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09 個人面談
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上層部の文書局へ提出された報告書は、問題なく受理された。
その数日後、正式な調査が開始され、数人の調査員が研究室を訪れた。現場確認と聞き取りの準備が整い、研究室には張り詰めた静けさが満ちていた。
ヒルダは、これまでの経緯を順に伝えた。
あの日の晩、背筋を撫でるような悪寒を覚えたこと。午後の打ち合わせを終えて研究室に戻ったとき、異変に気づいたこと。ヒルダが語り終えると、ドミニクスが静かに口を開いた。
「悪寒を感じた翌日、念のため防護結界を展開した。動作は安定していて、異常な反応もなかった。……実は、侵入が起こる前にも一度、ゲイルが研究室に入り込もうとしていた。その時は結界が反応し、魔力の揺らぎを感知した。すぐに駆けつけて対応できたのだが──あの日だけは、反応がまったく無かった」
淡々と語られる声の中で、ヒルダは息を呑む。
(……そんなことが、あったの?)
思い返せば、倉庫へ向かったあの日──急にドミニクスが駆け出し、ヒルダが戻ったときには、すでにゲイルが部屋の中にいた。「駆けつけて対応できた」と言ったのは、きっとあの時のことだ。
「……侵入のあった日のスケジュールを、詳しく教えてください」
調査員の問いに、ヒルダは落ち着いた声で答えた。
その日の午後、接点のない研究員から半ば強引に呼び出され、ドミニクスの研究とは関連の薄い研究協力を持ちかけられたこと。そして、その打ち合わせの内容にも、いくつか不審な点があったこと。
調査員の一人がさらに問いを重ねる。
「打ち合わせ場所は?」
「下層の隅にある実験室でした。……普段は滅多に足を運ばない場所で、正直、部屋の存在もほとんど意識していなかったと思います。壁一面に古い紋章が刻まれていて、カーテンも締め切られていました。今にして思えば──あまり健全な研究室ではなかったのかもしれません」
そう答えた瞬間、相手のこめかみがぴくりと動く。一瞬の沈黙ののち、調査員たちは顔を見合わせ、小声で何事かを交わし始めた。低いひそひそ声が、研究室の静寂に不自然に響く。
やがて一人が顔を上げ、短く告げた。
「判断が下り次第、追ってご連絡いたします。数日ほどお時間を頂戴します」
調査員たちは書類をまとめて退出し、研究室に再び静寂が戻る。
残された空気に、ヒルダの小さな吐息が混じる。
「……ドミニクス様。私、あの日に侵入されていたこと、知りませんでした」
「……あの時点では、言う必要がないと思ったんだ」
視線を向けると、彼は少しだけ目を伏せている。
「どうして黙っていたのですか」という無言の問いを込めて、ヒルダはじっと視線を向けると、やがて「……すまない」とだけ返ってきた。
調査結果を待つあいだも、二人の研究は続いていた。
淡々と、どこか慎重さを帯びながらも、日々は静かに過ぎていく。
午後を少し過ぎた頃、研究室の扉が控えめにノックされた。コン、コン、と規則正しく響く音。
「はい、今開けます」
ヒルダは手にしていた書類を机に置き、立ち上がる。
念のため、制服下に下げたお守りに意識を向けたが、特に異常はない。扉の向こうからも、騒がしい気配は感じられなかった。
扉を開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。三十代前半ほどだろうか。整った身なりと、無駄のない所作。胸元の研究員証を指先で軽く示しながら、深く一礼する。
「失礼します。ゲイル・グランツの侵入事件について、上層部より追加の事情聴取を行うよう指示を受けました。ドミニクス・グランツ様に、直接お話を伺いたいとのことです。急な訪問で恐縮ですが、今お時間をいただけますか」
ヒルダは男の表情を探るように見つめ、それから研究室の奥を振り返った。
ドミニクスが作業の手を止め、静かにこちらへ歩み寄ってくる。
「承知した。──ヒルダ、行くぞ」
ドミニクスが歩み出したそのタイミングで、男の声が落ち着いた調子でかかる。
「申し訳ありません。今回は、ドミニクス・グランツ様おひとりでお願いしたいとのことです」
「……何?」
わずかに眉が寄る。だが、男の瞳に不審な色は一切なかった。
「……わかった。私の留守中に何事も無いよう、結界を張らせてもらうが、構わないな」
やや睨みながら問うと、男は静かに一礼し、許可の意を示した。防護結界を新たに展開したあと、ドミニクスはヒルダに向き直る。
