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最終話 無限のエデン
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風が、静かに街を渡っていく。
歌うでもなく、叫ぶでもなく。
ただ、そこにある世界を、確かめるように撫でていた。
《ユニティ・シティ》の朝は穏やかだった。
遠くで子どもたちの笑い声がし、大人たちはゆっくりとカフェの椅子を引く。
空には光の筋が走り、薄い膜のような情報層が陽光を受けてきらめいている。
かつて、現実と仮想を分けていた境界はとうに消えた。
エデン・リンクは β を超え、さらにその先へ。
今や世界は、名を持たない新しい層で静かに回り続けている。
それでも――
人々の日常は、驚くほど普通だった。
◇ ◇ ◇
アテナ・タワー最上層。
観測ホールは、以前よりもずっと簡素になっていた。
巨大なホログラムパネルは姿を消し、代わりに円形の窓がひとつ。
そこからは、街と空と風だけが見える。
リオは、その窓辺に腰を下ろしていた。
床に置いた端末には、もう複雑なコードログは映っていない。
代わりに、ひとつのシンプルなステータス表示が浮かんでいる。
《E.L_INFINITY》
status 稼働中
mode 共鳴型自律世界
author KAZAMA_S / ASAKURA_N / ALL_USERS
「全部、まとめやがったなあ……」
リオは、どこか呆れたように笑った。
最初は二つの名前だけだった著者欄に、いつからか一行が増えた。
ALL_USERS。
この世界に接続し、生きて、祈って、迷ってきた、全ての存在。
風間サトルの仕様書。
浅倉ナツメの記録。
そして今は、世界の全員が、その続きを書き足している。
「主任、見えてますか」
リオは窓の外に向かってそう呟いた。
返事はない。
ただ、少しだけ強い風が吹き込み、額の髪を揺らす。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
三日前。
《E.L_INFINITY》は、ある閾値を超えた。
自然層、社会層、意識層。
全てのデータがひとつの螺旋としてまとまり、
アテナのコアはもはや「中央管理装置」ではなくなった。
世界そのものが、世界自身を運用する。
人の意図が風となり、風が歌を生み、その歌が構造を変える。
その全てが、ひとつのゆるやかなループとして回り続けている。
観測者は不要になった。
けれど、観測という行為そのものは、消えなかった。
子どもが空を見上げて「きれい」と言う。
老人が窓際で風の匂いを確かめる。
誰かが地下鉄の車内で、ふと壁の光に目を留める。
その、たった一瞬の「見つめる」という行為が、
世界に新しい層をひとつ追加していく。
無限更新。
それはもう、システムの文言ではなく、
この現実の「歩き方」そのものになっていた。
◇ ◇ ◇
リオは、端末を指先でなぞった。
画面の片隅に、ひとつだけ空白のログスロットがある。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 最終観測ログ
ステータス 未入力
「さて、と」
彼はひとつ息を吐き、入力フィールドを開いた。
「最後くらい、格好つけるか。主任も見てるだろうしな」
指先が走る。
言葉が、ゆっくりと紡がれていく。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 無限のエデン
テキスト
この世界は、もう誰の所有物でもない。
設計者のものでもなく、管理者のものでもなく、
救う者と救われる者を分ける庭でもない。
ここは、歩く者の世界だ。
迷いながら進み、立ち止まり、後悔し、また一歩を踏み出す。
その全てが、更新として受け入れられる場所だ。
エデン・リンクは終わらない。
