪縛が解け、全身の力が抜けるままにソファーにもたれかかった。
「はー………」
あー……俺…人生終わったかも……。
「…てか、あれいつまで続くの?」
「……え…?……あ」
放心状態からなんとか脱却し、彼女の視線の先を追うと、圭佑が未だ土下座の状態で言い訳をつらつらと並べていた。今は問い詰めてきた時の光毅がいかに怖かったかを語っている所だった。
「うるさいから、もう止めさせて。山内君には何もしないから」
「あ、ああ…はい」
斉川の指示に大人しく従い、光毅は圭佑を立たせに行った。
§
「お、おい、もう立て。お前はお咎めなしだと」
「んあっ?え!マジで?!!」
腕を掴まれ上体を起こされた状態で、圭佑は斉川を振り仰いだ。
「今回はばらさないでおいてあげるよ。あなたのおかげで、そこまで酷く落ち込んでないみたいだし」
「いいの?!俺生きてる?!命繋いだ?!!やった!!!」
「その代わり」
「っっ!」
ガッツポーズを決めようとした腕が、ビクッと動きを止める。
斉川はニコリと笑いかけた。
「あなたに1つ、いい事を教えてあげる」
「え…い、いい事って……?」
「萌花ちゃん、あなたの事に気付き始めてるよ」
「へ…………んぇえええっ?!!」
驚愕の事実に目を剥くも、斉川は平然と先を続ける。
「最近よく言ってるよ、『私、なんだか山内君に避けられてる気がする』って」
「何だってぇ?!!」
圭佑は大げさな動作で頭を抱えた。
「嘘?!なんで?!だって、ちゃんとおかしくないように話しかけたりしてたじゃん!!」
「挙動不審過ぎるよ。話してる時の表情とか仕草とか、前と全然違うよ?」
「んな事言われたってさぁー!!前どうしてたかなんて覚えてねぇよ!!意識的にやってた訳じゃねぇんだから」
「だからって、あの子の前で作り笑いが通用する訳ないでしょ」
「ぐっ!……」
確かに…。そういや、俺…無理矢理笑ってたな……。
彼女が一番嫌いとする顔を、自分がしていたという事か。
「このままだと、あなたの気持ちに気付くのは時間の問題だねぇ。私がばらすまでもないかも」
「そんな!?まだダメだって三吉ちゃーーーん!!」
俺はまだ君を守り抜けてない!!
見合う男にもなれてない!!
本人に言えるはずもない訴えを、頭を抱えるまま天井にぶつけた。
どうしよう?
どうしたらいい?
どうすれば、まだ気付かれないでいられる?
「…私が協力しようか?」
「え?」
顔を向けると、首を傾げる斉川と目が合った。
「あなたに抱いてる違和感を完全に取り除く事はできないけど、気付くのを先伸ばしにする事はできるよ」
「ほ、本当か?!」
「うん。まぁ、あの目がどこまで見抜いているのか未知数だから、いつまでできるか分かんないけどね。それでも良いなら」
圭佑の顔に光が宿った。
「それでも良い!!その間に全部片を付ける!頼んだ斉川!!」
パンッと顔の前で両手を合わせ、必死の様相で頭を下げた。
「分かった。じゃあ代わりに、私にも協力してくれる?」
「するする!何でもする!!俺は何をすればいい?」
「黙ってて。私が口止めした事、今後するであろう事全て」
「え……黙ってる?ってか、今後?今後なんてあるのか?」
「あるかも知れないから、念のため」
「そ、それって…」
「どうするの?するの?しないの?しないならいいよ、私も協力しないから…」
「わー!!待った待った!!やる!協力させて頂きます!!」
「そう。じゃあよろしく。…あ、そうだ。あと…」
「?」
斉川はすっと光毅を指差した。
「そこの人に仕返しする時は加担してもらうから」
「へ?」
「っ!?」
ビクッと光毅の肩が跳ねる。
隣に立つ彼をよく見ると、なんとも青白い顔をしていた。
「あ、何?お前そんな事になってたの?」
「……」
まるで死刑宣告でも受けたかのような光毅は、やめろと訴える目でこちらを睨んだ。
その様子に、圭佑はニヤリと笑みを浮かべた。
…良かったなぁ、また構ってもらえて。
「喜んで」
「んなっ?!な、なんでだよ?!!」
「だってなんか面白そうじゃん?」
「お前まで楽しもうとすんじゃねぇ!!!」
「うるさい」
「っ!!」
圭佑に掴みかかろうとした光毅の動きは、斉川の一言で見事に止められた。
今度こそ出ていけと言われ、圭佑と光毅は美術準備室の扉を抜けた。
「…ああ、そういえば。もう1ついい事があったんだった」
「!?…な、何だよ…?」
扉を閉める手を止めた斉川の言葉に、圭佑は身構えた。
「最近ね、萌花ちゃん無理に笑うって事しなくなってきたよ」
「え……?」
「そうする必要がなくなったって言うのが正しいのかな。…影で活躍する騎士様のおかげかもね」
斉川はクスッと笑った。
「!!?」
「それじゃ」
「あ!!ちょっと待て!!何が騎士…」
パタンと扉は閉められた。
「くっそ…斉川め」
光毅は圭佑の顔を覗き込むと、ニヤッと笑った。
「圭佑、顔あか」
「だっ!!う、うるせっ!!」
圭佑は光毅から逃げるように慌てて踵を返し、階段の方へ歩き出した。
斉川のバカ!!恥ずかしい事さらりと言ってんじゃねぇよ!!!