「ヒルダ、少しのあいだ留守にする。──扉は、誰が来ても開けるな」
「はい。お気をつけて」
軽く頷くと、ローブの裾を翻し、男と共に廊下へ出ていった。
扉が静かに閉まる。ヒルダはその前に立ち尽くし、去っていった気配をしばらく見送った。
* * *
午後の陽が白壁に淡く射し込み、廊下に長い影を落としていた。上層へと続く階段を、使者の男の背を追うように上がっていく。靴音が石床に反響するたび、塔の空気が少しずつ重くなっていく気がした。男は寡黙なまま、一定の間隔を保って歩き続けている。無駄のない足取り。声をかける隙もない。
ドミニクスは沈黙のままその背を見据えながら、思考を巡らせた。
──この呼び出し、単なる事情聴取にしては早い。
調査が終わったのは三日前のはずだ。報告書をまとめる時間を考えても処分が決まるにはまだ早い。ならばこれは、形式上の確認ではなく……何か別の意図がある。
胸の奥に、鈍い違和感が生まれるが、足を止める理由はない。
ヒルダを待たせている以上、無用な警戒を露わにするわけにもいかなかった。
廊下を抜けると、重厚な両開きの扉が視界に入った。
深い色の木材に、金の装飾が施されたその扉には《第三・上層執務室》と記されている。塔でも限られた者しか立ち入ることを許されない区画──当然、普段ならドミニクスの立場では足を踏み入れる機会のない場所だった。
「こちらです」
「……承知した」
使者の男が静かに一礼し、ノックの後に扉を押し開ける。中から、ひやりとした空気が流れ出た。
深く息を吸い、胸の内の不穏を押し込める。軽くローブの裾を払うと、足を一歩、部屋の中へと踏み入れた。
部屋の照明は意図的に落とされていた。天井の灯は最低限の光量に絞られ、壁際の間接照明だけが暖かな色で空間を照らしている。
奥には重厚な執務机。その手前には厚手の絨毯が敷かれ、応接用のソファとテーブルが並んでいた。
机の背後には人影がひとつ。だが、入口からでは表情までは見えない。
「やあ。突然すまないね。来てくれて有難う」
聞き覚えのある朗らかな声が、静かな室内に響いた。
その人物は椅子から立ち上がり、ゆったりとドミニクスの前まで歩み出る。
「今度また話そう、とは言ったけれど、まさかこんな形になるとはね。……本当なら、もっと穏やかな席で会いたかったよ」
眉を下げて苦く笑うのは、ヒルダの恩師である上席研究員──
「……アンナ・エイプリル」
「覚えていてくれたんだね! 堅苦しいのはなしだ。気軽に“エイプリル先生”とでも呼んでくれたまえ」
フルネームで呼んでしまったことに気づき、ドミニクスは咄嗟に口元を押さえた。
自分にとっては恩師ではないので、そう呼ぶのは抵抗がある。どうするべきか迷い、視線を落としてから小さく返した。
「……では、エイプリル殿と」
アンナは「殿?」と口の端を上げ、面白そうに目を細める。
「はは……まあ、いいか。さあ、こっちに座って」
応接机の前に案内され、ソファへと腰を下ろす。使者の男が音も立てずにお茶を淹れ、湯気の立つカップを二人の前に置いた。
アンナが一口、口をつけたのを見届けてから、ドミニクスも静かにそれに倣う。淡い香草の香りが口内に広がり、喉が潤った。
「さて……グランツ君。早速だけど、本題に入ってもいいかな」
「ああ」
アンナは身を乗り出すと、ソファがぎしりと小さく軋んだ。
「今回は、まったくの災難だったね。まさか、君の家があんな暴挙に出るとは思わなかった。過激な考え方があるものだ」
短く息をつき、眉を寄せる。
「この塔ではそれぞれが異なる志を持って研究している。信念を掲げるのは自由だが、他者に危害を加えたり、倫理を踏み外していい理由にはならない。──そこを取り違えてはいけないんだ、絶対に」
「……」
アンナの声は穏やかだったが、その奥にある失望の色は隠しきれていなかった。ドミニクスは何も言わず、膝の上で組んだ手を固く握りしめた。
「そこで、ひとつ確認したい。──グランツ家が掲げる“魔術至上主義”の思想を、君はどう思っている?」
「……心底、賛同できない考え方だ。彼らは力に酔っているだけだ。自分たちが“選ばれた者”だと信じ込み、力を振るうことでしか価値を証明できない。滑稽で、傲慢で、醜悪だ」
「辛辣だね」
「魔力の有無や、量だけで人間の価値が決まるなどと、本気で信じている。無魔力の人々を蔑み、支配することが正しいと信じて疑わない。……虫唾が走る」
ドミニクスが低く言い放つと、眼鏡の奥で光が反射し、アンナの瞳が鋭く細められた。
「そう感じているんだね。……でも、君もあの子に言っただろう?
