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1章
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薄暗い部屋に、キーボードを叩く音とマウスのクリック音だけが響いている。
「レポートの題材が見つからないなあ……自由って言われても、範囲が広すぎて困るよ」
そうつぶやきながら、青年はパソコンのモニターをじっと見つめた。
M大学人文学部民族学科に通う彼は、幼い頃から歴史とオカルトに強い関心を抱いていた。
田舎の村々でひっそりと続く奇祭や風習、そして言い伝え――そうしたものをオカルトと結びつけて考えるのが、子どもの頃からの趣味だった。
だから大学進学も迷わず、民俗学科があるM大学を選んだのだ。
一年次に面倒な選択必修単位を済ませた彼は、本格的に民俗学を学ぶべく村田教授のゼミに参加した。
村田教授は大学内で「変人」として知られている。優秀な民俗学者でありながら、熱烈なオカルト好きでもあった。
自身のゼミでは、通常の民俗学研究に加え、超自然現象の研究にも取り組んでいる。
かつて村田教授は超自然的な事件に巻き込まれた経験がある。その出来事をきっかけにオカルトに魅せられ、日本各地の超自然現象を研究し続けてきた。
気づけば民俗学の教授となり、学問的な実力も確かなものとなっていた。だから大学では、彼のオカルト研究は黙認されているのだ。
新ゼミ生として村田教授のもとに入った彼は、長期休暇中のレポート課題に頭を抱えていた。
「何でもいいから、実際にあった風習のようなものをレポートにまとめて提出しろ」という、ざっくりとした課題だったのだ。
「はあ、雑すぎるよな……とりあえずネットで何か適当なネタを探すか」
そうつぶやいてブラウザを開いた彼は、そのまま徹夜をしてしまった。
「おはようございます」
翌日、ゼミに顔を出した青年は、研究室にいる女性に声をかけた。彼女は先輩で、村田教授の姪であり、自分の一つ上の学年だった。
大学が休みの日でも、彼女はほぼ毎日この研究室にいる。本人いわく、「こっちにいるほうが楽しい」かららしい。そう答える姿は飄々としていて、どこか掴みどころがなかった。
友達がいないのだろうか――結構美人なのに。そんなことを思いながら、青年は机に荷物を置いた。
「おはよう。なんか眠そうだね。夜更かしでもした?」
「いやぁ、レポート課題の題材を探してて、つい朝まで調べちゃって……」
「ああ、毎年新入生に出されるやつね。どう、見つかった?」
「それが全然で。なんか全部創作っぽくて。『実際にありそうな話』って条件、案外ハードル高いですね」
「その中から“本物”を探すのも課題のうちさ。頑張りたまえよ、後輩くん」
ニヤニヤしながらそう言うと、先輩は「ちょっと出てくる」と言って研究室を後にした。
村田ゼミは教授を含めて5人だけの小さなゼミだった。うち二人は就職活動中で、めったに顔を出さない。村田教授は長期休暇になると「フィールドワークに行ってくる」と言って日本中を回っているらしい。今回は九州に出かけているようで、昨日「お土産何がいいか」と連絡があった。
青年は先輩に助言をもらおうと研究室に来たが、さっきの様子ではあまり期待できそうにない。教授がいない間、研究室の鍵は先輩が管理しているため、すぐに帰ることもできない。先輩はしばらくすれば戻ってくるだろう。
青年は暇を持て余し、資料棚を何気なく眺めていた。上の段に、埃をかぶった本の背表紙が目に留まる。
踏み台を借りて引っ張り出したその一冊には、『渋丹村風俗記』と表紙に書かれていた。
そこには、渋丹村と呼ばれる村の特異な風習について記されている。
その村では年に一度、御神木に生贄を捧げることで、神の荒ぶりを鎮め、豊作を祈願すると言われていた。
そこまではよくある昔話だが、この話には続きがあった。
渋丹村では、生贄を捧げたあと、村人は生贄をむさぼる御神木とともに踊ったという。
読み間違いでもなく、『村人が御神木の前で踊った』のではなく、『村人が御神木とともに踊った』のだという。
木が踊るのか――疑問符を頭に浮かべながら、青年は続きを読み進めた。
事の始まりは、渋丹村ができてしばらく経った頃だった。
何もなかったはずの村のはずれに、一晩のうちに大きな木が生えていた。
その木は村人にこう告げた。
『生贄を捧げよ。さもなくば村は滅ぶ。
生贄を捧げよ。さもなくば作物は育たぬ。
生贄を捧げよ。そして祝うのだ。我が身とともに。』
村人はその木を御神木と恐れ崇め、その周りを神域と定め、年に一度、生贄を捧げた。
生贄は一晩、大木のそばにある池で身を清め、翌朝、御神木にその身を吊るされる。
御神木はその身をむさぼりながら踊るのだ。村人とともに。
御神木が現れてから、渋丹村では豊作が続いた。
近隣の村が飢饉に襲われても、渋丹村だけは豊作であった。
やがて噂が広まり、神隠しが相次ぎ、村の存在は忘れられ、御神木の噂だけが残った。
「何を読んでいるんだい?」
背後から先輩の声が聞こえ、青年は驚いて本を落としてしまった。
先輩はそれをさっと拾い上げ、
「見たことのない本だね。どこにあったんだい?」と尋ねた。
「書棚の上に置いてありましたよ。埃をかぶっていて、ずっとここにあったんじゃないですか?」と青年は答えた。
先輩はふぅん、と言いながらパラパラとページをめくり、
「これはレポートの題材にちょうどいいんじゃないかい?」とつぶやいた。
「ここの本は全部読んだと思ってたけど、こんなのあったんだねぇ。なかなか面白そうじゃないか。調べに行くなら、私も付き合おうじゃないか」
さっきまでは手伝う気もなさそうだった先輩が、そう言った。
先輩がそう言うときは、もう行くことが彼女の中で決まっている。出会って数か月の仲ではあるが、彼女がそういう人間であることは、私は十分に理解していた。
ほうっておけば先輩は一人でも行ってしまう。私は、「行きます」と言うしかなかった。
先輩とともに渋丹村の場所を調べ始めて数日。なかなか村は見つからない。あの本には渋丹村、としか書かれておらず、何県なのかも不明だった。
手がかりといえば、「大きな木があり、そのそばに池がある」ということだけ。
本当に実在した村なのか、怪しく感じてきた。
初っ端から行き詰まり、どうしたものかと考えていると、先輩から連絡があった。
「見つけた」と。
