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連珠①
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羽生は施術後の熱を抱えたまま、タクシーの座席に深く身体を沈めた。 後部座席で丸まり、熱を持つ左腰をそっと掌で覆う。皮膚の奥からせり上がる鋭利な余韻が、波紋のように意識を支配していた。
羽生:(まだ、熱が引かない。身体じゃなくて……たぶん、頭のほうが)
走り出してすぐに、新城から「着いたら連絡しろ」と短い通知が届く。 彼は今頃、あの冷徹なまでの静謐さを必死に纏い、駅へ向かう雑踏に紛れているのだろう。
アトリエでの新城の振る舞いが、熱を冷やすよりも残酷に胸を刺していた。 無機質な言葉での処理。二次麻酔の冷たさ。
羽生:(ふふ、焦ってるくせに……)
そう思い込もうとして、すぐに虚しさが足元から這い上がってきた。 あんなに余裕たっぷりに挑発してみせたのに。今の自分を支配しているのは、勝利の余韻などではない。新城の“触れなかった手”を思い出した瞬間、張り詰めていた意地が、音を立てて形を変えていく。
自宅のソファに深く身体を預けた。 左腰の保護フィルムの下で、針の痕が生き物のように脈動している。指先を震わせ、メッセージを送った。
《先生。僕、もうすぐベッドに入るね。腰に鋭い痛みを入れたばっかりなのに、もう僕、全身が先生に確かめられたくて熱いよ。待ってるね》
スタジオで自分を突き放したあの男が、いつまでその「正しさ」の中に逃げ込んでいられるか。 これは、羽生が仕掛けた賭けだった。
わずか数分後、玄関で鍵が回る音がし、ドアが重く閉まる。 苛立ちを含んだ足音。リビングへ現れた新城の呼吸は速く、その端正な貌は、隠しようのない動揺に縁取られていた。
新城:「羽生!」
鋭い声。だが、そこには呼び戻された男の脆さが滲んでいた。 羽生はソファに横たわったまま、重い瞼をゆっくりと上げ、新城を見上げた。
羽生:「おかえり、先生。僕、もう熱いって言ったでしょ? ……あんたのせいだよ」
新城は無言で歩み寄ると、ソファの背に掌を突き、羽生を覗き込むようにして立ち尽くした。見下ろす視線は鋭いが、その奥には火花を散らすような戸惑いが宿っている。
新城:「やめろ。……仕上げが終わったばかりだ。不用意に動けば、お前が痛む」
掠れた声は、抑え込んでいる衝動の重さを物語っていた。羽生は逃がさない。
羽生:「うん、大人しくしてるよ。……ねえ、先生がこうして『触れない』でいてくれるから、この傷は、より特別に輝くんだよね?」
従順さを装った微笑みが、新城の輪郭を揺らす。新城の喉仏が、苦しげに激しく上下した。
羽生:「……あんなに綺麗に、僕の身体に馴染ませたじゃない。誰にも見せられない身体。あんたが、僕をそういう場所に閉じこめたんだ。……この熱だって、先生の仕事の続きでしょ?」
逃げ場のない正論を突きつけられ、新城は逃れるように、むしろ羽生の領域へと深く踏み込んだ。ソファの背を掴む指先が白くなるほど強張り、羽生の上半身を影に沈める。
新城:「勝手なことを言うな。……お前の価値を、軽々しく触れる人間が、他にいると思うな。……お前を、この形のまま壊さずに留めておくのは、俺の役目だ」
絞り出すような声。新城は羽生の圧倒的な熱量に、今にも飲み込まれそうだった。 羽生はその揺らぎを逃さず、新城の手首を掴み、力任せに自分のほうへ引き寄せた。
ぶつかり合う、二つの視線。
逃げ場を失った新城の瞳が揺れ、次の瞬間、耐えきれずに身を屈めた拍子に、互いの唇がぶつかった。
それは溢れ出した熱を封じ込めるための、切実な降伏だった。 新城は羽生の左腰の傷を避け、反対側の右腰を、触れてはならない場所を確かめるようにガウン越しに掴んだ。重なる呼吸が、部屋の温度を一段階引き上げた。
短い口づけが終わり、新城がわずかに顔を離すと、その瞳には自責に近い苦渋と、剥き出しの名残惜しさが混濁していた。
新城:「……お前が、俺にだけこうさせてる。……それだけでいい」
抗うことをやめたように、新城は羽生の首筋に顔を埋めた。 羽生は、疲労でわずかに震える新城の背中に、そっと手を回した。
