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悪魔憑き
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風呂を上がった後ますみはあてがわれた部屋で髪を乾かしていた。
入れ替わりに風呂に行った弟に言われた通りに部屋には鍵をかけてある。
自分にはまだ無関係だと思っていたのにああも目に見えた形で欲望を向けられてしまうと心穏やかではいられなかった。
「悪魔、あなたさっき私に逃げるように言いましたよね。どうしてですか」
鏡の上に座るガーゴイルの様な姿をした相手にますみは言った。
「知らねぇのか?強姦は魂の殺人って言われているのを。ありゃあながち間違いじゃねぇ」
「ご 強姦って! 口を慎みなさい。お祖父さんは下心はあったかもしれませんが何もそこまでしようとだなんて」
悪魔は鏡の上から明らかに馬鹿にした顔を向けてくる。
「おめでたい奴だなお前はよ、あのジジイがお前の体撫で回してそれで気が済むとか思っていたのか?どんだけネンネなんだよ」
「撫で…! せいぜい洗っている最中に偶然を装って触れたりとか… でしょう」
悪魔は目を覆った。
「ったくよぉ、お前が想像も及ばない事をするだろうよ。なんたっけ?おお、学校だ学校、学校でも教えてくれない様な、いや、とてもじゃないが教えられない様な事をな。ろくに男も知らないお前がそんな事されてみろ。正気なんて保てるものか。そう言うのはな、露骨に魂の色に出るんだよ。折角見つけた上等な魂だ。やすやす汚されてたまるかよ」
馬鹿にされた様に思えてますみはやや眉を寄せた。
「今の発言は私も祖父も愚弄していますよ」
悪魔は鏡をどけると長身の紳士の姿になりますみの前に座った。
「良いか良く聞け。あの爺さんは悪魔憑きだ」
言葉の意味が呑み込めずますみはただ悪魔の顔をじっと見つめた。
「俺が食堂でニヤニヤしていたのはお前の祖父さんが悪魔憑きだとわかったからだ。全員がって訳じゃないが悪魔憑きは周りにも悪影響を与える事が多いからな。お前が契約したくなる事もあるかもしれないと思ったからだ。だがこういう形になるとは思わなかった」
「悪魔憑きとはなんですか。気が触れたように暴れ回る事ではないのですか」
ますみは映画のイメージを思い浮かべていた。憑かれた者が奇声を上げたり人間とは思えない行動をしたりして、それを悪魔払い達が鎮めるイメージだ。
悪魔はずいと顔を寄せた。
「この世の中はどんな奴が上手く行っていると思う?才能ある奴か?努力を怠らない奴か?清廉潔白な奴か?神に従順な奴か?いいや違う!じゃぁどんな奴がこの世を動かしている。それはな、欲望に忠実な奴だ。そういう中でさらに一歩踏み出す奴ってのはな、大体の奴が引いている越えちゃならない一線ってのを自分の都合でずらす事が出来る奴さ」
「何を言っているのですかあなたは」
ますみは真面目な者や努力をする者が否定された気がして眉をひそめた。
「不満か。不満を持つ奴ってのは大抵ルールに縛られた奴さ。どうでも良いルールに縛られてやりたい様に出来ず、やりたい様にやっている奴の餌になる奴だな」
ますみが反論する。
「ルールや規律はお互いが上手く行く為のものです。守るのは当然です」
所が悪魔はげらげら笑った。
「違うんだなぁ。ルールってのは守る奴を出し抜いて守らない奴に得をさせる為の足かせでしかねぇんだよ。いいか?徒競争でスタートの合図より速く走りだした方がそうじゃない奴よりどれだけ有利な事か! 」
「そんな不正は認められません! 」
ますみの凛とした表情さえも悪魔は笑い飛ばした。
「認められちまうのさ」
そしてその後真顔で言った。
「悪魔が憑いていればな」
そして悪魔は一度身を放し、ドレッサーに腰かけた。
「悪魔ってのはな、人間の魂を手に入れようとする。それにはいくつかやり方がある。一つは契約を一回行い、魂をまるまる差し出させる代わりに生きている間に好き勝手させてやるやり方だ。回収は死後になるがこれは確実じゃない、過去に取り逃した例がいくらかあるからな。それに寿命を延ばすなんて事を要求する奴もいて割が合わん」
「私は契約などしませんよ」
「そう言う話はしてねぇ!聞けよ!二つ目は魂の一部を仮に差し出させるやり方だ。差し出す割合で叶える要求の内容が変わるな。これなら魂の価値以上の対価を悪魔側が払う必要はない上、仮にではあるが所有権が悪魔にその時点で渡る。死後取り逃すことにはならん。もっとも仮である以上生きている間は人間のものとして扱われるがな。これがお前と取り交わすタイプの契約だ。覚えておけ」
「しませんてば」
「三つ目が悪魔憑きだ。これは俺の様に上等な悪魔はやらないタイプだな。お前の様な美しい魂を持った奴にも縁がない契約だ。さっきも言ったが本来越えてはならない一線を自分の都合でずらすような高潔さの足りない魂に低級な悪魔が入り込む事で行う。一度一線を動かしてしまうとな、そうする事に対する抵抗が薄れ、何度でもどこまでも身勝手にその線を動かして行くようになる。簡単に言えばルールを守らないとか他人への配慮を無視するなどだ。自分の欲望のままに好き勝手行うのだ。それは悪魔にとって都合が良い。なにしろ自分から魂を重く黒くして地獄へ向けてくれるのだからな。だから憑依した悪魔はいくらでも力を貸す。そしてあたかもそいつ自身の考えの様に次から次へ悪事を吹きこんでやる。吹きこんでやるだけでそれを実行するかどうかはそいつ次第だ。実行するなら悪魔は力を貸す。これが契約の仕方だ。不正がばれないように、ばれても大した制裁は受けないように計らう。その魂がこれ以上ないほどに染まるまで幾らでもな。もし悪の限りを尽くした後で正義の制裁を受ける様な奴が居たとしたなら、それはもう悪魔にとって力を貸してやる価値がないくらい闇に染まった魂だって事だ」
ますみはいぶかしむ様に言った。
「私がどうかはしりませんが、あなたは高潔な魂が欲しいのでしょう?ならなぜ不正を好む様な魂に憑依するのですか。」
悪魔はもっともだと言う様に軽く頷いた。
「俺達は本来、聖人や聖職者などの高潔な魂を堕落させることを至上の喜びにしている。しかしな、そう言う奴らは少ない。お前が考えるよりあまりにも少ない。それに俺達が最終的に目指す所は人間を神から引き剥がす事だ。それにはお前達の言う所の人の道から外れた奴が引っ張り込みやすいのだ。奴らは欲望に忠実で心も弱い。因果を大きく動かせない悪魔でも取り入ってしまえばやりようがあるのさ。どんな悪魔であろうと真面目にやっているだけの不運な人間よりは契約相手を出世させる事が出来る。意識の中でそう言う悪魔のささやきに耳を貸した奴らが世に出て行くのは至極当たり前の事なのだ」
ますみは思わず拳を握り締めた。
「それではまるで不正を働く者の方が援助を受けられるかの様ではありませんか」
悪魔は表情を変えずにその通りだと言った。
「神は善人にも悪人にも平等に加護を与えるかもしれん。知らんけどな。だが悪魔は悪人に力を貸す。場合によっては善人の足も引っ張る。結果善人より悪人が力を持つのは当たり前だ。それに加え、ルールを守る奴はそれが枷になるがそうじゃない奴はやり放題できるからな。お前達の言う所の不正なんて使わない方が間抜けなただの手段だって事だ」