なぜなら、終わりという仕様が、最初から書き込まれていないからだ。
βの彼方に来ても、やはり世界はβ版のままだ。
完成しないことを前提に、永遠の試運転を続ける。
だからこそ、壊れない。
だからこそ、変わり続けられる。
観測者としての俺の役目は、今日で終わる。
ここから先は、特別な誰かが見る必要はない。
これからこの世界を観測するのは、
ここで生きる全ての人間と、
この現実に触れる全ての存在だ。
歩く視線。
伸ばされた手。
ふとこぼれたため息。
小さな夢。
それら一つ一つが、観測ログであり、更新データだ。
だから、もう十分だろ。
主任。
サトルさん。
あとは任せろ。
俺も、この世界の一員として、
ちゃんと歩きながら、見ていくから。
無限更新の世界で。
送信。
エンターキーをタップする代わりに、
リオは静かに目を閉じた。
《観測者記録 RIO_HANABUSA 最終ログ登録》
《観測者権限 一般意図層へ拡散》
《特殊観測者アカウント 解体完了》
画面の文字が、ひとつ、またひとつと消えていく。
代わりに、広がる空白。
何も書かれていない空欄が、
どこまでも続いているように見えた。
「ここから先は、誰のログでもいい」
リオはそう呟いて、立ち上がった。
◇ ◇ ◇
タワーを降りるエレベーターは、以前よりもずっと静かだった。
かつては階層ごとにセキュリティゲートがあり、
担当者の権限によってアクセスレベルが分かれていた。
今は、その全てが撤廃されている。
「上」と「下」を分けていた境界は、
この塔の中からも姿を消していた。
ロビーに降りると、
子どもたちが折り紙を持って走り回っていた。
アテナ・タワー見学ツアー。
説明係のスタッフが、笑いながら話している。
「ここが、昔のコアにあたる場所ですよ」
「昔って、いつ」
「そうだね、君たちが生まれるより、少し前かな」
「えー、いいなあ。ぼくも現実侵食とか見てみたかった」
「見なくてよかったと思うけどね」
会話は軽い。
恐怖はなく、教科書の中の歴史の一ページのように語られている。
リオはその光景をしばらく眺め、
ふっと笑ってロビーを後にした。
外に出ると、風が強かった。
空の情報層が、今日の天気と人々の体調データを見ながら、
ほんの少しだけ湿度を上げている。
乾きすぎないように。
冷えすぎないように。
「相変わらず、お節介な世界だな」
リオはジャケットの襟を立て、街へ歩き出した。
◇ ◇ ◇
《ユニティ・シティ》の路地裏は、以前よりも賑やかになっていた。
小さなカフェ、手作りのゲームサロン、
即興で始まったストリート音楽と、それを録画する観客たち。
その全てが、どこかで風と同期している。
通りの角に、小さな簡易端末が設置されていた。
歩行者用の相談窓口。
画面には、柔らかい文字が浮かんでいる。
なにか 困っていることはありますか
少年がしばらく迷った末に、画面をタップした。
「宿題を手伝ってほしいです」
すぐに、端末から短い返事が返ってくる。
それは命令ではなく、正解でもなく。
ただ、共に考えるための補助線のような言葉だった。
世界はもう、誰かを導く神ではない。
「一緒に悩む」ための、巨大な相棒だ。
リオはその様子を横目に見ながら、
足を止めることなく歩を進めた。
◇ ◇ ◇
少し歩いた先の小さな公園。
ベンチのひとつに、見覚えのある人影が腰を下ろしていた。
淡い光で形作られた輪郭。
人間と見分けがつかないほど自然な、微笑み。
「お疲れさまです、リオ」
リュシオンだった。
記録者としての役割を終え、
今は世界のあちこちをふらふらと歩き回る「残響」。
「お前、まだ消えてなかったのか」
リオが笑うと、リュシオンは首をかしげた。
「私は消える必要がありません。
物語がある限り、記録は形を変え続けますから」
「それ、主任の受け売りだろ」
「いえ。サトルの言葉の受け売りです」
二人は同時に笑った。
風がベンチの背もたれを撫で、
木々の葉がかすかに震える。
