イレンディア・オデッセイ

サイキ ハヤト

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第一章 幼い冒険者

暗闇の存在

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 サベナ湖の早朝、それは神秘的なものだ。

 朝の光を浴びた湖面は、白い靄に満たされている。サベナ湖は地面よりも一メートルほど深い位置に湖面があり、周囲の気流が一定の条件を満たすと、靄は湖面から上昇することなくそこへ留まる。それはまるで雲海のような場所へと変わるのだ。

 その様子は、様々なものを初めて見る子供にとって、筆舌に代え難い興奮を与えた。その風景はまさに今、湖の畔に子供を一人引き寄せたところだ。愚かな子供は、湖の様子を見てうわあ、と歓声を上げ、その位置を狭い範囲に知らせてしまう。

 様々な怪物が生息するイレンディアに於いて、街以外で安全と言い切れる場所は極めて少ない。野営に見張りが不要な場所など、ほぼ存在しない。

 サベナ湖も当然ながら、そのような場所である。ただし、危険な街の外へ出て行く者たちの中で、わざわざ湖の畔を歩くような愚行をする者はいない。それ故、その危険性についての周知は為されていないのが現実だ。

◆◆

 暗く深い場所でじっと動かず、ゆらゆらと揺れるぼんやりした光を見上げる存在。
 それは滅多に来ないチャンスを確実にモノにするべく、僅かな変化も見逃すまいと、その飛び抜けた知覚力を張り巡らせていた。

 じっと動かないのは、その存在を隠すためでもあり、体力の無駄遣いを避けるためでもある。
 この何日か、食べ物にありつけていない。いつもなら、一日一回か、二日に一回ぐらいは、何か獲物が近寄ってくるのだが。

 暗闇の存在は、微妙な変化を感じ取った。

 上の方から細かい振動を感じ取った。それはたったの一回だったが、何かがいると判断するには十分だった。
 音を立てないように、そして素早く……その存在は動き出した。

◆◆

 雲というのは、触れてみたいものの一つだろう。ふんわりしていて、自由自在に形を変えることのできる、摩訶不思議な存在。
 もしかしたら、雲に乗ったら自由に空を飛んでいけるのかも知れない。

 空を飛んでいったら、どんな所に行けるんだろう。街の外は怪物でいっぱいだから、空を飛んだら安全に何処へでも行けるのではないか。

 そんな妄想をかき立ててくれる雲。それが目の前に広がっている……。今にも触れられそうな距離に。

 ジャシードは湖の岸際に立ち、短剣を傍らに置くと右手を伸ばした。手を伸ばすと、湖の雲は手から逃れるように小さな渦を形作った。



 暗闇の存在は、そこにいる獲物の影を捉えた。水でも飲みに来たのであろうそいつは、どうも小型のようでガッカリしたが、何もないよりましだ。いつものように狙いを定め、タイミングを測ることにした。



 ジャシードはもう一度手を伸ばして、雲に触れようとした。しかしやはり、雲は手と指の間をすり抜けて行ってしまった。
 何度か試してみたものの、すぐ目の前にある雲に触れられそうになかった。最後に一回、ちょっと大振りに雲へ右手を伸ばした。

 その時、ジャシードはバランスを崩して前のめりになってしまった。
 近くの草を掴もうとして、近くにあった草に左手を絡ませたが、草はブチブチと音を立てて千切れようとしていた。

 千切れ行く草を離し、咄嗟に動かした左手は、運良く太い根っこのようなものを掴んだ。
 漸く体勢が安定し、身体を元へ戻そうと、勢いをつけて左手にぐいとチカラを込めた。



 タイミングを計っていた存在は、湖面にしっかりとした影を捉えた。ちっぽけな餌は、今にも湖の中へと落ちてきそうな動きをしていた。
 もしも水に落ちてくれば、楽に食らいつくことができる。湖の外に出ると動きづらくなるため、できるだけ避けたいところだ。そんな思考は判断を鈍らせた。