先輩に呼び出され、訪れたのは古い平屋。離れに蔵まである大きな家だった。
「遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
そう言って現れたのは、全身埃だらけの先輩だった。
この家は村田教授の実家で、珍しい品がたまに出てくるため、先輩は定期的に蔵をあさりに来ているという。
「偶然ってのはあるもんだねぇ」
そう言って差し出されたのは、古い本だった。紐で綴じられており、先輩によれば村田教授の先祖の日記帳らしい。
そこには、日記の持ち主が渋丹村を訪れた際に遭遇した出来事が記されていた――
――――――――――――――――――――――――――――――――――
『渋丹村には近づくな。
そこでは大木が人を喰い、その血を村人が浴びながら踊っている。
私の目がおかしくなったのか。
大木までもが一緒に踊っているように見える。
様子を見ていると村人に見つかり、襲われた。
なんとか逃げ切った。
あの光景が頭から離れない。忘れられない。
木が迫ってくる。恐ろしい。渋丹村に近づくな。
どれほど歩いただろうか。地蔵様の横。獣道、森を抜けた先。
そこには地獄があった。
地獄の鬼が住んでいるのか、村人が鬼になったのか。どちらでもいい。
渋丹村には近づくな。あの光景が忘れられない。
大木が踊っている。月明かりの下、踊っている。
血にまみれた鬼が踊っている。
渋丹村に近づくな。忘れられない。
瞼を閉じるたびあの大木が見える。近づいてくる。
私が大木に近づいているのか、大木が私に近づいているのか。
どっちかもうわからない。
人を喰いながら踊るあの大木がそばにいる。
渋丹村に近づくな。ああ、私はそこにいる。』
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「こっわ。何これ、ホンモノですか?」
「もちろんだよ。家系図にも名前がちゃんと残っている。実在した人物が書いた日記さ。」
「で、この人、どうなったんです?」
「さすがにそこまでは分からない。日記はここで途切れているからね。だからこそ、調べに行こうってわけだ。このご先祖様は○○県○○町に住んでいたらしいよ。」
「結構遠いですね……」
「せっかくだし、叔父さんも連れて行こう。ああいうの大好きだからね。置いていったら絶対拗ねるよ。」
「戻ってくるんですか?今、九州でしょ?」
「なに言ってるの。今行ってる場所より、こっちのほうが絶対面白い。すぐ戻るってさ。」
そう言って、先輩は研究室にあった本と日記帳の写真を教授にメールで送った。
「ほら、来たよ。すぐ戻るって。」
もう返信が届いたらしい。
翌日、教授が戻ってきた。思ったよりもずいぶん早い。
「ずいぶん面白そうなものを見つけたじゃないか。よくやったな」
教授は楽しそうに笑った。
「これ、研究室にあった本なんですけど、教授は知らなかったんですか?」
「研究室に?いや、知らなかったよ。知っていたら、とっくに調べに行ってるさ」
「ほらね」と先輩がにやりと笑う。
「僕もこれ、読んでみたいな。明後日に研究室で待ち合わせしよう。泊まりがけになるだろうから、しっかり準備しておいてくれよ」
そう言うと、教授はさっさと研究室を後にした。そのマイペースな様子には、先輩との血のつながりを感じさせた。
そして、待ち合わせ当日の朝。早い時間にも関わらず、研究室には教授と先輩がすでに揃っていた。
「遅いじゃないか」と先輩が言う。
「いや、先輩と教授が早すぎるんですよ」と僕は苦笑いしながら返す。遠足前の子供じゃないんだから。
「ああ、楽しみでなかなか寝付けなかったよ。さあ、早く行こう」と教授はテンション高く、目がバチバチに冴えている。
日記を書いた教授のご先祖が住んでいたという○○県○○町。教授の運転する車で到着したその場所は、かつて養蚕業が盛んで、上質な絹の産地として栄えたらしい。しかし今はすっかり衰退し、見る影もない。
時代に取り残されたようなその町は、もはや村に近い。若者はさっさと都会へ出て行き、年寄りばかりが残っている。人口的には村なのだが、かつて「村」から「町」に昇格して以来、人口が減っても「村」には戻らないらしい。仕組みはよくわからないが、そんな話を聞いた。
「なんだか懐かしい感じがする」
「そうっすね。じいちゃんのところに遊びに来たみたいな、そんな雰囲気がありますよね、ここ」
「そうじゃないんだ。何かこう、帰ってきたって感じがするんだよね」
来たことなんてないはずなのにね、と先輩は続ける。
「僕もだよ。既視感があるというか、ここにいるのが当然のような気がする」
僕も来たことはないはずなんだけどなぁ、と教授もつぶやいた。
先輩だけじゃなく教授も同じらしい。確かに懐かしさはあるが、それはよくある田舎町のノスタルジーを思い起こさせるだけで、僕はそこまで強くは感じなかった。
今どき珍しい、24時間営業ではないコンビニで休憩を取った。ほっと一息ついたところで、教授が口を開いた。
「さて、せっかくだ。君のレポート課題でもあるし、これからどう進めるか、君に考えてもらおうか。さあ、何から始める?」
「そうですね……役場や図書館あたりが無難でしょうか」
「うん、そうだね。役場なら村の統廃合の記録が残っているかもしれないし、図書館には地元の郷土史なんかもあるだろう。人づてに一軒一軒回るのは、最後の手段だ」
教授は遠い目をしていた。何か過去に辛い経験でもあったのだろうか。
それを見て先輩はくすくすと笑い、何かあったのは間違いなさそうだと察した。
信号が青に変わり、車はゆっくりと動き出したが、視線の違和感は消えなかった。
「なんだろう、さっきからずっと見られている気がするんだ」
そう呟くと、先輩がちらりと窓の外を見て、薄く笑った。
「こういう場所には、何かがいることが多いからね。気をつけなよ」
教授も顔をしかめ、ハンドルを握る手に力が入った。
「昔、ここで……なにか、あったんだ」
車内の空気が急に重くなった。
「大丈夫かい?すごい顔をしているよ。」
先輩が私の顔を覗き込むと、あの視線の感覚はふっと消えた。声をかけられると安心するのか、気のせいだったのかもしれないと思い始め、役場に着く頃にはすっかり忘れてしまっていた。
ところどころ年季の入った役場に到着し、担当の職員に渋丹村について尋ねるも、「聞いたことがない」とのことだった。どうやら相当暇だったらしく、古い台帳を出してきて「じっくり調べてみますわ。明日また来てください」と言われた。
