透明から、恋をする

すもも

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06.

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あれから少しは原稿を進めているけれど、義務的に書いているだけ。自分で読み直しても、何かが変わった気はしない。この原稿を見せても比嘉さんは首を縦には振らないだろう。ひとつため息をついて、イルカがボールを頭に乗っけているお気に入りのメモ帳を開く。比嘉さんとのデートで何か掴めたら書こうと思っているのに、イタリアンランチ、喫茶店、散歩、……どれもネタになりそうにない、行ったところをただ羅列しただけのメモ。前のページをめくると、次の構想と書いた大きな文字の下にびっしりと細かな文字が書かれている。一度これで書いてみろと言われて書いた物語の残滓。結局ボツ、描き直し。……、少し気分を変えようと立ち上がる。そこへインターフォンが聞こえた。

「はい」
「こんにちは深月先生!お届け物です!」

明るい声で林くんは荷物を見せた。

「ありがとう」
「ここ起きますね、サインいいですか?」

私は頷いてサインを記入していると、上からあー、と間延びした声が聞こえてサインを書き終えたボールペンを手渡
しながらどうしたの、と問う。

「うん、……、やー…ただの宅配の俺が深月先生のプライベートに口挟むのもなんなんですけど………その、先生のデート相手ってこの間俺がすれ違った人です?」
「んー?」

言われていつのことなのか記憶を辿る、けれど林君がどのタイミングで、誰とすれ違ったのかが分からないから判別が難しい。

「あの時っすよ、俺が宅配に来て入れ違いになった人。背が高くて、すっごい高そうな黒いコート着てた、やったら顔の整った人っすよ!」

それなら、比嘉さんかな。

「うん、そうだよ」

頷くと林君は大袈裟にやっぱり!と頷いた。

「いやほんとに…こんなこと言う権利無いっすけど、…あの人薬指に指輪してましたよね?」

林君の声が内緒話でもするみたいに少しだけ屈んで、私にしか聞こえないように小さな声になった。

「うん。あ、でも安心して、彼は私の担当編集なの!…あまりにも書けなかったから、デート体験をしてるの…」

少し気まずくて視線を逸らす。

「……、なんすかそれ。デートなら俺でも出来ますよ」

少し不貞腐れた表情に、目を丸くする。

「……俺としてみます?」
「……へっ」

突然の申し出に驚く、林君とデートは考えたことはなかった。彼は宅配としてうちに来てくれているだけ、こうしてたまに話をするけれど、デートが出来る間柄とも思っていなかった。顎に手を当てて少し考える。彼はとても明るくて私を楽しませるデートをしてくれそう。

「うんん。しない、ありがとう林君」

それなのに、私は静かに首を横に振るった。

「なんだ、残念っす」

林君は肩をすくめて、そう言いながらも少し微笑んで、一歩後ろに下がった。

「じゃ、また宅配があったら来ますね!」

明るく、帽子を上に上げて林君は玄関の扉を閉めた。冷たい玄関ドアを前にして私は自分の足元を見つめた。せっかくのチャンスをふいにしたかもしれない、どうして、断ったんだろう…、自分の判断にひとり動揺して、置いてもらったばかりのダンボールに足を引っ掛けて転びそうになった。


私の気持ちは置き去りにして時間はすすみ、3回目のデートの日がやってくる。


ふたりでやって来たのは水族館で、私の気持ちは少し上がる。水族館の入り口前には噴水があり、その中央にはイルカの石像が可愛らしい表情をしてそこに居た。チケット売り場を通り過ぎていく比嘉さんの後ろ姿に声をかける。

「あの、チケットは…?」
「買ってあるから大丈夫」

スムーズすぎる。比嘉さんの無駄のない振る舞いに感心しつつ、その後を追った。

「わ、あ」

水族館の中に入るなり、感嘆の声を上げる。少し薄暗い空間の中で巨大な水槽が青い輝きを放っている。その中を魚たちが悠々と思うままに泳いでいる。水族館へと行ったのは子供の頃で、あまり魚に興味のなかった私には当時退屈だった。…大人になると視線が違う。

「比嘉さん、あの魚はなんですか?」

たくさんの群れを成して大きな形を作っている。みんな一様に同じ方向へと進む形はどこか人にも似ていて面白い。

「ああ、アジだな」
「あれがアジですか」

じっと水槽を見つめて、瞬きをひとつ。


水族館は私にとって刺激的な空間だった、意味もなく漂うクラゲ、怖い顔をしたワニ。なにより好きになれたのはこの青い空間。一見静かなのに、見る人の気持ちは様々だ、嬉しそうに親を引っ張る姿、魚もそっちのけで遊び出す子供、穏やかに手を繋いで歩くカップル、友達同士で写真を撮り合う楽しげな姿。色々な幸せな形が満ちている。

「もうすぐイルカショーだが、見ていくか?」

何処となく比嘉さんもいつもより声が柔らかい。

「はい、みたいです」

思ったよりも自身の声がはしゃいでいて少し気恥ずかしかった。まだ始まってはいないのに席は混み合っていて何処かに座れる場所はないかと視線を彷徨わせる。

「月子、こっち」

呼ばれて視線を向けて、私は頷く。誘導されたのはベンチの端で1人分。

「比嘉さん、座りますか?」
「いいや、俺は立ってるから座るといい」

そうは言うけれど、比嘉さんが見つけてくれたのに自分だけが座っているのも、と少し困っていると隣に座っていた恋人たちが少しだけ詰めてくれた。開いたのは1人半、これだと比嘉さんは狭いかも、