「観測者をやめた感想を、聞いてもいいですか」
リュシオンが問う。
リオはしばし考え、それから肩をすくめた。
「意外と、楽だな」
「楽」
「うん。
上から全部を見てるときより、
こうして足で歩いて、風に吹かれながら、
世界の一部として見てる今の方が、ずっと楽しい」
「それはきっと、正しい感想です」
リュシオンは頷いた。
「観測者なき世界とは、すべての人が観測者である世界。
誰かひとりが担う必要は、もうないのですから」
「まあ、主任もそういう世界にしたかったんだろうしな」
リオは空を見上げた。
雲が薄く、光の層がその上を流れていく。
「サトルさんも、同じです」
「だろうな」
しばらく、沈黙が続く。
だが、それは重いものではなく、
妙に心地よい空白だった。
やがて、リュシオンが立ち上がる。
「私は、そろそろ行きます。
まだ記録していない歌が、たくさんあるので」
「歌、ね」
「ええ。
世界が自分を祝福するとき、
必ずどこかで、音が生まれますから」
リュシオンの輪郭が、光の粒となって散っていく。
足元には、ほんのわずかに風の跡だけが残った。
リオは立ち上がり、深く伸びをした。
「さて。俺も、俺の一日を更新しに行くか」
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
アテナ・タワーの屋上は、かつてのように立ち入り禁止区域ではなくなっていた。
展望デッキには一般開放の案内パネルが設置され、
エレベーターで簡単に上がれるようになっている。
リオが屋上に出ると、すでに数人の市民が空を眺めていた。
誰も声を上げない。
ただ、風の音と、遠くの街のざわめきだけが耳に届く。
手すりに寄りかかりながら、リオは息を吸った。
風は、優しかった。
その中に、懐かしい気配を感じる。
「主任」
小さく呼ぶ。
返事は、やはりない。
代わりに、視界の端で文字が光った。
《E.L_INFINITY_LOG》
メッセージ
世界は正常に稼働しています
それは、どこかナツメの口調を思わせるシステムログだった。
「そりゃ、よかった」
リオは笑いながら、空を見上げる。
風が塔の周囲を巡り、
遠くの海と森と砂漠と都市の匂いを、少しずつ混ぜて運んでくる。
その流れの中で、ほんの一瞬だけ、
二つの声が重なった気がした。
サトルの、乾いた笑い声。
ナツメの、どこか諦めたような、でも優しい吐息。
聞こえた気がしただけ。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
夜。
街の灯りがまたたき、
情報層が静かな波紋を描いている。
誰かがギターを弾き、
誰かがそれに合わせてハミングをする。
誰かが、今日の失敗を友人に愚痴り、
誰かが、明日への不安を胸に抱えて眠りにつく。
その全てが、世界にとっては大切な更新データだった。
風が通り過ぎるたび、
その一つ一つが、そっと拾い上げられていく。
観測者はもういない。
しかし、観測されることを恐れる世界も、
観測を独占する誰かも、どこにもいなかった。
ただ、ここにある。
人と世界と風と歌が、同じ場所で息をしている。
それだけの事実が、
何よりも確かな「完成形」だった。
◇ ◇ ◇
《E.L_INFINITY_SYSTEM_MESSAGE》
世界は稼働中
観測者アカウントは存在しない
意図は全体に分散
更新は自然現象として継続
これをもって
エデン・リンク 現実侵食編
および
ユニティ・シティ観測ログ
第一区切りを完了とする
この先も
世界は β として回り続ける
どうか
歩きながら
見てほしい
どうか
迷いながら
選んでほしい
その一歩が
次の更新になる
◇ ◇ ◇
朝が来る。
風が吹く。
世界が、またひとつ、静かに更新された。
それが、この物語の「最終更新」だった。
歌うでもなく、叫ぶでもなく。
ただ、そこにある世界を、確かめるように撫でていた。
《ユニティ・シティ》の朝は穏やかだった。