少し早いが、我々は宿へ向かうことにした。宿は旅館ではなく、穏やかな老夫婦が営む民宿で、空き部屋を貸してもらった。
教授曰く、「ここのおじいさんの家系は昔からこの土地に住んでいるらしい。渋丹村の情報も得られるかもしれない。それに料金も安いしね」と。
部屋は二部屋借りており、教授と私は一室、先輩は一人で一室だった。まあ当然だろう。
荷物を置いて先輩と合流し、早速おばあさんに尋ねてみた。
「渋丹村という村をご存知ですか?」
おばあさんは穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「私は知らんですねぇ。昔の話なら、うちのじいさんなら何か知っているかもしれませんよ。先祖代々筆まめで、今でも時々日記を書いておりますから。」
そう言っておばあさんは、少し誇らしげに話した。
おじいさんは書斎にいるということで、私たちは書斎のドアをノックして中に入った。
「ようこそお客さん。何か御用ですかな?」
そう言って、おじいさんが迎えてくれた。
私が渋丹村という村を探していることと、おばあさんから「おじいさんなら知っているかもしれない」と聞いたことを伝えると、おじいさんは少し考え込むように目を細めた。
「渋丹村……渋丹村……どこかで見た記憶がありますな。どこだったか……ちょっと待ってくださいな。」
そう言うと、書斎の本棚に向かい、ぎっしり詰まった本の中から一冊を取り出してめくり始めた。
「ああ、あった。これですよ、これ。」
おじいさんは机の上にその本を開き、私たちに見せてくれた。
それはかなり昔の記録で、人の足以外に移動手段がなかった時代のものだった。おじいさんの先祖や渋丹村の住民たちが行っていた取引の記録で、農具や衣服を持ち寄り、作物と交換していたという内容だ。定期的に行われていたその取引は、ある日を境に突然途絶えてしまったらしい。
「村があったのは間違いなさそうだね。やったじゃないか、一歩前進だ、後輩君。」
「場所はわかりませんか?」と私が尋ねると、
「いやぁ、そこまでは書かれていないんですな。探せばどこかにあるかもしれませんが、なにぶんこの量ですからね。これも先日見つけたばかりで、場所がわかったのは偶然ですよ。」
そう言いながらおじいさんは、再び書棚を見上げた。
書斎の両側には天井まで届く大きな書棚があり、隙間なく古いものから新しいものまで様々な本がぎっしり詰まっていた。まるで資料の宝庫のようだ。
教授が「書棚を見せていただけませんか」とお願いすると、おじいさんはやんわりと断りながら、
「私の日記なんかもありますので…」と答えた。身内でもない者に日記を見せるのは、ためらいがあるのだろう。
教授は粘っていたが、やはり見せてもらえそうにないと悟り、諦めた様子だった。
書斎から撤退し、夕食の時間となった。おばあさんの手作りと思われる料理は、「これぞ家庭の味」と言いたくなるような、懐かしさを感じる美味しいものだった。
食事を終え、教授と私は自分たちの部屋に集まり、翌日の計画を詰めていく。
「役場にはあまり早く行っても迷惑だろうから、午後に行くとしよう。午前中はどうする?」
「役場の隣に図書館がありましたし、午前中はそこで調べ物をするのが良さそうです。」
「このあたりの歴史や資料なら、何かしら残っているだろう。いい案だと思うよ。」
「じゃあ、明日は朝から図書館で調査を始めて、昼食後に役場に行き、話を聞く。そのあとまた図書館に戻る感じでどうでしょう?午前中だけじゃ情報も十分に集まらないでしょうし。」
「そうだね、それでいこう。」
こうして大まかな計画が決まり、翌日に備えて私たちは早めに床についた。
翌朝、図書館へ向かった。
町の規模からすると大きめの図書館で、聞いてみると一部が歴史資料館になっているらしい。
そちらは町の主産業だった養蚕業の道具や歴史が中心で、我々の求めているものはなさそうだった。
司書に「あたりの古い史料はありますか?」と尋ねると、古い地図を出してくれた。
そこにはここや近隣の村のことが書かれていたが、「渋丹村」という名前は見当たらなかった。
司書にも渋丹村のことを聞いてみたが、「知らないですね」との返事だった。
手がかりなしか、と落ち込みかけたが、ふと地図の端にある森に目が止まった。
「この森はなんですか?」
「この森は自然保護区、正確には自然環境保全地域と言われるところです。端的に言えば、土地開発を禁止して、残しておくべき自然を保護している場所ですね。そうでなくても、誰もあの森には近づかないんですけどね。」
そう言う司書さんの顔はどこか浮かない様子だった。
「何かあるんですか?」
「まぁ、なんていうか、あの辺りでは昔から行方不明者がよく出ていたらしいんですよ。神隠しにあうとか、鬼に攫われるとか、そういう話でね。ここの子どもたちは親に口を酸っぱくして『森には近づくな』と教えられているんです。その親たちもまたそう教わってきたみたいで。」
「そうなんですか。ありがとうございます。いろいろ教えていただいて。」
「どういたしまして。ここは人があまり来ないので、基本暇なんですよ。みんな新しい方の図書館に行っちゃいますから。」
「この町って図書館が二つあるんですか?」
「ええ。町の再開発の際に新しく作られまして、こっちは資料館として残っていて、古い本なんかを保管するのが主なんですよ。役場も向こうに新しいのがあります。隣の役場は、このあたりに住んでいる人用の出張所になっています。」
「新しいのができるまではこっちが本館だったんですけどね。」と少し寂しそうに続けた。
「また来てくださいね。」と微笑む司書さんに別れを告げ、私たちは役場へ向かった。まあ、すぐ隣なんだけれども。
役場に到着すると、すぐに職員さんが出迎えてくれた。
「やあやあ、皆さん。お待ちしておりました。あれからいろいろ調べてみたら、ありましたよ、渋丹村。記録が残っていました。」
「本当ですか⁈」
「こんな村があったんですねぇ。かなり前に廃村になったみたいですが、確かにありました。」
「どれくらい前になくなったんですか?」
「んー、私が生まれるよりもっと前、としかわからなかったですね。申し訳ないです。」
「いえ、調べていただいてありがとうございます。ちなみに、村があった場所ってわかりますか?」
