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第154回 La Virgen que Llora
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都市伝説レポート 第154回
「La Virgen que Llora」
取材・文: 野々宮圭介
「スペインに、災いを予告する聖母像があるという話をご存知ですか?」
そう切り出したのは、民俗学者の乙羽教授だった。九月の終わり、いつものように教授の研究室を訪れた私は、机の上に広げられた古いスペイン語の文献に目を留めた。
「グアダルーペ修道院のマリア像が涙を流すという伝承です。しかも、ただの奇跡譚ではない。その涙は常に災厄の前触れとして現れるのです」
乙羽教授の説明によれば、エストレマドゥーラ州にあるグアダルーペの王立サンタ・マリア修道院には、十四世紀から続く不思議な現象の記録が残されているという。聖母マリア像が流す涙は、戦争、疫病、天災といった大きな災いの前兆として、地元の人々に畏れられてきたのだという。
「現代でも目撃証言があります。一九八〇年代、スペインが民主化の混乱期にあった頃、複数の修道士と信者が『像が泣いた』と証言しているのです」
十月下旬、私はマドリードから車で約二時間のグアダルーペ村へ向かった。カセレス県の山間部に位置するこの小さな村は、人口わずか二千人ほどだが、年間百万人を超える巡礼者が訪れる世界遺産の地である。
村の中心部に聳える王立サンタ・マリア修道院は、十四世紀にアルフォンソ十一世によって建設された。赤茶色の煉瓦と石造りの重厚な建物は、八百年近い歳月を経てなお、圧倒的な存在感を放っている。
「ああ、日本の記者さんですね。お待ちしていました」
出迎えてくれたのは、修道院の案内を担当するフアン・カルロス神父だった。六十代と思われる痩身の神父は、取材申し込みに快く応じてくれた一人である。
「『泣く聖母』の話をお聞きになりたいと。確かに、そのような伝承は古くからございます」
神父の案内で修道院内部へ足を踏み入れた野々宮は、薄暗い回廊に響く自分の足音を聞きながら、この場所に刻まれた長い歴史の重みを感じていた。
修道院の奥、聖堂の最も神聖な場所に、問題の聖母像は安置されていた。「グアダルーペの黒い聖母」と呼ばれるこの像は、高さ約六十センチメートルの木製彫刻で、金と宝石で美しく装飾されている。伝説によれば、聖ルカによって彫られたとされるが、実際には十二世紀から十三世紀頃の作品と推定されている。
「この聖母像は、レコンキスタの時代からスペインの守護者として崇められてきました。コロンブスも新大陸発見の航海前に、ここで祈りを捧げたのです」
フアン・カルロス神父の説明を聞きながら、私は像の表情を注意深く観察した。穏やかながらも威厳に満ちた聖母の顔には、確かに人々の心を動かす何かがあった。
「で、涙を流すという現象についてですが...」
神父は一瞬躊躇するような表情を見せた。
「公式には、そのような現象は認められていません。しかし、古い記録を見ると、確かに不思議な証言が残されているのも事実です」
修道院の図書館で、私は貴重な古文書と対面した。十五世紀から十九世紀にかけて書かれた修道士たちの記録には、確かに「聖母の涙」に関する記述が散見される。
一五八八年、スペイン無敵艦隊がイングランドに敗北する直前、修道士ペドロ・デ・アルカンタラは日記にこう記している。
「九月十三日、朝の祈りの最中、聖母の右頬に水滴を認めり。それは真珠のごとく美しく、されど見る者の心に深い憂いを与えり」
一八〇八年、ナポレオン軍のスペイン侵攻が始まる前年にも、「聖母の両目より清らかな水が流れ出づ」という記録が残されている。
「これらの記録をどう解釈するかは、読む人次第です」
図書館の司書を務めるアントニオ修道士はそう前置きしてから、最も興味深い資料を取り出した。
「これは一九八〇年代の記録です。正式な文書ではありませんが、当時の修道士と信者の証言をまとめたものです」
一九八一年二月二十三日、スペインでクーデター未遂事件が発生した。軍部の一部が国会議事堂を占拠し、民主化が危機に瀕した日である。
その前日、グアダルーペ修道院で奇妙な現象が起きていた。
「朝の六時頃でした。いつものように聖母に祈りを捧げていると、像の右目から水が一筋流れ落ちるのを見たのです」
証言者のマリア・カルメン・フェルナンデス(当時四十五歳)は、四十年以上経った今でも、その時の光景を鮮明に覚えている。野々宮は村の小さなカフェで、現在八十九歳になった彼女から話を聞いた。