なんだったかな。“無魔力の女が助手など、侮られたものだ”……そんな言葉だったね?」
ぐ、とドミニクスの息が詰まる。確かに、自分が初対面のヒルダに放った言葉だ。その場にアンナもいたのだから、否定しようものがない。
「……確かに私が言った言葉だ。間違いない。だが、もうそのような考え方はしていない。……信じられないかもしれないが、本当だ」
「うん。今の振る舞いを見ていたらわかるよ。あの頃とは違う」
アンナの声音は穏やかだった。けれど、その奥に探るような光が宿っている。
「思想が異なるにしても、今回の件で、君の家族は罰せられるだろう。それについては、どう思う?」
「妥当。罪は、罰せられるべきだ」
「……それに対して、君の研究に制限がかかるとしても?」
「…………ああ。答えは変わらない」
声の奥に微かな痛みを滲ませながらも、その決意は揺らがない。
アンナは「……そうか」と息を吐き、表情を引き締める。
「──ゲイル・グランツが仕掛けてきた件。実はね、先日君が薬を盛られた“あの件”とも繋がっているんだ」
ドミニクスの目が、動揺で大きく揺れた。
アンナは肩をすくめながら、軽く息を吐く。
「まったく……三ヶ月も経たないうちに懲りないよね。君の家系──いや、“魔術至上主義”の流れを汲む家々は、皆そうだ。高い魔力を持つ者同士で婚姻を結び、家の力を保とうとする。
それ自体は構わない。けれど、彼らは“選ばれし血統”という幻想を本気で信じている。そしてその多くが、この塔の中で研究者として活動しているんだ」
そこでアンナは、わずかに声を落とした。
「君の“相手”には、プリメラ・シュトラウスを宛てがうつもりだったようだね」
その名を聞いた瞬間、ドミニクスの顔が歪む。喉の奥に嫌悪がせり上がり、拳を握りしめる。
蜂蜜色の髪をした、ドミニクスにしつこく付きまとっていた令嬢。所作だけは上品に見せていたが、言葉の端々には他者を見下す響きが常にあった。
研究に理解があるふりをして近づいてきたが、『貴方様の実力では、もっとご両親のように素晴らしい研究をなさるべきですわ』そう言って、酔いしれるように微笑んでいた。
古くから家同士の付き合いがあり、親交を無理に強いられていた。拒めばそれなりの報いがあった。
距離を取ってやり過ごせていると思っていた──だが、あの晩。
あの女はドミニクスに無理やり薬を盛った。
熱に浮かされ、理性が溶けていくような、制御不能な衝動。恐怖が脊髄を駆け抜け、なりふり構わず、ドミニクスは逃げ出していた。
ヒルダに介抱してもらえなければ、どうなっていたか。想像するだけで全身に寒気が走る。肩を抱き、がしがしと音が立つほど強く腕をさすった。
「……辛いことを思い出させて申し訳ない。彼女は修道院に送られたよ」
「知っている」
頷きながら答える。あの鬱陶しい女がいなくなって、心底安堵したのを覚えている。
だが、アンナの表情が静かに変わる。レンズ越しに見えたのは、わずかな同情を滲ませた瞳だった。
「……君がグランツ家の跡取りでいる限り、無魔力のヒルダ・ラインベルグと結ばれることは難しい。──その現実を、君は受け止めているかい?」
核心を突く問いに、ドミニクスは言葉を失う。
自分ひとりではどうにもできない現実。その重さに、喉の奥が強張った。
その数日後、正式な調査が開始され、数人の調査員が研究室を訪れた。現場確認と聞き取りの準備が整い、研究室には張り詰めた静けさが満ちていた。
ヒルダは、これまでの経緯を順に伝えた。
あの日の晩、背筋を撫でるような悪寒を覚えたこと。午後の打ち合わせを終えて研究室に戻ったとき、異変に気づいたこと。ヒルダが語り終えると、ドミニクスが静かに口を開いた。
「悪寒を感じた翌日、念のため防護結界を展開した。動作は安定していて、異常な反応もなかった。……実は、侵入が起こる前にも一度、ゲイルが研究室に入り込もうとしていた。その時は結界が反応し、魔力の揺らぎを感知した。すぐに駆けつけて対応できたのだが──あの日だけは、反応がまったく無かった」
淡々と語られる声の中で、ヒルダは息を呑む。
(……そんなことが、あったの?)
