揺り椅子の女神

白岡 みどり

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一章

12.暴挙

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「『かぞくの医学』です」

 広い室内に響いた声は小夜の想像よりも大きかった。
 小夜の言葉に、バルトリアスもラインリヒも口を開け、愕然として立ち尽くしている。
 頭上でフレイアルドが息を呑んだのを感じた。

 その中で最も早く再起動したのはバルトリアスだった。

「医学書だと!?」
「これが、医学書……!?」

 バルトリアスとラインリヒの二人が競うようにノートを覗き込むので、小夜は鞄の中にもある、と教えた。ラインリヒが慌てて取り出す。
 数冊にも渡るノートをラインリヒは震える手で捧げ持った。

「こんなにあるのか!! すげぇ……!! サヨ、読んでいいか?」
「は、はい」

 小夜が許可を出すとラインリヒは床にどかりと腰を下ろして、眼球とページを捲る手以外微動だにせず読み耽る。
 バルトリアスの方は既に二冊目に突入している。
 てっきり怒られると思っていた小夜はポカンとその様子を見ていた。
 頭上から溜め息が聞こえた。

「サヨ……少し、こちらへ」

 すぐ側の小さな寝台に小夜は降ろされた。
 掛布がなく、敷布だけの小さな寝台は昔には無かったものだ。
 フレイアルドが小夜の前に立つと、一心不乱にノートを読むバルトリアス達の姿は小夜から一切見えなくなった。
 気遣わしげに小夜の手を握る。

「写したとは、翻訳したということですね」
「? はい」

 フレイアルドは何かを堪えるように両眼を固く瞑った。
 彼の手が小夜の指を撫でる。

「こんな、小さな手でーーなぜ……翻訳を?」

(なぜって、それはーー)

 小夜の中では当たり前の理由だから、自然と口から答えがこぼれた。

「フレイアルド様に、差し上げたくて」
「ーー私、に?」

 滅多に見られないフレイアルドのきょとんとした顔に、小夜は胸が高鳴った。
 無意識に心臓の音を掻き消そうと、言葉がたくさん出て止まらなくなる。

「こ、子供の頃、フレイアルド様がたくさんたくさん、本を読んでくれてーー本当に嬉しくて、それで、いつかお礼がしたかったんです」
「ーーお礼」

 小夜は話しながらだんだんと頬が熱くなるのを感じていた。

「は、はい。フレイアルド様と会えなくなっても、教えてもらった文字を忘れたくなくて、それで」
「ーーなぜ、医学書にしたのですか?」

 小夜は尋ねられて記憶を探る。
 母に揺り椅子を取り上げられ、それを聡一が慰めてくれたあの時、自分は何を考えていただろう。
 そうあれは確か、彼との会話から思い出したのだ。

「フレイアルド様が、こちらには病院がないと仰っていたので。役に立つかなぁ、と……」

 フレイアルドの手が小夜の手を包みこむ。
 小夜から見上げた彼は、何か強い衝撃を受けているようだった。

「私の、役に立とうとしたのですか?」
「はい……あの、こんなすごい道具があるなんて知らなくて、無駄なことでしたけど……」

 小夜は腕輪を示して苦笑した。
 
「今度はもっと、フレイアルド様のお役に立ちそうな本を訳してみますね」

 小夜が顔を軽く傾げてフレイアルドに微笑みかけた次の瞬間。

 フレイアルドは上体を屈め小夜の後頭部に手を添えると、その唇を小夜に重ねた。

 ***

 小夜は、自分がフレイアルドに口付けられたことを理解するのに、数秒を要した。

(ーーあれ? え? なんで? ーーフレイアルド様が?)

 小夜が思考をまとめられないうちに、唇はちゅっ……と小さな音を立てて離れる。
 何が起きたか分からない小夜に、フレイアルドは艶やかに微笑みかける。

「ーーやはり、覚悟して貰わないといけませんね」

 耐えようとは思ったのですが、と笑うフレイアルドは小夜の下ろされた髪の束を取り、そこへ口付けながら、はっきりと宣言した。


「ーー貴女の髪を上げるのは、生涯私だけです」


 小夜はきょとん、とフレイアルドを見つめた。

(か、髪?)