「最初は水漏れかと思いました。でも、他の場所に水の跡はありませんでした。そして翌日、あの事件が起きたのです」
同じ現象を目撃したのは、マリア・カルメンだけではなかった。当時修道院にいたミゲル・サンチェス修道士(故人)も、日記に同様の記録を残している。
「一九八四年にも見ました」
マリア・カルメンは続けた。
「その年の秋、経済危機が深刻化する直前でした。聖母様の両目から、まるで悲しみを表すように涙が流れていました」
私は現象の客観的な検証を試みた。マドリードの国立博物館で文化財保存を専門とするカルロス・ロドリゲス博士に話を聞いた。
「木製の彫刻が水分を滲出させることは、確かにあり得ます」
博士の説明によれば、古い木材は湿度の変化に敏感で、特定の条件下では表面に水滴が現れることがあるという。
「しかし、それが特定の時期に集中して起こるとすれば、興味深い現象ですね。科学的に説明できない部分もあるかもしれません」
一方、グアダルーペ村の気象記録を調べてみると、目撃証言があった時期の気象条件に特別な変化は見られなかった。
取材の最後に、再びフアン・カルロス神父と話をした。
「神父さんは、この現象をどう解釈されますか?」
神父は長い沈黙の後、慎重に言葉を選んで答えた。
「私たちは奇跡を求めているのではありません。大切なのは、人々がこの現象を通じて何を感じ、何を学ぶかです。聖母の涙が本物かどうかより、それが人々の心に与える影響の方が重要だと思います」
「...ただし」
神父は付け加えた。
「長年この修道院で祈りを捧げてきた私から見ると、聖母像には確かに...何かがあります。それが何なのかはわかりませんが」
グアダルーペの「泣く聖母」の真相は、結局のところ謎のままである。科学的な説明も、信仰的な解釈も、それぞれに説得力がある。
しかし、私が三日間の取材を通じて感じたのは、この現象に接した人々の真摯な思いだった。彼らは決して迷信に惑わされる単純な人々ではない。むしろ、現代社会に生きる我々が見失いがちな、目に見えない何かへの感受性を持ち続けている人々なのかもしれない。
八百年の歳月を経てなお、グアダルーペの聖母は静かに佇んでいる。その瞳に映るものが涙なのか、それとも別の何かなのか。それを判断するのは、この報告を読む皆さん自身である。
(了)
*本誌では読者の皆様からの都市伝説情報を募集しています。身近な不思議体験がありましたら、編集部までお寄せください。
「La Virgen que Llora」
取材・文: 野々宮圭介
「スペインに、災いを予告する聖母像があるという話をご存知ですか?」
そう切り出したのは、民俗学者の乙羽教授だった。九月の終わり、いつものように教授の研究室を訪れた私は、机の上に広げられた古いスペイン語の文献に目を留めた。
「グアダルーペ修道院のマリア像が涙を流すという伝承です。しかも、ただの奇跡譚ではない。その涙は常に災厄の前触れとして現れるのです」
乙羽教授の説明によれば、エストレマドゥーラ州にあるグアダルーペの王立サンタ・マリア修道院には、十四世紀から続く不思議な現象の記録が残されているという。聖母マリア像が流す涙は、戦争、疫病、天災といった大きな災いの前兆として、地元の人々に畏れられてきたのだという。
「現代でも目撃証言があります。一九八〇年代、スペインが民主化の混乱期にあった頃、複数の修道士と信者が『像が泣いた』と証言しているのです」
十月下旬、私はマドリードから車で約二時間のグアダルーペ村へ向かった。カセレス県の山間部に位置するこの小さな村は、人口わずか二千人ほどだが、年間百万人を超える巡礼者が訪れる世界遺産の地である。
村の中心部に聳える王立サンタ・マリア修道院は、十四世紀にアルフォンソ十一世によって建設された。赤茶色の煉瓦と石造りの重厚な建物は、八百年近い歳月を経てなお、圧倒的な存在感を放っている。
「ああ、日本の記者さんですね。お待ちしていました」
出迎えてくれたのは、修道院の案内を担当するフアン・カルロス神父だった。六十代と思われる痩身の神父は、取材申し込みに快く応じてくれた一人である。
「『泣く聖母』の話をお聞きになりたいと。確かに、そのような伝承は古くからございます」
神父の案内で修道院内部へ足を踏み入れた野々宮は、薄暗い回廊に響く自分の足音を聞きながら、この場所に刻まれた長い歴史の重みを感じていた。
修道院の奥、聖堂の最も神聖な場所に、問題の聖母像は安置されていた。「グアダルーペの黒い聖母」と呼ばれるこの像は、高さ約六十センチメートルの木製彫刻で、金と宝石で美しく装飾されている。伝説によれば、聖ルカによって彫られたとされるが、実際には十二世紀から十三世紀頃の作品と推定されている。