思い返せば、倉庫へ向かったあの日──急にドミニクスが駆け出し、ヒルダが戻ったときには、すでにゲイルが部屋の中にいた。「駆けつけて対応できた」と言ったのは、きっとあの時のことだ。
「……侵入のあった日のスケジュールを、詳しく教えてください」
調査員の問いに、ヒルダは落ち着いた声で答えた。
その日の午後、接点のない研究員から半ば強引に呼び出され、ドミニクスの研究とは関連の薄い研究協力を持ちかけられたこと。そして、その打ち合わせの内容にも、いくつか不審な点があったこと。
調査員の一人がさらに問いを重ねる。
「打ち合わせ場所は?」
「下層の隅にある実験室でした。……普段は滅多に足を運ばない場所で、正直、部屋の存在もほとんど意識していなかったと思います。壁一面に古い紋章が刻まれていて、カーテンも締め切られていました。今にして思えば──あまり健全な研究室ではなかったのかもしれません」
そう答えた瞬間、相手のこめかみがぴくりと動く。一瞬の沈黙ののち、調査員たちは顔を見合わせ、小声で何事かを交わし始めた。低いひそひそ声が、研究室の静寂に不自然に響く。
やがて一人が顔を上げ、短く告げた。
「判断が下り次第、追ってご連絡いたします。数日ほどお時間を頂戴します」
調査員たちは書類をまとめて退出し、研究室に再び静寂が戻る。
残された空気に、ヒルダの小さな吐息が混じる。
「……ドミニクス様。私、あの日に侵入されていたこと、知りませんでした」
「……あの時点では、言う必要がないと思ったんだ」
視線を向けると、彼は少しだけ目を伏せている。
「どうして黙っていたのですか」という無言の問いを込めて、ヒルダはじっと視線を向けると、やがて「……すまない」とだけ返ってきた。
調査結果を待つあいだも、二人の研究は続いていた。
淡々と、どこか慎重さを帯びながらも、日々は静かに過ぎていく。
午後を少し過ぎた頃、研究室の扉が控えめにノックされた。コン、コン、と規則正しく響く音。
「はい、今開けます」
ヒルダは手にしていた書類を机に置き、立ち上がる。
念のため、制服下に下げたお守りに意識を向けたが、特に異常はない。扉の向こうからも、騒がしい気配は感じられなかった。
扉を開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。三十代前半ほどだろうか。整った身なりと、無駄のない所作。胸元の研究員証を指先で軽く示しながら、深く一礼する。
「失礼します。ゲイル・グランツの侵入事件について、上層部より追加の事情聴取を行うよう指示を受けました。ドミニクス・グランツ様に、直接お話を伺いたいとのことです。急な訪問で恐縮ですが、今お時間をいただけますか」
ヒルダは男の表情を探るように見つめ、それから研究室の奥を振り返った。
ドミニクスが作業の手を止め、静かにこちらへ歩み寄ってくる。
「承知した。──ヒルダ、行くぞ」
ドミニクスが歩み出したそのタイミングで、男の声が落ち着いた調子でかかる。
「申し訳ありません。今回は、ドミニクス・グランツ様おひとりでお願いしたいとのことです」
「……何?」
わずかに眉が寄る。だが、男の瞳に不審な色は一切なかった。
「……わかった。私の留守中に何事も無いよう、結界を張らせてもらうが、構わないな」
やや睨みながら問うと、男は静かに一礼し、許可の意を示した。防護結界を新たに展開したあと、ドミニクスはヒルダに向き直る。
「ヒルダ、少しのあいだ留守にする。──扉は、誰が来ても開けるな」
「はい。お気をつけて」
軽く頷くと、ローブの裾を翻し、男と共に廊下へ出ていった。
扉が静かに閉まる。ヒルダはその前に立ち尽くし、去っていった気配をしばらく見送った。
* * *
午後の陽が白壁に淡く射し込み、廊下に長い影を落としていた。上層へと続く階段を、使者の男の背を追うように上がっていく。靴音が石床に反響するたび、塔の空気が少しずつ重くなっていく気がした。男は寡黙なまま、一定の間隔を保って歩き続けている。無駄のない足取り。声をかける隙もない。