ますみは思わず立ち上がった。
「そんなの認めません! 」
「お前が認めるかどうかは関係ない。世の中はそう言う物だって事よ。悪魔憑きは自分がそうだと知らずに日々契約を更新している。よっぽどの事がない限り魂が真っ黒になるまで続ける事だろうよ」
「卑怯者! 」
涼しい顔をしていた悪魔だったがその言葉だけには反応した。
「おい小娘。これだけは言っておくぞ。契約ってのはな、両者の合意があって初めて成り立つものなのだ。一方的に押し付けて成立する物じゃ決してない。悪魔憑きに契約書が無いからって悪魔が一方的に人間を操っている訳じゃないのだ。人間が合意した上でやっている事なんだよ。お前の祖父さんもそうだ」
ますみは再び座り込んだ。泣き出したくなった。悪魔の言葉がすべて真実であるかどうかはともかく、祖父が悪魔憑きである事をますみに知らせるメリットは悪魔にはないはずなのだ。それはつまり少なくともそれは嘘ではないと言うことにもつながるのだ。
「どうしたら追い出せますか」
「俺が言うと思うのか? 」
ますみの言葉に対し悪魔はもっともな返事をした。
「それにな、爺さん自身が追い出そうとしていないんだ。悪魔払いでも無理だろうな。どうしても追い出したいってんなら相談に乗らなくもないぜ? 」
「契約はしません」
顔を寄せてきた悪魔にますみはぴしゃりと言った。
「お前そんな意地張ってるとどうなっても知らねぇからな」
* * *
脱衣場で興を殺がれて自室に戻った彼は床に入ったものの、目が冴えて全く眠れなかった。
テレビの大事故現場のニュースでたまたま映った救護の手が回らない所へ行っては額に汗して手を差し伸べている少女の姿。その顔立ちには見覚えがあった。
家を出た息子が十年近く前にふらりと自分の妻子の姿を見せに来た事があったのだが、その時に連れてきた女とそっくりだったのだ。
菫と名乗った女は実に美しかった。少なくとも彼の好みを集めて作ったかの様な彼にとって完璧な女性だった。彼はひと目で心を奪われ、息子ではなく自分こそが彼女の伴侶に相応しいと確信した。
自分を嫌って家を出た息子が顔を見せに来たのも、新しい家庭を持ち、子供にも恵まれたことを報告したいと言う菫のたっての願いからだった様だ。
そう、菫は自ら自分に会いに来たのだ、これは運命以外の何物でもない。彼はそう信じて疑わなかった。
運命である以上躊躇する必要はない。彼の為にあつらえた様な女なのだ。
彼は菫を自らの物にする事に何の抵抗もなかった。
事あるごとにアプローチをし、何度も迫った。
所が菫は極度の恥ずかしがりなのか決して彼を受け入れようとはしなかった。
強引に手に入れようとした時もただ自分と彼の罪を許して下さる様にと天に祈り、暴れ回る事はしないながらも決して体を開こうとはしなかった。
行為に及ぶまでもう少しと言う所は何度もあったのだがその度に何かしらの邪魔が入った。
息子はその度に怒り狂ったが菫はそれをいさめた。警察に駆け込む事もしなかった。それはそうだ、菫は本来息子ではなく自分の物であるのだから。
菫は自分の物になりたかったに違いない。だが彼女はクリスチャンだった。その信仰心から夫の下から離れられなかったにすぎない。そしてその檻の中から出る事なくこの世を去った。気の毒な女だったのだ。
だが見ろ、菫の意思は生きていた。娘と言う形で彼に対して自らの分身を残したのだ。
テレビに映った少女の横顔は菫をそのまま子供にまで幼くした感じではないか。
実際に会って聞いた声は菫とは違うものの、その転がした鈴の音の様なそれはなんと心地よく聞こえる事か。
ますみは菫が叶えられなかった彼の物になると言う願いを叶える為の手段なのだ。
確かにまだますみは幼い。女として見るには年端が足りていない。だがだからこそ彼の前に姿を見せたのだ。
まだ誰の手にも渡っていないうち、悪い虫が付かないうちに自らを差し出そうと言う菫の思いなのだ。
テレビでますみの姿を見るまで当時の菫に幼い娘が居た事などすっかり忘れていたが、顔を見てすぐそうだとわかった。そして居所もすぐ特定できた。
だから招いた。ますみは当然結婚もしていない。もう彼女と彼が一つになる事を邪魔する事は出来ない。
彼は菫の微笑みや肢体を思い出し、胸を高鳴らせた。
目が冴えて眠れないのは無理もない。この家に菫が居るのだから。いや、二人の子を産んだ後の当時の菫ではなく、まだ誰の手にも汚されていない手付かずの状態の菫が居るのだ。
食堂で話した結果、ますみは菫と同様生真面目で潔癖な所があるようだ。これは都合が良い。
もし万が一にますみが彼の事を受け入れようとしなかった場合、強引にでも事に及んでしまえば自らが穢れたと思い込み、自己嫌悪のあまり他の男の下には行けなくなるのだ。これはこれまでに彼がそう言う愛人を作った経験があるからこそ確信できた。クリスチャンならばなおさらだ。
それにますみの年齢を考えればその度合いはさらに強まる事だろう。
時が過ぎるごとに彼の頭の中はますみに対する劣情で埋め尽くされて行く。そしてそれに呼応するように欲望が形となって驚くほどに屹立している。
意識せずとも膨大な熱が流れ込んで行っているのが解る。心臓がたぎり喉が熱くなる。
やおら彼はむくりと身を起こし、戸棚からいくつかの錠剤を取りだすと子供が菓子でもほおばる様に次々口に入れ、それを高価なドリンク剤何本かでどんどん流しこんだ。
口角からこぼれた雫を手の甲で拭うと彼はパジャマの上にガウンを羽織り、部屋の扉を開いた。
* * *
いつもとは違うベッドの中で何度も寝返りを打ちながらますみは目を閉じていた。
寝床が変わったからと言って眠れなくなる様な性質ではなかった筈だがどうにも意識が静まらない。
脱衣場であんな事があったからだろうか。父が逮捕されたからだろうか。
折角居る事がわかって会えた祖父であるのに恐怖や、認めたくはないがいくらかの嫌悪感を持ってしまった事に対し罪悪感を感じ、神に赦しを乞う祈りを何度かしたがそれでも落ち着かなかった。
明日からの事も考えてなるべく何も考えないように、眠りに就こうとする。
自分がうろたえては弟にも影響が出る事だろう。いつもはそのような事はしないのだがすがるようにロザリオを両手にして意識を落ち着ける。
それが功を奏したのか少しずつだがますみの心は乱れを減らし、いくらかウトウトし始める事が出来た。
苦労してやっと訪れた夢うつつの中で、ますみは今居る部屋のベッドに腰掛けてドアを見つめていた。そういう夢を見ていた。
深夜の静けさの中足音が聞こえる。遠くからぺたぺたと。
ますみはその音がどうにも不快で身を縮めた。
ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた
それはドアの外ではたりと止まった。
ドア越しに音の主がこちらを向く気配がわかる。厚い板越しにその熱を帯びた視線は怯えるますみのそれをぴったりと捉えている。
思わずますみはベッドから立ち上がり壁にぴったり後ずさる。
ノブが静かに回る。だが扉は開かない。弟の言葉を受けて鍵をかけていたのだ。
ガチャ、ガチャ。
今度は苛立ったかのようにノブが音を鳴らす。