羽生:「ねえ、先生。今日は僕、すごく痛かったんだから。……あんたも、疲れてるでしょ?」
新城は顔を上げ、荒い息を吐きながら、羽生の唇に再び触れた。 今度はどちらが縋っているのかも分からないほど切実な、懇願のようなキスだった。 羽生の柔らかな唇を、新城は自らの渇きを癒やすように、何度も、深く、なぞり直す。
その二度目のキスの余韻に溶けるように、羽生は掴んでいた新城の背から手を離し、そのままソファにゆっくりと身体を横たえた。 新城は名残惜しそうに羽生から身体を離し、一度深く、長く息を吸い込んだ。
羽生:「もう、いいよ、先生。……ちゃんと、伝わったから。先生が、そうやって僕を『なだめる』ことで、ようやく落ち着くことも。……僕、もう動かないでいるから。あんたも、そこで休んで」
羽生は視線だけで傍らのリクライニングチェアを促したが、新城はその椅子には目も向けなかった。新城は答えず、ソファの傍らに立ち尽くしていたが、やがて強張っていた肩の力がふっと抜けた。
新城は力尽きたようにその場に崩れ、ソファの横の床に直接腰を下ろした。
羽生:「……椅子、あるのに」
新城:「いい。……ここが一番、お前の様子が見える」
新城はソファの座面に後頭部を預け、深くもたれかかった。 自身の手で羽生の細い手を包み込み、指先の重みだけで「誰にも触れさせない」という意思を伝えてきた。 羽生は、すぐ隣で響く呼吸音を肌で受け止めた。ようやく得られた安息の中で、そっと目を閉じる。
***
しばらくして、新城は静かに立ち上がり、キッチンへ向かった。 やがて準備が整い、テーブルに湯気を立てる皿が並べられる。 羽生は左腰の痛みを逃がすように、慎重な足取りで椅子に深く腰を下ろした。
静かな咀嚼音だけが流れ、二人の間に、言葉にされなかった緊張が沈殿していく。
新城:「……口に合わないか」
羽生:「ううん。……先生が作るもの、いつも優しいから」
胃に落ちていく温かさと、自分を「生かそう」とする過剰なまでの気遣い。 その静かな圧力が、別の熱となって、羽生の胸の奥をじりじりと焼いていく。
羽生:(……ねえ、先生。『看病』で罪悪感を消そうなんて許さない。……もっと、あんたを壊してあげる。)
食器を下げる微かな音、水仕事の音。
新城が片付けを済ませ、リビングに再び静寂が降りるまで、羽生はソファでじっとその背中を眺めていた。その背中は、どんなに尽くしても拭いきれない「加害者」の孤独を背負っているように見えた。
***
やがて新城が手を拭い、再び羽生の傍らの床に腰を下ろした。
ふう、と深く吐き出された息には、一日の緊張と、羽生を守り抜いたという奇妙な充足が混じっていた。
その無防備な隙を突くように、羽生は新城の手首を掴み、自分の方へと引き寄せた。
羽生:「……先生。ご飯、美味しかった。本当に。あそこで僕を繋ぎ止めてくれたのが先生で、本当によかったよ」
混じりけのない、純粋な感謝。
だからこそ、新城の強張っていた肩の力が、微かに、かつ致命的に緩んだ。そのわずかな弛緩を、羽生は見逃さなかった。
羽生:「でもね、先生。ケアが完璧すぎたせいで、副作用が出てるんだ。……責任、取ってくれるよね?」
新城が怪訝そうに眉を寄せた。羽生は掴んだままの手を、自らの腰へと導く。
保護フィルムの下に沈む、深く重いグレーの階調。新城がその眼差しで針を追い、定着を見届けた、あの「影」の場所だ。
羽生:「先生が見つめていたここが、ずっと熱を持って暴れてる。……このままじゃ、今夜は一秒も眠れないよ。先生だって、僕が壊れるのは本意じゃないでしょ?」
新城:「……羽生。それは生理的な興奮だ。時間が経てば落ち着く。無理に何かをしようとするな」
新城の声には、まだ教授としての、あるいは医者としての理性が踏み止まっていた。羽生はその理性の外堀を、逃げ場のない「処置」としての論理で埋めていく。
羽生:「落ち着かないよ。だから、提案。お互いのために『リセット』しよう。先生だって、もう限界でしょ?」
羽生は新城の手首を掴んだまま、もう片方の腕を、新城の目の前にゆっくりとかざしてみせた。
柔らかなシルクの袖が、内側にあるはずのないゴツゴツとした起伏で歪に膨らんでいる。
