啄木の詩

不来方久遠

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〝宿に帰ったのは、拾弐時であった。不思議に今度は、何の後悔の念をも起こさ
なかった〟
 蓋平館に戻った一は、火も無く床も敷いていない部屋に、ドッと寝込んでしま
った。

 朝になり、窓から富士山がくっきりと見えていた。
 陽が昇ってもまだ一は寝ていた。

「石川さん、石川さん」
 ドンドンと、大柄な女中が戸を叩いた。

「は、はい」
 一が寝ぼけながら返事をすると、ガラッと開けて入って来た。

「あのね、石川さん。だんなが今お出かけになるんで、どうでしょうか聞いて来
いって!」
 急かすように、言った。

「はーあ。そうだ、昨夜はあんまり遅かったから、そのまま寝たんだっけ」 
 大あくびをして、眠い目をこすりながら財布を出して一は弐拾円を手渡した。
 そして、布団を敷き始めた。

「あとは、また十日頃までに」
 横になりながら一は言った。

「そうですかッ。そんなら、あなた。その事をご自分で、帳場におっしゃって下
さいませんか? 私どもはただもう、叱られてばかりいますから」
 そう言うなり、ピシャリと戸を閉めて出て行ってしまった。

〝九時頃であった〝
 朝寝中の一が再び、起こされた刻限だった。

「煙草屋の主人が見えましたけど…それと、手紙がきています」
 今度は小柄な女中が、遠慮深げに手紙を置いて行った。

 敷島とラベルされた煙草を取り出して、一は吸った。
 その日暮らす金にも困るにもかかわらず、高い煙草を選り好み、その一月分の
代金百六拾銭も付け払いの有様だった。

〝やはり、高級な葉を使った煙草は旨い〝
 吸いかけの煙草を灰皿に置いて、手紙の封を開けた。

〝手紙は、妻・節子からで、娘の京子の胃腸が悪い事と、来月上京するという内
容であった〟
 ごろ寝しながら一は手紙を読み始めた。

 妻である節子は、この頃、函館市内の宝小学校の代用教員をして家計を支えて
いた。
 長女の京子という名は、親友である金田一京助の名に因んでいた。

 財布を一は引っくり返して見た。
 バラバラと、小銭だけが落ちてきた。

〝電車賃が足りないので、社に病気届をやって、一日寝て暮らした〟
 一が、日めくりを一枚破り取った。

〝今日も休む。このままでは、どうにもならない! どうかしなければならぬ。
そうだッ。あと一週間ぐらい社を休む事にして、朝から晩まで大いに書こう!〟
 壁に、(打倒! 漱石)と、毛筆で書きなぐった紙が張ってあった。