ますみは息をひそめロザリオを握り締める。
ノブは動きを止め静かになった。
諦めたのだろうか。
いつの間にか止めていた息がほっと吐き出される。
と、次の瞬間ガチャリと大きめの音が鳴った。
ひっと微かに声を漏らすますみの視線の先でノブはゆっくり回り、そして音もなく扉は開いた…。
その陰から猫背の何者かがまるで脂の塊でも動いて来たかの様にぬらりと入って来る。
窓からの月明かりに照らされたそれは紛れもなく祖父その人だった。
恐ろしさの余りまどろみの中から飛び起きたますみは暗がりの中でまず詰まっていた息を大きく吐きだした。
背中にパジャマが張り付いている。嫌な汗をたっぷりかいた様だ。
夢だった事に安堵するますみの顔の前に悪魔の顔があった。
「やっと起きたか。おい小娘、契約するなら早い方が良いんじゃねぇか? 」
悪魔が顎をしゃくっている。その先に今まさにドアを開けて入り込んで来ている祖父の姿があった。
夢か現実かなどそんな事はどうでもよかった。ただあまりの事態にますみは声も出せず身を守るかのように掛布団を抱えたままベッドの上に立ち上がった。
暗がりの中からのろりと近づいて来るそれはまるで巨大なヒキガエルが直立して居るかの様で現実味がない。ただ言えるのは暗さのあまり確認できないにもかかわらず、その視線は今までに感じた事が無いほどギラ付いていて痛みを錯覚させるほどに肌に刺さっている事と、明らかに意図を持って入ってきたという事だ。
そうなのだ、家の主である以上鍵をかけた所で合鍵を使われてしまえば無意味なのだ。
「お祖父さん……」
やっと絞り出せたのがその一言だ。
「ますみ、目を覚ましたのか。不安や寂しさのあまり眠れなかったのだろう。無理もない、だから私が添い寝をしに来てやった」
その周りの空気だけ粘度がやたら高いのではないかと思うほどねっとりとした歩き方で祖父は窓から射す月明かりの下に歩み出してきた。
血走ったまなこは見開かれ、どこか狂気すら感じさせる。特上の獲物に有り付かんと躍り掛かる前の毒蛇の様な表情がますみの濡れた背中をさらにぞっとさせた。
そして何よりおぞましきは見たくも無かったのに嫌でも視界に入って来た彼のガウンのあまりにも不自然な隆起だった。それは脱衣場で目にした時とは全く比較にならず、膨らんだと言うよりも最早突き出したと言った方が適切だろう。ますみにしてみたら人間の形として有り得ない状態だ。
掛布団を持ったまま顔を青くして口を隠すますみに祖父はまた一歩踏み出した。
「ますみ。立っていないで横になりなさい」
肌に張り付く様な声に身震いし、ますみは必死で声を絞り出した。
「かなた…… かなた…… ! 」
「あの子もいろいろあって疲れたろうに、子供は枕が変わると寝つけんだろうて、あれの皿には薬を混ぜておいた。朝までよく眠れるだろう。お前にもと思ったがそれではお互いに面白くなかろう」
また一歩、欲の権化が近付く。彼の視線はあたかもますみの衣類さえ突き破って奥を覗いているのではないかと思えて少女はさらに恐怖した。
「契約しろ。今なら助かる。後で後悔するよりましだろ」
悪魔が耳元で囁く。
ますみは首を振った。
「お前、事態がどんなにやばいか分かってねぇだろ。こいつは本気だぜ? 」
祖父の目がさらに見開かれる。口角が上がりやや高い声で彼は言った。
「ますみ、良い子だ。そこに横になりなさい。でないと……」
動きが早まった。ますみの立つベッドまでの数歩を彼はゴキブリの様な早さで移動した。
哀れな少女は上げた事もない様な悲鳴と共に手にしていた布団を相手に被せ、火が付いた様に部屋を飛び出した。
階段を飛び降りる様に駆け降りながら弟の名を何度も呼ぶ。あれは人間ではない。人間の下半身があんなになる訳がない、服を着ているのにあんなに分かるなんてあまりにも不自然だ。悪魔憑きの力に違いない、ますみはそう思った。
「かなた!かなた!開けて下さい!かなた! 」
弟の部屋の前でますみは扉に向かってそう叫んだ。入れなかったのは鍵が掛けられていたからだ。
「起きやせんよ。お前は寝られるかわからんが」
すぐそこまで祖父は迫っていた。
ますみは仕方なく祖父の居ない方に走った。まるでそれを追うかの様に照明が点灯して行く。多分センサーが働いていてスイッチを入れる必要が無い様になっているのだろう。これでは逃げる先を知らされるようなものだ。
ますみは廊下に面した最後の扉を試し、開いたをの幸いにその中に入り込むなり鍵をかけ、さらに室内にあった動かせそうな家具をから次々ドアの前に置いた。
木製の扉の向こうにどこかべったりとした印象を与える足音がやって来る。
「開けなさいますみ。何を恐れているのだ。私は身内だ」
ますみは組み上げたバリケートを背に飛び出しそうに暴れ回る心臓の辺りに手を添えて声が出せるようになるまで必死に息を整えた。
その間も廊下の相手は強引に扉を開こうと試みている。
「ここを開けなさい、ますみ」
ますみは通らない視線が自分をなめまわしているのを感じながら相手に向かい合った。
「お祖父さん、私は一人で眠れます。どうか自室にお戻り下さい」
「言い方を変えようますみ。寂しかったのだ。妻と別れて久しくてな。身内がやって来て嬉しいのだ。どうだ、添い寝をしてくれんか」
憐みを買う様な声色で老人は答えた。
掌ほどの翼の生えた小鬼の様な姿で追って来ていた悪魔がますみの顔の前にやってくる。
「おいお人好し、まさかまんまと騙されちまうんじゃないだろうな。信じるなよ? 」
ますみは一度悪魔に目を合わせたが、再び扉の向こうにいるであろう老人に目を向けた。
「お祖父さん、あなたが寂しかったのは本当かもしれません。私もいないと告げられていた祖父が存命だった事には喜んでいます。長く疎遠だった時間を埋めたい気持ちは多分同じです。どうかその為に悪魔と手を切って下さいませんか?お祖父さんの体には悪魔が憑いています。それが私とお祖父さんの仲を深める妨げになっています」
その言葉に悪魔が呆れる。
「んな事言われてはいそうですかってなる奴がどこにいるってんだよ」
「ますみ、お前が何を言っているのか私にはわからんが、お前が望むならそうしよう。さぁ、出て来て私に顔を見せておくれ」
悪魔が思わずますみの顔を見る。
「私の言う言葉を復唱して下さい」
「それで出てくるんだな?よし、なんと言えば良い」
ますみはすっと背筋を伸ばすと凛とした声で言った。
「大天使聖ミカエル。戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え」
ますみはそこまで言うと復唱を待った。
「ますみ、何を言っているのだ?私にはよくわからない。それを言う事にどんな意味があると言うのだ」
廊下から戸惑った声が返る。
「もう一度はじめから言います。復唱して下さい。大天使聖ミカエル。戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え」
声は返らない。
悪魔はげらげら笑った。
「お前なかなかの悪女だな。俺クラスならともかく、チンケな悪魔風情じゃ中々言えないわな。聞かせるのと言わせるのじゃ意味も全く違うしな!益々気に入った!しかしな、仮にこれを言わせた所で、出て行った奴はすぐ戻って来るぞ」