そのシルエットが何であるかを悟った瞬間、新城の瞳が、屈辱と動揺で激しく濁った。
かつて自分の指先で、そして体内で識(し)った、あの忌まわしい連なりの感触。それが今、羽生の腕を異様に太く見せている。
羽生:「これを受け取って。昼間、僕の感覚を冷たく奪ったんだから。今度はその手で、僕を『処理』してよ。……合理的なアフターケアでしょ?」
新城:「……また、お前は……。そんな、治療とも悪ふざけともつかないことを……」
新城は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
羽生の安眠を確保するための「最終的な処置」――その完璧な言い訳が、今の彼には唯一の、そして最悪の救いだった。
羽生はソファからゆっくりと立ち上がると、床に跪いたままの新城の頬に指先を這わせた。
羽生:「ふふ、変なことじゃないよ。……でも、ここでやるのは嫌でしょ? まずはお風呂に浸かってきてよ」
新城は、羽生のあまりに迷いのない提案に、わずかに眉を跳ねさせた。
新城:「……勝手に話を進めるな。そもそも、俺はまだ――」
拒否しようとした言葉は、羽生の指先が耳朶をなぞった瞬間に霧散した。
羽生:「身体を芯まで温めて。指先の強張りを取ってからじゃないと、繊細なことはできないよ。……ね?」
吐息の届く距離で囁かれ、新城の耳朶から首筋にかけて隠しようのない赤みが広がっていく。独り、暗闇で「それ」を自分に使い、指先まで淫らな熱に染まった記憶が、鮮烈に蘇った。
羽生:「先生が温まってる間に、寝室を暖めておくね。……なんだか少し、心細いんだ。ちゃんと準備して、先生を『あっち』で待ちたい」
羽生は、かつて新城が拒んだ「縋るような瞳」で彼を見上げた。
新城はその瞳をじっと見つめ返した。それが自分を支配するための、あまりに露骨な「芝居」であることは百も承知だ。
新城:(……この、小賢しいガキが)
だが、その見え透いた嘘を暴くこともできず、新城の喉仏がひどく扇情的に上下した。羽生の差し出した毒入りの免罪符を、彼は熱い沈黙とともに飲み込む。
新城:「……分かった。……お前がそこまで言うのなら、指先まで入念に温め、整えてくるとしよう。……それが、今の俺にできる唯一の『治療』ならな。」
(――これは選択だ。逃げなかったのは、他でもない、俺自身だ)
新城のその言葉は、もはや自分自身への言い訳ですらなく、深淵へ飛び込むための祈りのようだった。
新城は熱い吐息を一つ漏らすと、立ち上がった。逃げるべきだという理性が、遅れて胸の奥で小さく鳴いた。浴室へ向かうその背中には、これから自ら「供物(くもつ)」として身体を解きにいく男の、重く、淫らな熱が滲んでいた。
羽生はその背中を、勝利の悦びだけで見送ることはできなかった。あんなに頑なだった男が、自分の差し出した「卑猥な道具」と「見え透いた嘘」を救いのように掴んで、暗い水音のする方へ消えていく。
羽生:(……怖いな。先生、本当に僕に壊されたがってるんだ)
羽生は、その場に立ち尽くした。新城が消えた廊下の先を、ただ無言で見つめる。数秒の空白。呼吸の音だけが響く沈黙の中で、恐怖が毒のようにじわりと羽生の脳裏に滞留した。
しばらくして、浴室から微かに水音が聞こえ始めると、羽生はリビングの照明を落とした。
闇が降りた部屋の中で、加湿器の微かな動作音だけが響く。羽生は暗い廊下を抜け、寝室の暖房を入れに向かった。
歩くたびに、左腰の患部がずきりと疼く。
羽生:(……この傷を、先生は一生守り続けるつもりなんだ。僕が壊せば壊すほど、先生は必死に修復して、僕に依存していく。……僕たちは、どこまでいけるんだろう)
その取り返しのつかない何かが、冷たい刃のように羽生の胸を掠める。…………だが、次の瞬間、彼は暗闇の中で自嘲気味に目を細めた。恐怖を押し殺すように、下腹部でどろりとした執着が鎌首をもたげる。
ガウンの袖の中では、あの忌まわしくも愛おしい連なりが、腕に巻き付いたまま密やかな軋み声を上げている。ずっしりとしたシリコンの質量が羽生の肌を圧迫し、これから起きることを予感させて、下腹部を熱くさせた。
羽生は、新城が今、浴室で何を想っているかを想像する。