 どう言う意味かさっぱり分からない。

「わたしの、か、髪を上げたい? のですか?」
「そうです」
「それは、その、構いませんが……」

 フレイアルドが小夜の髪に口付けながら、くすりと笑う。

「約束ですよ」
「はい……?」
「他の者には、決して許さないで下さいね」

 上目遣いでいいですね? と念を押すフレイアルドの色香に気圧され、小夜はこくこくと頷いた。


 ーー小夜は全く気づかなかったが、ラインリヒとバルトリアスはしっかりとその光景を見ていたのである。
 二人はフレイアルドが小夜へ働いた暴挙の最初から最後までを、穴が開くほど見ていた。

 こちらの常識を何も知らない少女に『髪上げの申込』をする姿に至っては天を仰ぐしかなかった。


「……」
「……殿下」
「……見なかったふりをしておけ」
「しかし、いや、でもあれは流石にーー」
「俺は何も言わん。言いたいなら其方が言え。オレラセアの加護を持つ者がこの国から一人消えるのは痛手だが……」
「やめておきます」

 ラインリヒは己にしか聞こえないくらい小さな声で小夜に、ごめん、と謝った。

 ***

「なぁ、こっちの本はなんだ?」

 ラインリヒの声に、小夜はひょいとフレイアルドの背中から顔を出した。

「ーーそれ! 入ってたんですか?」
「サヨ! 危ないですから、私が」

 つい慌てて立ちあがろうとする小夜はフレイアルドに肩を押さえられ、止められる。
 そのまま抱き上げられラインリヒの元へ向かうと、その手にあるものを見て小夜は泣きそうになった。

(そうちゃんが、入れてくれたんだ……)

「……これは、この翻訳の原書です」
「原書って、この分厚いのが?」

 小夜は頷く。
 小夜はあの時、原書を持ち出す時間がないと思って諦めていた。
 ーー弟は、聡一はどこまで自分に優しいのだろう。

 ラインリヒはパラパラと原書を捲り、何かに気づく。
 
「これがサヨの国の文字なんだな。そういえばさっきこっちの帳面にもあったけどこれは何て書いてあるんだ?」
「え……?」

 ラインリヒが小夜に差し出したのは、鞄の外に出ていた一冊、その途中のページだ。
 小夜は翻訳ノートに日本語で何かを書いた記憶がない。
 どうしてそんなものが、と思いながら差し出されたそれを読んでいく。

 それは小夜の筆跡ではない、荒々しい走り書きだった。
 その内容を見て小夜は悲鳴を上げる。

「う、うそ、やだ」
「サヨ? 何と書いているんです!?」

 すぐ側のフレイアルドの声も届かないほど、小夜は取り乱した。

「ーーやだ!! そうちゃん、そうちゃんっ……!!」

 狼狽する小夜の手から落ちそうになったノートをフレイアルドが咄嗟に掴む。
 しかしフレイアルドには何と書いているのか読めない。

「貸せ」

 フレイアルドの横からぬっと伸びた手はバルトリアスのものだ。
 バルトリアスは帳面を奪うと、右眼に片眼鏡を掛けた。

「殿下、それは」
「戦争の賠償金としてエブンバッハから巻き上げた。……ふん、この文字も読めるな」

 読める、とこともなげに言うバルトリアスに小夜は反応し、顔を上げた。
 バルトリアスの目線は、走り書きの上に固定されている。

「そ、それを着けたら……日本語も、読めるのですか……?」
「そうだが?」

 小夜はガタガタと、傍目に見ても分かるほど震えながらバルトリアスに懇願した。

「……よ、読まないでください」
「無理だ。ーーもう読んだ」
「そんな……」

 小夜は両手で顔を覆った。
 その尋常ならざる様子にフレイアルドはバルトリアスを射殺さんばかりに睨みつける。

「ーー殿下」
「今後の対策には必要不可欠なことだ。ーーサヨ、選べ」

 びくりと身を震わせたサヨを、バルトリアスは無感情な視線で突き刺す。
 その先を聞きたくない、そう思うのと同時に逃れられない現実を突きつけられる予感がした。

「俺が読み上げるか、自分で読み上げるか。今なら好きな方を選ばせてやろう」

 それは、選びようのない選択肢だった。
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