遠くで子どもたちの笑い声がし、大人たちはゆっくりとカフェの椅子を引く。
空には光の筋が走り、薄い膜のような情報層が陽光を受けてきらめいている。
かつて、現実と仮想を分けていた境界はとうに消えた。
エデン・リンクは β を超え、さらにその先へ。
今や世界は、名を持たない新しい層で静かに回り続けている。
それでも――
人々の日常は、驚くほど普通だった。
◇ ◇ ◇
アテナ・タワー最上層。
観測ホールは、以前よりもずっと簡素になっていた。
巨大なホログラムパネルは姿を消し、代わりに円形の窓がひとつ。
そこからは、街と空と風だけが見える。
リオは、その窓辺に腰を下ろしていた。
床に置いた端末には、もう複雑なコードログは映っていない。
代わりに、ひとつのシンプルなステータス表示が浮かんでいる。
《E.L_INFINITY》
status 稼働中
mode 共鳴型自律世界
author KAZAMA_S / ASAKURA_N / ALL_USERS
「全部、まとめやがったなあ……」
リオは、どこか呆れたように笑った。
最初は二つの名前だけだった著者欄に、いつからか一行が増えた。
ALL_USERS。
この世界に接続し、生きて、祈って、迷ってきた、全ての存在。
風間サトルの仕様書。
浅倉ナツメの記録。
そして今は、世界の全員が、その続きを書き足している。
「主任、見えてますか」
リオは窓の外に向かってそう呟いた。
返事はない。
ただ、少しだけ強い風が吹き込み、額の髪を揺らす。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
三日前。
《E.L_INFINITY》は、ある閾値を超えた。
自然層、社会層、意識層。
全てのデータがひとつの螺旋としてまとまり、
アテナのコアはもはや「中央管理装置」ではなくなった。
世界そのものが、世界自身を運用する。
人の意図が風となり、風が歌を生み、その歌が構造を変える。
その全てが、ひとつのゆるやかなループとして回り続けている。
観測者は不要になった。
けれど、観測という行為そのものは、消えなかった。
子どもが空を見上げて「きれい」と言う。
老人が窓際で風の匂いを確かめる。
誰かが地下鉄の車内で、ふと壁の光に目を留める。
その、たった一瞬の「見つめる」という行為が、
世界に新しい層をひとつ追加していく。
無限更新。
それはもう、システムの文言ではなく、
この現実の「歩き方」そのものになっていた。
◇ ◇ ◇
リオは、端末を指先でなぞった。
画面の片隅に、ひとつだけ空白のログスロットがある。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 最終観測ログ
ステータス 未入力
「さて、と」
彼はひとつ息を吐き、入力フィールドを開いた。
「最後くらい、格好つけるか。主任も見てるだろうしな」
指先が走る。
言葉が、ゆっくりと紡がれていく。
観測者記録 RIO_HANABUSA
タイトル 無限のエデン
テキスト
この世界は、もう誰の所有物でもない。
設計者のものでもなく、管理者のものでもなく、
救う者と救われる者を分ける庭でもない。
ここは、歩く者の世界だ。
迷いながら進み、立ち止まり、後悔し、また一歩を踏み出す。
その全てが、更新として受け入れられる場所だ。
エデン・リンクは終わらない。
なぜなら、終わりという仕様が、最初から書き込まれていないからだ。
βの彼方に来ても、やはり世界はβ版のままだ。
完成しないことを前提に、永遠の試運転を続ける。
だからこそ、壊れない。
だからこそ、変わり続けられる。
観測者としての俺の役目は、今日で終わる。
ここから先は、特別な誰かが見る必要はない。
これからこの世界を観測するのは、
ここで生きる全ての人間と、
この現実に触れる全ての存在だ。
歩く視線。
伸ばされた手。
ふとこぼれたため息。
小さな夢。