 だが、落ちてくるように感じられたちっぽけな奴は、なかなか落ちてこない。やはりいつものように、少し苦労をして湖から出るしかないようだ。
 尻尾に勢いをつけ、湖面の影に向かって急上昇した。

◆◆

 ジャシードは、何とか地面の方へと身体を寄せることができた。危うく湖に落ちそうだった……。そんな事を思った瞬間だった。
 湖が激しく水飛沫を上げ、七メートルほどあろうかという、巨大な蛇状の怪物が飛び出てきた。あと一瞬遅れたら、あの怪物に頭を食いちぎられていたかも知れない。

 圧倒的な存在を目の前にして、ジャシードは腰が引けそうになった。今までの実戦経験は、たったのコボルド一匹。
 それに加えて、これほどまでに巨大な怪物は、これまでの旅で見たことがなかった。

 それでもジャシードは、二日間のオンテミオンとの訓練で『○○している暇があったら動け』を散々叩き込まれていた。恐怖を振り払い、ちっぽけな勇気を振り絞った。
 ジャシードは、傍らにあった短剣を素早く拾い上げた。鞘を左手に、短剣を右手に持って、目の前の怪物に向き合う。

 ただ、向き合ったとて倒せる気はしない。しかし背中を見せれば、距離を開ける前に食いつかれる予感があった。隙を見せてはいけない、とジャシードは考えていた。

「わああああ!」
 ジャシードは怪物に向き合ったまま、できる限りの気を張った声を上げた。悲鳴ではない、威嚇するための声を。それが今できる最善の手だと思った。



 慣れない陸上へ上がった存在は、首を伸ばして獲物を確認した。何と言うことか、運がいいことに人間だった。
 ちっぽけだが心が躍った。それは軟らかそうな肉で、生意気にも警告の鳴き声を上げている。

 何十年もここで生きてきたが、人間の肉を食べたことは何度かしかない。子人間を食べたのは遙か昔に一度きりだ。

 あの時の美味さは忘れない。程よい歯ごたえと、噛む度に絞り出される赤い肉汁。
 あの時は感動しすぎて一匹食べるのに何十分もかけた。その思い出が蘇ってきて、唾液が迸るように出てきた。



 目の前にいる圧倒的な存在は、口から涎が止めどなく溢れてきて、糸を引いていた。地面に付くまでに二メートルぐらい、滴り粘ってから切れ落ちる。

 完全に餌だと思われている。それはコボルドと対峙したときもそうだった。
 あの時は運良く父親のおかげで危機を脱することができたが、今回は誰も周りにいない。助けが来るかはわからない。

 でも、諦めない。
 必ず何とかしてやる、と少年は強く心に念じた。



 さて、恐れ戦いて足が竦んでいると見える子人間を、どうやって味わうか。
 あの肉汁は堪らない。あの肉汁を丸ごと味わいたい。その為には、できるだけ丸ごと口に入れたい。

 怪物は首を一瞬後ろへと引くと、一気に襲いかかる体制を取った。
 子人間の右側に湖がある。そこへ落としさえすれば、あとはゆっくり食いつけば良い。勢いをつけた首を、子人間の左側めがけて急速前進させた。



 多分、湖に落としたいんだろう、とジャシードは見当を付けた。そうだとするならば、攻撃されるのは右側だ。

 いよいよ、蛇状の怪物がその首を後ろに引いた。どこから見ても攻撃態勢だった。

 首をよく見ると、首は向かって左側へ僅かに寄っていた。左から右へ攻撃、外れても湖へ落とすつもりだ。それなら右へ跳べばいいのか……。

(違う……それだと、長い首を伸ばしてガブリだ)

 ジャシードは、怪物の首に意識を集中させた。何だか時間が遅く感じられる気がした。
 怪物の首が僅かに後ろへ動いた瞬間を捉え、ジャシードは姿勢を低くして怪物の方へ跳んだ。怪物の恐ろしい顔が自分の上、右の方へと向かっていった。

