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ウクハウ譚
弐 鬼子
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『ムガァシムガシ、アッダヅモ(昔々より、 言い伝えし物語)』
“かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が すべった ”
幼い童達が、手を繋ぎながら輪になって踊っていた。
まだ京からの支配が及ばず、鬼が棲む地とされた陸奥には、エミシと言われ無
き蔑称された純朴な人々が生きていた。
デンデラ野。
人里離れた寂しく小高い丘は、そう呼ばれていた。
死者の霊が通る場所と言われ、夜更けに臼をつくような音や馬が通る音がする
と、まもなく邑に死人が出ると噂された。
険しい山間の猫の額ほどの平らな原野に、ぽっかりと小さな集落が寄せ合うよ
うに連なっている。
紅葉したナナカマドが赤い実をつけ、青紫色をしたリンドウの花が咲き乱れて
いた。
“後ろの正面 だあれ ”
薄暗くて人の顔もよく見えない、たそがれ時だった。
歌がやんで、踊りの輪も止まった。
「サシ」
しゃがみ込んだ鬼役の女児が、両手で目隠ししながら言った。
〝どっどど どどうど どどうど どどう〟
その時、一陣の風が吹いた。
後ろの正面にいたのは、透き通るような白い肌に、着物姿で赤い帯を締めたお
かっぱ頭の見慣れぬ少女だった。
周りは靄がかかったようになっていた。
他の童達の姿も見えなかった。
「ンナ、ダレダ(お前は、誰だ)」
邑の女児が不審げに聞くと、おかっぱ頭を揺らして少女はフッと、視界から消
えた。
〝どっどど どどうど どどうど どどう〟
再び風が吹くと、靄が晴れていた。
雁の群れが、空に三角形の編隊を組んで飛んでいく。
夜の帳が降りると、満天に眩しいほどの星々が輝き出した。
暗くなっても帰宅しなかった子供の親が騒ぎ出したため、邑の主だった者が集
められた。
「オバンデガンス(今晩は)」
邑の衆が、挨拶もそこそこに善後策を練った。
月見草が満月の明りに白く映える頃、路傍にたくさんの松明が燃やされた。
男達によって、姿を消した女児の捜索が始まっていた。
「バンゲニイネグナッダモナヤ(日没後にいなくなったらしい)」
年配の者が、オロオロと心配しながら呟いた。
「ヒトサラエダベガ(人さらいにあったか)」
「カミカクスガモスンネェ(神隠しかもしれない)」
若者達は、口々に噂をした。
〝かごめかごめ〟をしていた童達は皆一様に、ボーッと腑抜けのような状態で
家々に帰っていた。
その中でも年長の童にようやく話しを聞くと、六人で遊んでいたのに日暮れか
ら一人増えて七人になっていたと、呆けたように上の空で答えた。
風が吹いた後で気がつくと、見知らぬ少女とともに邑の女児もいなくなったと。
月が西に傾く深夜になっても、女児は見付からなかった。
“ウオォォォォォン”
遠くの暗闇から、狼の声が不気味に響いていた。
「カレダベガ(食べられたのであろうか)……」
口さがない若者が、無神経に言った。
「ソッダナゴド、イウモンデネェ(そのような事を、言うものではない)」
年配者が、たしなめた。
夜を徹して、カッパが馬を引き擦り込んだ淵やムジナが潜む崖の下など隈なく
捜索されたが、女児の行方は不明だった。
昼過ぎだった。
ひょっこりと、邑に肩まで伸びたさんばら髪をなびかせて、異能な雰囲気を醸
し出した年齢不詳の男が現れた。
広場で遊んでいた童の一人が、そのよそ者に気が付いた。
小さな集落には見かけない風体なので、注意を引いたのだった。
「オガシネノキタベ(おかしな奴が来たぞ)」
真っ先に気づいた童が、叫んだ。
「ヤマガラキタナ(山から来たぞ)」
年長の童が、言った。
「ヤマオドゴダジャ(山男に違いない)」
賢そうな童が、誰とはなしに説明した。
「ンダ。ヤマオドゴダ」
一番幼い童が、舌足らずの声で喋った。
「キヅネ、バゲデデハッテキタベガ(狐が、化けて出てきたのだろうか)」
他の童が、言った。
「ンダ。キヅネダ」
幼い童が、オウム返しに言った。
「カダナッコショッテラナ(刀を背負っているな)」
男の後ろに回った賢い童が、背負っている不思議な形をした剣を見て、目敏い