「繊細な処置のために指を温める」という羽生の言葉を盾にして、彼は今、自らの身体に熱を入れている。湯船に浸かり、白くふやけた指先を、無言で見つめているはずだ。
新城にとって、浴室は唯一の避難所であり、同時に最も無防備な告解室でもあった。
羽生は寝室の明かりを極限まで絞り、新城が戻るのを待った。
シーツを整え、枕の位置を微調整する。その手つきは、深淵へと堕ちていく愛する者を、どこまでも優しく迎え入れるための準備だった。
羽生:(――先生が、あんなに激しく目を濁らせたんだ)
あれは、ただの屈辱ではない。自分を見つめる新城の瞳の奥に、確実に火が灯っていた。
それを見つけた瞬間、羽生はゾクッとするような「喪失の予感」に襲われた。あの高潔な教授の瞳が、自分のせいで泥のように濁り、自分と同じ場所まで堕ちてきた。
羽生:(……ああ。もう、あっち側には戻れないよ。僕が、絶対に帰さない)
羽生は暗がりのなか、腕に宿した「答え」を愛おしそうになぞりながら、どこまでも深く、静かに目を細めた。
羽生:「……先生。待ってるから。早く、僕の熱を止めに来てよ」
その囁きは、誰に届くこともなく、重く湿った寝室の空気の中に溶けて消えた。
羽生:(まだ、熱が引かない。身体じゃなくて……たぶん、頭のほうが)
走り出してすぐに、新城から「着いたら連絡しろ」と短い通知が届く。 彼は今頃、あの冷徹なまでの静謐さを必死に纏い、駅へ向かう雑踏に紛れているのだろう。
アトリエでの新城の振る舞いが、熱を冷やすよりも残酷に胸を刺していた。 無機質な言葉での処理。二次麻酔の冷たさ。
羽生:(ふふ、焦ってるくせに……)
そう思い込もうとして、すぐに虚しさが足元から這い上がってきた。 あんなに余裕たっぷりに挑発してみせたのに。今の自分を支配しているのは、勝利の余韻などではない。新城の“触れなかった手”を思い出した瞬間、張り詰めていた意地が、音を立てて形を変えていく。
自宅のソファに深く身体を預けた。 左腰の保護フィルムの下で、針の痕が生き物のように脈動している。指先を震わせ、メッセージを送った。
《先生。僕、もうすぐベッドに入るね。腰に鋭い痛みを入れたばっかりなのに、もう僕、全身が先生に確かめられたくて熱いよ。待ってるね》
スタジオで自分を突き放したあの男が、いつまでその「正しさ」の中に逃げ込んでいられるか。 これは、羽生が仕掛けた賭けだった。
わずか数分後、玄関で鍵が回る音がし、ドアが重く閉まる。 苛立ちを含んだ足音。リビングへ現れた新城の呼吸は速く、その端正な貌は、隠しようのない動揺に縁取られていた。
新城:「羽生!」
鋭い声。だが、そこには呼び戻された男の脆さが滲んでいた。 羽生はソファに横たわったまま、重い瞼をゆっくりと上げ、新城を見上げた。
羽生:「おかえり、先生。僕、もう熱いって言ったでしょ? ……あんたのせいだよ」
新城は無言で歩み寄ると、ソファの背に掌を突き、羽生を覗き込むようにして立ち尽くした。見下ろす視線は鋭いが、その奥には火花を散らすような戸惑いが宿っている。
新城:「やめろ。……仕上げが終わったばかりだ。不用意に動けば、お前が痛む」
掠れた声は、抑え込んでいる衝動の重さを物語っていた。羽生は逃がさない。
羽生:「うん、大人しくしてるよ。……ねえ、先生がこうして『触れない』でいてくれるから、この傷は、より特別に輝くんだよね?」
従順さを装った微笑みが、新城の輪郭を揺らす。新城の喉仏が、苦しげに激しく上下した。
羽生:「……あんなに綺麗に、僕の身体に馴染ませたじゃない。誰にも見せられない身体。あんたが、僕をそういう場所に閉じこめたんだ。……この熱だって、先生の仕事の続きでしょ?」
逃げ場のない正論を突きつけられ、新城は逃れるように、むしろ羽生の領域へと深く踏み込んだ。ソファの背を掴む指先が白くなるほど強張り、羽生の上半身を影に沈める。
新城:「勝手なことを言うな。……お前の価値を、軽々しく触れる人間が、他にいると思うな。……お前を、この形のまま壊さずに留めておくのは、俺の役目だ」
絞り出すような声。新城は羽生の圧倒的な熱量に、今にも飲み込まれそうだった。 羽生はその揺らぎを逃さず、新城の手首を掴み、力任せに自分のほうへ引き寄せた。
