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第1章 PLAYER1
Prayer1 ①
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にわか雨が上がる。光芒は雲の隙間からおりて来る。
光の筋が真っ先に行き着いた先で、季節外れの吾木香が咲いた。
紅い花弁一つ一つが、世界を人理からはずしていく。
それが歴史の始まりにあった。
******
人間とはかつて、か弱い獣の一種に過ぎなかった。
雨が降れば水に呑まれ、太陽が刺せば渇きに苦しみ、大地が揺れれば倒れて潰され、森に入れば迷い彷徨い、しかしそれらすべてが存在しなければ、自らも生き長らえられない。
雨を司る神々に媚び、太陽を司る神々に諂い、大地を司る神々に許しを乞い、森を司る神々の情けにすがる。
そんな惨めな獣だった。
安寧などどこにもなかった。
ただ星を数えて月日を過ごし、神々の気まぐれに生かされ、神々の気まぐれで死ぬ。それが、唯一の在り方だった。
惨めな獣を救う光は、夜空からやってきた。
まず最初に異変に気づいたのは、星空を眺めていた羊飼いだ。彼は誰かの歌を聞いた。歌は一日夜空で鳴っていた。
次に歌を聞いたのは巫女だった。神々を鎮めるために空に祈っていた時だった。歌は二日夜空で鳴っていた。
それから、娼婦が、漁師が、詩人が、学者が、傭兵が歌を聞いた。歌は三日夜空で鳴っていた。
七日目の夜、歌はいよいよ大きくなった。
詩人が言った。「歌が我々に尋ねている」と。
羊飼いが、巫女が、娼婦が、漁師が、学者が、傭兵が耳を傾けると、歌は確かに我々に向かって尋ねている。
7人は歌に「イエス」と答えた。
夜空が光り、月が割れた。そして彼が現れた。
「これが聖書における有名な冒頭の部分です。俗にいう”7人のイエス”が彼との間に旧神と戦いうる力を得るための契約を結んだとされる場面です」
サー・イズラエル・ギャッレットの淡々とした声が、教室に響いていた。ユウキは教室の比較的後方、さらに隅の方というおよそ真面目な生徒が座り得ない席に腰を下ろし、その声が耳から入っては出ていくのを感じていた。
「ふあ~」
欠伸が漏れる。サーの声は、子守唄だ。
教室には倦怠感がまとわりついている。授業を受ける他の生徒も居眠りをしているか、携帯端末を堂々といじっているかだ。なんたってサーの授業の売りは、出席さえしていれば単位がもらえることであるから仕方がない。
教室は閑散としている。一応授業を受けている生徒は80人くらいはいるはずだから人が少ないのではなく、教室が広すぎるのだ。なにせ、長い歴史を誇るこの学院の象徴ともいうべき古い石造りの大きな時計塔の中で最も大きな教室だ。比較的近代に作られた理学や工学を学ぶ建物にはもっと大きな教室があるとはいえ、ここだって300人は講義を受けられる広さがある。もっと小さい教室で十分だとこの授業を受ける誰もが思っているだろうか、学院には学院の事情があるらしい。
今でこそ工学や医学、経済学といった分野で有名なこの学院も、その始まりには宗教学校であった。その名残もあり教会から学院へはいまだに多額の寄付が流れ込んでいるのだ。ゆえに、学院としては宗教学校としての体面を保てるだけの生徒を宗教学の授業に確保しておきたいし、立派に授業を行っていると示しておきたい。その結果が、楽に単位が取れるという口コミで、学院の象徴とも言える大講義室に生徒を集めるという苦肉の策だとか。
確かに、こうでもしなければ今時聖書について学ぼうなどという生徒は集まらないとも思う。この世に生まれて教会と一生関わらない人間はいないと言ってもいい。しかし、だからと言って大昔のあったかなかったかもわからない説話集に興味があるかといえば別だ。
特にユウキのような若い世代では敬虔さも失われてきている。
もちろん学院が苦労して集めた生徒が、真面目に聖書を学ぶかといえば、この有様だ。
ユウキはもう一度あくびをした。