「ああ、場所ですか。実はその…森の中なんですよ。町の北東にある、あの森のことを知っていますか?」
「さっき隣の図書館で聞きました。あまり良くない話でしたけど。」
「そうなんですよ。あの森は昔から人が消えたり、攫われたりすると言われていて、ほとんど誰も近づきません。」
「最近はそういうことはないんですか?」
「ないですね。高祖父の世代までは、そこそこあったみたいですよ。森の近くで人が消えたという話が。」
「この森って、入っても大丈夫なんですか?」
「一応立ち入りは禁止されています。熊や猪なんかも出ますからね。熊が出た時だけ、猟師さんにお願いして森の奥へ追い払ってもらっています。」
「それに入るといっても、浅いところだけですね。彼らも森の外が見える範囲までしか入りません。なんでも、森の奥に入るとどこにいるのかわからなくなるそうで、コンパスはぐるぐる回りだすし、太陽も見えづらくなるんです。奥に入ると帰れなくなる、と言われています。」
「町の子供たちには危ないから近づくなと教えています。学校でもそう教えられるし、親もそう教える。もう何十年も前からそうなんですよ。」
「そういう場所って、子供に行くなって言うと、逆に行っちゃったりしませんか?」
「それがですね、以前町の再開発があって、学校や繁華街は全部、町の南西に固まって作られたんです。子持ちの家庭もほとんどそっちに移ってしまいまして。あそこからだと、子供の足では森までは行ける距離じゃないんですよ。」
職員さんはそう言って、ざっくりと地図を描いてくれた。
「まず町の真ん中がこの役場です。で、北東に森があります。森から役場までは住宅地ですが、古い建物ばかりで、住んでいるのはほとんどが高齢者です。空き家も多いですよ。この役場から西に行くほど町は栄えていて、建物も新しくなります。新しい役場もそちら側にあります。この役場は町の東側に住んでいる人のために残っているんです。距離が結構ありますからね。」
「役場の東側には、遊ぶところがほとんどありません。不自然なくらいに。小さな公園があるくらいで、そこも高齢者の集会場所みたいになっていて、若い人はあまり来ません。何もないので。」
「森から遠ざけるために、そうしているんじゃないか、なんて年寄りたちの間では言われていますよ。」
職員さんはそう言って、少し苦笑した。
「自然保護区になっていると聞いたのですが、手つかずなら村の跡とか残っていないんですか?」
「それが、何もないんですよ。航空写真を見ても森しか写っていません。十数軒の家があったみたいですし、畑もあったようなので、何かしら痕跡が残っていてもおかしくないんですが…」
スマホで航空写真を見てみると、確かに森だけが映っている。ズームしても村の痕跡は見当たらなかった。しかし、どこか違和感というか、不自然な感じがする。まるで森がこちらを見上げているような、そんな気さえした。
「まあ、こんなところです。森に入るのはおすすめできません。というか、立ち入り禁止なので、入らないでくださいね。行方不明者が出たらたまったものではないので。」と職員さんは話した。確かに写真を見ても、地面は見えず鬱蒼としていて危険そうだ。
「ありがとうございます。いろいろ教えていただいて。」
「いえいえ、見ての通り暇なので。こちらこそいい暇つぶしになりましたよ。」そう言って職員さんはまた何かあれば、と去っていった。
「それじゃあ図書館に戻ろうか。」そう言って教授は席を立った。
それに続いて私たちも図書館へと移動を始める。
図書館に戻ると、今朝の司書さんが本や地図を広げて、うんうんと唸っていた。私たちの気配にはまだ気づいていないようだ。
「こんにちは。また来ました。」先輩が声をかけると、司書さんは驚いたようにびくっと身を震わせた。
「ああ、今朝の方ですね。何かお探しですか?」
「ええ、渋丹村について、まだ何か手がかりがないかと思って。」
「それでしたら、あのあと倉庫を少し探ってみたんですが、こんなものが見つかりました。」そう言って見せてくれたのは、巻物のような古い資料だった。
「あの地図よりも古いものみたいです。中身は…」巻物を開くと、そこには絵が描かれていた。
大木に括り付けられた人の姿が描かれていた。大木を囲み、村人たちが祈りを捧げている。さらに巻物を開くと、括り付けられた人は血まみれになっていた。再び大木を中心に祈る村人の姿。次に開くと、大木がまるで踊っているかのように描かれ、村人たちも共に踊っている。そして、最後のページだった。
そこには、大木に後光が差し、村人たちが大木を中心に祈りを捧げる光景が描かれていた。
「これは…?」と私が尋ねると、
「渋丹村で行われていた儀式の絵だと聞いています。描いた人物は不明ですが、村を訪れた者が目にした光景を描いたものらしいです。」
絵を見つめていると、胸の奥がざわついた。自分があの大木に括られている姿がふと幻のように浮かんだ。周囲で人々が踊っている。しかし恐怖はなく、むしろ喜びの感情に包まれているような気すらした。
その時、大木が大きく口を開ける幻覚が見えた。口が近づいてきて、食べられる瞬間、はっと我に返った。
気分が悪く、鏡を見ればおそらくひどい顔をしているだろう。教授も先輩も、顔色が悪く、私と同じように動揺しているのが分かった。
「皆さん、大丈夫ですか?顔色がすぐれないようですが。」
「ああ、大丈夫です。ちょっと絵の内容に驚いただけで。」
「確かに不気味な絵ですよね。さっきはこれを見ているときに声をかけられて、少し驚いてしまいました。」
再び絵に目を戻すが、先ほど感じた胸のざわつきはもうなかった。いったい何だったのだろうか。
他にも色々と見せてもらったが、渋丹村に関する資料はもうなさそうだった。気がつけば、もうかなりいい時間になっていたので、私たちは民宿に戻ることにした。
「結構あっさり渋丹村のことが分かりましたね。明日にはもう帰れそうじゃないですか?」
「いやいや、まだ調べるべき場所が残っている。しかも、とびきり重要なところがね。」
「どこですか?」
「決まってるだろう。僕のご先祖様の家さ!あの日記の主の家だ。ここを調べなくてどうするんだ。」
「場所、わかるんですか?そもそも、残ってるんですか?その家。」
「ぬかりはないよ、後輩君。役場を出る前に聞いてきたからね。旧村田家の所在を。幸い、家は残っているらしい。長いこと空き家のままだそうだけど。勝手に入っちゃいけませんよ、とも言われたけど、まぁ大丈夫だろう。」先輩はまだまだ帰れそうにないよ、と楽しそうに笑みを浮かべている。