ますみはそれ以上待たずに続けた。
「大天使聖ミカエル。戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え。天主の彼に命を下し給わんことを伏して願い奉る。ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を天主の御力によりて地獄に閉込め給え。アーメン」
すると廊下の男は低い声で言った。
「ますみ、大概にしなさい。戯言など言っていないで今すぐここを開けて私と寝るのだ」
「お祖父さん、気をしっかり持って下さい。悪魔に耳を貸してはなりませ……」
「さっさと出てこいと言うのだ! 」
ますみの声は扉を蹴りつける音と恫喝によってかき消されてしまった。
あわれな少女は下唇を小さく噛み、身内を疑う罪を告解した後ためらいがちに小さな声で言った。
「お祖父さん、あなたは、私に良からぬ事を企てているように思えます」
聞いた事もないぞっとするような低くくぐもる様な笑いが扉越しに聞こえた。
「怖がる事はない、誰でも通る道だ。私がお前を女にしてやろう」
あまりにも露骨な返事にますみは今まで以上の恐怖に加え吐き気を覚えた。
悪魔の言葉は正しかったのだ。
どんなに大人びた行動をしていても、地域で頼られる委員長だったとしても、この言葉をまともに向けられたますみは凍てつかずにはいられなかった。
めいっぱい背伸びしていた所で結局は年相応の中学生で子供なのだ。
次の言葉が一切出てこない。意味もなく視線が泳ぎ、ただただうろたえた。一人前であろうとしてきた事は確かだが、こういうのは想定外だ。しかし年齢を理由に相手は子供として扱う気はない様だ。
ドアの向こうの声は嫌になるほど落ち着いていた。
「ますみ、良く考える事だ。お前達姉弟は身寄りがなくなった。だが私の下にいれば不自由なく暮らせるのだ。良い学校にも行けるし大学を出る事も出来よう。だがもしここを出て行けばどうなる。児童養護施設でまともに進学できると思うかね。進学してその生活を維持する事が出来るかね。ますみ、弟の事も考えてやったらどうだ。あれは施設での生活など嫌がるかも知れんぞ」
思わず顔を上げるますみは弟が人質にとられた事を知った。それでも声を振り絞った。
「あなたは私達に生活の場を提供する代わりに私に体を差し出せと言うのですか」
「私の望む時にお前が応じるだけでお前と弟の生活は保障されるのだ。知られるのが嫌だと言うなら弟には秘密にしておけばいい。お前の面目は保たれよう。」
相手の顔が見えるようなねっとりした声だった。
「私の立場で言うのもおこがましいですが、あなたは身内に対価を求めると言うのですか。それだけに留まらず、血の繋がった孫と関係を持とうと言うのですか」
ますみの問いかけに相手は扉越しにどことなくヒキガエルを思わせる声で笑った。
「お前の父は連れ子だ」
え?と言う声が思わずもれる。
もし父がこの男の実子で無いとするのなら自分は全く血の繋がらない孫と言う事になるではないか。赤の他人だ。
「ますみ、お前は運が良い。父親があのような事になっても私と言う者が居たのだからな。自分の役目が分かるな? 」
風向きが良くない事に悪魔は苛立ったようにこめかみを掻いた。
「おいおい小娘、まさかジジイの言いなりになっちまうつもりじゃないだろうな。大体お前ら分かってんのか?純潔ってのがどれ程のモンなのか。数多の神々も、悪魔や魔物達も、何故こぞって巫女や生贄にわざわざ処女を要求するのか考えろ。お前らが想像するほどそう易々と手放していいもんじゃねぇんだぞ。大体お前ら人間は全くその価値ってのが分かってねぇ!お前らの大好きな金額的な価値で言うなら…… ああああ!換算できるようなもんじゃねぇって!命と同等なんだぞ!それをこんなくだらねぇ理由で手放そうって?冒涜もいいとこだ!百年物のペルシャ絨毯で豚の鼻水を拭う様なもんだ」
「お断りします!生活は姉の私がなんとかします! 」
ますみは恐怖を押しのけ凛とした声で言い放った。
「はん!水商売でもすると言うのかね。それとも風俗で働くのか?それと私の物になるのとどこが違うのかね」
「神は、姦淫を禁じておいでです! 」
扉の向こうの男は笑った。
「なんたらのマリアも娼婦だろうに。弟の為に一肌脱ごうと思わんのかね」
ますみは答えずに逃げ道を探した。隣の部屋へのドアがある。窓からも出られそうだ。相手が気付かぬうちにここから出た方が良いだろうか。逆に絶対に入ってこられない様に朝まで立て籠った方が良いだろうか。幾らなんでも朝になれば家政婦がやって来よう。あるいは電話のある所に行けば警察に連絡できるだろうか。
どんと乱暴に扉を蹴りつける音が壁を震わせた。
「分かっていないようだねますみ」
いくらか低くなった声が恐怖を煽る。
「お前は弟を守ると言うが、私は今その逆ができるのだよ。あれは今寝ている。お前の邪魔が入らないのならどんな事も出来るのだがね」
「卑怯な! 」
「弟を守るのだろう?ならお前が私を足止めするしかないではないか。早く出てこないと私はあれの腕の一本くらい折ってしまうかもしれんな」
解り易く狼狽するますみに悪魔は再び言った。
「契約しろ、すればお前も弟も守ってやる」
小さな唇をかみしめて泣きそうな表情で悪魔を見たますみだったがきつく目を閉じてそっぽを向いた。
「お前が遊んでくれない様だから弟に遊んでもらうとしよう」
足音が遠ざかってゆく。
「おい、あいつ弟をぶちのめしに行ったぞ?弟に罪は無ぇのになぁ」
悪魔の言葉が終わらないうちにますみはドアの前の家具を動かし始めていた。そして扉から出るなり遠ざかった祖父の背中に大声を叩きつける。
「かなたに手を出す事は許しません!用があるのは私でしょう!立て篭もったりしないから捕まえて見せなさい!出来るものならばね!もし朝までに捕まえられたら好きにしたら良いです!ただし……」
ますみの言葉が終わらないうちに祖父は猪の様に突進して来ていた。
小さな悲鳴と共に今居た部屋に飛び込んでかわすと、勢い余って転倒している祖父の背にさらに言い放って駆け出した。
「ただしかなたに手を出さないという条件です! 」
「上等」
老人は年齢に見合わないほど精気に溢れた目を輝かせると少女の消えた廊下の先を睨みつけた。
「ますみ、…… 菫。ようやくお前を手に入れられる」
何度手に入れようとしても手に入らなかった理想の女が手付かずで招いている。
自分色に染めるのだ。まだ何も知らない今の状態から何から何まで自分好みに染め上げてやるのだ。まっさなら細胞の一つ一つにまで自分を刻みつけてやるのだ。
老人はこれまで以上に高揚し、頬を上気させた。
「ますみ、ますみ、ますみ、ますみ、ますみ」
自分の理想足り得る少女。これからますます美しくなり、自分好みの体型に発育して行く女。そんな存在を指をくわえて見てなどいるものか。他の男に奪われる前に確実に自分の物にするのだ。彼女が母親同等の魅力を身に付けた時には完全に自分の女として仕上げておくのだ。
老人は一度高らかに笑うと無垢な少女の名を呼びながら後を追い始めた。