観察眼を披露した。
「テングデネェノスカ(天狗ではないだろうか)」
二番目に年かさの童が、どもるように呟いた。
「ンダンダ。テングダ」
「マネッコスナ(真似ばかりするな)」
「ウワアアアアアア~ン」
年子の兄に小突かれた幼い童が、堰を切ったように泣き出した。
隅っこのほうで、塞ぎ込むようにじっとしていた童が、正体不明の男に駆け寄
って抱き付いた。
「…ネッチャ、メッケデケロ(姉さんを、見つけて欲しい)……」
一向に帰らぬ姉を心配した弟は、小さいながらも邑の者では頼りにならないと
分かり、目の前にいる男に何かを感じてすがり付いた。
長く垂れた前髪の隙間から覗く男の鋭い眼光が、童のつぶらな瞳を見据えた。
他の童達は、固唾を呑んで見ていた。
男が怒り出して、背中の剣で斬りつけるかもしれないと思った。
「オラ、サシ。ナッコハ(オラは、サシ。お前の名は)?」
サシという名の男の子が、男に向って聞いた。
「ウクハウ」
ぶっきらぼうに、男が答えた。
「アベ(一緒に来て)」
そう言いながらサシは、ウクハウと名乗る男の手を、歳の離れた兄のように慕
って引いた。
ウクハウは、黙って付いて行った。
「カタリベノジッコニ、アッテケロ。マナグミエネドモ、モノシリダ(語り部の
爺さんに会って下さい。目が見えないけれども、物知りだから)」
サシは、畳みかけるように話した。
邑の外れにあるあばら家に、色々な伝承を暗誦している生き字引の翁が住んで
いた。
サシが昼でも暗い一室に入ると、入れ違いに翁が外に突っ立っているウクハウ
の体を、犬のように匂いを嗅ぎ回った。
そして、両手をかざして全体像を量り出した。
ウクハウの背中にある剣の鞘の末端のこじりと呼ばれる部分に、指が触れた時
だった。
「ッ」
翁は、強い妖気を感じて手を引っ込めた。
「ナサキタ(何しに来た)!」
後ずさりながら翁が、畏れるように叫んだ。
「アンチャ、ネッチャサガス。ジッコ、スケデケロ(この兄さんは、僕の姉さん
を探してくれる。爺さん、どうか協力して下さい)」
サシが、翁に切なく訴えた。
翁は、自身の幼少の頃の事を話し出した。
子供同士で遊んでいた時だった。
陽が落ちて、気がつくと一人で野原にいた。
風が吹いてきた。
すると、何かが現れた。
しかし、生まれつき視力を失っていたので、何も見えなかった。
その何かは、そのまますぐに消え去った。
その後、、強い霊感を帯びて、盲目の語り部として一生を捧げるようになった。
翁が言うには、あれは鬼だったのだろう。
盲人を哀れんで、向うに連れて行かなかったと…さらに、こんな昔語りを翁は
した。
ある晩だった。
どうした事か、お月様が隠れてしまった。
それから、急に強い風が吹き、甘い匂いがした。
すると、サムトという邑に住む年頃の娘が、梨の樹の下に草履を脱ぎ捨てたま
ま蒸発していた。
以来、甘い匂いのする風が強く吹く日には、生きていれば老齢になっているサ
ムトの婆が寂しさの余り昔の姿で戻って来て、子供を向うの世界に連れて行くと
言う。
その頃から、邑にカゴメ歌が流行り出した。
「ヨアケノバンゲニカゼフケバ、デンデラノヒラグ(夜明けの晩に風が吹くと、
デンデラ野の扉が開く)」
翁は、呪文のように唱えた。
「カワムケェダ(川向うだ)」
サシが、北の方角を指差した。
「デテコッ(出て来い)」
その時、外から声がした。
翁の家の周囲は、子供が不審者に連れ去られたという報せを聞き付けた邑の衆
が取り囲んでいた。
皆、手に鋤や鍬を持ってウクハウと対峙した。
「オラ、ヨンダノス(オラが、ウクハウを呼んだんです)」
サシが、ウクハウをかばって言った。
「デハレッ」
「デハッデゲ」
出て行けと、口々に邑の衆が連呼した。
多勢に無勢、邑人の誤解を解くのは無駄と知るウクハウは、サシの頭を一撫で
した。
翁の家から出て来た、剣を背負った異様な風貌の男に怖気付いた邑の屈強な男
達は、取り囲んだ道を開けた。
悠々と、その中をウクハウが進んで行った。
山深い上流で、産卵のために遡上してきた秋鮭を、喉に三日月形の白い毛があ
る月の輪熊が器用に口に咥えていた。
夕方頃、サシの言った川に、ウクハウは辿り着いた。
〝ヨアケノバンゲ〟
翁が語った夜明けの晩とは、一体いつの事なのか?