ぶつかり合う、二つの視線。
逃げ場を失った新城の瞳が揺れ、次の瞬間、耐えきれずに身を屈めた拍子に、互いの唇がぶつかった。
それは溢れ出した熱を封じ込めるための、切実な降伏だった。 新城は羽生の左腰の傷を避け、反対側の右腰を、触れてはならない場所を確かめるようにガウン越しに掴んだ。重なる呼吸が、部屋の温度を一段階引き上げた。
短い口づけが終わり、新城がわずかに顔を離すと、その瞳には自責に近い苦渋と、剥き出しの名残惜しさが混濁していた。
新城:「……お前が、俺にだけこうさせてる。……それだけでいい」
抗うことをやめたように、新城は羽生の首筋に顔を埋めた。 羽生は、疲労でわずかに震える新城の背中に、そっと手を回した。
羽生:「ねえ、先生。今日は僕、すごく痛かったんだから。……あんたも、疲れてるでしょ?」
新城は顔を上げ、荒い息を吐きながら、羽生の唇に再び触れた。 今度はどちらが縋っているのかも分からないほど切実な、懇願のようなキスだった。 羽生の柔らかな唇を、新城は自らの渇きを癒やすように、何度も、深く、なぞり直す。
その二度目のキスの余韻に溶けるように、羽生は掴んでいた新城の背から手を離し、そのままソファにゆっくりと身体を横たえた。 新城は名残惜しそうに羽生から身体を離し、一度深く、長く息を吸い込んだ。
羽生:「もう、いいよ、先生。……ちゃんと、伝わったから。先生が、そうやって僕を『なだめる』ことで、ようやく落ち着くことも。……僕、もう動かないでいるから。あんたも、そこで休んで」
羽生は視線だけで傍らのリクライニングチェアを促したが、新城はその椅子には目も向けなかった。新城は答えず、ソファの傍らに立ち尽くしていたが、やがて強張っていた肩の力がふっと抜けた。
新城は力尽きたようにその場に崩れ、ソファの横の床に直接腰を下ろした。
羽生:「……椅子、あるのに」
新城:「いい。……ここが一番、お前の様子が見える」
新城はソファの座面に後頭部を預け、深くもたれかかった。 自身の手で羽生の細い手を包み込み、指先の重みだけで「誰にも触れさせない」という意思を伝えてきた。 羽生は、すぐ隣で響く呼吸音を肌で受け止めた。ようやく得られた安息の中で、そっと目を閉じる。
***
しばらくして、新城は静かに立ち上がり、キッチンへ向かった。 やがて準備が整い、テーブルに湯気を立てる皿が並べられる。 羽生は左腰の痛みを逃がすように、慎重な足取りで椅子に深く腰を下ろした。
静かな咀嚼音だけが流れ、二人の間に、言葉にされなかった緊張が沈殿していく。
新城:「……口に合わないか」
羽生:「ううん。……先生が作るもの、いつも優しいから」
胃に落ちていく温かさと、自分を「生かそう」とする過剰なまでの気遣い。 その静かな圧力が、別の熱となって、羽生の胸の奥をじりじりと焼いていく。
羽生:(……ねえ、先生。『看病』で罪悪感を消そうなんて許さない。……もっと、あんたを壊してあげる。)
食器を下げる微かな音、水仕事の音。
新城が片付けを済ませ、リビングに再び静寂が降りるまで、羽生はソファでじっとその背中を眺めていた。その背中は、どんなに尽くしても拭いきれない「加害者」の孤独を背負っているように見えた。
***
やがて新城が手を拭い、再び羽生の傍らの床に腰を下ろした。
ふう、と深く吐き出された息には、一日の緊張と、羽生を守り抜いたという奇妙な充足が混じっていた。
その無防備な隙を突くように、羽生は新城の手首を掴み、自分の方へと引き寄せた。
羽生:「……先生。ご飯、美味しかった。本当に。あそこで僕を繋ぎ止めてくれたのが先生で、本当によかったよ」
混じりけのない、純粋な感謝。
だからこそ、新城の強張っていた肩の力が、微かに、かつ致命的に緩んだ。そのわずかな弛緩を、羽生は見逃さなかった。
羽生:「でもね、先生。ケアが完璧すぎたせいで、副作用が出てるんだ。……責任、取ってくれるよね?」
新城が怪訝そうに眉を寄せた。羽生は掴んだままの手を、自らの腰へと導く。
保護フィルムの下に沈む、深く重いグレーの階調。新城がその眼差しで針を追い、定着を見届けた、あの「影」の場所だ。