「良いだろう。弟には手を出さんでいてやる。朝まで続く追いかけっこをしようではないか。朝まで逃げ切れればだがな。それにお前は学校があるが私は昼に休む事が出来る。今日逃げきれたとして何日保つかな? 」
入れ替わりに風呂に行った弟に言われた通りに部屋には鍵をかけてある。
自分にはまだ無関係だと思っていたのにああも目に見えた形で欲望を向けられてしまうと心穏やかではいられなかった。
「悪魔、あなたさっき私に逃げるように言いましたよね。どうしてですか」
鏡の上に座るガーゴイルの様な姿をした相手にますみは言った。
「知らねぇのか?強姦は魂の殺人って言われているのを。ありゃあながち間違いじゃねぇ」
「ご 強姦って! 口を慎みなさい。お祖父さんは下心はあったかもしれませんが何もそこまでしようとだなんて」
悪魔は鏡の上から明らかに馬鹿にした顔を向けてくる。
「おめでたい奴だなお前はよ、あのジジイがお前の体撫で回してそれで気が済むとか思っていたのか?どんだけネンネなんだよ」
「撫で…! せいぜい洗っている最中に偶然を装って触れたりとか… でしょう」
悪魔は目を覆った。
「ったくよぉ、お前が想像も及ばない事をするだろうよ。なんたっけ?おお、学校だ学校、学校でも教えてくれない様な、いや、とてもじゃないが教えられない様な事をな。ろくに男も知らないお前がそんな事されてみろ。正気なんて保てるものか。そう言うのはな、露骨に魂の色に出るんだよ。折角見つけた上等な魂だ。やすやす汚されてたまるかよ」
馬鹿にされた様に思えてますみはやや眉を寄せた。
「今の発言は私も祖父も愚弄していますよ」
悪魔は鏡をどけると長身の紳士の姿になりますみの前に座った。
「良いか良く聞け。あの爺さんは悪魔憑きだ」
言葉の意味が呑み込めずますみはただ悪魔の顔をじっと見つめた。
「俺が食堂でニヤニヤしていたのはお前の祖父さんが悪魔憑きだとわかったからだ。全員がって訳じゃないが悪魔憑きは周りにも悪影響を与える事が多いからな。お前が契約したくなる事もあるかもしれないと思ったからだ。だがこういう形になるとは思わなかった」
「悪魔憑きとはなんですか。気が触れたように暴れ回る事ではないのですか」
ますみは映画のイメージを思い浮かべていた。憑かれた者が奇声を上げたり人間とは思えない行動をしたりして、それを悪魔払い達が鎮めるイメージだ。
悪魔はずいと顔を寄せた。
「この世の中はどんな奴が上手く行っていると思う?才能ある奴か?努力を怠らない奴か?清廉潔白な奴か?神に従順な奴か?いいや違う!じゃぁどんな奴がこの世を動かしている。それはな、欲望に忠実な奴だ。そういう中でさらに一歩踏み出す奴ってのはな、大体の奴が引いている越えちゃならない一線ってのを自分の都合でずらす事が出来る奴さ」
「何を言っているのですかあなたは」
ますみは真面目な者や努力をする者が否定された気がして眉をひそめた。
「不満か。不満を持つ奴ってのは大抵ルールに縛られた奴さ。どうでも良いルールに縛られてやりたい様に出来ず、やりたい様にやっている奴の餌になる奴だな」
ますみが反論する。
「ルールや規律はお互いが上手く行く為のものです。守るのは当然です」
所が悪魔はげらげら笑った。
「違うんだなぁ。ルールってのは守る奴を出し抜いて守らない奴に得をさせる為の足かせでしかねぇんだよ。いいか?徒競争でスタートの合図より速く走りだした方がそうじゃない奴よりどれだけ有利な事か! 」
「そんな不正は認められません! 」
ますみの凛とした表情さえも悪魔は笑い飛ばした。
「認められちまうのさ」
そしてその後真顔で言った。
「悪魔が憑いていればな」
そして悪魔は一度身を放し、ドレッサーに腰かけた。
「悪魔ってのはな、人間の魂を手に入れようとする。それにはいくつかやり方がある。一つは契約を一回行い、魂をまるまる差し出させる代わりに生きている間に好き勝手させてやるやり方だ。回収は死後になるがこれは確実じゃない、過去に取り逃した例がいくらかあるからな。それに寿命を延ばすなんて事を要求する奴もいて割が合わん」
「私は契約などしませんよ」
「そう言う話はしてねぇ!聞けよ!二つ目は魂の一部を仮に差し出させるやり方だ。差し出す割合で叶える要求の内容が変わるな。これなら魂の価値以上の対価を悪魔側が払う必要はない上、仮にではあるが所有権が悪魔にその時点で渡る。死後取り逃すことにはならん。もっとも仮である以上生きている間は人間のものとして扱われるがな。これがお前と取り交わすタイプの契約だ。覚えておけ」
「しませんてば」
「三つ目が悪魔憑きだ。これは俺の様に上等な悪魔はやらないタイプだな。お前の様な美しい魂を持った奴にも縁がない契約だ。さっきも言ったが本来越えてはならない一線を自分の都合でずらすような高潔さの足りない魂に低級な悪魔が入り込む事で行う。一度一線を動かしてしまうとな、そうする事に対する抵抗が薄れ、何度でもどこまでも身勝手にその線を動かして行くようになる。簡単に言えばルールを守らないとか他人への配慮を無視するなどだ。自分の欲望のままに好き勝手行うのだ。それは悪魔にとって都合が良い。なにしろ自分から魂を重く黒くして地獄へ向けてくれるのだからな。だから憑依した悪魔はいくらでも力を貸す。そしてあたかもそいつ自身の考えの様に次から次へ悪事を吹きこんでやる。吹きこんでやるだけでそれを実行するかどうかはそいつ次第だ。実行するなら悪魔は力を貸す。これが契約の仕方だ。不正がばれないように、ばれても大した制裁は受けないように計らう。その魂がこれ以上ないほどに染まるまで幾らでもな。もし悪の限りを尽くした後で正義の制裁を受ける様な奴が居たとしたなら、それはもう悪魔にとって力を貸してやる価値がないくらい闇に染まった魂だって事だ」
ますみはいぶかしむ様に言った。
「私がどうかはしりませんが、あなたは高潔な魂が欲しいのでしょう?ならなぜ不正を好む様な魂に憑依するのですか。」
悪魔はもっともだと言う様に軽く頷いた。
「俺達は本来、聖人や聖職者などの高潔な魂を堕落させることを至上の喜びにしている。しかしな、そう言う奴らは少ない。お前が考えるよりあまりにも少ない。それに俺達が最終的に目指す所は人間を神から引き剥がす事だ。それにはお前達の言う所の人の道から外れた奴が引っ張り込みやすいのだ。奴らは欲望に忠実で心も弱い。因果を大きく動かせない悪魔でも取り入ってしまえばやりようがあるのさ。どんな悪魔であろうと真面目にやっているだけの不運な人間よりは契約相手を出世させる事が出来る。意識の中でそう言う悪魔のささやきに耳を貸した奴らが世に出て行くのは至極当たり前の事なのだ」
ますみは思わず拳を握り締めた。
「それではまるで不正を働く者の方が援助を受けられるかの様ではありませんか」
悪魔は表情を変えずにその通りだと言った。
「神は善人にも悪人にも平等に加護を与えるかもしれん。知らんけどな。だが悪魔は悪人に力を貸す。場合によっては善人の足も引っ張る。結果善人より悪人が力を持つのは当たり前だ。それに加え、ルールを守る奴はそれが枷になるがそうじゃない奴はやり放題できるからな。お前達の言う所の不正なんて使わない方が間抜けなただの手段だって事だ」
ますみは思わず立ち上がった。
「そんなの認めません! 」
