悪魔と委員長

GreenWings

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優しいおせっかい

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 美琴を我が身の様に抱きしめていた少女はゆっくり体を放すとそっと手を取った。
 繋がる視線にもう憂いの色は無い。やや細められた眼差しには自分を覆いつくしてしまう様な包容力を感じてしまう。しかし、セーラー服を着た彼女はどう見ても美琴よりも年下だった。

「朝のミサに参加されるのですか? 」

 その言葉でこの少女がこの早朝ここに現れた意味が理解できた。
 教会ではたいてい平日の早朝にミサが行われている。それに参加する為に来たのだろう。

「いえ、私は信者ではありませんので……」

 口にしながら胸に痛みを覚える。

「よろしければ見学されて行かれます? 」

 少女の言葉に美琴は目を伏せ、弱々しくかぶりを振った。

「いえ……」

 真っすぐすぎる彼女の姿勢が過去の自分を見ている様で苦しかった。

 相手は少しの間黙っていた。自分なら十字を切っている所だ、だが少女はそうする事をせず、そのまま美琴を見ている様だった。

 このままここに居れば教会の迷惑にもなるかもしれない、そして警察に通報もあり得る。こんな所で眠っていたのを見られたのだから家出少女との判断は当然だ。立ち去らねば!

 身を起こそうとしたその時、わざわざ少女が美琴の視線の先に顔を持ってきた。

「助けて下さいます? 」

 何を言っているのだこの少女は。

「ああ、ごめんなさい!少し多めに仕込んでしまったのです。今朝の朝食の事なのですけれど。お弁当の分を含めて夜のうちに。ただ、今思えばどう考えても多過ぎたのです。私達は神が与えたもうた糧を無駄にするわけにはいかないのです。一目見て思ったのです、きっとこの方は神様が私に罪を犯させないために使わして下さった救いなのだと」

 大げさな言い方だ、行倒れと思って朝食を勧めているのだろう。

「いえ、お金はありますから」

 美琴が立ち上がると少女は再びその手を両手でとった。

「私の為に付き合って下さいませんか?もちろんお時間が許せばですが」

「おせっかいだわ。」

「違います。わがままなのです。私にお付き合いくださいませんか?」

 悪意が無いのはわかる。言葉ではない、一緒に泣いた時に理屈ではなく何か分からないもっと心の奥深い所でそれは理解できた。ただ一つ気に入らなかった。

「信仰を盾にするのは卑怯です」

 それを口にした時に美琴は気付いた。
 ああそうか、この少女が自分の前で十字を切らなかったり、逆に信仰を強調したのは少女と神の関係では無かったのだ。それは全部信者ではないと言った美琴との関係の為にとった行動だったのだ。

 少女は美琴の手を放して立ち上がると今度は十字を切って手を合わせた。

「私の信仰と真心にかけて、神様、そしてこれから知り合う目の前の方へ、今私が行った一連の罪をお許し下さい」

 何故美琴を神と並べて謝罪したのだ。まず神に、そして美琴にだろう。

「非礼をお詫びします。素直に言うべきでした」

 少女は深々と頭を下げると再びまっすぐ見つめ返してきた。

「私の名は西野ますみと言います。朝食をご一緒できませんか? 」

 率直だ……。もちろん断るのも簡単だ。ただ問題なのは簡単な筈なのに簡単でないという事だ。何と言うか、この娘の誘いは断れない。美琴はそう思った。
 自分を見るなりその苦痛を察してくれたりあまつさえ涙まで流してくれた相手だ。その上厄介事になりそうなのに関わろうとしてくれているのだ。
 こう言うお人好しを美琴は知っている。正直迷惑はかけたくない、だけど……。

「美琴…… です……」

 つい答えていた。ただ苗字は言えなかった。親を巻き込むわけにはいかないと思った。

 名を聞いた途端少女の表情が花の様に和らいだ。光の粒がぱっと舞った様な錯覚さえ覚えた。

「美琴さんですね!初めまして美琴さん」

 名前を呼ばれて心躍るのはどれほど久しぶりだろう。土砂降りの中で立ち尽くしていた時に傘を差し出された様な、世界から追放されどこにも居場所の無かった美琴に迎え入れてくれるドアが開いた様な、狂おしい何かが込み上げて来て美琴は顔を伏せた。

「では美琴さん、早速家に向かいましょう!歩けますか?肩を貸しましょうか? 」

「行く?今から?だって…… 西野さんはミサに参加する為に来たのでしょう? 」

 ますみは木漏れ日のように微笑んだ。

「ミサは神様と繋がる為のものです。そして今、私の前に神様の思し召しが現れています。もしイエス様がこの状況にいらっしゃったらどうでしょう。私がすべき事は神様の愛を確認する事ではなく、悲嘆に暮れている方の力になる事です。私が救いになる事など到底及ばぬと思いますが、それでもそのお手伝いはできうる限り速やかである方が良いと思いました。神様はこれを罪とはお思いにならないと思います」

 美琴からすれば随分斬新な考え方だ。神の威光を重んじるカトリックとは思えない。だが、なぜか奇妙な説得力を感じる。

「西野さん、あなたの真心は理解しました。それならば私もそれに応えたいです。逃げたりはしません、ここで待ちますから参加してきて下さい。主はあなたの参加を待っています」

 ますみは再び美琴の瞳を見つめた。自分もそんなに人生経験はないがこれほど真っすぐ人を見つめる人物は思いつかなかった。

「わかりました。感謝します。神様にも、美琴さんにも。では後で」

 美琴は微笑んで頷いた。
 ああ、今自分は微笑んだんだと美琴は思った。ずっとそんな顔をしていなかった事を思い出した。

 ますみが教会に消えてから他の信者がやってくるまでかなり時間があった。
 人より早く来ていたのだあの少女は。
 思わず過去を思い出す。人より早くチャペルに行ってこそこそ掃除するのが美琴にとって小さな喜びだったのだ。少しでも神の役に立てると思うとそれだけで得した気分になったものだったのだ。

「あの子、以前の私に似ているのかも……」

 教会の外で待つ間、美琴は様々な事を考えていた。
 讃美歌や祈りの声が聞こえる、少し前までは自分もあそこにいたのだ。だがこの塀のなんと厚い事か。入口から中を見れば何の障害も無く簡単に入れるのはわかる、だがそれは絶対許されないのだ。もう、許されないのだ。
 ますみと名乗った少女のせいで、なんとなく自分も踏む込めるように思いかけてしまっているが、実際は美琴の隣にいるのはあの信心深い少女ではない、流された血の様な色のドレスを身に着けた悪魔なのだ。
 先程の微笑みがすぐに消え、抱えていた痛みが一層鮮明になる。ますみの微笑みへの渇望と、そして同時に拒絶のどちらもが重くのしかかり美琴を苦しめた。
 そして出口の分からない迷路のようにぐるぐるとその中を彷徨った。そして一つの出口を見つけた。それが正しい出口であるかどうかを考える余裕は美琴には無かった。

──あんな目にさえ合わなければ──

 あんな目にさえ合わなければ自分もこの壁の向こうで主を称えている事が出来たはずなのに。

 自分は慎ましく生きてきたつもりなのに欲にまみれた連中のせいで何故悪魔などと関りを持たなくてはならなかったのか。むしろ悪魔と関りを持つべきは欲望に忠実だったあの連中の方が相応しかったのではなかろうか。
 なんて理不尽なのだ。神と共に居たかった者が悪魔の物となり、悪意を持った者が恩恵を受け掛けた。自分は神にとって庇護すべき存在ではなかったと言うのだろうか。

 胸の中の虚ろが再び猛威を振るい始めた頃、涼風の様な声に引き戻され、美琴は我に返った。

「お待たせしました、美琴さん。わがままを聞いてくださってありがとうございます。さ 行きましょう。こちらですよ」

 本人にさえ自覚があるかどうかわからない自然な笑みが向けられると美琴の虚ろは暴れるのをやめた。自分がまだ世界に切り離されていないのではないかと思いかけてしまう。

「ありがとう…… 西野さん……」

 ますみは目を無くして笑った。

「こちらこそ。信頼して下さったから来て下さるのですよね。ああ、それからますみ、と呼んでください。家には弟もいるのです。家中西野さんですから」

 家に着くまでの間、ますみは気まずくならない程度のを置きながら自分の事や弟の事などを話しながら、時折返答に困らない様な事で意見を求めたりした。
 美琴は話題を探したり自分の事を話す必要は一切無かった。何もかもが自然で最初は気付かなかったが、そもそもこの少女が先ほど会ったばかりの初対面だと思うとこちらが全く困る事が無い時間を維持し続けているこの少女の頭の良さと気遣いを実感した。

「着きました。ここです。ただいま。かなた、お客さんを連れてきましたよ」

 奥から足音が聞こえ、ますみに良く似た顔立ちの少年が歩いて来た。

「おかえりなさいお姉ちゃん。はじめまして、西野かなたです」

 年齢の割に綺麗なお辞儀だ。大人しい典型的な良い子の印象を受ける。

「こちら美琴さん。朝食をご一緒して頂く事にしました」

「よろしくお願いします、かなた君」

 かなたが再び頭を下げ、上がってくださいと促した。

「あら、照れてますね? 」

 ますみの言葉にかなたは頬を染め、違うよと答えた。
 優等生を絵に描いたような姉に比べ、年相応さが残っている弟に美琴は幾らか胸を温められた。

 一人っ子である事や小学校以来異性とあまり接する機会が無かった美琴にとって随分久しぶりに関わった年下の男の子はなんだか可愛らしく思えた。
 ここに来る間にますみから幾らかエピソードを聞いていたからなのかあれほど男性が怖かったのにこの少年にはいささかの恐怖も感じなかった。

「お父さんはもう出かけちゃったよ」

「だと思いました。早く出ると言っていましたから。かなた美琴さんのお相手をお願いします。姉は朝食を仕上げてしまいます」

 部屋に通され、ますみがキッチンに向かうとかなたが美琴の対面に座った。

「お おはようございます」

 かなたがぺこりと頭を下げる。

「おはようございます」

 美琴はそう答えた。相手の頬が染まっている。それはそうだ。初対面の年上を相手しろなんて子供にとっては困った言いつけだろう。ましてや年齢的にも異性と話しにくくなる様な年頃だ、それでも姉の言いつけをこの子は守ろうとしているのだろう。そこが何だか可愛い。テレビに逃げたりせず真正直にこなそうとする所がまた可愛い。

「き 緊張しなくていいですからね! お お姉ちゃんは時々人を連れて来るんです」

「そうなの? 」

 緊張しているのはどちらだろうと美琴は心中で笑った。

「色々状況在りますけど、こないだは公園で酔い潰れていた女の人連れて来たし……」

「お姉さんが心配? 」

「そりゃも…… いえ、お姉ちゃんを信頼していますから」

 姉を立てる気遣い、弟とはこういうものなのだろうか、それともこの子がそうなのだろうか。

「心配なのね」

「お姉ちゃんは人が好過ぎるんです、なんでもほいほい請け負っちゃうし…… 危なっかしいと言うか…… 」

 キッチンから声がする。

「心配いりませんよ、かなた。姉はお人好しではありません。色々わきまえていますよ。ただ言わせてくださいね。ありがとうかなた」

 かなたの頬が再び染まる。

「聞いていなくていいよー! 」

 一度コホンと咳払いして今度はなぜか動物の話を始めた。
 小学生の男子では女子高校生が好きそうな話題など想像がつかないのだろう。それで女性なら動物が好きだろうとでも思ったのだろうか。

 自分が好きな動物を色々挙げて、その動物のどこが凄いのだとか、どう美しいのだとかを説明しだした。

 小学生が必死に楽しませようとする姿かいじらしくて美琴は小さく相槌を打ちながら聞き入った。
 ただじっと相手の目を見つめると恥ずかしそうに微妙に逸らすのが可愛かった。

「お姉さんはどんな動物が好きですか? 」

「私?そうね…… 羊とか…… 」

「羊!羊と言えばですね! 」

 必死に知識を引っ張り出して様々な事を教えようとするかなた。美琴が知っている知識もあれば全く知らなかった事まで手ぶりまで交えて熱心に説明した。彼なりに盛り上げようとしているのだ。しかもそこに好かれようとか自慢しようと言った意志を感じさせない。上手な話し方ではないがいかに羊と言うものを楽しく説明しようかと言う気持ちが滲みだしている。きっと本当に動物が好きなのだろう。営業でもやらせたら良い成績を出すのではなかろうかとふと思った。

「かなた君凄いわ。羊の事もっと好きになったかも」

「あ…… ごめんなさい、一人でしゃべっていました……」

「ううん、楽しかったしためになった……」

 年下に気を使わせているのも可哀そうなので美琴から切り出してみた。

「かなたくんはお姉さんが好き? 」

 同級生が弟は可愛くないと言っていたのを思い出したのだ。性別が違うと価値観が食い違って衝突が避けられないなのだとか、それでついいがみ合ってしまうと、そんな事を聞いていた。

 かなたは微妙に合わせていなかった視線を美琴に合わせ、そしてこくりと頷いた。

「はい」

「そう。どんな所が? 」

 かなたは怪訝そうな顔をした。

「どんな所……」

「そう、お姉さんのここが好きとか、こういう所が素敵とか……」

  かなたがちらりと姉を振り返る。ますみがこちらを向いている所だったが慌てたように作業に戻る。

「俺…… どこがとかじゃないと思います……」

 美琴は小さく噴き出した。

「全部って事? 」

 かなたは再び美琴に向くと難しい顔をした。

「俺は多分お姉ちゃんの魅力の全部を知らないと思います。お姉ちゃんはすごいから…… でもお姉ちゃんの嫌な所って…… 考えた事も無いな……」

 弟がこう言うものだと言うのなら美琴はそれが欲しいと思った。同級生の言っていたものとは全く違うではないか。

「私は一人っ子だからますみさんが羨ましいな。かなた君みたいな弟が居たらきっと素敵」

 ちょっとだけ熱っぽい視線を作ってみる。

「えええ……」

 かなたの耳はわかりやすく赤くなった。
うろたえる弟を助けるかの様にますみが皿を持って入ってくる。

「姉としては誇らしいし理解していただけるのは嬉しいですけれど、美琴さん、かなたは差し上げませんよ。かなたは私のです」

 冗談に対し冗談で返したのかもしれないが美琴は残念と首をすくめて見せた。しかしこの短時間で手際が良い……。

「さぁかなた、運ぶのを手伝って下さい」

 姉の言葉に返事をし、弟がてきぱきと動く。嫌がって反抗する様子も無い。
 母が居ないという話はここに来る間に聞いていたが協力し合っているのだと分かる。
 見る間に並んだ絵に描いたような日本の朝食に美琴は思わずますみを見た。
 自分より年下なのに朝のミサに出た上でこれを毎日しているのだろうか。
 そして多めに仕込んでしまった物とは一体……。まさか添えられている一夜漬けの事だろうか。

 と、かなたが手を合わせた。

「美琴さん、申し訳ありませんが少しだけ待ってくださいね」

 ますみも同様に手を合わせると目を閉じた。美琴が良く知るそれは小さな声で神妙に行われた。

「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事を頂きます。ここに用意されたものを祝福し私達の心と体を支える糧として下さい。私達の主、イエス・キリストによって。アーメン」

 姉の後に続いてかなたも続ける。

「アーメン」

 沈黙の後、ますみは再び明るい声を上げた。

「付き合わせてしまってごめんなさい」

「いえ、大切な事ですから」

「ご理解下さってありがとうございます。さ 上がって下さいね。頂きます! 」

 カトリックの祈りの後に日本式の感謝を示すのが美琴には新鮮で思わず笑みが漏れた。美琴が箸をつけるのを躊躇しないように率先してそれを行う気遣いもありがたかった。

 意図的にそうしてあるのだろうか、全体的に塩気が低く出汁で補っている印象が強い。

「味気なかったでしょうか……」

 顔に出たのかますみが尋ねて来る。

「いえ、そんな事は」
 
「朝は体が塩分を過剰に摂りがちなので控えているんです」

 子供の発想じゃない……。

「この味付け、好きですよ」

「良かった……」

 相手が微笑むとこちらまでなんだか安心する。あんなに人と会うのが嫌だったのに。

「美味しいさ!お姉ちゃん。今日も美味しい!今日は特にお漬物とお味噌汁のわかめが美味しいかな!なんか変えたでしょ! 」

「かなた、流石ですね。頂いた高級な昆布を出汁に使いました。わかめは塩抜きと入れるタイミングを変えてみたのです。」

 この少年は美味しいと思ったらわざわざ言うんだ。後で一言告げるだけでも良さそうなのに。自分の家庭では食事中会話するなんて事はあまり許されはしなかった。品の良い事ではないと教えられていた。それでも一応口の中の物が無くなってからである事と、口を手で覆うあたりがいじらしい。一応何かが飛び出さない様に気は使っているのだ。

 ろくに知らぬ相手ととる食事なのに美琴は幾らか安心を覚えた。そしてとてもありがたく思った。
 食事の後に姉弟が祈りをささげる間、自分もそれにならった。

 食器を全員分水につけるとかなたはランドセルを背負った。
 弟を追いかけるますみに付いて美琴も玄関まで行った。

「お姉ちゃん、お姉さん、行ってきます! 」 

「いってらっしゃいかなた」

「いってらっしゃい」

 玄関が閉じると美琴はますみに向いた。

「ありがとうますみさん。とても美味しかったし嬉しかった」

 ますみは目を無くして微笑むとこちらこそと答えた後、急に表情を引き締めて続けた。

「美琴さん、余計な事かもしれませんが少し耳に痛い事を言わせて下さい……。つまり、私のわがままからです」

 またこの少女は自分を助ける為に悪役を演じるのか。

「もし、まだ行く所が決まっていないのでしたらしばらくはここで過ごして頂きたいと思うのです」

 どう見ても未成年である美琴がよからぬ輩に捕まりやしないかと心配しているのだろう。そしてそれを見過ごしてしまう自分を許せないと思っているのかもしれない。保護者が知らぬうちに未成年者を家に泊めればそれは犯罪になってしまう、彼女が言う耳に痛い事とは何であるかすぐに察しがついた。

「見ず知らずの私にそこまでする必要はありませんよ」

「私は教会であなたに出会ったのです。美琴さん」

 その言葉はカトリックであった美琴には重みがあった。信心深ければあの出会い方はさらっと流せるものでは無かったのかもしれない。

「つまり、親に連絡して許可を取れと言うのですね」

 とんでもない話だ。自分は親の期待に応えられなかったばかりか事もあろうに信仰を失ったのだ。そしてひと月近く姿をくらましてきた親不孝者だ。

「私は人を脅したくはないのです。もしご両親の許可が得られなければその時は私も諦めます」

 脅す、つまり捜索願が出ているであろう美琴の事を警察に言わなくてはならないという事だろう。そして諦めます?これは諦めない顔だ、美琴はそう思った。
 何もかも美琴を思い、その思いに責任を持ちたい気持ちから出た発言だ。嫌われる事もいとわない誠実さがそこにあった。

「美琴さん、お願いします。ご実家に電話をかけて下さいませんか?美琴さんは出なくて構いません、私がお話します」

 またこの目だ、真っすぐな目。美琴の胸に何かを流し込む目、そして逆に受け入れようとする目。ぴったりと視線を合わせるのはイーヴィスと同じだが、何もかもを引き込まれてしまう様なイーヴィスとは逆に与えて来る様な眼差し、抱擁する様な眼差し。
 世界から排除された自分になぜここまで関わって来るのだこの少女は。神の救いを、愛を、信じたくなってしまう……。

 返事が出来ずただますみを見つめ返す間、相手はじっと視線を放さなかった。これは絶対根負けしてしまう。

「わかりました……」

 ため息交じりに美琴は折れた。優しそうに見えてこの子は強情だ。愛情の深さとも言えるのだろうか。間違いなく損する性格だ。

 奇特な少女に促されるままに美琴はリビングの電話を使わせてもらった。
 コール音が鳴る間、胸が早鐘の様に鳴る。自宅に電話を掛ける事にこれほどの罪悪感と緊張を伴った事があるだろうか。

「はい……」

 聞こえた母の声に美琴は息を詰まらせた。力の無い小さな声だった。言葉が出ない、何も言えない……。

「 ……美琴  なの? 美琴?もしかして美琴なの?!今どこ?! 」

 急に大きくなった母の声に思わず受話器を置きかけた時、ますみがそれを受け取った。会話内容がわかる様に音量を上げ耳から受話器を離す。スピーカーフォンにしなかったのは母娘で言い合いが始まる事を恐れたからだ。


「朝早く失礼します。西野ますみと申します。美琴さんとは仲良くさせていただいております」

「あ、ああ…… 美琴のお友達…… ああ、取り乱してごめんなさい……。美琴は今ちょっと出かけていまして……」

「美琴さんのお母さん、実は美琴さんはうちに遊びに来て下さっているのです」

 息をのむ音が聞こえた。そして押し殺して泣く声も。ますみはその反応から美琴が実家を空けたのは最近ではない事を察した。

「美琴が…… そちらに居るのですか? 」

「はい、今朝早く遊びに来てくださって、一緒に食事をとりました」

「美琴は…… あの、いえ……」

 無事かどうかを聞きたいのだろう、だがそれを躊躇している、どうやら思う様な単純な家出ではなさそうだとますみは思った。当然聞く訳にはいかない。

「私、実は朝食を作り過ぎてしまって、そうしたら美琴さんが召し上がって下さって助かったんです。元気で血色の良い人が美味しそうに食べて下さって嬉しかったです。私まで元気になりました」

「ああ……」

 すすり泣く声が聞こえた。

「少し内緒の問題を抱えているご様子で、それで来て下さったは良いのですがご両親が気付く前に出てきてしまったそうで、それならばちゃんと説明しないと心配してしまうと思いましてご連絡をしました」

「そうでしたか……ありがとう…… ありがとう西野さん……」

 電話相手が落ち着くのを待ってからますみは切り出した。

「それでですね、今日は二人でパジャマパーティをしたいんです」

  あっけにとられた気配が伝わる。

「初めて遊びに来て下さったんです!私のわがままですが美琴さんともっと仲良くなりたくて。どうか許可を頂けませんか? 」

 少し息を整えた後、美琴の母は答えた。

「美琴がそうしたいと言っているのですか……? 」

 ますみが答えようとすると美琴が受話器を取り上げた。

「そうですお母さん」

「美琴!美琴なのね!ああ…… 主よ……」

「お母さん…… 私はお母さんのご期待に沿えませんでした……」

「美琴、主はあなたの頑張りを認めて下さいました、今お父さんの会社は上手く行っています。あなたが私達を嫌う気持ちはわかります……どうか許してちょうだい……。あなたを愛しているの……」

 そうじゃない、美琴はそう思った。神の力ではない、悪魔の力なのだ。神の課した試練から逃げ出したばかりに悪魔に頼らざるを得なかったのだ。嫌われるのは自分の方だ。

「お母さん……。許されないのは私の方です」

「あなたの気持ちを考えたらこんな風な事をしても仕方ないと思っています。無事でいてくれて、声を聞かせてくれて嬉しいわ」

 母親は親への反抗から家出をしたのだと思っているのだろう。

「お母さん、少しだけ自由にさせて下さい。今は会えません。迎えにも来ないで下さい」

「ええ、わかるわ…… ごめんなさい。そうね、そうよね……。いいわ……お父さんには私から伝えておきます。でも美琴、ちゃんとそこにいてね」

「帰りたくなったらちゃんと帰ります……」

 言いながら美琴の喉は痛みを覚えていた。帰るわけにはいかないのだから……。

「ええ、待ってるわ……。西野さんに代わってくれる? 」

 ますみが受話器を受け取ると美琴の母は熱意のこもった声で言った。

「西野さん、美琴の事よろしくお願いします」

「ご事情は分かりませんが、美琴さんがもし次の日もとおっしゃればいつまでも泊って頂いて構いませんから。どうかお母さん、ご心配なさいませんように」

 ますみが住所と電話番号を伝えると美琴の母親は何度も礼を言った。

 美琴はこの世界と微妙にもまた繋がってしまった。

 丁寧なあいさつをしあった後、ますみは美琴に向き直った。

「向き合って下さってありがとう、美琴さん。勇気が必要だったと思います」

 何を言っているのだろう。美琴が一人で抱えていたものに首を突っ込んで来て無理やり向かい合ったのはそっちではないか。そんな事を美琴は思った。
 このお人好しはこうやって大勢に笑顔を取り戻させて来たのだろうか。

「所でますみさん、あなた学校は? 」

 ますみの微笑みが微かにひきつる。

「ま まだきっと大丈夫です。急いで行けば…… 私足が速いので」

「行って下さい。あなたには負けました。今晩はお言葉に甘える事にしますから」

 その言葉が終わらぬうちにますみは美琴の両手を取って合わせた。

「約束ですからね。私が出たら鍵は閉じておいて下さい。お弁当はキッチンに置いてあります。誰か来ても出なくて結構ですから。部屋のものは自由に使って下さいね。ああ!ドアにプレートがありますが、父の部屋とかなたの部屋には入らないで下さい。彼らにもプライベートはありますから。ああ!行かなくちゃ。失礼します」

 ますみはやや慌ただしく立ち去った。

 すっかり静かになった家の中で、美琴は不思議と一人を感じなかった。
 誰かが住む形跡がある部屋の中に居る事と自分の為に用意されたお弁当の包みが置かれている事実が少しだけ居場所を与えられた様な気にさせられていた。
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