「この聖母像は、レコンキスタの時代からスペインの守護者として崇められてきました。コロンブスも新大陸発見の航海前に、ここで祈りを捧げたのです」
フアン・カルロス神父の説明を聞きながら、私は像の表情を注意深く観察した。穏やかながらも威厳に満ちた聖母の顔には、確かに人々の心を動かす何かがあった。
「で、涙を流すという現象についてですが...」
神父は一瞬躊躇するような表情を見せた。
「公式には、そのような現象は認められていません。しかし、古い記録を見ると、確かに不思議な証言が残されているのも事実です」
修道院の図書館で、私は貴重な古文書と対面した。十五世紀から十九世紀にかけて書かれた修道士たちの記録には、確かに「聖母の涙」に関する記述が散見される。
一五八八年、スペイン無敵艦隊がイングランドに敗北する直前、修道士ペドロ・デ・アルカンタラは日記にこう記している。
「九月十三日、朝の祈りの最中、聖母の右頬に水滴を認めり。それは真珠のごとく美しく、されど見る者の心に深い憂いを与えり」
一八〇八年、ナポレオン軍のスペイン侵攻が始まる前年にも、「聖母の両目より清らかな水が流れ出づ」という記録が残されている。
「これらの記録をどう解釈するかは、読む人次第です」
図書館の司書を務めるアントニオ修道士はそう前置きしてから、最も興味深い資料を取り出した。
「これは一九八〇年代の記録です。正式な文書ではありませんが、当時の修道士と信者の証言をまとめたものです」
一九八一年二月二十三日、スペインでクーデター未遂事件が発生した。軍部の一部が国会議事堂を占拠し、民主化が危機に瀕した日である。
その前日、グアダルーペ修道院で奇妙な現象が起きていた。
「朝の六時頃でした。いつものように聖母に祈りを捧げていると、像の右目から水が一筋流れ落ちるのを見たのです」
証言者のマリア・カルメン・フェルナンデス(当時四十五歳)は、四十年以上経った今でも、その時の光景を鮮明に覚えている。野々宮は村の小さなカフェで、現在八十九歳になった彼女から話を聞いた。
「最初は水漏れかと思いました。でも、他の場所に水の跡はありませんでした。そして翌日、あの事件が起きたのです」
同じ現象を目撃したのは、マリア・カルメンだけではなかった。当時修道院にいたミゲル・サンチェス修道士(故人)も、日記に同様の記録を残している。
「一九八四年にも見ました」
マリア・カルメンは続けた。
「その年の秋、経済危機が深刻化する直前でした。聖母様の両目から、まるで悲しみを表すように涙が流れていました」
私は現象の客観的な検証を試みた。マドリードの国立博物館で文化財保存を専門とするカルロス・ロドリゲス博士に話を聞いた。
「木製の彫刻が水分を滲出させることは、確かにあり得ます」
博士の説明によれば、古い木材は湿度の変化に敏感で、特定の条件下では表面に水滴が現れることがあるという。
「しかし、それが特定の時期に集中して起こるとすれば、興味深い現象ですね。科学的に説明できない部分もあるかもしれません」
一方、グアダルーペ村の気象記録を調べてみると、目撃証言があった時期の気象条件に特別な変化は見られなかった。
取材の最後に、再びフアン・カルロス神父と話をした。
「神父さんは、この現象をどう解釈されますか?」
神父は長い沈黙の後、慎重に言葉を選んで答えた。
「私たちは奇跡を求めているのではありません。大切なのは、人々がこの現象を通じて何を感じ、何を学ぶかです。聖母の涙が本物かどうかより、それが人々の心に与える影響の方が重要だと思います」
「...ただし」
神父は付け加えた。
「長年この修道院で祈りを捧げてきた私から見ると、聖母像には確かに...何かがあります。それが何なのかはわかりませんが」
グアダルーペの「泣く聖母」の真相は、結局のところ謎のままである。科学的な説明も、信仰的な解釈も、それぞれに説得力がある。
しかし、私が三日間の取材を通じて感じたのは、この現象に接した人々の真摯な思いだった。彼らは決して迷信に惑わされる単純な人々ではない。むしろ、現代社会に生きる我々が見失いがちな、目に見えない何かへの感受性を持ち続けている人々なのかもしれない。
八百年の歳月を経てなお、グアダルーペの聖母は静かに佇んでいる。その瞳に映るものが涙なのか、それとも別の何かなのか。それを判断するのは、この報告を読む皆さん自身である。
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