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皇太后、語りて曰く
前夜
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はじめ、愚かにも、私たちは金国の台頭を歓迎しておりました。
百年以上前、遼国へ割譲した燕雲十六州。我ら大宋にとって、取り戻すのは長年の悲願でした。それゆえ新興の金と盟約を結び、遼を挟撃して滅ぼすに至った時は、開封府は大いに沸いたものです。宮中の祝賀は後宮にも伝わり、私たちも菓子や茶で大いに楽しみました。
当時、位にあった我が主上――宣和の帝は、数十人の妃嬪を後宮に置いておりました。妃が多ければ、皇子や帝姫も多く生まれます。後宮は常に、大勢の妻妾と帝姫たちで賑やかでした。私の容姿は平凡でしたから、美を競い合う妃嬪たちには気後れを感じておりましたが、あどけなく遊ぶ帝姫たちは可愛いものでした。上は十五、六から、下は生まれて間もない幼子まで、十数人ほどが当時宮中に住まっていたと記憶しております。
私は皇子を産みましたので、高い位階を得てはおりました。ですが、主上の訪れはまったくありませんでした。居室を訪れる男は、我が息子である康王――つまり今の帝くらいでした。機嫌伺に来たときの康王は、いつも嬉しそうに日々のあれこれを喋っておりました。帝位の可能性のない九男として、親しい相手もあまりいなかったようですから、私が一番の話相手だったのでしょう。市街で買った果物や菓子など持ち込んで、長話をしていくこともよくありました。饅頭や月餅など、餡の入った甘い菓子を特に好んでおりましたね。
菓子といえば、和福帝姫のことが思い出されます。五歳くらいの頃から、私のところへよく遊びに来ておりました。こちらも情が湧いて饅頭や飴など出すのですが、あの子はいつも食べずに持ち帰るのです。聞けば、寧福姉様にあげるのだと。
「私はいいですから。寧福姉様に喜んでほしくて」
いつもそう言って笑っておりました。
寧福帝姫は和福帝姫より二つ上でしたが、母が庶人に落とされたゆえに、宮中ではよく寂しそうにしておりました。その寧福帝姫を、和福帝姫はなにかと構っておりましたね。菓子をあげたり遊びに誘ったり。自身も母を亡くしておりましたのに、優しい子でした。
燕雲十六州奪還の折は、康王が私の所に菓子籠を持ってきたのですが、私はひとつふたつ摘まんだくらいで、残りは和福帝姫にあげてしまいました。大層喜んでおりましたよ。あとで康王に知れて、母上に召し上がっていただきたかったのにと、恨み言を言われもしましたが。
やがて、不穏な噂が私たちの耳にも入り始めました。遼を滅ぼしたのはほとんど金の独力で、宋の働きはごくわずかだったこと。それでいて、宋の側が多くの背信――約束した金品を送らない、遼の残党と共謀する、金の謀反人を迎え入れるなど――を働いたこと。金が大いに怒っていること。暗い話ばかりでしたが、私たちには縁のないことと思っておりました。政事や兵事は男の領分、女が関わることではありません。後宮では変わらぬ日々が流れ、妃嬪たちは美しく、姫君たちは愛らしかった。
何かがおかしいと感じ始めたのは、我が主上――宣和の帝が急に退位され、皇太子であった靖康の帝が立った時でした。金の怒りを鎮めるため、と聞きましたが、北方の胡人をそこまで恐れる必要があるのかと、不思議に思ったものです。
新たな帝は、我が主上ほどには女色を好まぬ方のようでした。夫人以上の妃嬪は十人くらい、皇后の朱氏も慎ましい感じの方でした。派手な錦繍はまとわずとも、生来の容貌が美しいゆえに映える御方でした。それでいて大変気配りの細やかな方で、ご自身の立后の折には、太上皇の妻妾たる私たちにも贈物をくださいました。私がいただいたのは、牡丹の飾りがついた黄金の簪でした。
簪の礼にと、一度だけ朱皇后の居室を訪れたことがあります。部屋に、繊細な花鳥画が掛かっておりました。書画好きの我が主上が好みそうです、とお伝えすると、少し頬を赤らめながら、自身が描いたと教えてくれました。驚いていると、朱皇后は遠慮がちに言いました。
「絵は好きですが、徳を損なうほど耽溺せぬよう心がけております」
我が主上は、時に政《まつりごと》を打ち捨ててまで書画骨董に傾倒しておりましたから、妃として少々恥じ入ったのを覚えております。
外の情勢は、日を追って悪くなっていきました。新しい帝が立ってほどなく、私の位階は婉容から貴妃に上がりました。急な話を不思議に思っていると、康王が訪ねてきました。金国の人質になりに行くので、しばし別れを告げに来た、と。
驚く私の前で、康王は跪きました。金国の怒りは激しく、親王か宰相を出せと言ってきている。誰かが行かねばならぬなら、せめて母の栄誉の足しになりたい、と。太上皇も帝も喜んで、母たる私の位階を上げてくれたのだ、と。
このとき私は、初めて金を怖れました。息子の生殺与奪を安心して預けられる相手とは、まったく思えませんでしたから。