 一は、机に向かって一心に執筆していた。
『菊地君』という表題作の上に、『病院の窓』が、その上に『天鵞絨』、さら
に『二筋の血』が重ねられた。

 どれも、書きかけであった。
 そこへ、金田一がやって来た。

「キミは電車賃が無いから、会社に行かないのじゃないんですか?」
 金田一が、責め立てた。

「いや違う。創作のためです」
 一は、弁解した。

「そうですか。それなら、いいんですが……」
 不承不承に納得して、金田一は立ち去った。

 二分芯のランプが、頼りなげに燈っていた。
 髪をボウボウにして、無精ヒゲをのばしながら一が一心不乱に書いていた。

「あーッ、ダメだダメだダメだ」
 そうかと思うと、突然ペンを投げ出し、書きかけの原稿をグチャグチャに放り
投げて寝転んでしまった。


   *   *   *
 一軒のボロ屋に、三歳ぐらいの可愛い女の子と、その母親と祖母がいた。

「では、勤めに行って参ります」
 母親が外出した後、祖母と女の子が綾取りを始めた。

「何か、食べたい」
 綾取りに飽きて、女の子が言った。

「さあさ、京子の番だよ」
 聞こえない振りで、祖母が綾取りを続けようとした。

「おばあさん、何か、おばあさん!」
 女の子が、駄々をこね始めた。

「ほーら、ベロベロばあ」
 祖母は、必死にあやした。

「何か、おばあさん」
 手足をバタバタさせながら女の子がわめいた。

「あー、困ったねえ」
 台所に行き、祖母が茶碗の入れ物を持って来た。

「それそれ」
 と言って、女の子の口に沢庵漬を入れた。
 すぐに、女の子が沢庵を吐き出した。

「これじゃなく、おばあさん」
 女の子は、せがんだ。

「他には、何も無いんだよ。お母さんが帰って来るまで、我慢してけろ」
 祖母は、困り果てた。

「おばあさん、何か。わあああ~ん」
 ついに、大声を上げて女の子が泣き出した。
   *   *   *


 その泣き声に、一がハッと目を覚ました。

「夢か……」
 一ヶ月位たまっている日めくりを、一はまとめて破り捨てた。

 六月拾五日のところで、破るのをやめた。一枚めくりと、拾六日には大きく丸
印がつけられていた。

「……ついに…」
 一は、そそくさと数冊の書籍を抱えて部屋を出た。

 そして、古本屋に向かった。
 『我輩は猫である』・『邪宗門』等を差し出した。
 店主は、黙ったまま弐拾伍銭を渡した。

「これは、いくらなんだ」
 石川啄木著の『あこがれ』を出して、一は尋ねた。

「伍銭ですね」
 本を一瞥したきりで、店主が答えた。

「ハ、ハ、ハ…」
 一は、顔をひきつらせながら作り笑いをした。

 気分がくさくさしたので、帰り道に湯屋に寄った。
 風呂から上がり、一が体重計に乗った。
 体重計の針が、拾壱貫四百匁を指していた。

〝前より、八百匁減っている…〝
 鏡に映る自分の顔色が悪いと、感じた。

 湯屋を出て、煙草に火を点け満天の星空を見上げた。
 その時、急に咳き込んで吐血した。

「石川君、捜したぞ」
 そこに、金田一がやって来た。

 一は、そっと口をぬぐった。

「どうかしましたか?」
 金田一が、聞いた。

「いや、何でも無い」
 平静を装って、一は答えた。

「明日は、キミの家族が来るんだろう。宿やなんかの準備をしないと」
 我が事のように、金田一が心配していた。

「ええ。手配しようにも、先立つ物が……」
 一は、言いよどんだ。

「僕が何とかするから、さあ」
 金田一は、言った。

 翌日、上野駅のホームに一と金田一が佇んでいた。

「予定より、壱時間も遅れている…」
 懐中時計と汽車が来る方向を交互に見ながら金田一が呟いた。

 一のほうは、肺の辺りをさすりながら煙草に火を点けようかどうか迷っていた。

「ところで、小説の調子はどうだい?」
 金田一は、聞いた。

 それに一が答えようとした時、〝ボーッ〟という汽笛が遮った。
 蒸気機関車が、朝日に照らされながらプラットホームに入ってきた。

〝私は小説を書きたかつた。否、書くつもりであつた。又實際書いても見た。さ
うして遂に書けなかつた。〟
 一は、思った。

 三等客車から、一の母と妻子が降りて来た。

〝其時、恰度夫婦喧嘩をして妻に負けた夫が理由もなく子供を叱つたり虐めたり
するやうな一種の快感を、私は勝手氣儘に短歌といふ一つの詩形を虐使する事に
發見した。〟
 長旅の疲れから思わず母がその場によろけた。

 とっさに、一が母を支えながら背負い込んだ。

「これ、一。やめろでば…」
 恥ずかしさの余り、手をぶらぶらさせながら母が抵抗した。


 たはむれに母を背負ひて
 そのあまり輕きに泣きて
 三歩あゆまず
        啄 木


 一の眼には、涙がにじんでいた。

                            ―(をはり)―





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