ウクハウは、集めた枯れ草に火打ち石を打ちながら考えていた。
わずかに熾した火種を元に、火を焚いた。
焚き火の側にいれば、熊に襲われる事を回避できる。
火を怖れる野獣避けだが、安心はできなかった。
水辺を餌場にしているのは、熊ばかりではない。
獰猛な山犬や狼だって、集まってくるのだ。
捕まえた鮭を焼くと、獣のように急いで食べ、川の水で一気に胃袋に流し込ん
だ。
食うか食われるかの自然の中では、油断は禁物だった。
空腹を満たしたウクハウは、焚き火に水をかけて立ち上がった。
デンデラ野と呼ばれる丘陵に着いたのは、夜も更けてからだった。
草木も眠る丑三つ時だった。
生温く、甘い匂いの風が吹き荒んだ。
“かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる ”
どこからか、歌声が聞えてきた。
異界の中に封印されている禽の姿をした魔物は、いつ頃この世に舞い戻る。
歌には、そんな意味が込められていた。
空に上っていた月に、異変が起きていた。
“夜明けの晩に ”
少しずつではあるが確実に欠けていき、やがて、すっぽりと夜空に吸い込まれ
た。
皆既月蝕であった。
“鶴と亀が すべった ”
鶴は千年、亀は万年と言われるように、永遠に続く時の流れが止まる時空が開
いていく。
“後ろの正面 だあれ ”
歌が終わり、ウクハウが振り向きざまに抜刀した。
異界とこの世の扉が開かれた瞬間を、剣が映し出した。
〝ウナクルドコデネ(お前ごときが来る場所ではない)〟
暗闇の奥底から、搾り出すようなしわがれた声が聞えてきた。
〝シャレ(立ち去れ)!〟
人魂のように声が飛び回って、ウクハウの体を追い払うかのごとく這いずった。
ウクハウは、念じるように剣を握り直した。
声の主が、一瞬怯んだようだった。
「……」
相手は、無言のままウクハウの様子を窺っているようだった。
「囚われ人を返してもらおう」
毅然として、ウクハウが言った。
「ダバ、カダナッコオゲ(それならば、刀を置きなさい)」
返答があった。
人質を取られているので、無用にじたばたする気の無いウクハウは、静かに剣
を置きながら言う通りにした。
飛んで火に入る夏の虫のごとく、一見ミイラ取りがミイラになったかのような
無謀な行動であった。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、捨て身の策ではあるが、火中の栗を拾う覚悟が
無ければ鬼とは相対できない。
相手の懐に飛び込む事により、肉を斬らせて骨を絶つ作戦だった。
ウクハウの手から剣が離れたのを確認すると、声の主が姿を現した。
それは、見目麗しく透き通るような肌をした一人の若い娘だった。
この出逢いは、後に勃発する陸奥と京との戦に大きな影響を与える宿命になっ
ていく事になる。
永遠の美しさを保つ魅惑的なサムトの娘の妖艶さに、魂を抜かれるような心持
ちがした。
風の中、ウクハウのざんばら髪と女の長い黒髪が絡み合う。
すると、女がウクハウの衣服を乱暴に剥ぎ取り、逞しい男の体を貪るように求
めてきた。
置かれた剣の刃紋に、全裸の男女が獣のように体を貪り合う姿態が映り込んで
いる。
憑かれたようにウクハウが馬乗りになって、女の背後から体を重ねて激しくま
ぐあった。
後ろから交尾しているウクハウは気づいていないが、刃紋に妖しく映っている
のは、牙を剥いて恍惚の表情を浮かべる変貌した恐ろしい鬼女の姿であった。
情事が終わると、ウクハウは猛烈な睡魔に襲われた。
女のほうは、満足したかのように笑みを浮かべながらウクハウを食べようと不
気味な触手を伸ばしてきた。
異界にさらわれてきたサシの姉が、どこからか現れてウクハウを起こした。
「うッ」
女が、触手を引っ込めた。
ウクハウの右手には、しっかりと剣が握られていたのだ。
その時、女の体に変化が起きた。