「聖書はこのように続きます」
サーはユウキのあくびに気づくことすらなく、誰ともない虚空に向かって淡々と語りを続ける。世界中の人間が知っている話の続きを。
7人のイエスは旧神たちと戦う。脅威から、猛威から、恐怖からの脱却を願って。
長い戦い。流れる血。最後には勝利。そしてもたらされる平和。
やがて人は旧神から勝ち得た平和の先に栄華を手に入れる。星の支配者となった人類は彼の声に導かれ、病を駆逐し、気象を操り、生き物を管理し、あまつ作り出すまでに至る。
人はもはや万能で全能であった。
人はついに神となったのだ。
小さい頃から何度聞かされた話だろうか。ユウキはサーの話を携帯端末をいじる向こう側で聞き流しながら思った。
「しかし終わりはやってくるのです」
サーは、そこで一旦間を置いて、呼吸をした。
「もはや病も災害も、猛獣も、いかなる存在も人の脅威ではありませんでした」
誰かがうそぶいた。『我々万能の民から、栄華を奪えるものなどいようか』
しかしその問いには答えがあったのだ。
人を導き、人を指導する。つまり人を支配するものがまだいたのだ。彼である。
人は彼を疎み始めた。
もはや我々を救ったあの偉大な存在は、我々の栄華にとっての最後の枷でしかない。
「そしてついにある晩、7人のうち2人のイエスがついに主の寝所に潜り込むのです」
サーの語りを聞き流しながらも、教室の前の方に目が向いた。一人の少女が座っている。後ろから見える長い黒髪。先週もそこにいた気がする。
「傭兵のイエスが剣を振り下ろすと寝ている彼のその首は体から落ちて転がりました」
サーの語りに、少女は熱心に耳を勝たむけている。今更聖書の話など聞いたところで面白くもないだろうにと思う。その先の話なんて空で言える。人々はそれぞれのイエスに率いられ七つの国を作るが、国々はお互いを憎みだし戦乱へと向かう。やがて長い戦乱の中で人は、知恵も栄華も全てを失い、気づけば神としての全知と全能はどこへやら、ただの獣へと戻ったのでした。めでたし、めでたし。と言った感じだったかな。
前半はだいたいこんなところだ。サーに話してもらうまでもない。ここにいる全員が今までの人生のどこかでこの話を聞いてきたはずなのだ。若い人間の信仰心が薄れていくことを年寄りたちは嘆くが、それでも聖書に書かれている逸話をどんな形であれ聞いたこともないなんて人間はいないだろう。
小さい頃から聞かされる童話の類は、だいたいこの逸話をもとに作られていたりするし、映画や小説の題材になることも多い。
ユウキの関心はもはやサーの語りにはなく、熱心に耳を傾ける少女も通り過ぎ、迫り来る眠気に抗うか従うかに移っていた。すぐに答えは見つかって。ユウキは欲求の中に意識を埋めた。
******
「・・・・全てを失った人は自らの行いを悔います。そして・・・」
予鈴で目を覚ますと、サーの淡々とした語りが途絶えた。
「今日は、ここまでかな」
サーはそういうと。語りをやめ、テキパキと荷物を撤収し始める。授業の終わりを察した生徒たちもサーの行動に習い、バラバラと席をたち始める。きちんとした挨拶もなく、なんとなく終わる。それもまたサーの授業だ。
「起きろ」
その声と一緒にユウキの頭がこずかれた。
「起きてるって」
声の主の方を振り返る。
「ユウキは、起きてるか寝てるかいつもよくわかんねぇんだよ」
短く切られた黒髪に青い目、気の強そうな顔立ちとそれにピッタリあった低い声、そこに茶目っ気を備えた表情を浮かべるのは、ダリオ・アバーテであった。
「飯、行くだろ?」
ダリオは教室の出口を顎でさす。
「当たり前。食堂でSランチを食べるために学院に通ってるんだからな」
ユウキは軽口で返すと、荷物をまとめて席をたつ。
教室を出る時サー・イズラエルの方に目がいった。あの一番前で熱心に授業を聞いていた黒髪の少女と話している。恐らく授業の内容でも質問されているのだろう。熱心なものだと感心する。
サーと目があった。
そのまま通り過ぎるのも感じが悪いので、軽く会釈をする。サーが会釈で返すのを見届けたユウキは、ダリオを追って教室を出た。