もう帰ってレポートを仕上げてしまいたいと、僕は、内心そう思っていた。
「レポートの題材が見つからないなあ……自由って言われても、範囲が広すぎて困るよ」
そうつぶやきながら、青年はパソコンのモニターをじっと見つめた。
M大学人文学部民族学科に通う彼は、幼い頃から歴史とオカルトに強い関心を抱いていた。
田舎の村々でひっそりと続く奇祭や風習、そして言い伝え――そうしたものをオカルトと結びつけて考えるのが、子どもの頃からの趣味だった。
だから大学進学も迷わず、民俗学科があるM大学を選んだのだ。
一年次に面倒な選択必修単位を済ませた彼は、本格的に民俗学を学ぶべく村田教授のゼミに参加した。
村田教授は大学内で「変人」として知られている。優秀な民俗学者でありながら、熱烈なオカルト好きでもあった。
自身のゼミでは、通常の民俗学研究に加え、超自然現象の研究にも取り組んでいる。
かつて村田教授は超自然的な事件に巻き込まれた経験がある。その出来事をきっかけにオカルトに魅せられ、日本各地の超自然現象を研究し続けてきた。
気づけば民俗学の教授となり、学問的な実力も確かなものとなっていた。だから大学では、彼のオカルト研究は黙認されているのだ。
新ゼミ生として村田教授のもとに入った彼は、長期休暇中のレポート課題に頭を抱えていた。
「何でもいいから、実際にあった風習のようなものをレポートにまとめて提出しろ」という、ざっくりとした課題だったのだ。
「はあ、雑すぎるよな……とりあえずネットで何か適当なネタを探すか」
そうつぶやいてブラウザを開いた彼は、そのまま徹夜をしてしまった。
「おはようございます」
翌日、ゼミに顔を出した青年は、研究室にいる女性に声をかけた。彼女は先輩で、村田教授の姪であり、自分の一つ上の学年だった。
大学が休みの日でも、彼女はほぼ毎日この研究室にいる。本人いわく、「こっちにいるほうが楽しい」かららしい。そう答える姿は飄々としていて、どこか掴みどころがなかった。
友達がいないのだろうか――結構美人なのに。そんなことを思いながら、青年は机に荷物を置いた。
「おはよう。なんか眠そうだね。夜更かしでもした?」
「いやぁ、レポート課題の題材を探してて、つい朝まで調べちゃって……」
「ああ、毎年新入生に出されるやつね。どう、見つかった?」
「それが全然で。なんか全部創作っぽくて。『実際にありそうな話』って条件、案外ハードル高いですね」
「その中から“本物”を探すのも課題のうちさ。頑張りたまえよ、後輩くん」
ニヤニヤしながらそう言うと、先輩は「ちょっと出てくる」と言って研究室を後にした。
村田ゼミは教授を含めて5人だけの小さなゼミだった。うち二人は就職活動中で、めったに顔を出さない。村田教授は長期休暇になると「フィールドワークに行ってくる」と言って日本中を回っているらしい。今回は九州に出かけているようで、昨日「お土産何がいいか」と連絡があった。
青年は先輩に助言をもらおうと研究室に来たが、さっきの様子ではあまり期待できそうにない。教授がいない間、研究室の鍵は先輩が管理しているため、すぐに帰ることもできない。先輩はしばらくすれば戻ってくるだろう。
青年は暇を持て余し、資料棚を何気なく眺めていた。上の段に、埃をかぶった本の背表紙が目に留まる。
踏み台を借りて引っ張り出したその一冊には、『渋丹村風俗記』と表紙に書かれていた。
そこには、渋丹村と呼ばれる村の特異な風習について記されている。
その村では年に一度、御神木に生贄を捧げることで、神の荒ぶりを鎮め、豊作を祈願すると言われていた。
そこまではよくある昔話だが、この話には続きがあった。
渋丹村では、生贄を捧げたあと、村人は生贄をむさぼる御神木とともに踊ったという。
読み間違いでもなく、『村人が御神木の前で踊った』のではなく、『村人が御神木とともに踊った』のだという。
木が踊るのか――疑問符を頭に浮かべながら、青年は続きを読み進めた。
事の始まりは、渋丹村ができてしばらく経った頃だった。
何もなかったはずの村のはずれに、一晩のうちに大きな木が生えていた。
その木は村人にこう告げた。
『生贄を捧げよ。さもなくば村は滅ぶ。
生贄を捧げよ。さもなくば作物は育たぬ。
生贄を捧げよ。そして祝うのだ。我が身とともに。』
村人はその木を御神木と恐れ崇め、その周りを神域と定め、年に一度、生贄を捧げた。
生贄は一晩、大木のそばにある池で身を清め、翌朝、御神木にその身を吊るされる。
御神木はその身をむさぼりながら踊るのだ。村人とともに。
御神木が現れてから、渋丹村では豊作が続いた。
近隣の村が飢饉に襲われても、渋丹村だけは豊作であった。
やがて噂が広まり、神隠しが相次ぎ、村の存在は忘れられ、御神木の噂だけが残った。
「何を読んでいるんだい?」
背後から先輩の声が聞こえ、青年は驚いて本を落としてしまった。
先輩はそれをさっと拾い上げ、
「見たことのない本だね。どこにあったんだい?」と尋ねた。
「書棚の上に置いてありましたよ。埃をかぶっていて、ずっとここにあったんじゃないですか?」と青年は答えた。
先輩はふぅん、と言いながらパラパラとページをめくり、
「これはレポートの題材にちょうどいいんじゃないかい?」とつぶやいた。
「ここの本は全部読んだと思ってたけど、こんなのあったんだねぇ。なかなか面白そうじゃないか。調べに行くなら、私も付き合おうじゃないか」
さっきまでは手伝う気もなさそうだった先輩が、そう言った。
先輩がそう言うときは、もう行くことが彼女の中で決まっている。出会って数か月の仲ではあるが、彼女がそういう人間であることは、私は十分に理解していた。
ほうっておけば先輩は一人でも行ってしまう。私は、「行きます」と言うしかなかった。
先輩とともに渋丹村の場所を調べ始めて数日。なかなか村は見つからない。あの本には渋丹村、としか書かれておらず、何県なのかも不明だった。
手がかりといえば、「大きな木があり、そのそばに池がある」ということだけ。
本当に実在した村なのか、怪しく感じてきた。
初っ端から行き詰まり、どうしたものかと考えていると、先輩から連絡があった。
「見つけた」と。
先輩に呼び出され、訪れたのは古い平屋。離れに蔵まである大きな家だった。
「遅いじゃないか。待ちくたびれたよ」