「お前が認めるかどうかは関係ない。世の中はそう言う物だって事よ。悪魔憑きは自分がそうだと知らずに日々契約を更新している。よっぽどの事がない限り魂が真っ黒になるまで続ける事だろうよ」
「卑怯者! 」
涼しい顔をしていた悪魔だったがその言葉だけには反応した。
「おい小娘。これだけは言っておくぞ。契約ってのはな、両者の合意があって初めて成り立つものなのだ。一方的に押し付けて成立する物じゃ決してない。悪魔憑きに契約書が無いからって悪魔が一方的に人間を操っている訳じゃないのだ。人間が合意した上でやっている事なんだよ。お前の祖父さんもそうだ」
ますみは再び座り込んだ。泣き出したくなった。悪魔の言葉がすべて真実であるかどうかはともかく、祖父が悪魔憑きである事をますみに知らせるメリットは悪魔にはないはずなのだ。それはつまり少なくともそれは嘘ではないと言うことにもつながるのだ。
「どうしたら追い出せますか」
「俺が言うと思うのか? 」
ますみの言葉に対し悪魔はもっともな返事をした。
「それにな、爺さん自身が追い出そうとしていないんだ。悪魔払いでも無理だろうな。どうしても追い出したいってんなら相談に乗らなくもないぜ? 」
「契約はしません」
顔を寄せてきた悪魔にますみはぴしゃりと言った。
「お前そんな意地張ってるとどうなっても知らねぇからな」
* * *
脱衣場で興を殺がれて自室に戻った彼は床に入ったものの、目が冴えて全く眠れなかった。
テレビの大事故現場のニュースでたまたま映った救護の手が回らない所へ行っては額に汗して手を差し伸べている少女の姿。その顔立ちには見覚えがあった。
家を出た息子が十年近く前にふらりと自分の妻子の姿を見せに来た事があったのだが、その時に連れてきた女とそっくりだったのだ。
菫と名乗った女は実に美しかった。少なくとも彼の好みを集めて作ったかの様な彼にとって完璧な女性だった。彼はひと目で心を奪われ、息子ではなく自分こそが彼女の伴侶に相応しいと確信した。
自分を嫌って家を出た息子が顔を見せに来たのも、新しい家庭を持ち、子供にも恵まれたことを報告したいと言う菫のたっての願いからだった様だ。
そう、菫は自ら自分に会いに来たのだ、これは運命以外の何物でもない。彼はそう信じて疑わなかった。
運命である以上躊躇する必要はない。彼の為にあつらえた様な女なのだ。
彼は菫を自らの物にする事に何の抵抗もなかった。
事あるごとにアプローチをし、何度も迫った。
所が菫は極度の恥ずかしがりなのか決して彼を受け入れようとはしなかった。
強引に手に入れようとした時もただ自分と彼の罪を許して下さる様にと天に祈り、暴れ回る事はしないながらも決して体を開こうとはしなかった。
行為に及ぶまでもう少しと言う所は何度もあったのだがその度に何かしらの邪魔が入った。
息子はその度に怒り狂ったが菫はそれをいさめた。警察に駆け込む事もしなかった。それはそうだ、菫は本来息子ではなく自分の物であるのだから。
菫は自分の物になりたかったに違いない。だが彼女はクリスチャンだった。その信仰心から夫の下から離れられなかったにすぎない。そしてその檻の中から出る事なくこの世を去った。気の毒な女だったのだ。
だが見ろ、菫の意思は生きていた。娘と言う形で彼に対して自らの分身を残したのだ。
テレビに映った少女の横顔は菫をそのまま子供にまで幼くした感じではないか。
実際に会って聞いた声は菫とは違うものの、その転がした鈴の音の様なそれはなんと心地よく聞こえる事か。
ますみは菫が叶えられなかった彼の物になると言う願いを叶える為の手段なのだ。
確かにまだますみは幼い。女として見るには年端が足りていない。だがだからこそ彼の前に姿を見せたのだ。
まだ誰の手にも渡っていないうち、悪い虫が付かないうちに自らを差し出そうと言う菫の思いなのだ。
テレビでますみの姿を見るまで当時の菫に幼い娘が居た事などすっかり忘れていたが、顔を見てすぐそうだとわかった。そして居所もすぐ特定できた。
だから招いた。ますみは当然結婚もしていない。もう彼女と彼が一つになる事を邪魔する事は出来ない。
彼は菫の微笑みや肢体を思い出し、胸を高鳴らせた。
目が冴えて眠れないのは無理もない。この家に菫が居るのだから。いや、二人の子を産んだ後の当時の菫ではなく、まだ誰の手にも汚されていない手付かずの状態の菫が居るのだ。
食堂で話した結果、ますみは菫と同様生真面目で潔癖な所があるようだ。これは都合が良い。
もし万が一にますみが彼の事を受け入れようとしなかった場合、強引にでも事に及んでしまえば自らが穢れたと思い込み、自己嫌悪のあまり他の男の下には行けなくなるのだ。これはこれまでに彼がそう言う愛人を作った経験があるからこそ確信できた。クリスチャンならばなおさらだ。
それにますみの年齢を考えればその度合いはさらに強まる事だろう。
時が過ぎるごとに彼の頭の中はますみに対する劣情で埋め尽くされて行く。そしてそれに呼応するように欲望が形となって驚くほどに屹立している。
意識せずとも膨大な熱が流れ込んで行っているのが解る。心臓がたぎり喉が熱くなる。
やおら彼はむくりと身を起こし、戸棚からいくつかの錠剤を取りだすと子供が菓子でもほおばる様に次々口に入れ、それを高価なドリンク剤何本かでどんどん流しこんだ。
口角からこぼれた雫を手の甲で拭うと彼はパジャマの上にガウンを羽織り、部屋の扉を開いた。
* * *
いつもとは違うベッドの中で何度も寝返りを打ちながらますみは目を閉じていた。
寝床が変わったからと言って眠れなくなる様な性質ではなかった筈だがどうにも意識が静まらない。
脱衣場であんな事があったからだろうか。父が逮捕されたからだろうか。
折角居る事がわかって会えた祖父であるのに恐怖や、認めたくはないがいくらかの嫌悪感を持ってしまった事に対し罪悪感を感じ、神に赦しを乞う祈りを何度かしたがそれでも落ち着かなかった。
明日からの事も考えてなるべく何も考えないように、眠りに就こうとする。
自分がうろたえては弟にも影響が出る事だろう。いつもはそのような事はしないのだがすがるようにロザリオを両手にして意識を落ち着ける。
それが功を奏したのか少しずつだがますみの心は乱れを減らし、いくらかウトウトし始める事が出来た。
苦労してやっと訪れた夢うつつの中で、ますみは今居る部屋のベッドに腰掛けてドアを見つめていた。そういう夢を見ていた。
深夜の静けさの中足音が聞こえる。遠くからぺたぺたと。
ますみはその音がどうにも不快で身を縮めた。
ぺた ぺた ぺた ぺた ぺた
それはドアの外ではたりと止まった。
ドア越しに音の主がこちらを向く気配がわかる。厚い板越しにその熱を帯びた視線は怯えるますみのそれをぴったりと捉えている。
思わずますみはベッドから立ち上がり壁にぴったり後ずさる。
ノブが静かに回る。だが扉は開かない。弟の言葉を受けて鍵をかけていたのだ。
ガチャ、ガチャ。
今度は苛立ったかのようにノブが音を鳴らす。
ますみは息をひそめロザリオを握り締める。
ノブは動きを止め静かになった。
諦めたのだろうか。
いつの間にか止めていた息がほっと吐き出される。
と、次の瞬間ガチャリと大きめの音が鳴った。
ひっと微かに声を漏らすますみの視線の先でノブはゆっくり回り、そして音もなく扉は開いた…。