下腹部が急速に膨らみ始めた。
ウクハウとの出逢いにより、かつてのサムトの娘は身篭った。
女の股ぐらを突き破るようにして、嬰児の両足が出てきた。
逆子だった。
女は、下半身から大量の血を流しながら一人の児を産み落した。
ウクハウが、剣でへその緒を斬った。
〝■■■■■■〟
ウクハウは、児を奪い取りサシの姉の手を引いて、呪文のような咆哮を上げな
がら剣で異界を斬り裂くように外界へと逃れた。
激昂して本性をあらわにした女は、般若の形相になって我が児を取り戻そうと
迫って来る。
「児を盗られた親の気持ちが分かったであろう」
ウクハウが、児を抱いて異界を脱出しながら言った。
この世の世界に戻ると、月蝕が終わる寸前だった。
鬼女が、児を取り戻そうと異界のわずかな隙間から触手を懸命に伸ばしてきた。
「お前のような浅ましき鬼として、この児を生きさせる気か!」
半刻前には完全に欠けていた月が、元の満月の形になっていく。
「この児は、人の世で育てる。お前が悪さをやめて改心すれば、この児がこの世
での生涯を終えた時、共にあの世でお前と暮らせるであろう」
ウクハウは、鬼女に因果を含めた。
「約束できぬのなら、未来永劫にわたって児は返さぬ」
月の光が満ちていく。
我が児を取り戻したい一心の鬼女は、この後邑から子供をさらうのをやめて穏
やかな表情になると、改心して鬼子母神となっていった。
剣を鞘に収めると、ウクハウは倒れるよう
にしてその場に泥のような眠りに落ちた。
鳥のさえずりでウクハウが目覚めたのは、陽が燦々と照る昼間だった。
周囲を見たが、昨夜の修羅場の影も形も無かった。
側には、むずがる赤子をあやして無邪気に笑っているサシの姉がいた。
ウクハウは、行方不明だった娘を邑の親元に還すと、盲目の翁のあばら家を訪
ねた。
「サムトノババノオニッコ(サムトの婆が産んだ鬼子か)……」
翁が、赤子の顔を触りながら言った。
産まれて間もないのに、赤子の口中には牙のような犬歯が生えていた。
鬼を呼び寄せる魔剣を持つ漂泊者たるウクハウは、翁にその赤子を託した。
「コッコノナッコハ(子の名は)?」
翁が、ウクハウに聞いた。
「おのずと決まろう」
そう、一言ウクハウが呟いた。
翁は、掟を破って密かに契りを結び、村八分にされている夫婦の相談相手に陰
ながらなっていた。
爪弾きにされた夫婦の間に生まれた乳飲み子は、流行り病で早世していた。
鬼の子と知られれば殺されるので、子宝に恵まれなかった不憫な夫婦に、翁は
ウクハウの児を預けた。
夫婦は、亡くなった子の生まれ変わりだと大層喜んだ。
すっかりウクハウに懐いたサシが、翁の家に遊びにやって来た。
興味本位でウクハウの刀に触ろうとした時だった。
「日緋色金に触るでない!」
ウクハウが、怒声を発した。
「ヒヒイロカネ…」
びっくりして手を引っ込めたサシは、その魔剣の名と独特な形を脳裏に刻み込
み、後にこの邑を束ねる長老になる。
サシの邑を訪れたのも、神隠しにあった童を助けるために鬼と遭遇したのも、
ヒヒイロカネと呼ばれる不思議な剣が導いた業だったのであろう。
「コゴサイロ(ここにずっといて下さい)」
サシが、懇願するように言った。
「ウクハウ…」
呼びかけるサシの言葉を背中に受けながらウクハウは、深い森の中に姿を消し
て行った。
この後、朝廷に従わぬ蝦夷、宇漢迷公宇屈波宇と名指しされた者であった。
─つづく。
※黒塗伏字〝■■■■■■〟に関しては、梵字で〝ヒヒイロカネ〟と変換表示と
なります。
“かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が すべった ”
幼い童達が、手を繋ぎながら輪になって踊っていた。
まだ京からの支配が及ばず、鬼が棲む地とされた陸奥には、エミシと言われ無
き蔑称された純朴な人々が生きていた。
デンデラ野。
人里離れた寂しく小高い丘は、そう呼ばれていた。
死者の霊が通る場所と言われ、夜更けに臼をつくような音や馬が通る音がする
と、まもなく邑に死人が出ると噂された。
険しい山間の猫の額ほどの平らな原野に、ぽっかりと小さな集落が寄せ合うよ
うに連なっている。
紅葉したナナカマドが赤い実をつけ、青紫色をしたリンドウの花が咲き乱れて
いた。
“後ろの正面 だあれ ”
薄暗くて人の顔もよく見えない、たそがれ時だった。
歌がやんで、踊りの輪も止まった。
「サシ」
しゃがみ込んだ鬼役の女児が、両手で目隠ししながら言った。
〝どっどど どどうど どどうど どどう〟
その時、一陣の風が吹いた。
後ろの正面にいたのは、透き通るような白い肌に、着物姿で赤い帯を締めたお
かっぱ頭の見慣れぬ少女だった。
周りは靄がかかったようになっていた。
他の童達の姿も見えなかった。
「ンナ、ダレダ(お前は、誰だ)」
邑の女児が不審げに聞くと、おかっぱ頭を揺らして少女はフッと、視界から消
えた。
〝どっどど どどうど どどうど どどう〟
再び風が吹くと、靄が晴れていた。
雁の群れが、空に三角形の編隊を組んで飛んでいく。
夜の帳が降りると、満天に眩しいほどの星々が輝き出した。
暗くなっても帰宅しなかった子供の親が騒ぎ出したため、邑の主だった者が集
められた。
「オバンデガンス(今晩は)」
邑の衆が、挨拶もそこそこに善後策を練った。
月見草が満月の明りに白く映える頃、路傍にたくさんの松明が燃やされた。
男達によって、姿を消した女児の捜索が始まっていた。
「バンゲニイネグナッダモナヤ(日没後にいなくなったらしい)」
年配の者が、オロオロと心配しながら呟いた。
「ヒトサラエダベガ(人さらいにあったか)」
「カミカクスガモスンネェ(神隠しかもしれない)」
若者達は、口々に噂をした。
〝かごめかごめ〟をしていた童達は皆一様に、ボーッと腑抜けのような状態で
家々に帰っていた。
その中でも年長の童にようやく話しを聞くと、六人で遊んでいたのに日暮れか
ら一人増えて七人になっていたと、呆けたように上の空で答えた。
風が吹いた後で気がつくと、見知らぬ少女とともに邑の女児もいなくなったと。
月が西に傾く深夜になっても、女児は見付からなかった。
“ウオォォォォォン”
遠くの暗闇から、狼の声が不気味に響いていた。
「カレダベガ(食べられたのであろうか)……」
口さがない若者が、無神経に言った。
「ソッダナゴド、イウモンデネェ(そのような事を、言うものではない)」
年配者が、たしなめた。
夜を徹して、カッパが馬を引き擦り込んだ淵やムジナが潜む崖の下など隈なく
捜索されたが、女児の行方は不明だった。
昼過ぎだった。
ひょっこりと、邑に肩まで伸びたさんばら髪をなびかせて、異能な雰囲気を醸
し出した年齢不詳の男が現れた。
広場で遊んでいた童の一人が、そのよそ者に気が付いた。
小さな集落には見かけない風体なので、注意を引いたのだった。
「オガシネノキタベ(おかしな奴が来たぞ)」
真っ先に気づいた童が、叫んだ。
「ヤマガラキタナ(山から来たぞ)」
年長の童が、言った。
「ヤマオドゴダジャ(山男に違いない)」
賢そうな童が、誰とはなしに説明した。
「ンダ。ヤマオドゴダ」
一番幼い童が、舌足らずの声で喋った。
「キヅネ、バゲデデハッテキタベガ(狐が、化けて出てきたのだろうか)」
他の童が、言った。
「ンダ。キヅネダ」
幼い童が、オウム返しに言った。
「カダナッコショッテラナ(刀を背負っているな)」
男の後ろに回った賢い童が、背負っている不思議な形をした剣を見て、目敏い
観察眼を披露した。
「テングデネェノスカ(天狗ではないだろうか)」
二番目に年かさの童が、どもるように呟いた。
「ンダンダ。テングダ」
「マネッコスナ(真似ばかりするな)」
「ウワアアアアアア~ン」
年子の兄に小突かれた幼い童が、堰を切ったように泣き出した。
隅っこのほうで、塞ぎ込むようにじっとしていた童が、正体不明の男に駆け寄
って抱き付いた。
「…ネッチャ、メッケデケロ(姉さんを、見つけて欲しい)……」
一向に帰らぬ姉を心配した弟は、小さいながらも邑の者では頼りにならないと
分かり、目の前にいる男に何かを感じてすがり付いた。
長く垂れた前髪の隙間から覗く男の鋭い眼光が、童のつぶらな瞳を見据えた。
他の童達は、固唾を呑んで見ていた。
男が怒り出して、背中の剣で斬りつけるかもしれないと思った。
「オラ、サシ。ナッコハ(オラは、サシ。お前の名は)?」
サシという名の男の子が、男に向って聞いた。
「ウクハウ」
ぶっきらぼうに、男が答えた。
「アベ(一緒に来て)」
そう言いながらサシは、ウクハウと名乗る男の手を、歳の離れた兄のように慕
って引いた。
ウクハウは、黙って付いて行った。
「カタリベノジッコニ、アッテケロ。マナグミエネドモ、モノシリダ(語り部の
爺さんに会って下さい。目が見えないけれども、物知りだから)」
サシは、畳みかけるように話した。
邑の外れにあるあばら家に、色々な伝承を暗誦している生き字引の翁が住んで
いた。
サシが昼でも暗い一室に入ると、入れ違いに翁が外に突っ立っているウクハウ
の体を、犬のように匂いを嗅ぎ回った。
そして、両手をかざして全体像を量り出した。
ウクハウの背中にある剣の鞘の末端のこじりと呼ばれる部分に、指が触れた時
だった。
「ッ」
翁は、強い妖気を感じて手を引っ込めた。
「ナサキタ(何しに来た)!」
後ずさりながら翁が、畏れるように叫んだ。
「アンチャ、ネッチャサガス。ジッコ、スケデケロ(この兄さんは、僕の姉さん
を探してくれる。爺さん、どうか協力して下さい)」
サシが、翁に切なく訴えた。
翁は、自身の幼少の頃の事を話し出した。
子供同士で遊んでいた時だった。
陽が落ちて、気がつくと一人で野原にいた。
風が吹いてきた。
すると、何かが現れた。
しかし、生まれつき視力を失っていたので、何も見えなかった。
その何かは、そのまますぐに消え去った。
その後、、強い霊感を帯びて、盲目の語り部として一生を捧げるようになった。
翁が言うには、あれは鬼だったのだろう。
盲人を哀れんで、向うに連れて行かなかったと…さらに、こんな昔語りを翁は
した。
ある晩だった。
どうした事か、お月様が隠れてしまった。
それから、急に強い風が吹き、甘い匂いがした。
すると、サムトという邑に住む年頃の娘が、梨の樹の下に草履を脱ぎ捨てたま
ま蒸発していた。
以来、甘い匂いのする風が強く吹く日には、生きていれば老齢になっているサ
ムトの婆が寂しさの余り昔の姿で戻って来て、子供を向うの世界に連れて行くと
言う。
その頃から、邑にカゴメ歌が流行り出した。
「ヨアケノバンゲニカゼフケバ、デンデラノヒラグ(夜明けの晩に風が吹くと、
デンデラ野の扉が開く)」
翁は、呪文のように唱えた。
「カワムケェダ(川向うだ)」
サシが、北の方角を指差した。
「デテコッ(出て来い)」
その時、外から声がした。
翁の家の周囲は、子供が不審者に連れ去られたという報せを聞き付けた邑の衆
が取り囲んでいた。
皆、手に鋤や鍬を持ってウクハウと対峙した。
「オラ、ヨンダノス(オラが、ウクハウを呼んだんです)」
サシが、ウクハウをかばって言った。
「デハレッ」
「デハッデゲ」
出て行けと、口々に邑の衆が連呼した。
多勢に無勢、邑人の誤解を解くのは無駄と知るウクハウは、サシの頭を一撫で
した。
翁の家から出て来た、剣を背負った異様な風貌の男に怖気付いた邑の屈強な男
達は、取り囲んだ道を開けた。
悠々と、その中をウクハウが進んで行った。
山深い上流で、産卵のために遡上してきた秋鮭を、喉に三日月形の白い毛があ
る月の輪熊が器用に口に咥えていた。
夕方頃、サシの言った川に、ウクハウは辿り着いた。
〝ヨアケノバンゲ〟
翁が語った夜明けの晩とは、一体いつの事なのか?
ウクハウは、集めた枯れ草に火打ち石を打ちながら考えていた。
わずかに熾した火種を元に、火を焚いた。
焚き火の側にいれば、熊に襲われる事を回避できる。
火を怖れる野獣避けだが、安心はできなかった。
水辺を餌場にしているのは、熊ばかりではない。
獰猛な山犬や狼だって、集まってくるのだ。
捕まえた鮭を焼くと、獣のように急いで食べ、川の水で一気に胃袋に流し込ん
だ。
食うか食われるかの自然の中では、油断は禁物だった。
空腹を満たしたウクハウは、焚き火に水をかけて立ち上がった。
デンデラ野と呼ばれる丘陵に着いたのは、夜も更けてからだった。
草木も眠る丑三つ時だった。
生温く、甘い匂いの風が吹き荒んだ。
“かごめ かごめ
かごの中の鳥は
いついつ 出やる ”
どこからか、歌声が聞えてきた。
異界の中に封印されている禽の姿をした魔物は、いつ頃この世に舞い戻る。
歌には、そんな意味が込められていた。
空に上っていた月に、異変が起きていた。
“夜明けの晩に ”
少しずつではあるが確実に欠けていき、やがて、すっぽりと夜空に吸い込まれ
た。
皆既月蝕であった。
“鶴と亀が すべった ”
鶴は千年、亀は万年と言われるように、永遠に続く時の流れが止まる時空が開
いていく。
“後ろの正面 だあれ ”
歌が終わり、ウクハウが振り向きざまに抜刀した。
異界とこの世の扉が開かれた瞬間を、剣が映し出した。
〝ウナクルドコデネ(お前ごときが来る場所ではない)〟
暗闇の奥底から、搾り出すようなしわがれた声が聞えてきた。
〝シャレ(立ち去れ)!〟
人魂のように声が飛び回って、ウクハウの体を追い払うかのごとく這いずった。
ウクハウは、念じるように剣を握り直した。
声の主が、一瞬怯んだようだった。
「……」
相手は、無言のままウクハウの様子を窺っているようだった。
「囚われ人を返してもらおう」
毅然として、ウクハウが言った。
「ダバ、カダナッコオゲ(それならば、刀を置きなさい)」
返答があった。
人質を取られているので、無用にじたばたする気の無いウクハウは、静かに剣
を置きながら言う通りにした。
飛んで火に入る夏の虫のごとく、一見ミイラ取りがミイラになったかのような
無謀な行動であった。
虎穴に入らずんば虎児を得ず、捨て身の策ではあるが、火中の栗を拾う覚悟が
無ければ鬼とは相対できない。
相手の懐に飛び込む事により、肉を斬らせて骨を絶つ作戦だった。
ウクハウの手から剣が離れたのを確認すると、声の主が姿を現した。
それは、見目麗しく透き通るような肌をした一人の若い娘だった。
この出逢いは、後に勃発する陸奥と京との戦に大きな影響を与える宿命になっ
ていく事になる。
永遠の美しさを保つ魅惑的なサムトの娘の妖艶さに、魂を抜かれるような心持
ちがした。
風の中、ウクハウのざんばら髪と女の長い黒髪が絡み合う。
すると、女がウクハウの衣服を乱暴に剥ぎ取り、逞しい男の体を貪るように求
めてきた。
置かれた剣の刃紋に、全裸の男女が獣のように体を貪り合う姿態が映り込んで
いる。
憑かれたようにウクハウが馬乗りになって、女の背後から体を重ねて激しくま
ぐあった。
後ろから交尾しているウクハウは気づいていないが、刃紋に妖しく映っている
のは、牙を剥いて恍惚の表情を浮かべる変貌した恐ろしい鬼女の姿であった。
情事が終わると、ウクハウは猛烈な睡魔に襲われた。
女のほうは、満足したかのように笑みを浮かべながらウクハウを食べようと不
気味な触手を伸ばしてきた。
異界にさらわれてきたサシの姉が、どこからか現れてウクハウを起こした。
「うッ」
女が、触手を引っ込めた。
ウクハウの右手には、しっかりと剣が握られていたのだ。