§
あー…行っちゃった。ってか、圭佑のあんな顔初めて見た。
つい、と閉められた扉に目を向ける。
…すごいな、斉川。
彼女の言葉は、なんとも容易に人の心に入り込んでくる。それは、心に届く言葉を正確に選んでいるから。そして決して嘘がないから。
さらりとやってのけてしまう程に、彼女の感覚は鋭い。
「……」
一体どこが人間失格なんだろう…?
こんなにすごい能力を持っているのに。
と、先程の黒蛇が一瞬目の前をちらついた。
「!?……」
ゾクリと戦慄が背中を駆け上がる。
……ま、まぁ、あんな風に楽しめるのは普通じゃないと思うけど。
再び黒蛇が現れる前に、光毅は圭佑の後を追いかけた。
§
2人の気配が消えたのを確認し鍵をかけると、碧乃は扉に背を預けた。
人知れずクスリと笑みを浮かべる。
…これでもう大丈夫。私の中に、もう怒りはない。
あるのは、2つのおもちゃを手に入れられた喜び。
彼らが私の心に近付く事は、二度とない。私がさせない。
そんなもの考える暇がない程、存分に振り回してあげる。私から離れたくなるくらいに。
「…………」
顔に笑みを貼り付けたまま、ポケットから飴を取り出し、口に放り込む。
ほら、外にはあなたの嫌いな楽しい事がたくさんあるよ。
だから、私の中から出てきちゃだめだよ…………悪魔。
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~
湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。
「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」
夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。
公爵である夫とから啖呵を切られたが。
翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。
地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。
「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。
一度、言った言葉を撤回するのは難しい。
そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。
徐々に距離を詰めていきましょう。
全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。
第二章から口説きまくり。
第四章で完結です。
第五章に番外編を追加しました。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
『冷徹社長の秘書をしていたら、いつの間にか専属の妻に選ばれました』
鍛高譚
恋愛
秘書課に異動してきた相沢結衣は、
仕事一筋で冷徹と噂される社長・西園寺蓮の専属秘書を務めることになる。
厳しい指示、膨大な業務、容赦のない会議――
最初はただ必死に食らいつくだけの日々だった。
だが、誰よりも真剣に仕事と向き合う蓮の姿に触れるうち、
結衣は秘書としての誇りを胸に、確かな成長を遂げていく。
そして、蓮もまた陰で彼女を支える姿勢と誠実な仕事ぶりに心を動かされ、
次第に結衣は“ただの秘書”ではなく、唯一無二の存在になっていく。
同期の嫉妬による妨害、ライバル会社の不正、社内の疑惑。
数々の試練が二人を襲うが――
蓮は揺るがない意志で結衣を守り抜き、
結衣もまた社長としてではなく、一人の男性として蓮を信じ続けた。
そしてある夜、蓮がようやく口にした言葉は、
秘書と社長の関係を静かに越えていく。
「これからの人生も、そばで支えてほしい。」
それは、彼が初めて見せた弱さであり、
結衣だけに向けた真剣な想いだった。
秘書として。
一人の女性として。
結衣は蓮の差し伸べた未来を、涙と共に受け取る――。
仕事も恋も全力で駆け抜ける、
“冷徹社長×秘書”のじれ甘オフィスラブストーリー、ここに完結。
クラスのマドンナがなぜか俺のメイドになっていた件について
沢田美
恋愛
名家の御曹司として何不自由ない生活を送りながらも、内気で陰気な性格のせいで孤独に生きてきた裕貴真一郎(ゆうき しんいちろう)。
かつてのいじめが原因で、彼は1年間も学校から遠ざかっていた。
しかし、久しぶりに登校したその日――彼は運命の出会いを果たす。
現れたのは、まるで絵から飛び出してきたかのような美少女。
その瞳にはどこかミステリアスな輝きが宿り、真一郎の心をかき乱していく。
「今日から私、あなたのメイドになります!」
なんと彼女は、突然メイドとして彼の家で働くことに!?
謎めいた美少女と陰キャ御曹司の、予測不能な主従ラブコメが幕を開ける!
カクヨム、小説家になろうの方でも連載しています!
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
兄みたいな騎士団長の愛が実は重すぎでした
鳥花風星
恋愛
代々騎士団寮の寮母を務める家に生まれたレティシアは、若くして騎士団の一つである「群青の騎士団」の寮母になり、
幼少の頃から仲の良い騎士団長のアスールは、そんなレティシアを陰からずっと見守っていた。レティシアにとってアスールは兄のような存在だが、次第に兄としてだけではない思いを持ちはじめてしまう。
アスールにとってもレティシアは妹のような存在というだけではないようで……。兄としてしか思われていないと思っているアスールはレティシアへの思いを拗らせながらどんどん膨らませていく。
すれ違う恋心、アスールとライバルの心理戦。拗らせ溺愛が激しい、じれじれだけどハッピーエンドです。
☆他投稿サイトにも掲載しています。
☆番外編はアスールの同僚ノアールがメインの話になっています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる