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第117回 夜の子守唄
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都市伝説レポート 第117回
「夜の子守唄」
取材・文: 野々宮圭介
本誌の読者から一通の投書が届いたのは、梅雨明けの蒸し暑い7月のことだった。
「入谷の鬼子母神周辺で、夜になると赤ん坊の泣き声が聞こえる」
毎月山のように届く怪異情報の中で、この一文が編集部の目に留まったのは、同様の目撃情報が過去三年間で五件ほど寄せられていたからだ。いずれも似通った内容ながら、お互いに面識のない人々からの報告であり、そこに何らかの共通項があるのではないかという疑念が生じた。
梅雨が明けたばかりの東京では、伝統ある入谷朝顔市が開催される時期である。毎年多くの人出で賑わうこの地域に残る都市伝説を調査すべく、私は真源寺に足を運んだ。
入谷駅から徒歩7分ほど。静かな路地を抜けると、小さいながらも歴史を感じさせる真源寺の佇まいが目に入る。江戸時代から続くこの寺は、「入谷鬼子母神」として地元の人々に親しまれてきた。
境内に入ると、小さな本堂の横に鬼子母神を祀る堂がある。仏教における鬼子母神は、本来は多くの子どもを産み、人の子を食らう鬼女だったが、釈迦に諭されて改心し、子どもの守護神となったという逸話を持つ。
「こちらの鬼子母神像は江戸中期の作とされています」
案内してくれた住職の篠田氏(72)は静かな口調で語る。
「鬼子母神信仰は子育ての守護、安産を願う女性たちに古くから支持されてきました。特に入谷一帯では、幕末から明治にかけて『子返し』と呼ばれる貧困による嬰児間引きが密かに行われていた時期があり、そういった歴史的背景から、この場所に特別な念が集まっているという話もあります」
住職の言葉に、私は思わずメモ帳に「子返し」と「念」の二語を書き記した。
鬼子母神堂の内部は薄暗く、赤い布に包まれた小さな鬼子母神像が安置されている。像は子どもを優しく抱きかかえる姿で、その表情には慈愛と同時に、どこか哀しみを秘めているようにも見えた。
「最初に聞いたのは、去年の秋祭りの後片付けをしていた時です」
氏子総代の一人である高橋さん(68)は、寺の境内の一角で私に語ってくれた。
「午後9時を過ぎていましたね。すでに人もまばらになった頃、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきたんです。最初は近所の家からかと思いましたが、あまりにも近く、しかも境内の方から聞こえる。不思議に思って探したんですが、誰もいなかった」
高橋さんは、その声があまりにも生々しく、しかし同時にどこか遠くから聞こえてくるような不思議な響きだったと証言する。
寺の近くで40年以上営業している花屋の女将(65)も似たような経験を持つという。
「夏の夜、店の片付けをしていると時々聞こえるんですよ。でも不思議なことに、怖いとは感じないんです。どこか懐かしいような、子守唄を聞いているような気持ちになる」
最も興味深い証言は、地元の古老から得られた。
「昔から言われていることですがね、この辺りは『子守地蔵』と呼ばれる小さな石仏があったところなんです」と語るのは、入谷に生まれ育った村田氏(88)だ。
「明治の頃、貧しさから子を手放さざるを得なかった親たちが、せめてもの供養にと建てたものだと聞いています。都市開発で今はもうないですが、その場所が今の鬼子母神堂の近くだったんですよ」
私は都立図書館で入谷地区の歴史を調査した。明治から大正にかけての記録によれば、この地域は貧しい労働者が多く住む地域であり、実際に乳幼児死亡率が高かったという記録が残されている。また、中には経済的理由から子どもを手放す「子返し」の悲劇も少なくなかったようだ。
「入谷鬼子母神縁起」と題された古い文書には、「子を失いし母の嘆きを鬼子母神が慰め、迷える子の魂を導く」という一節が記されており、子どもを亡くした親の心の拠り所となっていたことがうかがえる。
現代の証言者たちに共通するのは、泣き声が聞こえる時間帯が夜の9時から11時の間という点だ。また、不思議なことに朝顔市の期間中や、8月のお盆の時期に集中しているという特徴がある。
大学で民俗学を研究する乙羽教授(63)は、この現象について次のように分析する。
「季節の変わり目や特別な行事の時期は、古来より『あの世とこの世の境界が薄くなる』と考えられてきました。特に朝顔市は本来、亡くなった人々の魂を迎える意味合いもあったとされています。そういった文化的背景と、この地域の歴史的な『子どもの喪失』という悲しみが結びついて、このような現象として表れているのかもしれません」
私は七月の朝顔市期間中、三日間連続で夜の真源寺を訪れた。昼間の賑わいが嘘のように静まり返った境内で、録音機材を設置し、鬼子母神堂の周辺で待機した。
一日目と二日目は何も起こらなかった。しかし三日目、午後10時23分頃、微かだが確かに幼い子どもの泣き声らしき音が録音された。近隣住民の生活音とも考えられるが、不思議なことに音源の方向が特定できず、まるで境内全体から聞こえてくるかのような拡散音だった。
音響分析の専門家に依頼した結果、「人の声に近い周波数特性を持つが、通常の赤児の泣き声とは微妙に異なる音響パターンを示す」との見解を得た。
入谷の鬼子母神に伝わる赤子の泣き声の正体は何か。単なる都市の喧騒が生み出した錯覚なのか。それとも、かつてこの地で悲しい別れを経験した親子の魂の名残なのか。
現代科学では説明のつかない現象は依然として多く存在する。古くから伝わる言い伝えや都市伝説の中には、私たちが忘れかけている歴史や、言葉にならない思いが込められているのかもしれない。
夏の夜、入谷の静かな路地を歩くとき、耳を澄ませば何か聞こえてくるだろうか。それを怖いものと感じるか、悲しい過去の名残と感じるか、あるいは単なる夜の音と片付けるか—その判断は、読者の皆さんに委ねたい。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「夜の子守唄」
取材・文: 野々宮圭介
本誌の読者から一通の投書が届いたのは、梅雨明けの蒸し暑い7月のことだった。
「入谷の鬼子母神周辺で、夜になると赤ん坊の泣き声が聞こえる」
毎月山のように届く怪異情報の中で、この一文が編集部の目に留まったのは、同様の目撃情報が過去三年間で五件ほど寄せられていたからだ。いずれも似通った内容ながら、お互いに面識のない人々からの報告であり、そこに何らかの共通項があるのではないかという疑念が生じた。
梅雨が明けたばかりの東京では、伝統ある入谷朝顔市が開催される時期である。毎年多くの人出で賑わうこの地域に残る都市伝説を調査すべく、私は真源寺に足を運んだ。
入谷駅から徒歩7分ほど。静かな路地を抜けると、小さいながらも歴史を感じさせる真源寺の佇まいが目に入る。江戸時代から続くこの寺は、「入谷鬼子母神」として地元の人々に親しまれてきた。
境内に入ると、小さな本堂の横に鬼子母神を祀る堂がある。仏教における鬼子母神は、本来は多くの子どもを産み、人の子を食らう鬼女だったが、釈迦に諭されて改心し、子どもの守護神となったという逸話を持つ。
「こちらの鬼子母神像は江戸中期の作とされています」
案内してくれた住職の篠田氏(72)は静かな口調で語る。
「鬼子母神信仰は子育ての守護、安産を願う女性たちに古くから支持されてきました。特に入谷一帯では、幕末から明治にかけて『子返し』と呼ばれる貧困による嬰児間引きが密かに行われていた時期があり、そういった歴史的背景から、この場所に特別な念が集まっているという話もあります」
住職の言葉に、私は思わずメモ帳に「子返し」と「念」の二語を書き記した。
鬼子母神堂の内部は薄暗く、赤い布に包まれた小さな鬼子母神像が安置されている。像は子どもを優しく抱きかかえる姿で、その表情には慈愛と同時に、どこか哀しみを秘めているようにも見えた。
「最初に聞いたのは、去年の秋祭りの後片付けをしていた時です」
氏子総代の一人である高橋さん(68)は、寺の境内の一角で私に語ってくれた。
「午後9時を過ぎていましたね。すでに人もまばらになった頃、どこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきたんです。最初は近所の家からかと思いましたが、あまりにも近く、しかも境内の方から聞こえる。不思議に思って探したんですが、誰もいなかった」
高橋さんは、その声があまりにも生々しく、しかし同時にどこか遠くから聞こえてくるような不思議な響きだったと証言する。
寺の近くで40年以上営業している花屋の女将(65)も似たような経験を持つという。
「夏の夜、店の片付けをしていると時々聞こえるんですよ。でも不思議なことに、怖いとは感じないんです。どこか懐かしいような、子守唄を聞いているような気持ちになる」
最も興味深い証言は、地元の古老から得られた。
「昔から言われていることですがね、この辺りは『子守地蔵』と呼ばれる小さな石仏があったところなんです」と語るのは、入谷に生まれ育った村田氏(88)だ。
「明治の頃、貧しさから子を手放さざるを得なかった親たちが、せめてもの供養にと建てたものだと聞いています。都市開発で今はもうないですが、その場所が今の鬼子母神堂の近くだったんですよ」
私は都立図書館で入谷地区の歴史を調査した。明治から大正にかけての記録によれば、この地域は貧しい労働者が多く住む地域であり、実際に乳幼児死亡率が高かったという記録が残されている。また、中には経済的理由から子どもを手放す「子返し」の悲劇も少なくなかったようだ。
「入谷鬼子母神縁起」と題された古い文書には、「子を失いし母の嘆きを鬼子母神が慰め、迷える子の魂を導く」という一節が記されており、子どもを亡くした親の心の拠り所となっていたことがうかがえる。
現代の証言者たちに共通するのは、泣き声が聞こえる時間帯が夜の9時から11時の間という点だ。また、不思議なことに朝顔市の期間中や、8月のお盆の時期に集中しているという特徴がある。
大学で民俗学を研究する乙羽教授(63)は、この現象について次のように分析する。
「季節の変わり目や特別な行事の時期は、古来より『あの世とこの世の境界が薄くなる』と考えられてきました。特に朝顔市は本来、亡くなった人々の魂を迎える意味合いもあったとされています。そういった文化的背景と、この地域の歴史的な『子どもの喪失』という悲しみが結びついて、このような現象として表れているのかもしれません」
私は七月の朝顔市期間中、三日間連続で夜の真源寺を訪れた。昼間の賑わいが嘘のように静まり返った境内で、録音機材を設置し、鬼子母神堂の周辺で待機した。
一日目と二日目は何も起こらなかった。しかし三日目、午後10時23分頃、微かだが確かに幼い子どもの泣き声らしき音が録音された。近隣住民の生活音とも考えられるが、不思議なことに音源の方向が特定できず、まるで境内全体から聞こえてくるかのような拡散音だった。
音響分析の専門家に依頼した結果、「人の声に近い周波数特性を持つが、通常の赤児の泣き声とは微妙に異なる音響パターンを示す」との見解を得た。
入谷の鬼子母神に伝わる赤子の泣き声の正体は何か。単なる都市の喧騒が生み出した錯覚なのか。それとも、かつてこの地で悲しい別れを経験した親子の魂の名残なのか。
現代科学では説明のつかない現象は依然として多く存在する。古くから伝わる言い伝えや都市伝説の中には、私たちが忘れかけている歴史や、言葉にならない思いが込められているのかもしれない。
夏の夜、入谷の静かな路地を歩くとき、耳を澄ませば何か聞こえてくるだろうか。それを怖いものと感じるか、悲しい過去の名残と感じるか、あるいは単なる夜の音と片付けるか—その判断は、読者の皆さんに委ねたい。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
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