羽生:「先生が見つめていたここが、ずっと熱を持って暴れてる。……このままじゃ、今夜は一秒も眠れないよ。先生だって、僕が壊れるのは本意じゃないでしょ?」
新城:「……羽生。それは生理的な興奮だ。時間が経てば落ち着く。無理に何かをしようとするな」
新城の声には、まだ教授としての、あるいは医者としての理性が踏み止まっていた。羽生はその理性の外堀を、逃げ場のない「処置」としての論理で埋めていく。
羽生:「落ち着かないよ。だから、提案。お互いのために『リセット』しよう。先生だって、もう限界でしょ?」
羽生は新城の手首を掴んだまま、もう片方の腕を、新城の目の前にゆっくりとかざしてみせた。
柔らかなシルクの袖が、内側にあるはずのないゴツゴツとした起伏で歪に膨らんでいる。
そのシルエットが何であるかを悟った瞬間、新城の瞳が、屈辱と動揺で激しく濁った。
かつて自分の指先で、そして体内で識(し)った、あの忌まわしい連なりの感触。それが今、羽生の腕を異様に太く見せている。
羽生:「これを受け取って。昼間、僕の感覚を冷たく奪ったんだから。今度はその手で、僕を『処理』してよ。……合理的なアフターケアでしょ?」
新城:「……また、お前は……。そんな、治療とも悪ふざけともつかないことを……」
新城は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
羽生の安眠を確保するための「最終的な処置」――その完璧な言い訳が、今の彼には唯一の、そして最悪の救いだった。
羽生はソファからゆっくりと立ち上がると、床に跪いたままの新城の頬に指先を這わせた。
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新城は、羽生のあまりに迷いのない提案に、わずかに眉を跳ねさせた。
新城:「……勝手に話を進めるな。そもそも、俺はまだ――」
拒否しようとした言葉は、羽生の指先が耳朶をなぞった瞬間に霧散した。
羽生:「身体を芯まで温めて。指先の強張りを取ってからじゃないと、繊細なことはできないよ。……ね?」
吐息の届く距離で囁かれ、新城の耳朶から首筋にかけて隠しようのない赤みが広がっていく。独り、暗闇で「それ」を自分に使い、指先まで淫らな熱に染まった記憶が、鮮烈に蘇った。
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羽生は、かつて新城が拒んだ「縋るような瞳」で彼を見上げた。
新城はその瞳をじっと見つめ返した。それが自分を支配するための、あまりに露骨な「芝居」であることは百も承知だ。
新城:(……この、小賢しいガキが)
だが、その見え透いた嘘を暴くこともできず、新城の喉仏がひどく扇情的に上下した。羽生の差し出した毒入りの免罪符を、彼は熱い沈黙とともに飲み込む。
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新城のその言葉は、もはや自分自身への言い訳ですらなく、深淵へ飛び込むための祈りのようだった。
新城は熱い吐息を一つ漏らすと、立ち上がった。逃げるべきだという理性が、遅れて胸の奥で小さく鳴いた。浴室へ向かうその背中には、これから自ら「供物(くもつ)」として身体を解きにいく男の、重く、淫らな熱が滲んでいた。
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羽生は、その場に立ち尽くした。新城が消えた廊下の先を、ただ無言で見つめる。数秒の空白。呼吸の音だけが響く沈黙の中で、恐怖が毒のようにじわりと羽生の脳裏に滞留した。
しばらくして、浴室から微かに水音が聞こえ始めると、羽生はリビングの照明を落とした。
闇が降りた部屋の中で、加湿器の微かな動作音だけが響く。羽生は暗い廊下を抜け、寝室の暖房を入れに向かった。
歩くたびに、左腰の患部がずきりと疼く。
羽生:(……この傷を、先生は一生守り続けるつもりなんだ。僕が壊せば壊すほど、先生は必死に修復して、僕に依存していく。……僕たちは、どこまでいけるんだろう)