その時、女の体に変化が起きた。
下腹部が急速に膨らみ始めた。
ウクハウとの出逢いにより、かつてのサムトの娘は身篭った。
女の股ぐらを突き破るようにして、嬰児の両足が出てきた。
逆子だった。
女は、下半身から大量の血を流しながら一人の児を産み落した。
ウクハウが、剣でへその緒を斬った。
〝■■■■■■〟
ウクハウは、児を奪い取りサシの姉の手を引いて、呪文のような咆哮を上げな
がら剣で異界を斬り裂くように外界へと逃れた。
激昂して本性をあらわにした女は、般若の形相になって我が児を取り戻そうと
迫って来る。
「児を盗られた親の気持ちが分かったであろう」
ウクハウが、児を抱いて異界を脱出しながら言った。
この世の世界に戻ると、月蝕が終わる寸前だった。
鬼女が、児を取り戻そうと異界のわずかな隙間から触手を懸命に伸ばしてきた。
「お前のような浅ましき鬼として、この児を生きさせる気か!」
半刻前には完全に欠けていた月が、元の満月の形になっていく。
「この児は、人の世で育てる。お前が悪さをやめて改心すれば、この児がこの世
での生涯を終えた時、共にあの世でお前と暮らせるであろう」
ウクハウは、鬼女に因果を含めた。
「約束できぬのなら、未来永劫にわたって児は返さぬ」
月の光が満ちていく。
我が児を取り戻したい一心の鬼女は、この後邑から子供をさらうのをやめて穏
やかな表情になると、改心して鬼子母神となっていった。
剣を鞘に収めると、ウクハウは倒れるよう
にしてその場に泥のような眠りに落ちた。
鳥のさえずりでウクハウが目覚めたのは、陽が燦々と照る昼間だった。
周囲を見たが、昨夜の修羅場の影も形も無かった。
側には、むずがる赤子をあやして無邪気に笑っているサシの姉がいた。
ウクハウは、行方不明だった娘を邑の親元に還すと、盲目の翁のあばら家を訪
ねた。
「サムトノババノオニッコ(サムトの婆が産んだ鬼子か)……」
翁が、赤子の顔を触りながら言った。
産まれて間もないのに、赤子の口中には牙のような犬歯が生えていた。
鬼を呼び寄せる魔剣を持つ漂泊者たるウクハウは、翁にその赤子を託した。
「コッコノナッコハ(子の名は)?」
翁が、ウクハウに聞いた。
「おのずと決まろう」
そう、一言ウクハウが呟いた。
翁は、掟を破って密かに契りを結び、村八分にされている夫婦の相談相手に陰
ながらなっていた。
爪弾きにされた夫婦の間に生まれた乳飲み子は、流行り病で早世していた。
鬼の子と知られれば殺されるので、子宝に恵まれなかった不憫な夫婦に、翁は
ウクハウの児を預けた。
夫婦は、亡くなった子の生まれ変わりだと大層喜んだ。
すっかりウクハウに懐いたサシが、翁の家に遊びにやって来た。
興味本位でウクハウの刀に触ろうとした時だった。
「日緋色金に触るでない!」
ウクハウが、怒声を発した。
「ヒヒイロカネ…」
びっくりして手を引っ込めたサシは、その魔剣の名と独特な形を脳裏に刻み込
み、後にこの邑を束ねる長老になる。
サシの邑を訪れたのも、神隠しにあった童を助けるために鬼と遭遇したのも、
ヒヒイロカネと呼ばれる不思議な剣が導いた業だったのであろう。
「コゴサイロ(ここにずっといて下さい)」
サシが、懇願するように言った。
「ウクハウ…」
呼びかけるサシの言葉を背中に受けながらウクハウは、深い森の中に姿を消し
て行った。
この後、朝廷に従わぬ蝦夷、宇漢迷公宇屈波宇と名指しされた者であった。
─つづく。
※黒塗伏字〝■■■■■■〟に関しては、梵字で〝ヒヒイロカネ〟と変換表示と
なります。
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