その陰から猫背の何者かがまるで脂の塊でも動いて来たかの様にぬらりと入って来る。
窓からの月明かりに照らされたそれは紛れもなく祖父その人だった。
恐ろしさの余りまどろみの中から飛び起きたますみは暗がりの中でまず詰まっていた息を大きく吐きだした。
背中にパジャマが張り付いている。嫌な汗をたっぷりかいた様だ。
夢だった事に安堵するますみの顔の前に悪魔の顔があった。
「やっと起きたか。おい小娘、契約するなら早い方が良いんじゃねぇか? 」
悪魔が顎をしゃくっている。その先に今まさにドアを開けて入り込んで来ている祖父の姿があった。
夢か現実かなどそんな事はどうでもよかった。ただあまりの事態にますみは声も出せず身を守るかのように掛布団を抱えたままベッドの上に立ち上がった。
暗がりの中からのろりと近づいて来るそれはまるで巨大なヒキガエルが直立して居るかの様で現実味がない。ただ言えるのは暗さのあまり確認できないにもかかわらず、その視線は今までに感じた事が無いほどギラ付いていて痛みを錯覚させるほどに肌に刺さっている事と、明らかに意図を持って入ってきたという事だ。
そうなのだ、家の主である以上鍵をかけた所で合鍵を使われてしまえば無意味なのだ。
「お祖父さん……」
やっと絞り出せたのがその一言だ。
「ますみ、目を覚ましたのか。不安や寂しさのあまり眠れなかったのだろう。無理もない、だから私が添い寝をしに来てやった」
その周りの空気だけ粘度がやたら高いのではないかと思うほどねっとりとした歩き方で祖父は窓から射す月明かりの下に歩み出してきた。
血走ったまなこは見開かれ、どこか狂気すら感じさせる。特上の獲物に有り付かんと躍り掛かる前の毒蛇の様な表情がますみの濡れた背中をさらにぞっとさせた。
そして何よりおぞましきは見たくも無かったのに嫌でも視界に入って来た彼のガウンのあまりにも不自然な隆起だった。それは脱衣場で目にした時とは全く比較にならず、膨らんだと言うよりも最早突き出したと言った方が適切だろう。ますみにしてみたら人間の形として有り得ない状態だ。
掛布団を持ったまま顔を青くして口を隠すますみに祖父はまた一歩踏み出した。
「ますみ。立っていないで横になりなさい」
肌に張り付く様な声に身震いし、ますみは必死で声を絞り出した。
「かなた…… かなた…… ! 」
「あの子もいろいろあって疲れたろうに、子供は枕が変わると寝つけんだろうて、あれの皿には薬を混ぜておいた。朝までよく眠れるだろう。お前にもと思ったがそれではお互いに面白くなかろう」
また一歩、欲の権化が近付く。彼の視線はあたかもますみの衣類さえ突き破って奥を覗いているのではないかと思えて少女はさらに恐怖した。
「契約しろ。今なら助かる。後で後悔するよりましだろ」
悪魔が耳元で囁く。
ますみは首を振った。
「お前、事態がどんなにやばいか分かってねぇだろ。こいつは本気だぜ? 」
祖父の目がさらに見開かれる。口角が上がりやや高い声で彼は言った。
「ますみ、良い子だ。そこに横になりなさい。でないと……」
動きが早まった。ますみの立つベッドまでの数歩を彼はゴキブリの様な早さで移動した。
哀れな少女は上げた事もない様な悲鳴と共に手にしていた布団を相手に被せ、火が付いた様に部屋を飛び出した。
階段を飛び降りる様に駆け降りながら弟の名を何度も呼ぶ。あれは人間ではない。人間の下半身があんなになる訳がない、服を着ているのにあんなに分かるなんてあまりにも不自然だ。悪魔憑きの力に違いない、ますみはそう思った。
「かなた!かなた!開けて下さい!かなた! 」
弟の部屋の前でますみは扉に向かってそう叫んだ。入れなかったのは鍵が掛けられていたからだ。
「起きやせんよ。お前は寝られるかわからんが」
すぐそこまで祖父は迫っていた。
ますみは仕方なく祖父の居ない方に走った。まるでそれを追うかの様に照明が点灯して行く。多分センサーが働いていてスイッチを入れる必要が無い様になっているのだろう。これでは逃げる先を知らされるようなものだ。
ますみは廊下に面した最後の扉を試し、開いたをの幸いにその中に入り込むなり鍵をかけ、さらに室内にあった動かせそうな家具をから次々ドアの前に置いた。
木製の扉の向こうにどこかべったりとした印象を与える足音がやって来る。
「開けなさいますみ。何を恐れているのだ。私は身内だ」
ますみは組み上げたバリケートを背に飛び出しそうに暴れ回る心臓の辺りに手を添えて声が出せるようになるまで必死に息を整えた。
その間も廊下の相手は強引に扉を開こうと試みている。
「ここを開けなさい、ますみ」
ますみは通らない視線が自分をなめまわしているのを感じながら相手に向かい合った。
「お祖父さん、私は一人で眠れます。どうか自室にお戻り下さい」
「言い方を変えようますみ。寂しかったのだ。妻と別れて久しくてな。身内がやって来て嬉しいのだ。どうだ、添い寝をしてくれんか」
憐みを買う様な声色で老人は答えた。
掌ほどの翼の生えた小鬼の様な姿で追って来ていた悪魔がますみの顔の前にやってくる。
「おいお人好し、まさかまんまと騙されちまうんじゃないだろうな。信じるなよ? 」
ますみは一度悪魔に目を合わせたが、再び扉の向こうにいるであろう老人に目を向けた。
「お祖父さん、あなたが寂しかったのは本当かもしれません。私もいないと告げられていた祖父が存命だった事には喜んでいます。長く疎遠だった時間を埋めたい気持ちは多分同じです。どうかその為に悪魔と手を切って下さいませんか?お祖父さんの体には悪魔が憑いています。それが私とお祖父さんの仲を深める妨げになっています」
その言葉に悪魔が呆れる。
「んな事言われてはいそうですかってなる奴がどこにいるってんだよ」
「ますみ、お前が何を言っているのか私にはわからんが、お前が望むならそうしよう。さぁ、出て来て私に顔を見せておくれ」
悪魔が思わずますみの顔を見る。
「私の言う言葉を復唱して下さい」
「それで出てくるんだな?よし、なんと言えば良い」
ますみはすっと背筋を伸ばすと凛とした声で言った。
「大天使聖ミカエル。戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え」
ますみはそこまで言うと復唱を待った。
「ますみ、何を言っているのだ?私にはよくわからない。それを言う事にどんな意味があると言うのだ」
廊下から戸惑った声が返る。
「もう一度はじめから言います。復唱して下さい。大天使聖ミカエル。戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え」
声は返らない。
悪魔はげらげら笑った。
「お前なかなかの悪女だな。俺クラスならともかく、チンケな悪魔風情じゃ中々言えないわな。聞かせるのと言わせるのじゃ意味も全く違うしな!益々気に入った!しかしな、仮にこれを言わせた所で、出て行った奴はすぐ戻って来るぞ」
ますみはそれ以上待たずに続けた。
