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マリ・シンジュ

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寝落ち

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1. 居場所の定義

激しい余韻が、静まり返ったリビングに白く漂っている。羽生はそのまま暫く動かなかった。新城は羽生の胸に顔を強く押し付け、吹き荒れる嵐から逃れるように、その熱い体に全体重を預けていた。

午前中、大学の講義室で無数のレンズと悪意に晒されたその時から、新城の精神は限界まで磨り減っていた。だが、今の彼を支配しているのは絶望ではない。「効率的な遮断」への欲求だ。自らの重力を支える「自意識」を一時的にシャットダウンし、リソースの全振りを現状の維持に充てている。

新城:「……っ……このまま……誰にも……触れさせるな。……俺を、外に出すな……っ」

掠れた声は、疲弊というよりは、冷徹なまでの「検閲」に近い。数時間前、他者の視線に侵食され、公的に解体された彼にとって、羽生というたった一人の「毒」を選択することは、論理的な帰結だった。より強烈な肉の熱で雑音を焼き殺し、思考を強制終了させる。これは敗北ではなく、生存のための「冷酷な損切り」だ。

羽生は、新城の内腿――赤いリボンのタトゥーが刻まれた場所に掌を置き、その重みを確かめるように強く圧した。騒動で汚されたかもしれない聖域を、物理的な圧迫で「上書き」し、所有権を一方的に通告する。

羽生:「誰にも触れさせないよ。先生の熱は、全部僕が食べてあげる。……僕の隣にいることが、今のあんたにとって唯一の正解なんだから。先生をこんなふうに扱えるのは、世界中で僕だけだ」

その言葉を聞き、新城の強張っていた背筋が弛緩した。それは「安らぎ」ではなく、全人格を一時的に質に入れた人間が、肉体の維持を他者に丸投げした瞬間の、空虚な機能停止だった。

羽生:「……ここ、まだ熱い。さっきの余韻で、少し痛むでしょ。ねぇ、先生……汗でベタベタのままだと安らげないよ。シャワー浴びに行こう?」

羽生は新城の顎を強引に持ち上げ、逃げ場を奪うように自分の方を向かせた。その瞳は、獲物を完璧に仕留めた子供のような、無垢な残忍さに満ちている。

羽生:「僕が洗ってあげる。外の奴らの汚い視線も、僕がつけた汚れも全部。……あんたの肌に残るのは、僕の熱だけでいいんだ」

新城は鼻で笑う力すら残っていない。だが、その瞳の奥には微かな火が灯っている。数時間前に「脚を閉じろ」と命じられた時と同じ屈辱。彼はそれを回避するのではなく、「羽生という名の不衛生な治療」として受け入れることで、自らの尊厳の最後の一線を守り抜こうとしていた。

新城:「……ああ。……喉が渇いた。……水だ。……立てるようにしろ」

羽生は立ち上がりかけ、死人のように横たわる新城を見下ろす。

羽生:「すぐ持ってくるよ。でも、お水だけじゃまだ足りないでしょ? ……せっかくここまで一緒にいてくれたんだしさ、あんたが夢中になれるもの、僕の隣で見てみない?」

羽生:「いいよ、頑張らなくて。……じゃあ、『銀英伝』はどう? あの宇宙の壮大なスケールなら、あんたの頭も今すぐ日常を放棄できるでしょ。……ね、一緒に見ようよ。先生」

新城:「……今から、見るのか。……相変わらず、……正気とは思えん。……だが、いいだろう」

一瞬の逡巡。だが、今の彼にとって「思考」を続けることは、自分を惨めに刻み続ける刃でしかない。ラインハルトの銀河へ逃避することは、彼にとって現実からの「回避」ではなく、明日また戦うための「知的な防腐処理」だった。

羽生:「もちろん。朝までずっと、僕の隣でラインハルトを追いかけて。そうして、先生の理性が縛れない場所を、僕が全部作ってあげるから。……ねぇ、いいでしょ? 先生」

新城は小さく溜息をつき、視線を宙に漂わせたまま、自らに言い聞かせるように言った。

新城:「……勝手にしろ。……今の俺には、それが必要だ。……お前の要求に、乗ってやる」

新城にとって、この夜は決して「安らぎ」などではない。それは羽生という名の劇薬を血管に流し込み、自分を一度解体して再構築するための、過酷なプロセスだった。 プロジェクターが放つ冷たい青い光が、今の彼の、灰色の絶望を僅かに彩っていた。

2. 静止した星域

湯気の残る髪をタオルで押さえながら、新城が寝室に戻ると、羽生はすでにベッドの上で再生準備を整えていた。ディスプレイから放たれる銀河の青い光が、暗い室内を検体室のように照らしている。

羽生は振り返り、ベッドの端をぽん、と軽く叩いた。――来い、という、あの傲慢で癖のある合図。

新城:「……勝手に選ぶな。どのエピソードだ」

羽生:「ケンプが無茶をする回。先生はさ、こういう夜は“自分より先に限界を超える人間”を見てるのが一番落ち着くでしょ。……僕には隠さなくていいよ。ちゃんとこうして、付き合ってあげてるんだから」

