精神科医の自己欺瞞ー呪われた愛の記録ー【執着攻め×エリート受け】

マリ・シンジュ

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コンシーラーの嘘

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◆鋼の武装

​新城は、深緑色のシーツの上で覚束ないまま目を開けた。
朝日は容赦なくカーテンの隙間から滑り込み、部屋の隅に転がった割れた鏡の破片を鈍い光で照らし出している。

身体は鉛のように重く、腰の奥には鈍い痛みが居座っていた。昨夜、口内を汚したシルクの繊維感――その幻覚が、熱い吐息と共に甘ったるく蘇り、新城は顔を歪めてシーツに額を押し当てた。

​昨夜、自分は確かにあそこにいた。あの、名前のつけられない異常な熱の中に。
だが、目が覚めれば世界は平然と「朝」を用意している。その事実に、胃の奥がせり上がるような不快感を覚えた。

​隣に羽生の姿はない。残されているのは、微かな体温と、新城の理性を毟り取るような濃密な残り香だけだ。
新城は震える腕でゆっくりと身体を起こした。内腿のタトゥーが衣服の擦れを予感させるように熱い。その熱は、昨夜の羽生の指先が執拗になぞった記憶と直結し、脊髄をじわりと侵食していく。

​新城:「……っ、……ふぅ……」

​低い呼気が漏れた。それは怒りというより、制御不能な自らの肉体に対する、行き場のない戸惑いだった。
​バスルームへ向かい、鏡の前に立つ。
昨夜の屈辱を「なかったこと」にするのは、彼にとって敗北を意味した。起きた事象はすべて観測し、分析し、分類しなければならない。

それが彼の防衛本能だった。
​鏡の中の自分は、死人のように青白い。首筋には、羽生が縋り付くようにして残した紫の痕が鮮烈に浮かんでいる。新城はそれを、まるで他人の検視結果を確認するかのように、無機質な眼差しで見つめた。

​新城:「……単なる皮下出血だ。数日で消失する」

​己に言い聞かせる声が、微かに掠れている。
彼は冷水に近いシャワーを浴び、皮膚が赤くなるまで昨夜の痕跡を洗い流した。タトゥーが疼こうが、内側が熱を持っていようが、彼はそれを「一時的な炎症」として脳内のフォルダに放り込み、首筋の痕をコンシーラーで完璧に消し去った。

​リビングへ戻ると、羽生が既にテーブルについていた。昨夜の怪物とは程遠い、どこか所在なげな空気を纏って、じっと新城の出方を待っている。

​羽生:「……先生。おはよう」

​羽生の声には、勝者の愉悦よりも、新城の反応を伺うような微かな震えがあった。

​羽生:「……今日は、休めばいいのに。そんなに……急いで、どこに行くの」

​その「どこに行くの」という問いは、新城のプライドを抉る刃というより、自分だけを置いて「日常」に帰ろうとする新城を引き止めたい、必死の縋り付きに見えた。

​新城:「……大学だ。決まっているだろう」

​新城の言葉は短く、冷たい。だが、それは羽生を拒絶するためではなく、そう口にしなければ自分自身が立っていられないからだった。
​羽生は立ち上がり、シャツのボタンを留めようとする新城の背中にそっと手を伸ばした。背後から包み込むその腕は、昨夜のように力強くはない。

​羽生:「先生……。無理だよ。だって、まだ……」

​新城は羽生の腕を、拒絶というより「事務的な排除」のような手つきで解いた。

​新城:「……コーヒーを淹れろ。濃いやつだ。……それと、片付けをしておけ」

​それは羽生を「教え子」という元の枠組みに押し戻すための、必死の命令だった。
苦いコーヒーを胃に流し込み、新城は音を立ててカップを置いた。その衝撃で内腿に走った鋭い鈍痛に、眉間を微かに寄せたが、すぐに鉄の仮面を被り直す。

​新城:「……行くぞ」

​一歩を踏み出した瞬間、スラックスの生地がタトゥーの「目」を撫でた。
その瞬間、脳内で昨夜の熱い舌の感触がフラッシュバックする。肌に刻まれた「目」が、衣服を透かして自分を監視しているような錯覚。

​新城:「……っ……」

​一瞬、膝の力が抜けかけた。だが、彼は玄関の壁を掴むことさえ自分に禁じた。
代わりに、彼は眼鏡を外し、レンズを極限まで丁寧に拭き始めた。視界を「正解」に整えれば、この不確かな眩暈も消し去れると信じるかのような、強迫的な足掻き。
​再び眼鏡を掛けると、新城の瞳には「教授」としての峻厳な光が戻っていた。

​新城:(……成立させろ。これは俺が管理すべき、一時的なシステムエラーに過ぎない)