ドミニクスは沈黙のままその背を見据えながら、思考を巡らせた。
──この呼び出し、単なる事情聴取にしては早い。
調査が終わったのは三日前のはずだ。報告書をまとめる時間を考えても処分が決まるにはまだ早い。ならばこれは、形式上の確認ではなく……何か別の意図がある。
胸の奥に、鈍い違和感が生まれるが、足を止める理由はない。
ヒルダを待たせている以上、無用な警戒を露わにするわけにもいかなかった。
廊下を抜けると、重厚な両開きの扉が視界に入った。
深い色の木材に、金の装飾が施されたその扉には《第三・上層執務室》と記されている。塔でも限られた者しか立ち入ることを許されない区画──当然、普段ならドミニクスの立場では足を踏み入れる機会のない場所だった。
「こちらです」
「……承知した」
使者の男が静かに一礼し、ノックの後に扉を押し開ける。中から、ひやりとした空気が流れ出た。
深く息を吸い、胸の内の不穏を押し込める。軽くローブの裾を払うと、足を一歩、部屋の中へと踏み入れた。
部屋の照明は意図的に落とされていた。天井の灯は最低限の光量に絞られ、壁際の間接照明だけが暖かな色で空間を照らしている。
奥には重厚な執務机。その手前には厚手の絨毯が敷かれ、応接用のソファとテーブルが並んでいた。
机の背後には人影がひとつ。だが、入口からでは表情までは見えない。
「やあ。突然すまないね。来てくれて有難う」
聞き覚えのある朗らかな声が、静かな室内に響いた。
その人物は椅子から立ち上がり、ゆったりとドミニクスの前まで歩み出る。
「今度また話そう、とは言ったけれど、まさかこんな形になるとはね。……本当なら、もっと穏やかな席で会いたかったよ」
眉を下げて苦く笑うのは、ヒルダの恩師である上席研究員──
「……アンナ・エイプリル」
「覚えていてくれたんだね! 堅苦しいのはなしだ。気軽に“エイプリル先生”とでも呼んでくれたまえ」
フルネームで呼んでしまったことに気づき、ドミニクスは咄嗟に口元を押さえた。
自分にとっては恩師ではないので、そう呼ぶのは抵抗がある。どうするべきか迷い、視線を落としてから小さく返した。
「……では、エイプリル殿と」
アンナは「殿?」と口の端を上げ、面白そうに目を細める。
「はは……まあ、いいか。さあ、こっちに座って」
応接机の前に案内され、ソファへと腰を下ろす。使者の男が音も立てずにお茶を淹れ、湯気の立つカップを二人の前に置いた。
アンナが一口、口をつけたのを見届けてから、ドミニクスも静かにそれに倣う。淡い香草の香りが口内に広がり、喉が潤った。
「さて……グランツ君。早速だけど、本題に入ってもいいかな」
「ああ」
アンナは身を乗り出すと、ソファがぎしりと小さく軋んだ。
「今回は、まったくの災難だったね。まさか、君の家があんな暴挙に出るとは思わなかった。過激な考え方があるものだ」
短く息をつき、眉を寄せる。
「この塔ではそれぞれが異なる志を持って研究している。信念を掲げるのは自由だが、他者に危害を加えたり、倫理を踏み外していい理由にはならない。──そこを取り違えてはいけないんだ、絶対に」
「……」
アンナの声は穏やかだったが、その奥にある失望の色は隠しきれていなかった。ドミニクスは何も言わず、膝の上で組んだ手を固く握りしめた。
「そこで、ひとつ確認したい。──グランツ家が掲げる“魔術至上主義”の思想を、君はどう思っている?」
「……心底、賛同できない考え方だ。彼らは力に酔っているだけだ。自分たちが“選ばれた者”だと信じ込み、力を振るうことでしか価値を証明できない。滑稽で、傲慢で、醜悪だ」
「辛辣だね」
「魔力の有無や、量だけで人間の価値が決まるなどと、本気で信じている。無魔力の人々を蔑み、支配することが正しいと信じて疑わない。……虫唾が走る」
ドミニクスが低く言い放つと、眼鏡の奥で光が反射し、アンナの瞳が鋭く細められた。
「そう感じているんだね。……でも、君もあの子に言っただろう?