「よければ座ってください」

さらに彼氏に密着して、席を指さしてくれた。彼女の優しさを受け入れたくて私は椅子に座る。

「比嘉さん、折角詰めてくれたし座りましょう」
「……、そうだな」

遠慮がちに比嘉さんが隣の座る。狭いベンチで当然のように肩がふれあい、思わず身をすくませた。

「…、やっぱり立ってるよ」
「いえ、座ってください」

私の反応を見て、比嘉さんが立とうとするのを引き止めた。

「………、そうか」

少し空白があって比嘉さんは隣に座った。触れた肩が熱く感じた。

「こんにちはー!みなさん今日は寒い中お集まりいただきありがとうございます!」

そこへ元気なインストラクターさんの声が聞こえて、私は視線を向けた。


元気なインストラクターさんの声、イルカが声に応じて大きくジャンプして、高い位置にあるボールを尾で叩いて回転しながら落下して大きな水飛沫を上げる。観客は大きな拍手をしてショーに見入っているのに、隣に感じる熱が私の思考を奪っていた。両手を開いて閉じる、心臓が妙に落ち着かない。
ふと視線を上げれば、比嘉さんも此方を見ていて慌てて逸らす。…イルカショーのお姉さんの声が遠くに感じた。

「イルカショーよかったですね」

ショーが終わって、他の観客の流れに合わせて歩きながら比嘉さんに伝える。本当は、隣が気になってイルカは半分しか頭に入っていないのに。

「それはよかった」

同意でなく返されたのは肯定。比嘉さんは何を思っていたのだろうと顔を見上げたけれど、その表情から、私は何も読み取ることは出来なかった。


最後にお土産が見たいと言う私に比嘉さんは頷いて、トイレに行くからゆっくりと見ているといい、と私を残して行ってしまった。けれどこれはチャンスだ。前回も、前々回も、比嘉さんは私に支払わせてはくれない、だから今のうちにお礼を探そう。賑やかなお土産店で比嘉さんなら何が良いかと探す。デフォルメ化されたイルカの絵が書かれているハンカチタオル、ラメでコーティングされたキーホルダー、カワウソのマグカップ、どれも可愛らしいけれど、どうにもしっくりこない。

「…あ」

ひとり声が漏れて文房具のコーナーで足を止めた。イルカのイラストが描かれたボールペン、にこやかに泳いでいる彼らの姿は、普段シンプルな物を持っている比嘉さんとはイメージが違うけれど、邪魔にはならないだろう。ボールペンを手に取って、くるりと回す。かわいい、これにしよう。ボールペン1本を持ってレジへと向かった。


電車の中はそれほど混み合ってなくて、本一冊分のスペースを置いてふたりで座る。電車の音が心地よい。比嘉さんを見やるが、静かに座っている。思えばこうして擬似デートをしている時、彼はスマホをいじらない。

「スマホ、普段から見ないんですか?」
「ん…、あぁ。今はその時では無いからな」
「ふうん?」

どっちとも取れない言葉で私は適当に頷いた。静かな空間なのにそれが苦痛にならないのが、自分で少し不思議だった。


「あの、今日もありがとうございました」
「ああ」

駅の改札でお礼を言うと、比嘉さんは短く頷いて腕時計を見た。

「あ、あの…!」

声をかけると腕時計から視線を上げて私に向く、すぐに出す準備をしていなかったので自分のカバンを開けて少しもたつく、目当てのものはすぐに見つかった。魚のキャラクターが印刷され水族館のお土産だとすぐに分かる。ボールペンのサイズに合わせた小さな紙袋を差し出す。

「これ…、お礼、です」

比嘉さんはすぐには受け取らずに、比嘉さんは静かに紙袋を見つめた。…いつものお礼にはならなかったかもしれないと少し視線が下がる。

「…ありがとう」

比嘉さんの声に顔を上げる。大きな手がそれを拾い上げて、カバンの中にしまった。


* * *


深月月子と別れた後、俺はそのまま家に帰宅する事にした。このまま何処かへ行ってもいいが、特別な用事はない。マンションの一室に鍵を回して家に中へ入ると、一気に暗く感じる。カーテンが閉め切られていて光が入らないせいだ。無言で靴を脱ぎ、部屋へと上がる。ダイニングテーブルの上に頭を抱えている妻の姿があった。ああ、早くに帰ってもこれだ。コートを脱ぐために部屋へ向かおうとしたところで、彼女の口が開いた。

「何処へ行ってたの?」
「仕事だ」

簡素に答えれば、大きな音が聞こえて、彼女が椅子を倒しながら立ち上がったと言うことを見なくとも理解した。

「仕事!?今日は休みでしょう!!あなたはいつもそう!仕事、仕事って!!夜も遅いし、っ、浮気してるんでしょう!そうなんでしょう!!」

ずっとこれだ。いつからだったかは覚えていない。少なくとも結婚当初はこんなではなかった。

「…後にしてくれないか、疲れてるんだ」
「っ、いつもそう言って逃げるじゃない!!ねえ、いつもどんな思いでいると思ってるの!?いい身分よね!あなたはそんなこと考えもせずに、遊んでるんだ!!」

キンキンとした声が頭に響いて眉を寄せる。

「部屋で仕事してくるよ」

彼女の前から姿を消せば、何かが床に叩きつけられる音がした。
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