​スマホの画面を見ることはなかった。休講を知らせる指など、今の彼には存在しない。
ここで一歩でも退けば、自分は二度と「新城」として教壇に立てなくなる。

​新城:「……行ってくる」

​背後で、羽生が小さく息を呑む音がした。

​羽生:「……いってらっしゃい、先生。……誰にも、見られないようにね」

​羽生のその言葉は、昨夜の「封印」を静かに突きつける共犯者の囁きだった。
​大学へ向かう電車の中、新城は完璧な姿勢で座っていた。膝の上で鞄を持つ指は、一ミリも震えていない。
しかし、彼の内側では、羽生が刻み込んだ「赤」が、心臓の鼓動に合わせて熱く、淫らな脈動を繰り返している。

​新城は、自らの魂に鉄格子をはめるように、思考を遮断した。
彼が向かうのは、教壇という名の、最後にして唯一の、自己を維持するための「戦場」だった。

◆聖域の侵食

​大学病院の診察室。そこは、新城にとって論理だけが支配するはずの聖域だった。
隣の処置室からは、看護師が電子カルテを操作する微かなタイピング音が聞こえてくる。完全に隔絶されているわけではない、その「他者の気配」こそが、今の新城を辛うじて「教授」の形に繋ぎ止めていた。

​白衣を纏い、眼鏡を正す。コンシーラーで塗り潰した首筋の痕跡は、鏡で見ても完璧に消えていた。
だが、デスクに深く腰を下ろした瞬間、座面に押し付けられた内腿が、衣服越しに異質な熱を帯びる。

​新城:(……雑音だ。診断価値はない)

​彼は自らに冷酷な診断を下し、次の患者を招き入れた。

​患者:「先生……私、また自分のことが汚く思えて……。誰かに触れられると、自分が自分でなくなるような気がして、怖いんです」

​彼女が切実な声で語る言葉が、鋭い氷の礫となって新城を射抜く。
かつてなら即座に返せたはずの言葉が、喉元でつかえる。洗浄したはずの内部が、彼女の言葉に呼応するように軋み、神経を逆撫でした。
​その時、患者が耐えきれずに嗚咽を漏らし、顔を覆って泣き出してしまった。

​患者:「……ごめんなさい、先生……。こんな醜い話、先生みたいな綺麗な人に……聞かせるべきじゃないのに……っ」

​新城の指先が、目に見えて強張った。
デスクの下で膝を固く閉じる。その拍子に、スラックスがタトゥーの「結び目」を強く圧迫した。
泣きじゃくる彼女の姿に、昨夜、羽生の腕の中で、プライドも理性も翻弄されていた自分自身の残影が重なり、胸の奥を焦らす。

「綺麗な人」。
――その分類に他者から押し込められた瞬間、彼は医師としての無機質な透明さを失いかける。
​看護師が患者にティッシュを差し出す横で、新城は石像のように静止していた。動けば、内側の「熱」の存在を自ら認めてしまうという、忌々しい予感。
新城は、卓上のカルテを握りしめる指先に力を込め、あえて感情を排した声を出した。

​新城:「……泣くことは恥ではありません。私は貴方の苦痛を否定しません」

​新城は視線を落とし、震えそうになる喉を無理やり抑え込んで続ける。

​新城:「焦る必要はありませんが、放置する理由もありません。変えられるかどうかは貴方が決めることです。私は……必要な選択肢を提示するだけです」

​「私は診ると決めた患者から目を逸らさない」――そのかつての矜持を、今の彼は言葉にする代わりに、万年筆を置いて診察の終了を告げる動作に込めた。

​新城:「……今日はここまでにしましょう。次に来る時は、話せる範囲で構いません。ただ、自分の心に隠し事をする準備だけは、してこないことです」

​淀みなく放たれたその言葉は、彼がこれまでのキャリアで幾度となく使ってきた定型句だった。だが、今の彼には、それが自分自身を裁く判決文のように聞こえた。
​背後で看護師が、新城の様子を伺うように微かに動く。
教授の様子が、どこかいつもと違う――だが、それが何なのかを、誰も言語化できずにいた。

​新城は、自らの神経を無理やり氷点下まで冷却した。
患者の嗚咽、看護師の視線、そして内側からせり上がる羽生の残影。それらすべてを「教授」という仮面の下に押し込み、彼は一分の隙もない診断を下し、彼女を送り出した。

​看護師が「先生、お疲れ様でした。今日は少し顔色が……」と言いかけるのを、「問題ない。午後の会議の資料を整理しておく」と冷たく制し、彼女を下がらせた。
​ドアが閉まり、廊下の足音が消える。
カチャリ、と診察室の内鍵をかけた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、悲鳴を上げるように軋んだ。

​新城:「……ッ、……ふぅ、……」

​彼はデスクに体重を預け、震えそうになる膝を辛うじて支えた。
身体の洗浄は完璧だったはずだ。それなのに、神経が、あの侵食を「終わったこと」として処理することを拒絶している。