なんだったかな。“無魔力の女が助手など、侮られたものだ”……そんな言葉だったね?」
ぐ、とドミニクスの息が詰まる。確かに、自分が初対面のヒルダに放った言葉だ。その場にアンナもいたのだから、否定しようものがない。
「……確かに私が言った言葉だ。間違いない。だが、もうそのような考え方はしていない。……信じられないかもしれないが、本当だ」
「うん。今の振る舞いを見ていたらわかるよ。あの頃とは違う」
アンナの声音は穏やかだった。けれど、その奥に探るような光が宿っている。
「思想が異なるにしても、今回の件で、君の家族は罰せられるだろう。それについては、どう思う?」
「妥当。罪は、罰せられるべきだ」
「……それに対して、君の研究に制限がかかるとしても?」
「…………ああ。答えは変わらない」
声の奥に微かな痛みを滲ませながらも、その決意は揺らがない。
アンナは「……そうか」と息を吐き、表情を引き締める。
「──ゲイル・グランツが仕掛けてきた件。実はね、先日君が薬を盛られた“あの件”とも繋がっているんだ」
ドミニクスの目が、動揺で大きく揺れた。
アンナは肩をすくめながら、軽く息を吐く。
「まったく……三ヶ月も経たないうちに懲りないよね。君の家系──いや、“魔術至上主義”の流れを汲む家々は、皆そうだ。高い魔力を持つ者同士で婚姻を結び、家の力を保とうとする。
それ自体は構わない。けれど、彼らは“選ばれし血統”という幻想を本気で信じている。そしてその多くが、この塔の中で研究者として活動しているんだ」
そこでアンナは、わずかに声を落とした。
「君の“相手”には、プリメラ・シュトラウスを宛てがうつもりだったようだね」
その名を聞いた瞬間、ドミニクスの顔が歪む。喉の奥に嫌悪がせり上がり、拳を握りしめる。
蜂蜜色の髪をした、ドミニクスにしつこく付きまとっていた令嬢。所作だけは上品に見せていたが、言葉の端々には他者を見下す響きが常にあった。
研究に理解があるふりをして近づいてきたが、『貴方様の実力では、もっとご両親のように素晴らしい研究をなさるべきですわ』そう言って、酔いしれるように微笑んでいた。
古くから家同士の付き合いがあり、親交を無理に強いられていた。拒めばそれなりの報いがあった。
距離を取ってやり過ごせていると思っていた──だが、あの晩。
あの女はドミニクスに無理やり薬を盛った。
熱に浮かされ、理性が溶けていくような、制御不能な衝動。恐怖が脊髄を駆け抜け、なりふり構わず、ドミニクスは逃げ出していた。
ヒルダに介抱してもらえなければ、どうなっていたか。想像するだけで全身に寒気が走る。肩を抱き、がしがしと音が立つほど強く腕をさすった。
「……辛いことを思い出させて申し訳ない。彼女は修道院に送られたよ」
「知っている」
頷きながら答える。あの鬱陶しい女がいなくなって、心底安堵したのを覚えている。
だが、アンナの表情が静かに変わる。レンズ越しに見えたのは、わずかな同情を滲ませた瞳だった。
「……君がグランツ家の跡取りでいる限り、無魔力のヒルダ・ラインベルグと結ばれることは難しい。──その現実を、君は受け止めているかい?」
核心を突く問いに、ドミニクスは言葉を失う。
自分ひとりではどうにもできない現実。その重さに、喉の奥が強張った。
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