光の筋が真っ先に行き着いた先で、季節外れの吾木香が咲いた。
紅い花弁一つ一つが、世界を人理からはずしていく。
それが歴史の始まりにあった。
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人間とはかつて、か弱い獣の一種に過ぎなかった。
雨が降れば水に呑まれ、太陽が刺せば渇きに苦しみ、大地が揺れれば倒れて潰され、森に入れば迷い彷徨い、しかしそれらすべてが存在しなければ、自らも生き長らえられない。
雨を司る神々に媚び、太陽を司る神々に諂い、大地を司る神々に許しを乞い、森を司る神々の情けにすがる。
そんな惨めな獣だった。
安寧などどこにもなかった。
ただ星を数えて月日を過ごし、神々の気まぐれに生かされ、神々の気まぐれで死ぬ。それが、唯一の在り方だった。
惨めな獣を救う光は、夜空からやってきた。
まず最初に異変に気づいたのは、星空を眺めていた羊飼いだ。彼は誰かの歌を聞いた。歌は一日夜空で鳴っていた。
次に歌を聞いたのは巫女だった。神々を鎮めるために空に祈っていた時だった。歌は二日夜空で鳴っていた。
それから、娼婦が、漁師が、詩人が、学者が、傭兵が歌を聞いた。歌は三日夜空で鳴っていた。
七日目の夜、歌はいよいよ大きくなった。
詩人が言った。「歌が我々に尋ねている」と。
羊飼いが、巫女が、娼婦が、漁師が、学者が、傭兵が耳を傾けると、歌は確かに我々に向かって尋ねている。
7人は歌に「イエス」と答えた。
夜空が光り、月が割れた。そして彼が現れた。
「これが聖書における有名な冒頭の部分です。俗にいう”7人のイエス”が彼との間に旧神と戦いうる力を得るための契約を結んだとされる場面です」
サー・イズラエル・ギャッレットの淡々とした声が、教室に響いていた。ユウキは教室の比較的後方、さらに隅の方というおよそ真面目な生徒が座り得ない席に腰を下ろし、その声が耳から入っては出ていくのを感じていた。
「ふあ~」
欠伸が漏れる。サーの声は、子守唄だ。
教室には倦怠感がまとわりついている。授業を受ける他の生徒も居眠りをしているか、携帯端末を堂々といじっているかだ。なんたってサーの授業の売りは、出席さえしていれば単位がもらえることであるから仕方がない。
教室は閑散としている。一応授業を受けている生徒は80人くらいはいるはずだから人が少ないのではなく、教室が広すぎるのだ。なにせ、長い歴史を誇るこの学院の象徴ともいうべき古い石造りの大きな時計塔の中で最も大きな教室だ。比較的近代に作られた理学や工学を学ぶ建物にはもっと大きな教室があるとはいえ、ここだって300人は講義を受けられる広さがある。もっと小さい教室で十分だとこの授業を受ける誰もが思っているだろうか、学院には学院の事情があるらしい。
今でこそ工学や医学、経済学といった分野で有名なこの学院も、その始まりには宗教学校であった。その名残もあり教会から学院へはいまだに多額の寄付が流れ込んでいるのだ。ゆえに、学院としては宗教学校としての体面を保てるだけの生徒を宗教学の授業に確保しておきたいし、立派に授業を行っていると示しておきたい。その結果が、楽に単位が取れるという口コミで、学院の象徴とも言える大講義室に生徒を集めるという苦肉の策だとか。
確かに、こうでもしなければ今時聖書について学ぼうなどという生徒は集まらないとも思う。この世に生まれて教会と一生関わらない人間はいないと言ってもいい。しかし、だからと言って大昔のあったかなかったかもわからない説話集に興味があるかといえば別だ。
特にユウキのような若い世代では敬虔さも失われてきている。
もちろん学院が苦労して集めた生徒が、真面目に聖書を学ぶかといえば、この有様だ。
ユウキはもう一度あくびをした。
「聖書はこのように続きます」
サーはユウキのあくびに気づくことすらなく、誰ともない虚空に向かって淡々と語りを続ける。世界中の人間が知っている話の続きを。
