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スープ
しおりを挟む1.尊厳の歩行
やがて、新城の身体にわずかな緊張が戻る。
羽生の腕の中から、自らの意思で羽生の腕を振り解くが、立ち上がった瞬間に下腹部の鈍痛が脳を焼き、新城はソファの背に激しく手をついた。
内側からせり上がる不快感と、膝の震え。彼はそれを「事故の余韻」と断じ、奥歯を噛み締めて無理やり直立した。一歩踏み出すごとに、羽生の熱が自身の内側で重く揺れる。新城はそれを無視し、崩れ落ちそうになる尊厳を必死に繋ぎ止めて歩き出した。
新城:「……っ、……シャワーを浴びてくる。……お前はそこで、少しは頭を冷やせ」
掠れた声に、隠しきれない気まずさが滲む。
足元に散らばる衣服の残骸――つい先ほどまでの自分たちの痕跡を、視界の端へ追いやるようにして、新城はバスルームへと足を向けた。
羽生:「ゆっくりでいいよ、先生。……僕、もう動けないから。……先生が上手すぎて、腰が抜けちゃった」
背後に投げかけられた羽生の声は、どこか気だるく、甘い。
新城はその声に振り返ることもなく、頑ななラインを保ったままバスルームへと消えた。
羽生はソファに深く沈んだまま、閉じられた扉をしばらく黙って見送っていた。
扉が閉まり、リビングの静寂をかき消すように水音が響き始める。
バスルームの中で、新城は鏡を見なかった。
曇った硝子の向こう側に、羽生に刻まれた「赤」が、自分の肌として居座っている気がした。
シャワーを浴びれば、内腿の意匠はじりじりと疼き、先ほどまでの熱を嫌というほど思い出させる。
新城はただ無言で、自分の中に残る火照りを鎮めるように、熱い湯を浴び続けた。
十五分後。髪を乾かし、グレーのスウェットに着替えた新城が戻ってきた。彼は無言でキッチンへ向かうと、考える前に身体が覚えているいつもの手順をなぞるように、コンロに火を入れた。
先ほどまでの乱れを削ぎ落とし、完璧な「教授」を演じようとするその背中は、痛々しいほどに強張っていた。スウェットの下で、内腿のタトゥーはじりじりと熱を帯び、蹂躙の記憶を刻一刻と刻みつけてくる。
新城は、震えの止まらない指先で包丁を握り直した。今、包丁を置けば、自分という人間がそのまま崩壊してしまう。その恐怖だけが、彼をコンロの前に立たせていた。
2. 震える滋養
羽生はソファに寝そべったまま、その淡々と動く背中を目で追う。
羽生:(……本当、マメだよね。あんな顔して泣いてたくせにさ)
前もって切り揃えられていた野菜が、鍋の中で踊り始める。その規則的な音が、羽生の逆立った神経を静かに解いていく。
新城:「……羽生。座れ。……食べないなら捨てるぞ」
置かれたボウルには、鶏のささ身と冬野菜のスープ。
羽生は脇腹を庇うようにゆっくりと立ち上がり、テーブルについた。
羽生:「先生、ありがとう。……ねぇ、あんなに『壊して』って言ってた人が作ったとは思えないくらい、優しい匂いがする。……ねえ、これもお仕置きなの?」
わざと意地悪く囁くと、新城のカップを持つ手がぴくりと止まった。
新城:「……食事中に、余計なことを言うな。お前が食べないと、治りが遅れる」
新城は視線を合わせず、テーブルの向こうに顔を伏せた。けれど、その視線は隠しきれず、
羽生のガウンの合わせ目を案じるようにそっと彷徨っている。
羽生はスープを一口啜り、身体の芯まで熱が沁み渡る感覚に目を細めた。新城自身は、その味をほとんど感じ取れていなかった。
それどころか、スープを嚥下するたびに、羽生に汚された感覚が蘇り、軽い嘔気さえ催していた。それでも彼は、無理やりスープを胃に流し込んだ。栄養を摂り、体力を回復させなければ、明日、教壇に立つ「新城」を維持できないからだ。
羽生:「……ん、おいしい。先生、やっぱり僕のこと大好きだね。……こんなに、僕の身体のことばっかり気にして」
軽口を叩く羽生の指先が、スプーンの縁でかすかに震えた。 失ったら戻らない、という予感だけが、遅れてやってきていた。