そう言って現れたのは、全身埃だらけの先輩だった。
この家は村田教授の実家で、珍しい品がたまに出てくるため、先輩は定期的に蔵をあさりに来ているという。
「偶然ってのはあるもんだねぇ」
そう言って差し出されたのは、古い本だった。紐で綴じられており、先輩によれば村田教授の先祖の日記帳らしい。
そこには、日記の持ち主が渋丹村を訪れた際に遭遇した出来事が記されていた――
――――――――――――――――――――――――――――――――――
『渋丹村には近づくな。
そこでは大木が人を喰い、その血を村人が浴びながら踊っている。
私の目がおかしくなったのか。
大木までもが一緒に踊っているように見える。
様子を見ていると村人に見つかり、襲われた。
なんとか逃げ切った。
あの光景が頭から離れない。忘れられない。
木が迫ってくる。恐ろしい。渋丹村に近づくな。
どれほど歩いただろうか。地蔵様の横。獣道、森を抜けた先。
そこには地獄があった。
地獄の鬼が住んでいるのか、村人が鬼になったのか。どちらでもいい。
渋丹村には近づくな。あの光景が忘れられない。
大木が踊っている。月明かりの下、踊っている。
血にまみれた鬼が踊っている。
渋丹村に近づくな。忘れられない。
瞼を閉じるたびあの大木が見える。近づいてくる。
私が大木に近づいているのか、大木が私に近づいているのか。
どっちかもうわからない。
人を喰いながら踊るあの大木がそばにいる。
渋丹村に近づくな。ああ、私はそこにいる。』
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「こっわ。何これ、ホンモノですか?」
「もちろんだよ。家系図にも名前がちゃんと残っている。実在した人物が書いた日記さ。」
「で、この人、どうなったんです?」
「さすがにそこまでは分からない。日記はここで途切れているからね。だからこそ、調べに行こうってわけだ。このご先祖様は○○県○○町に住んでいたらしいよ。」
「結構遠いですね……」
「せっかくだし、叔父さんも連れて行こう。ああいうの大好きだからね。置いていったら絶対拗ねるよ。」
「戻ってくるんですか?今、九州でしょ?」
「なに言ってるの。今行ってる場所より、こっちのほうが絶対面白い。すぐ戻るってさ。」
そう言って、先輩は研究室にあった本と日記帳の写真を教授にメールで送った。
「ほら、来たよ。すぐ戻るって。」
もう返信が届いたらしい。
翌日、教授が戻ってきた。思ったよりもずいぶん早い。
「ずいぶん面白そうなものを見つけたじゃないか。よくやったな」
教授は楽しそうに笑った。
「これ、研究室にあった本なんですけど、教授は知らなかったんですか?」
「研究室に?いや、知らなかったよ。知っていたら、とっくに調べに行ってるさ」
「ほらね」と先輩がにやりと笑う。
「僕もこれ、読んでみたいな。明後日に研究室で待ち合わせしよう。泊まりがけになるだろうから、しっかり準備しておいてくれよ」
そう言うと、教授はさっさと研究室を後にした。そのマイペースな様子には、先輩との血のつながりを感じさせた。
そして、待ち合わせ当日の朝。早い時間にも関わらず、研究室には教授と先輩がすでに揃っていた。
「遅いじゃないか」と先輩が言う。
「いや、先輩と教授が早すぎるんですよ」と僕は苦笑いしながら返す。遠足前の子供じゃないんだから。
「ああ、楽しみでなかなか寝付けなかったよ。さあ、早く行こう」と教授はテンション高く、目がバチバチに冴えている。
日記を書いた教授のご先祖が住んでいたという○○県○○町。教授の運転する車で到着したその場所は、かつて養蚕業が盛んで、上質な絹の産地として栄えたらしい。しかし今はすっかり衰退し、見る影もない。
時代に取り残されたようなその町は、もはや村に近い。若者はさっさと都会へ出て行き、年寄りばかりが残っている。人口的には村なのだが、かつて「村」から「町」に昇格して以来、人口が減っても「村」には戻らないらしい。仕組みはよくわからないが、そんな話を聞いた。
「なんだか懐かしい感じがする」
「そうっすね。じいちゃんのところに遊びに来たみたいな、そんな雰囲気がありますよね、ここ」
「そうじゃないんだ。何かこう、帰ってきたって感じがするんだよね」
来たことなんてないはずなのにね、と先輩は続ける。
「僕もだよ。既視感があるというか、ここにいるのが当然のような気がする」
僕も来たことはないはずなんだけどなぁ、と教授もつぶやいた。
先輩だけじゃなく教授も同じらしい。確かに懐かしさはあるが、それはよくある田舎町のノスタルジーを思い起こさせるだけで、僕はそこまで強くは感じなかった。
今どき珍しい、24時間営業ではないコンビニで休憩を取った。ほっと一息ついたところで、教授が口を開いた。
「さて、せっかくだ。君のレポート課題でもあるし、これからどう進めるか、君に考えてもらおうか。さあ、何から始める?」
「そうですね……役場や図書館あたりが無難でしょうか」
「うん、そうだね。役場なら村の統廃合の記録が残っているかもしれないし、図書館には地元の郷土史なんかもあるだろう。人づてに一軒一軒回るのは、最後の手段だ」
教授は遠い目をしていた。何か過去に辛い経験でもあったのだろうか。
それを見て先輩はくすくすと笑い、何かあったのは間違いなさそうだと察した。
信号が青に変わり、車はゆっくりと動き出したが、視線の違和感は消えなかった。
「なんだろう、さっきからずっと見られている気がするんだ」
そう呟くと、先輩がちらりと窓の外を見て、薄く笑った。
「こういう場所には、何かがいることが多いからね。気をつけなよ」
教授も顔をしかめ、ハンドルを握る手に力が入った。
「昔、ここで……なにか、あったんだ」
車内の空気が急に重くなった。
「大丈夫かい?すごい顔をしているよ。」
先輩が私の顔を覗き込むと、あの視線の感覚はふっと消えた。声をかけられると安心するのか、気のせいだったのかもしれないと思い始め、役場に着く頃にはすっかり忘れてしまっていた。
ところどころ年季の入った役場に到着し、担当の職員に渋丹村について尋ねるも、「聞いたことがない」とのことだった。どうやら相当暇だったらしく、古い台帳を出してきて「じっくり調べてみますわ。明日また来てください」と言われた。
少し早いが、我々は宿へ向かうことにした。宿は旅館ではなく、穏やかな老夫婦が営む民宿で、空き部屋を貸してもらった。
教授曰く、「ここのおじいさんの家系は昔からこの土地に住んでいるらしい。渋丹村の情報も得られるかもしれない。それに料金も安いしね」と。
部屋は二部屋借りており、教授と私は一室、先輩は一人で一室だった。まあ当然だろう。
荷物を置いて先輩と合流し、早速おばあさんに尋ねてみた。
「渋丹村という村をご存知ですか?」
おばあさんは穏やかな笑みを浮かべながら答えた。
「私は知らんですねぇ。昔の話なら、うちのじいさんなら何か知っているかもしれませんよ。先祖代々筆まめで、今でも時々日記を書いておりますから。」
そう言っておばあさんは、少し誇らしげに話した。
おじいさんは書斎にいるということで、私たちは書斎のドアをノックして中に入った。
「ようこそお客さん。何か御用ですかな?」
そう言って、おじいさんが迎えてくれた。
私が渋丹村という村を探していることと、おばあさんから「おじいさんなら知っているかもしれない」と聞いたことを伝えると、おじいさんは少し考え込むように目を細めた。
「渋丹村……渋丹村……どこかで見た記憶がありますな。どこだったか……ちょっと待ってくださいな。」
そう言うと、書斎の本棚に向かい、ぎっしり詰まった本の中から一冊を取り出してめくり始めた。
「ああ、あった。これですよ、これ。」
おじいさんは机の上にその本を開き、私たちに見せてくれた。
それはかなり昔の記録で、人の足以外に移動手段がなかった時代のものだった。おじいさんの先祖や渋丹村の住民たちが行っていた取引の記録で、農具や衣服を持ち寄り、作物と交換していたという内容だ。定期的に行われていたその取引は、ある日を境に突然途絶えてしまったらしい。
「村があったのは間違いなさそうだね。やったじゃないか、一歩前進だ、後輩君。」
「場所はわかりませんか?」と私が尋ねると、
「いやぁ、そこまでは書かれていないんですな。探せばどこかにあるかもしれませんが、なにぶんこの量ですからね。これも先日見つけたばかりで、場所がわかったのは偶然ですよ。」
そう言いながらおじいさんは、再び書棚を見上げた。
書斎の両側には天井まで届く大きな書棚があり、隙間なく古いものから新しいものまで様々な本がぎっしり詰まっていた。まるで資料の宝庫のようだ。
教授が「書棚を見せていただけませんか」とお願いすると、おじいさんはやんわりと断りながら、
「私の日記なんかもありますので…」と答えた。身内でもない者に日記を見せるのは、ためらいがあるのだろう。
教授は粘っていたが、やはり見せてもらえそうにないと悟り、諦めた様子だった。
書斎から撤退し、夕食の時間となった。おばあさんの手作りと思われる料理は、「これぞ家庭の味」と言いたくなるような、懐かしさを感じる美味しいものだった。
食事を終え、教授と私は自分たちの部屋に集まり、翌日の計画を詰めていく。
「役場にはあまり早く行っても迷惑だろうから、午後に行くとしよう。午前中はどうする?」
「役場の隣に図書館がありましたし、午前中はそこで調べ物をするのが良さそうです。」
「このあたりの歴史や資料なら、何かしら残っているだろう。いい案だと思うよ。」
「じゃあ、明日は朝から図書館で調査を始めて、昼食後に役場に行き、話を聞く。そのあとまた図書館に戻る感じでどうでしょう?午前中だけじゃ情報も十分に集まらないでしょうし。」
「そうだね、それでいこう。」
こうして大まかな計画が決まり、翌日に備えて私たちは早めに床についた。
翌朝、図書館へ向かった。
町の規模からすると大きめの図書館で、聞いてみると一部が歴史資料館になっているらしい。
そちらは町の主産業だった養蚕業の道具や歴史が中心で、我々の求めているものはなさそうだった。
司書に「あたりの古い史料はありますか?」と尋ねると、古い地図を出してくれた。
そこにはここや近隣の村のことが書かれていたが、「渋丹村」という名前は見当たらなかった。
司書にも渋丹村のことを聞いてみたが、「知らないですね」との返事だった。
手がかりなしか、と落ち込みかけたが、ふと地図の端にある森に目が止まった。
「この森はなんですか?」
「この森は自然保護区、正確には自然環境保全地域と言われるところです。端的に言えば、土地開発を禁止して、残しておくべき自然を保護している場所ですね。そうでなくても、誰もあの森には近づかないんですけどね。」
そう言う司書さんの顔はどこか浮かない様子だった。
「何かあるんですか?」
「まぁ、なんていうか、あの辺りでは昔から行方不明者がよく出ていたらしいんですよ。神隠しにあうとか、鬼に攫われるとか、そういう話でね。ここの子どもたちは親に口を酸っぱくして『森には近づくな』と教えられているんです。その親たちもまたそう教わってきたみたいで。」
「そうなんですか。ありがとうございます。いろいろ教えていただいて。」
「どういたしまして。ここは人があまり来ないので、基本暇なんですよ。みんな新しい方の図書館に行っちゃいますから。」
「この町って図書館が二つあるんですか?」
「ええ。町の再開発の際に新しく作られまして、こっちは資料館として残っていて、古い本なんかを保管するのが主なんですよ。役場も向こうに新しいのがあります。隣の役場は、このあたりに住んでいる人用の出張所になっています。」
「新しいのができるまではこっちが本館だったんですけどね。」と少し寂しそうに続けた。
「また来てくださいね。」と微笑む司書さんに別れを告げ、私たちは役場へ向かった。まあ、すぐ隣なんだけれども。
役場に到着すると、すぐに職員さんが出迎えてくれた。
「やあやあ、皆さん。お待ちしておりました。あれからいろいろ調べてみたら、ありましたよ、渋丹村。記録が残っていました。」
「本当ですか⁈」
「こんな村があったんですねぇ。かなり前に廃村になったみたいですが、確かにありました。」
「どれくらい前になくなったんですか?」
「んー、私が生まれるよりもっと前、としかわからなかったですね。申し訳ないです。」
「いえ、調べていただいてありがとうございます。ちなみに、村があった場所ってわかりますか?」
「ああ、場所ですか。実はその…森の中なんですよ。町の北東にある、あの森のことを知っていますか?」
「さっき隣の図書館で聞きました。あまり良くない話でしたけど。」
「そうなんですよ。あの森は昔から人が消えたり、攫われたりすると言われていて、ほとんど誰も近づきません。」
「最近はそういうことはないんですか?」