7人のイエスは旧神たちと戦う。脅威から、猛威から、恐怖からの脱却を願って。
長い戦い。流れる血。最後には勝利。そしてもたらされる平和。
やがて人は旧神から勝ち得た平和の先に栄華を手に入れる。星の支配者となった人類は彼の声に導かれ、病を駆逐し、気象を操り、生き物を管理し、あまつ作り出すまでに至る。
人はもはや万能で全能であった。
人はついに神となったのだ。
小さい頃から何度聞かされた話だろうか。ユウキはサーの話を携帯端末をいじる向こう側で聞き流しながら思った。
「しかし終わりはやってくるのです」
サーは、そこで一旦間を置いて、呼吸をした。
「もはや病も災害も、猛獣も、いかなる存在も人の脅威ではありませんでした」
誰かがうそぶいた。『我々万能の民から、栄華を奪えるものなどいようか』
しかしその問いには答えがあったのだ。
人を導き、人を指導する。つまり人を支配するものがまだいたのだ。彼である。
人は彼を疎み始めた。
もはや我々を救ったあの偉大な存在は、我々の栄華にとっての最後の枷でしかない。
「そしてついにある晩、7人のうち2人のイエスがついに主の寝所に潜り込むのです」
サーの語りを聞き流しながらも、教室の前の方に目が向いた。一人の少女が座っている。後ろから見える長い黒髪。先週もそこにいた気がする。
「傭兵のイエスが剣を振り下ろすと寝ている彼のその首は体から落ちて転がりました」
サーの語りに、少女は熱心に耳を勝たむけている。今更聖書の話など聞いたところで面白くもないだろうにと思う。その先の話なんて空で言える。人々はそれぞれのイエスに率いられ七つの国を作るが、国々はお互いを憎みだし戦乱へと向かう。やがて長い戦乱の中で人は、知恵も栄華も全てを失い、気づけば神としての全知と全能はどこへやら、ただの獣へと戻ったのでした。めでたし、めでたし。と言った感じだったかな。
前半はだいたいこんなところだ。サーに話してもらうまでもない。ここにいる全員が今までの人生のどこかでこの話を聞いてきたはずなのだ。若い人間の信仰心が薄れていくことを年寄りたちは嘆くが、それでも聖書に書かれている逸話をどんな形であれ聞いたこともないなんて人間はいないだろう。
小さい頃から聞かされる童話の類は、だいたいこの逸話をもとに作られていたりするし、映画や小説の題材になることも多い。
ユウキの関心はもはやサーの語りにはなく、熱心に耳を傾ける少女も通り過ぎ、迫り来る眠気に抗うか従うかに移っていた。すぐに答えは見つかって。ユウキは欲求の中に意識を埋めた。
******
「・・・・全てを失った人は自らの行いを悔います。そして・・・」
予鈴で目を覚ますと、サーの淡々とした語りが途絶えた。
「今日は、ここまでかな」
サーはそういうと。語りをやめ、テキパキと荷物を撤収し始める。授業の終わりを察した生徒たちもサーの行動に習い、バラバラと席をたち始める。きちんとした挨拶もなく、なんとなく終わる。それもまたサーの授業だ。
「起きろ」
その声と一緒にユウキの頭がこずかれた。
「起きてるって」
声の主の方を振り返る。
「ユウキは、起きてるか寝てるかいつもよくわかんねぇんだよ」
短く切られた黒髪に青い目、気の強そうな顔立ちとそれにピッタリあった低い声、そこに茶目っ気を備えた表情を浮かべるのは、ダリオ・アバーテであった。
「飯、行くだろ?」
ダリオは教室の出口を顎でさす。
「当たり前。食堂でSランチを食べるために学院に通ってるんだからな」
ユウキは軽口で返すと、荷物をまとめて席をたつ。
教室を出る時サー・イズラエルの方に目がいった。あの一番前で熱心に授業を聞いていた黒髪の少女と話している。恐らく授業の内容でも質問されているのだろう。熱心なものだと感心する。
サーと目があった。
そのまま通り過ぎるのも感じが悪いので、軽く会釈をする。サーが会釈で返すのを見届けたユウキは、ダリオを追って教室を出た。
応援ありがとうございます!
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