「大天使聖ミカエル。戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え。天主の彼に命を下し給わんことを伏して願い奉る。ああ天軍の総帥、霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を天主の御力によりて地獄に閉込め給え。アーメン」
すると廊下の男は低い声で言った。
「ますみ、大概にしなさい。戯言など言っていないで今すぐここを開けて私と寝るのだ」
「お祖父さん、気をしっかり持って下さい。悪魔に耳を貸してはなりませ……」
「さっさと出てこいと言うのだ! 」
ますみの声は扉を蹴りつける音と恫喝によってかき消されてしまった。
あわれな少女は下唇を小さく噛み、身内を疑う罪を告解した後ためらいがちに小さな声で言った。
「お祖父さん、あなたは、私に良からぬ事を企てているように思えます」
聞いた事もないぞっとするような低くくぐもる様な笑いが扉越しに聞こえた。
「怖がる事はない、誰でも通る道だ。私がお前を女にしてやろう」
あまりにも露骨な返事にますみは今まで以上の恐怖に加え吐き気を覚えた。
悪魔の言葉は正しかったのだ。
どんなに大人びた行動をしていても、地域で頼られる委員長だったとしても、この言葉をまともに向けられたますみは凍てつかずにはいられなかった。
めいっぱい背伸びしていた所で結局は年相応の中学生で子供なのだ。
次の言葉が一切出てこない。意味もなく視線が泳ぎ、ただただうろたえた。一人前であろうとしてきた事は確かだが、こういうのは想定外だ。しかし年齢を理由に相手は子供として扱う気はない様だ。
ドアの向こうの声は嫌になるほど落ち着いていた。
「ますみ、良く考える事だ。お前達姉弟は身寄りがなくなった。だが私の下にいれば不自由なく暮らせるのだ。良い学校にも行けるし大学を出る事も出来よう。だがもしここを出て行けばどうなる。児童養護施設でまともに進学できると思うかね。進学してその生活を維持する事が出来るかね。ますみ、弟の事も考えてやったらどうだ。あれは施設での生活など嫌がるかも知れんぞ」
思わず顔を上げるますみは弟が人質にとられた事を知った。それでも声を振り絞った。
「あなたは私達に生活の場を提供する代わりに私に体を差し出せと言うのですか」
「私の望む時にお前が応じるだけでお前と弟の生活は保障されるのだ。知られるのが嫌だと言うなら弟には秘密にしておけばいい。お前の面目は保たれよう。」
相手の顔が見えるようなねっとりした声だった。
「私の立場で言うのもおこがましいですが、あなたは身内に対価を求めると言うのですか。それだけに留まらず、血の繋がった孫と関係を持とうと言うのですか」
ますみの問いかけに相手は扉越しにどことなくヒキガエルを思わせる声で笑った。
「お前の父は連れ子だ」
え?と言う声が思わずもれる。
もし父がこの男の実子で無いとするのなら自分は全く血の繋がらない孫と言う事になるではないか。赤の他人だ。
「ますみ、お前は運が良い。父親があのような事になっても私と言う者が居たのだからな。自分の役目が分かるな? 」
風向きが良くない事に悪魔は苛立ったようにこめかみを掻いた。
「おいおい小娘、まさかジジイの言いなりになっちまうつもりじゃないだろうな。大体お前ら分かってんのか?純潔ってのがどれ程のモンなのか。数多の神々も、悪魔や魔物達も、何故こぞって巫女や生贄にわざわざ処女を要求するのか考えろ。お前らが想像するほどそう易々と手放していいもんじゃねぇんだぞ。大体お前ら人間は全くその価値ってのが分かってねぇ!お前らの大好きな金額的な価値で言うなら…… ああああ!換算できるようなもんじゃねぇって!命と同等なんだぞ!それをこんなくだらねぇ理由で手放そうって?冒涜もいいとこだ!百年物のペルシャ絨毯で豚の鼻水を拭う様なもんだ」
「お断りします!生活は姉の私がなんとかします! 」
ますみは恐怖を押しのけ凛とした声で言い放った。
「はん!水商売でもすると言うのかね。それとも風俗で働くのか?それと私の物になるのとどこが違うのかね」
「神は、姦淫を禁じておいでです! 」
扉の向こうの男は笑った。
「なんたらのマリアも娼婦だろうに。弟の為に一肌脱ごうと思わんのかね」
ますみは答えずに逃げ道を探した。隣の部屋へのドアがある。窓からも出られそうだ。相手が気付かぬうちにここから出た方が良いだろうか。逆に絶対に入ってこられない様に朝まで立て籠った方が良いだろうか。幾らなんでも朝になれば家政婦がやって来よう。あるいは電話のある所に行けば警察に連絡できるだろうか。
どんと乱暴に扉を蹴りつける音が壁を震わせた。
「分かっていないようだねますみ」
いくらか低くなった声が恐怖を煽る。
「お前は弟を守ると言うが、私は今その逆ができるのだよ。あれは今寝ている。お前の邪魔が入らないのならどんな事も出来るのだがね」
「卑怯な! 」
「弟を守るのだろう?ならお前が私を足止めするしかないではないか。早く出てこないと私はあれの腕の一本くらい折ってしまうかもしれんな」
解り易く狼狽するますみに悪魔は再び言った。
「契約しろ、すればお前も弟も守ってやる」
小さな唇をかみしめて泣きそうな表情で悪魔を見たますみだったがきつく目を閉じてそっぽを向いた。
「お前が遊んでくれない様だから弟に遊んでもらうとしよう」
足音が遠ざかってゆく。
「おい、あいつ弟をぶちのめしに行ったぞ?弟に罪は無ぇのになぁ」
悪魔の言葉が終わらないうちにますみはドアの前の家具を動かし始めていた。そして扉から出るなり遠ざかった祖父の背中に大声を叩きつける。
「かなたに手を出す事は許しません!用があるのは私でしょう!立て篭もったりしないから捕まえて見せなさい!出来るものならばね!もし朝までに捕まえられたら好きにしたら良いです!ただし……」
ますみの言葉が終わらないうちに祖父は猪の様に突進して来ていた。
小さな悲鳴と共に今居た部屋に飛び込んでかわすと、勢い余って転倒している祖父の背にさらに言い放って駆け出した。
「ただしかなたに手を出さないという条件です! 」
「上等」
老人は年齢に見合わないほど精気に溢れた目を輝かせると少女の消えた廊下の先を睨みつけた。
「ますみ、…… 菫。ようやくお前を手に入れられる」
何度手に入れようとしても手に入らなかった理想の女が手付かずで招いている。
自分色に染めるのだ。まだ何も知らない今の状態から何から何まで自分好みに染め上げてやるのだ。まっさなら細胞の一つ一つにまで自分を刻みつけてやるのだ。
老人はこれまで以上に高揚し、頬を上気させた。
「ますみ、ますみ、ますみ、ますみ、ますみ」
自分の理想足り得る少女。これからますます美しくなり、自分好みの体型に発育して行く女。そんな存在を指をくわえて見てなどいるものか。他の男に奪われる前に確実に自分の物にするのだ。彼女が母親同等の魅力を身に付けた時には完全に自分の女として仕上げておくのだ。
老人は一度高らかに笑うと無垢な少女の名を呼びながら後を追い始めた。
「良いだろう。弟には手を出さんでいてやる。朝まで続く追いかけっこをしようではないか。朝まで逃げ切れればだがな。それにお前は学校があるが私は昼に休む事が出来る。今日逃げきれたとして何日保つかな? 」
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