「ないですね。高祖父の世代までは、そこそこあったみたいですよ。森の近くで人が消えたという話が。」
「この森って、入っても大丈夫なんですか?」
「一応立ち入りは禁止されています。熊や猪なんかも出ますからね。熊が出た時だけ、猟師さんにお願いして森の奥へ追い払ってもらっています。」
「それに入るといっても、浅いところだけですね。彼らも森の外が見える範囲までしか入りません。なんでも、森の奥に入るとどこにいるのかわからなくなるそうで、コンパスはぐるぐる回りだすし、太陽も見えづらくなるんです。奥に入ると帰れなくなる、と言われています。」
「町の子供たちには危ないから近づくなと教えています。学校でもそう教えられるし、親もそう教える。もう何十年も前からそうなんですよ。」
「そういう場所って、子供に行くなって言うと、逆に行っちゃったりしませんか?」
「それがですね、以前町の再開発があって、学校や繁華街は全部、町の南西に固まって作られたんです。子持ちの家庭もほとんどそっちに移ってしまいまして。あそこからだと、子供の足では森までは行ける距離じゃないんですよ。」
職員さんはそう言って、ざっくりと地図を描いてくれた。
「まず町の真ん中がこの役場です。で、北東に森があります。森から役場までは住宅地ですが、古い建物ばかりで、住んでいるのはほとんどが高齢者です。空き家も多いですよ。この役場から西に行くほど町は栄えていて、建物も新しくなります。新しい役場もそちら側にあります。この役場は町の東側に住んでいる人のために残っているんです。距離が結構ありますからね。」
「役場の東側には、遊ぶところがほとんどありません。不自然なくらいに。小さな公園があるくらいで、そこも高齢者の集会場所みたいになっていて、若い人はあまり来ません。何もないので。」
「森から遠ざけるために、そうしているんじゃないか、なんて年寄りたちの間では言われていますよ。」
職員さんはそう言って、少し苦笑した。
「自然保護区になっていると聞いたのですが、手つかずなら村の跡とか残っていないんですか?」
「それが、何もないんですよ。航空写真を見ても森しか写っていません。十数軒の家があったみたいですし、畑もあったようなので、何かしら痕跡が残っていてもおかしくないんですが…」
スマホで航空写真を見てみると、確かに森だけが映っている。ズームしても村の痕跡は見当たらなかった。しかし、どこか違和感というか、不自然な感じがする。まるで森がこちらを見上げているような、そんな気さえした。
「まあ、こんなところです。森に入るのはおすすめできません。というか、立ち入り禁止なので、入らないでくださいね。行方不明者が出たらたまったものではないので。」と職員さんは話した。確かに写真を見ても、地面は見えず鬱蒼としていて危険そうだ。
「ありがとうございます。いろいろ教えていただいて。」
「いえいえ、見ての通り暇なので。こちらこそいい暇つぶしになりましたよ。」そう言って職員さんはまた何かあれば、と去っていった。
「それじゃあ図書館に戻ろうか。」そう言って教授は席を立った。
それに続いて私たちも図書館へと移動を始める。
図書館に戻ると、今朝の司書さんが本や地図を広げて、うんうんと唸っていた。私たちの気配にはまだ気づいていないようだ。
「こんにちは。また来ました。」先輩が声をかけると、司書さんは驚いたようにびくっと身を震わせた。
「ああ、今朝の方ですね。何かお探しですか?」
「ええ、渋丹村について、まだ何か手がかりがないかと思って。」
「それでしたら、あのあと倉庫を少し探ってみたんですが、こんなものが見つかりました。」そう言って見せてくれたのは、巻物のような古い資料だった。
「あの地図よりも古いものみたいです。中身は…」巻物を開くと、そこには絵が描かれていた。
大木に括り付けられた人の姿が描かれていた。大木を囲み、村人たちが祈りを捧げている。さらに巻物を開くと、括り付けられた人は血まみれになっていた。再び大木を中心に祈る村人の姿。次に開くと、大木がまるで踊っているかのように描かれ、村人たちも共に踊っている。そして、最後のページだった。
そこには、大木に後光が差し、村人たちが大木を中心に祈りを捧げる光景が描かれていた。
「これは…?」と私が尋ねると、
「渋丹村で行われていた儀式の絵だと聞いています。描いた人物は不明ですが、村を訪れた者が目にした光景を描いたものらしいです。」
絵を見つめていると、胸の奥がざわついた。自分があの大木に括られている姿がふと幻のように浮かんだ。周囲で人々が踊っている。しかし恐怖はなく、むしろ喜びの感情に包まれているような気すらした。
その時、大木が大きく口を開ける幻覚が見えた。口が近づいてきて、食べられる瞬間、はっと我に返った。
気分が悪く、鏡を見ればおそらくひどい顔をしているだろう。教授も先輩も、顔色が悪く、私と同じように動揺しているのが分かった。
「皆さん、大丈夫ですか?顔色がすぐれないようですが。」
「ああ、大丈夫です。ちょっと絵の内容に驚いただけで。」
「確かに不気味な絵ですよね。さっきはこれを見ているときに声をかけられて、少し驚いてしまいました。」
再び絵に目を戻すが、先ほど感じた胸のざわつきはもうなかった。いったい何だったのだろうか。
他にも色々と見せてもらったが、渋丹村に関する資料はもうなさそうだった。気がつけば、もうかなりいい時間になっていたので、私たちは民宿に戻ることにした。
「結構あっさり渋丹村のことが分かりましたね。明日にはもう帰れそうじゃないですか?」
「いやいや、まだ調べるべき場所が残っている。しかも、とびきり重要なところがね。」
「どこですか?」
「決まってるだろう。僕のご先祖様の家さ!あの日記の主の家だ。ここを調べなくてどうするんだ。」
「場所、わかるんですか?そもそも、残ってるんですか?その家。」
「ぬかりはないよ、後輩君。役場を出る前に聞いてきたからね。旧村田家の所在を。幸い、家は残っているらしい。長いこと空き家のままだそうだけど。勝手に入っちゃいけませんよ、とも言われたけど、まぁ大丈夫だろう。」先輩はまだまだ帰れそうにないよ、と楽しそうに笑みを浮かべている。
もう帰ってレポートを仕上げてしまいたいと、僕は、内心そう思っていた。
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