羽生の視線が、新城の鎖骨を滑る水滴に吸い寄せられる。分析があまりにも的確で、新城は不快そうに眉を動かした。

新城:「……分析したつもりか。……他人の脳内を覗いたような気になるな」

羽生:「あんたの癖は、僕が世界で一番知ってる。……ほら、こっちおいでよ。先生」

低い声。差し出された指先は、狡猾なほどに優しい。新城は自らの意志でその隣へ身を沈めた。これは「妥協」ではなく、今の自分を最適化するための「配置」だ。羽生の指が、濡れた髪に差し入れられ、ゆっくりと頭皮を撫でる。その愛撫は、新城の防壁を壊すのではなく、「外側の鎧を預かる」ような重みを持っていた。

羽生:「触れてると落ち着くんだ。先生は“考える余裕”がなくなると、必ず無理する。……だから、僕がいるんだろ? 僕がいないと、先生は自分を壊しちゃうんだから」

新城:「……壊れはしない。……俺が壊れる時は、俺がそれを決めた時だ。……他人に壊されるほど、安いつもりはない」

羽生:「うん。だからそうなる前に、僕がこうやって支えてるんだよ。……愛してるからね」

腹立たしいほどの執着に、新城は息を吐く。自覚的な選択として、頭が羽生の肩に寄っていく。画面が輝き、戦術図が切り替わるたびに、新城の瞳には「教授」としての鋭利な理性が戻り始めた。

羽生:「……ほら、もう“仕事の顔”だ。先生のこういう瞬間、ほんと分かりやすくて好き。最高にそそるよ」

新城:「黙れ。……分析しているだけだ。……物語の構造を見れば、自ずと自分の位置も定まる」
羽生:「声がね、落ち着いてる。……大好きなんだよ、その温度。……ずっと、僕だけに聞かせてよ」

言われた瞬間、耳の先を僅かに赤らめる新城。劇中、ケンプが突撃を命じた瞬間、新城の呼吸が鋭くなった。

新城:「――待て。そこは……悪手だ。維持すべき均衡を……自ら捨ててどうする……っ。……死ぬぞ」

羽生:「呼吸、速いよ。無理しないで。……先生はさ、“戦ってる人間”を見ると自分を重ねちゃうんだから。……ねぇ、集中できなくなるからそんなに力入れないでよ。僕を煽ってるの?」

沈黙が肯定に変わる。要塞が沈みゆき、破滅の光が画面いっぱいに広がる。新城の肩が小さく震えた。

新城:「……結局、こうなる。……守るべきものが多すぎれば、こうして……砕けるしかなくなるんだ。……だが、俺は砕けるわけにはいかん」

画面に映る銀河の興亡。新城はそれを、自らの理性を維持するための「鏡」として眺めていた。

新城:(……ヤンが不自由な民主主義を捨てられなかったように、俺もこの『教授』という職責を手放すことはできない。たとえ、今日のように公衆の面前で無様に引き裂かれようとも、それは俺が背負うと決めた十字架だ……)

羽生はそっと額を新城の肩に寄せ、擦り寄るように甘く囁いた。

羽生:「そんな声、出さないで。先生が痛がると、僕まで痛くなる。……ねぇ、もういいよ。何も言わなくていい。……僕があんたを愛しているから、ここにいさせてあげてるんだよ」

それは「降りてきていい」という、残酷なまでの許可だった。 新城は羽生の肩に深く額を埋めた。これは弱さへの屈服ではない。知性が完全に戻り、再び「鋼の教授」として立ち上がる前の、「意識的な機能停止」だ。隣にいるこの狂気的な若者が、自分の呼吸を正確に測っていることを、彼は利用し、受け入れていた。

新城:「……少し……預ける。……今は、お前の体温を……効率的な熱源として定義する……」

言葉にしたのは、敗北の宣言ではない。明日、再び戦場へ戻るために必要な、最低限のメンテナンス。彼は隣り合う羽生の体温すらも、生存に必要な「部品」として強引に構造化し、自らの甘えを「戦略」という言葉で塗り潰し続けた。

数分もしないうちに、新城は深い眠りへと沈んでいった。羽生はその寝顔を覗き込み、ふっと、独占欲に満ちた笑みを浮かべる。

羽生:「……寝顔、反則。先生、眠る瞬間だけは、ほんと子どもみたいで可愛いな。……僕をこんなにイカせておいて、自分だけ先に寝ちゃうんだ?」

リモコンを取り、画面を一時停止する。銀河の青い光が、静止したまま二人を染め上げた。羽生は眠る新城の頬に指をなぞらせ、その額にそっと、吸い付くような口づけを落とす。

羽生:「ヤンは勝つけど……今夜、先生を守る役は僕だけ。……僕にしか、させないよ。……先生、助けてなんて言わなくていい。僕がここから抜け出せなくしてあげるから。……先生が“正常”に戻るのが、一番怖いんだからさ」

そして、羽生は新城の太腿――青い光に照らされた「赤いリボン」を、宝物を隠すように掌でしっかりと覆った。

羽生:「……おやすみ、先生。明日も、ずっと僕の真ん中にいてね」

銀河の光に満ちた静寂の中。 新城は「明日、再び戦うため」に目を閉じ、羽生は「明日、新城が自分から離れていくこと」を恐れて、その獲物の寝顔を凝視し続ける。 重なり合った呼吸の音は一つでも、見ている深淵は決定的に違っていた。その埋めようのない残酷な格差こそが、今の二人を繋ぐ、歪で強固な安らぎだった。
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