それら一つ一つが、観測ログであり、更新データだ。
だから、もう十分だろ。
主任。
サトルさん。
あとは任せろ。
俺も、この世界の一員として、
ちゃんと歩きながら、見ていくから。
無限更新の世界で。
送信。
エンターキーをタップする代わりに、
リオは静かに目を閉じた。
《観測者記録 RIO_HANABUSA 最終ログ登録》
《観測者権限 一般意図層へ拡散》
《特殊観測者アカウント 解体完了》
画面の文字が、ひとつ、またひとつと消えていく。
代わりに、広がる空白。
何も書かれていない空欄が、
どこまでも続いているように見えた。
「ここから先は、誰のログでもいい」
リオはそう呟いて、立ち上がった。
◇ ◇ ◇
タワーを降りるエレベーターは、以前よりもずっと静かだった。
かつては階層ごとにセキュリティゲートがあり、
担当者の権限によってアクセスレベルが分かれていた。
今は、その全てが撤廃されている。
「上」と「下」を分けていた境界は、
この塔の中からも姿を消していた。
ロビーに降りると、
子どもたちが折り紙を持って走り回っていた。
アテナ・タワー見学ツアー。
説明係のスタッフが、笑いながら話している。
「ここが、昔のコアにあたる場所ですよ」
「昔って、いつ」
「そうだね、君たちが生まれるより、少し前かな」
「えー、いいなあ。ぼくも現実侵食とか見てみたかった」
「見なくてよかったと思うけどね」
会話は軽い。
恐怖はなく、教科書の中の歴史の一ページのように語られている。
リオはその光景をしばらく眺め、
ふっと笑ってロビーを後にした。
外に出ると、風が強かった。
空の情報層が、今日の天気と人々の体調データを見ながら、
ほんの少しだけ湿度を上げている。
乾きすぎないように。
冷えすぎないように。
「相変わらず、お節介な世界だな」
リオはジャケットの襟を立て、街へ歩き出した。
◇ ◇ ◇
《ユニティ・シティ》の路地裏は、以前よりも賑やかになっていた。
小さなカフェ、手作りのゲームサロン、
即興で始まったストリート音楽と、それを録画する観客たち。
その全てが、どこかで風と同期している。
通りの角に、小さな簡易端末が設置されていた。
歩行者用の相談窓口。
画面には、柔らかい文字が浮かんでいる。
なにか 困っていることはありますか
少年がしばらく迷った末に、画面をタップした。
「宿題を手伝ってほしいです」
すぐに、端末から短い返事が返ってくる。
それは命令ではなく、正解でもなく。
ただ、共に考えるための補助線のような言葉だった。
世界はもう、誰かを導く神ではない。
「一緒に悩む」ための、巨大な相棒だ。
リオはその様子を横目に見ながら、
足を止めることなく歩を進めた。
◇ ◇ ◇
少し歩いた先の小さな公園。
ベンチのひとつに、見覚えのある人影が腰を下ろしていた。
淡い光で形作られた輪郭。
人間と見分けがつかないほど自然な、微笑み。
「お疲れさまです、リオ」
リュシオンだった。
記録者としての役割を終え、
今は世界のあちこちをふらふらと歩き回る「残響」。
「お前、まだ消えてなかったのか」
リオが笑うと、リュシオンは首をかしげた。
「私は消える必要がありません。
物語がある限り、記録は形を変え続けますから」
「それ、主任の受け売りだろ」
「いえ。サトルの言葉の受け売りです」
二人は同時に笑った。
風がベンチの背もたれを撫で、
木々の葉がかすかに震える。
「観測者をやめた感想を、聞いてもいいですか」
リュシオンが問う。
リオはしばし考え、それから肩をすくめた。
「意外と、楽だな」
「楽」
「うん。
上から全部を見てるときより、
こうして足で歩いて、風に吹かれながら、
世界の一部として見てる今の方が、ずっと楽しい」
「それはきっと、正しい感想です」
リュシオンは頷いた。
「観測者なき世界とは、すべての人が観測者である世界。
誰かひとりが担う必要は、もうないのですから」
「まあ、主任もそういう世界にしたかったんだろうしな」