後悔ではない。
ただ――失う想像を覚えてしまっただけだ。
(……だからこそ、今はまだ、壊さない)
――失うとは、壊すこととは、違う。
確信が一つ増えるたび、失う前提が静かに積み上がっていくことを、羽生はまだ言葉にしない。
新城は顔を上げなかった。
それでも、湯気の向こうで揺れるその震えだけは、黙って視界に留めている。
それを不安定さの表れだと名付けることは、容易だった。
そうしてしまえば、この場のすべてが、清潔な言葉で整理できてしまう。だが新城は、その入口で思考を止めた。
震えを分類した瞬間、見ているのが羽生ではなく、自分を守るための理屈にすり替わってしまう気がしたからだ。
彼は視線を合わせないまま、スープの蒸気の向こうに顔を隠した。
ただ、震えが収まるまでの時間を測るように、スープの減っていく量だけを視界の端で確認し、次の手順をなぞることに集中する。
金属のスプーンが皿の縁に触れる小さな音だけが、不自然なほど静かな室内に響いている。
整えられた食卓。それは、新城が「教授」の輪郭を繋ぎ止めるための、最後に残された唯一の拠り所だった。
3. 暗闇の享受
空になったボウルが、テーブルの上で白い光を反射している。
新城は無言のまま立ち上がると、クローゼットから自分用の敷布団を引き出した。重い衣擦れの音。それがフローリングに落ちる「パン」という乾いた音が、静まり返った部屋に、境界線の“形だけ”を残した。
羽生はベッドの端から、その一連の動作を眺めていた。
さっき、自分の震える手元を凝視していた新城の瞳。自分の指でスプーンを握り、スープを飲み干す様を、男は至近距離で一滴も逃さず見届けていた。
羽生は、硬いシーツに後頭部を預け、暗闇の中で新城の背中に視線を這わせた。
冬の澄んだ空気の中で、シャワーを浴びていない肌だけがじりじりと熱い。腰に刻まれたブラックアンドグレーの羽根が、呼吸に合わせて服の繊維と擦れる。
羽生:(……先生)
羽生は自分の手のひらを、指先でそっとなぞった。
金属の冷たさを握りしめていた感覚。それを見つめさせていた時間の、喉の奥が焦げるような優越感。新城の内腿にあるマゼンタの印。あれを受け入れてくれた時と同じ、二人だけの秘密がまた一つ増えたことへの確信。
新城が床に横たわり、カチリ、と眼鏡を置く音がした。視界を捨て、沈黙の箱に逃げ込もうとするその背中。
羽生はわざとシーツを鳴らし、ベッドから身を乗り出して下の闇を覗き込んだ。
新城:「……羽生。痛むのか」
声は低く、砂を噛んだように掠れている。羽生は暗闇の中で、静かに、深く口の端を吊り上げた。
羽生:「……ううん。先生がそんなに遠くにいるから、見下ろすのが楽しくて。……ねえ、先生。そんなに離れて、僕から何を隠してるの?」
新城の肩が、微かに強張った。天井を見つめたまま、男は微塵も動かない。だが、布団を握りしめる指先だけが、微妙に位置を変え続けていることを、羽生は見逃さなかった。
新城:「……寝ろ。……それで十分だろう」
羽生は、男の呼吸が少しずつ乱れていくのを、愛おしむように耳の奥で享受した。
羽生:「……ふふ。そうだね、今は。……おやすみなさい、先生。……明日も、僕のこと、ちゃんと見ててね。……約束だよ?」
吐息混じりの声を、暗闇の底へ落とす。
羽生:「明日も、僕のこと、ちゃんと見ててね」
新城は答えなかった。ただ、羽生の声にわずかでも動悸を覚えた自分自身への、吐き捨てるような忌々しさを、短い溜息に混ぜて闇に溶かした。二人の間にある一メートルの虚無。それは新城にとって、羽生の狂気から自分を隔離するための、精一杯の防波堤だった。
暗闇に溶け出すインクの匂いと、かすかに残るスープの余韻。
互いの呼吸音だけが、交互に夜の底を叩いていた。二人は、その音に耳を澄ませたまま、それぞれが抱える孤独な熱に焼かれながら、吸い込まれるように深い闇へと沈んでいった。
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