ですが怖れは、あくまで息子の身柄についてでした。自らのすぐ傍にまで禍が迫っていようとは、考えてもいませんでした。
百年以上前、遼国へ割譲した燕雲十六州。我ら大宋にとって、取り戻すのは長年の悲願でした。それゆえ新興の金と盟約を結び、遼を挟撃して滅ぼすに至った時は、開封府は大いに沸いたものです。宮中の祝賀は後宮にも伝わり、私たちも菓子や茶で大いに楽しみました。
当時、位にあった我が主上――宣和の帝は、数十人の妃嬪を後宮に置いておりました。妃が多ければ、皇子や帝姫も多く生まれます。後宮は常に、大勢の妻妾と帝姫たちで賑やかでした。私の容姿は平凡でしたから、美を競い合う妃嬪たちには気後れを感じておりましたが、あどけなく遊ぶ帝姫たちは可愛いものでした。上は十五、六から、下は生まれて間もない幼子まで、十数人ほどが当時宮中に住まっていたと記憶しております。
私は皇子を産みましたので、高い位階を得てはおりました。ですが、主上の訪れはまったくありませんでした。居室を訪れる男は、我が息子である康王――つまり今の帝くらいでした。機嫌伺に来たときの康王は、いつも嬉しそうに日々のあれこれを喋っておりました。帝位の可能性のない九男として、親しい相手もあまりいなかったようですから、私が一番の話相手だったのでしょう。市街で買った果物や菓子など持ち込んで、長話をしていくこともよくありました。饅頭や月餅など、餡の入った甘い菓子を特に好んでおりましたね。
菓子といえば、和福帝姫のことが思い出されます。五歳くらいの頃から、私のところへよく遊びに来ておりました。こちらも情が湧いて饅頭や飴など出すのですが、あの子はいつも食べずに持ち帰るのです。聞けば、寧福姉様にあげるのだと。
「私はいいですから。寧福姉様に喜んでほしくて」
いつもそう言って笑っておりました。
寧福帝姫は和福帝姫より二つ上でしたが、母が庶人に落とされたゆえに、宮中ではよく寂しそうにしておりました。その寧福帝姫を、和福帝姫はなにかと構っておりましたね。菓子をあげたり遊びに誘ったり。自身も母を亡くしておりましたのに、優しい子でした。
燕雲十六州奪還の折は、康王が私の所に菓子籠を持ってきたのですが、私はひとつふたつ摘まんだくらいで、残りは和福帝姫にあげてしまいました。大層喜んでおりましたよ。あとで康王に知れて、母上に召し上がっていただきたかったのにと、恨み言を言われもしましたが。
やがて、不穏な噂が私たちの耳にも入り始めました。遼を滅ぼしたのはほとんど金の独力で、宋の働きはごくわずかだったこと。それでいて、宋の側が多くの背信――約束した金品を送らない、遼の残党と共謀する、金の謀反人を迎え入れるなど――を働いたこと。金が大いに怒っていること。暗い話ばかりでしたが、私たちには縁のないことと思っておりました。政事や兵事は男の領分、女が関わることではありません。後宮では変わらぬ日々が流れ、妃嬪たちは美しく、姫君たちは愛らしかった。
何かがおかしいと感じ始めたのは、我が主上――宣和の帝が急に退位され、皇太子であった靖康の帝が立った時でした。金の怒りを鎮めるため、と聞きましたが、北方の胡人をそこまで恐れる必要があるのかと、不思議に思ったものです。
新たな帝は、我が主上ほどには女色を好まぬ方のようでした。夫人以上の妃嬪は十人くらい、皇后の朱氏も慎ましい感じの方でした。派手な錦繍はまとわずとも、生来の容貌が美しいゆえに映える御方でした。それでいて大変気配りの細やかな方で、ご自身の立后の折には、太上皇の妻妾たる私たちにも贈物をくださいました。私がいただいたのは、牡丹の飾りがついた黄金の簪でした。
簪の礼にと、一度だけ朱皇后の居室を訪れたことがあります。部屋に、繊細な花鳥画が掛かっておりました。書画好きの我が主上が好みそうです、とお伝えすると、少し頬を赤らめながら、自身が描いたと教えてくれました。驚いていると、朱皇后は遠慮がちに言いました。
「絵は好きですが、徳を損なうほど耽溺せぬよう心がけております」
我が主上は、時に政《まつりごと》を打ち捨ててまで書画骨董に傾倒しておりましたから、妃として少々恥じ入ったのを覚えております。
外の情勢は、日を追って悪くなっていきました。新しい帝が立ってほどなく、私の位階は婉容から貴妃に上がりました。急な話を不思議に思っていると、康王が訪ねてきました。金国の人質になりに行くので、しばし別れを告げに来た、と。
驚く私の前で、康王は跪きました。金国の怒りは激しく、親王か宰相を出せと言ってきている。誰かが行かねばならぬなら、せめて母の栄誉の足しになりたい、と。太上皇も帝も喜んで、母たる私の位階を上げてくれたのだ、と。
このとき私は、初めて金を怖れました。息子の生殺与奪を安心して預けられる相手とは、まったく思えませんでしたから。
ですが怖れは、あくまで息子の身柄についてでした。自らのすぐ傍にまで禍が迫っていようとは、考えてもいませんでした。
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