 何事もなく通過できると思った瞬間、怪物が首の方向を下の方へ向けたため、ジャシードは首に押され、地面に叩き付けられた。しかしすぐさま地面を蹴り、怪物の胴体へと距離を詰めた。

 怪物に接近すると、短剣を翻して薄っぺらい皮を斬りながら、湖から遠い方へと走った。

「シャァァァアアアアア!」
 蛇状の怪物は、胴を斬られて怒りの声を上げた。



 痛みが走ったが、傷は浅かった。所詮、子人間風情の攻撃ごときで深傷など負うわけもない。しかし、思いにもよらぬ抵抗を受け、はらわたが煮えくりかえった。

 怪物は、この子人間を何としても喰ってやると考え、普段とらない行動を起こした。縄張りであるサベナ湖を離れ、子人間を追いかけていったのだ。



 ジャシードは走った。幸い、蛇のような怪物は陸上の移動が得意ではないようだった。ぎこちなくうねうねと進んでいるのが見える。

 必死に走り、テントが見えてきた。ひとまず助かった、とジャシードは思った。

「ジャッシュ、テントの片付けもせず、何処に行ってたの」
 ソルンが息子を見つけて言った。

「ごめん! 怪物に見つかって追われているんだ!」
 ジャシードは、簡潔に今の状況を伝えた。

 それを聞いてソルンは杖を、セグムとオンテミオンはそれぞれ剣を手に取った。

「どんな奴だ」とセグム。
「湖から飛び出てきた、蛇みたいな怪物だよ」
「サーペントか……」
「少し斬ったから興奮してると思う」
 ジャシードがそう言うと、セグムは眉を上げ、オンテミオンと視線を交わした。

 四人はサーペントを迎え撃つため、それ以上の言葉を交わすこともなく、辺りに展開した。もちろん、ジャシードはソルンの近くだ。



 サーペントは、子人間の近くに人間が三人いるのを見て、長い舌をチロチロと出した。
 餌が増えた。サーペントはますます気分が高揚し、人間たちに向かって襲いかかった。

「おいおい……。こんな巨大なサーペントがいるのかよ……」
 セグムは寄ってきたサーペントを見上げながら言った。

 サーペントの一般的な大きさは三メートルほどだが、ジャシードを追ってきたサーペントは、全長十メートルほど、首を上げた高さは四メートルはあろうかという大物だった。

「確かに、まれに見る巨大な奴だな。良い素材が採れそうだ」
 オンテミオンもセグムに同意して、長剣を構えた。

 最初にサーペントが襲いかかったのは、オンテミオンだった。オンテミオンは、サーペントの牙を引きつけて躱し、首へ一太刀浴びせた。

 そこへセグムが背後から走り込み、サーペントの胴体へ攻撃を試みようとした。しかし、サーペントの尻尾がセグムに襲いかかった。

 セグムは尻尾を避けようと身を捩った。初撃を躱し、一旦離れようとした時のことだった。返しの尻尾に脇腹を打たれ、鈍い音と供に無様に吹っ飛ばされてしまった。

 ソルンは腕を伸ばし、電撃の魔法を放った。バリバリと音を立てて敵に迫る電撃の玉であったが、サーペントは首をぐにゃりと曲げて躱した。



 胴を少し斬られたが傷は浅い。この程度の傷は一日もすれば治るだろう。そのための栄養を、こいつらを喰ってしっかり取っておかねばならない。

 サーペントは広い視界の隅にいる、今起き上がろうとしているセグムに狙いを付けた。尻尾を振り上げ、振り下ろす。地面には朦々と砂埃が上がった。



 セグムは、すんでの所で尻尾攻撃を転がって避け、そのまま砂埃から脱出したが、脇腹に激痛が走った。

「くっそ、折れてる……」

 セグムは囁くように独りごち、ソルンとオンテミオンに『我、負傷せり』のハンドサインを送った。

 歴然の冒険者達であったが、長い間生存競争を勝ち抜いてきたサーペントに、苦戦を強いられていた。
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