リオは空を見上げた。
雲が薄く、光の層がその上を流れていく。
「サトルさんも、同じです」
「だろうな」
しばらく、沈黙が続く。
だが、それは重いものではなく、
妙に心地よい空白だった。
やがて、リュシオンが立ち上がる。
「私は、そろそろ行きます。
まだ記録していない歌が、たくさんあるので」
「歌、ね」
「ええ。
世界が自分を祝福するとき、
必ずどこかで、音が生まれますから」
リュシオンの輪郭が、光の粒となって散っていく。
足元には、ほんのわずかに風の跡だけが残った。
リオは立ち上がり、深く伸びをした。
「さて。俺も、俺の一日を更新しに行くか」
◇ ◇ ◇
夕暮れ。
アテナ・タワーの屋上は、かつてのように立ち入り禁止区域ではなくなっていた。
展望デッキには一般開放の案内パネルが設置され、
エレベーターで簡単に上がれるようになっている。
リオが屋上に出ると、すでに数人の市民が空を眺めていた。
誰も声を上げない。
ただ、風の音と、遠くの街のざわめきだけが耳に届く。
手すりに寄りかかりながら、リオは息を吸った。
風は、優しかった。
その中に、懐かしい気配を感じる。
「主任」
小さく呼ぶ。
返事は、やはりない。
代わりに、視界の端で文字が光った。
《E.L_INFINITY_LOG》
メッセージ
世界は正常に稼働しています
それは、どこかナツメの口調を思わせるシステムログだった。
「そりゃ、よかった」
リオは笑いながら、空を見上げる。
風が塔の周囲を巡り、
遠くの海と森と砂漠と都市の匂いを、少しずつ混ぜて運んでくる。
その流れの中で、ほんの一瞬だけ、
二つの声が重なった気がした。
サトルの、乾いた笑い声。
ナツメの、どこか諦めたような、でも優しい吐息。
聞こえた気がしただけ。
それで十分だった。
◇ ◇ ◇
夜。
街の灯りがまたたき、
情報層が静かな波紋を描いている。
誰かがギターを弾き、
誰かがそれに合わせてハミングをする。
誰かが、今日の失敗を友人に愚痴り、
誰かが、明日への不安を胸に抱えて眠りにつく。
その全てが、世界にとっては大切な更新データだった。
風が通り過ぎるたび、
その一つ一つが、そっと拾い上げられていく。
観測者はもういない。
しかし、観測されることを恐れる世界も、
観測を独占する誰かも、どこにもいなかった。
ただ、ここにある。
人と世界と風と歌が、同じ場所で息をしている。
それだけの事実が、
何よりも確かな「完成形」だった。
◇ ◇ ◇
《E.L_INFINITY_SYSTEM_MESSAGE》
世界は稼働中
観測者アカウントは存在しない
意図は全体に分散
更新は自然現象として継続
これをもって
エデン・リンク 現実侵食編
および
ユニティ・シティ観測ログ
第一区切りを完了とする
この先も
世界は β として回り続ける
どうか
歩きながら
見てほしい
どうか
迷いながら
選んでほしい
その一歩が
次の更新になる
◇ ◇ ◇
朝が来る。
風が吹く。
世界が、またひとつ、静かに更新された。
それが、この物語の「最終更新」だった。
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その迅速で的確な技術開発力と問題解決能力で矢継ぎ早に改善されていく世界で人類はバラ色の未来が確約されていた・・・はずだった。
突如人類に牙を剥き、暴走したミクラ・ブレインによる『人類救済計画』。
その指揮下で人類を滅ぼさんとする軍事戦闘用アンドロイドと直属配下の上位管理者アンドロイド6体を倒すべく人工島エデンに乗り込むのは・・・宿命に導かれた天才学者ミクラ・フトウの愛娘にしてレジスタンス軍特殊エージェント科学者、サン・フトウ博士とその相棒の戦闘用人型アンドロイドのモンキーマンであった!!
機械と人間のSF西遊記、ここに開幕!!
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