その取り返しのつかない何かが、冷たい刃のように羽生の胸を掠める。…………だが、次の瞬間、彼は暗闇の中で自嘲気味に目を細めた。恐怖を押し殺すように、下腹部でどろりとした執着が鎌首をもたげる。
ガウンの袖の中では、あの忌まわしくも愛おしい連なりが、腕に巻き付いたまま密やかな軋み声を上げている。ずっしりとしたシリコンの質量が羽生の肌を圧迫し、これから起きることを予感させて、下腹部を熱くさせた。
羽生は、新城が今、浴室で何を想っているかを想像する。
「繊細な処置のために指を温める」という羽生の言葉を盾にして、彼は今、自らの身体に熱を入れている。湯船に浸かり、白くふやけた指先を、無言で見つめているはずだ。
新城にとって、浴室は唯一の避難所であり、同時に最も無防備な告解室でもあった。
羽生は寝室の明かりを極限まで絞り、新城が戻るのを待った。
シーツを整え、枕の位置を微調整する。その手つきは、深淵へと堕ちていく愛する者を、どこまでも優しく迎え入れるための準備だった。
羽生:(――先生が、あんなに激しく目を濁らせたんだ)
あれは、ただの屈辱ではない。自分を見つめる新城の瞳の奥に、確実に火が灯っていた。
それを見つけた瞬間、羽生はゾクッとするような「喪失の予感」に襲われた。あの高潔な教授の瞳が、自分のせいで泥のように濁り、自分と同じ場所まで堕ちてきた。
羽生:(……ああ。もう、あっち側には戻れないよ。僕が、絶対に帰さない)
羽生は暗がりのなか、腕に宿した「答え」を愛おしそうになぞりながら、どこまでも深く、静かに目を細めた。
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その囁きは、誰に届くこともなく、重く湿った寝室の空気の中に溶けて消えた。
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メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才
中学時代の初恋相手
高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が
突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。
昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき…
夏にピッタリな青春ラブストーリー💕
今度こそ、どんな診療が俺を 待っているのか
相馬昴
BL
強靭な肉体を持つ男・相馬昴は、診療台の上で運命に翻弄されていく。
相手は、年下の執着攻め——そして、彼一人では終わらない。
ガチムチ受け×年下×複数攻めという禁断の関係が、徐々に相馬の本能を暴いていく。
雄の香りと快楽に塗れながら、男たちの欲望の的となる彼の身体。
その結末は、甘美な支配か、それとも——
背徳的な医師×患者、欲と心理が交錯する濃密BL長編!
https://ci-en.dlsite.com/creator/30033/article/1422322
俺は夜、社長の猫になる
衣草 薫
BL
冤罪で職を追われた葵は、若き社長・鷹宮に拾われる。
ただし条件は――夜は“猫”として過ごすこと。
言葉を話さず、ただ撫でられるだけの奇妙な同居生活。
タワマン高層階の部屋で、葵は距離を崩さない鷹宮に少しずつ惹かれていく。
けれど葵はまだ知らない。自分が拾われた本当の理由を。
借金のカタに同居したら、毎日甘く溺愛されてます
なの
BL
父親の残した借金を背負い、掛け持ちバイトで食いつなぐ毎日。
そんな俺の前に現れたのは──御曹司の男。
「借金は俺が肩代わりする。その代わり、今日からお前は俺のものだ」
脅すように言ってきたくせに、実際はやたらと優しいし、甘すぎる……!
高級スイーツを買ってきたり、風邪をひけば看病してくれたり、これって本当に借金返済のはずだったよな!?
借金から始まる強制同居は、いつしか恋へと変わっていく──。
冷酷な御曹司 × 借金持ち庶民の同居生活は、溺愛だらけで逃げ場なし!?
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