​羽生:『先生……先生のナカ、熱すぎるし……すごくキツい……』

​脳裏に、昨夜の羽生の掠れた声が、呪文のように蘇る。
「綺麗な人」と呼ばれた自分が、今、この密室で、自分を蹂躙した若者の残した感覚に、喉を不自然に震わせている。

​新城:「……馬鹿げている。……あり得ないだろう」

​椅子に深く身を沈め、冷たいデスクの端を指先が白くなるまで握りしめる。
何が起きているのか、彼は分析しようとして――そして、止めた。これ以上論理的に解釈しようとすれば、先ほど救おうとした患者の言葉さえ、自らの内側にある「汚れ」で塗り潰してしまいそうだったからだ。

​彼は独り、誰にも見られない静寂の中で、震える呼吸を必死に整えた。
「自分はまだ、教授として成立している」。
その一点だけを死守するように、彼は再び眼鏡のブリッジを押し上げた。

◆静かなる代償

​診察室の床で浅い呼吸を繰り返し、嵐が過ぎるのを待つこと数分。新城は、震える手でデスクの縁を掴み、再び立ち上がった。
鏡を見るまでもない。今の自分は、先ほどの患者が口にした「綺麗な人」という分類から、明らかに逸脱している。彼は機械的な動作で白衣の皺を伸ばし、予備のコンシーラーで首筋の痕跡を執拗なまでに塗り潰した。

​新城:(……動け。俺が崩れれば、誰が彼らを導く) 

​彼は「教授」という呪縛を自らに課し、午後のゼミへと向かった。
​12月末のこの時期、医局は殺伐としている。2月末に開催される学会への演題登録(アブストラクト)の締め切りが数日後に迫っているからだ。教授である新城には、自分の招待講演の準備だけでなく、医局員や学生たちが提出する抄録をすべてチェックし、磨き上げる重責があった。

​研究室には、研究生の林が待っていた。彼が差し出した予稿原稿は、論理の甘い、到底受理されるレベルではないものだった。
​普段の新城なら、ここで冷徹な、しかし極めて的確な指導を行う。

だが、今の彼は、文字を追うだけで視界が微かに歪み、内腿のタトゥーが衣服に擦れるたびに、昨夜の出来事が、認知処理を阻害する残留刺激として脳裏をよぎる。精神的なエネルギーは、もはや底をつきかけていた。
​それでも、彼は林を切り捨てなかった。

​新城:「……この先行研究の解釈が浅い。統計手法も再考しろ。……赤を入れた。今すぐここで修正しなさい。私が横で見ている」

​林:「えっ、先生、今からですか? お忙しいのに……」

​新城:「学会に妥協は許されない。……やるんだ」

​新城は、自分の限界を無視して、林の指導という「義務」を優先した。それは彼にとっての正義であり、「教授・新城」という機能を維持するための、最後の防壁だった。

一時間、二時間。彼は激しい眩暈と吐き気をこらえ、林の論文を完璧な形へと叩き直した。
​林が「ありがとうございました! 先生のおかげで、最高の原稿になりました」と深々と頭を下げて去ったとき、時刻はすでに18時を回っていた。

​一人になった瞬間、新城はデスクに崩れ落ちた。
指先は冷え切り、過度の緊張からくる冷や汗が背中を濡らしている。学生の前で「完璧な教授」を演じきるために、彼は今日使うはずだった全エネルギーを使い果たしてしまった。

​新城:(……これ以上は、一文字も書けない)

​もはや、自分の講演原稿に向き合う気力さえ残っていない。脳が強制終了を求めていた。
その沈黙を破るように、スマートフォンが一度だけ、震えた。
​羽生からの通知。

​『先生、お疲れ様。……最後まで“いい先生”でいようとして、ボロボロになっちゃったね。林くんを帰したあと、一人でデスクに突っ伏してる姿が目に浮かぶよ。
……19時には帰ってきて。先生を一番よく知ってる僕が、ちゃんと“整理”してあげるから。』

新城は、画面を凝視した。
羽生は、新城が「何があっても学生を見捨てないこと」を知り尽くしている。だからこそ、その「高潔さ」を利用して、彼が最も疲れ果てる時間を完璧に言い当てたのだ。

​新城:(……状況は、想定の範囲内だ)

​無視してここで倒れるまで仕事をするか、あるいは。
今夜、羽生に従い、物理的な静寂を得ることで、明日の「教授としての自分」を繋ぎ止めるか。
新城は、自らの震える指を見つめ、それを冷酷に「必要経費」として計上した。

​新城:『……今から出る。19時には戻る』

​送信。
それは、明日の聖域を守るために、今夜の自分を対価として支払うという、彼なりの合理的な決済だった。
​彼はゆっくりと立ち上がり、学会資料を鞄に詰める。
新城はまだ、自分が「負けた」とは思っていない。だが、鞄を閉じる音は、思考の取捨選択を終えたというより、“切り捨てる余地そのものがなくなった”ことを告げる、内部処理完了の音のようにも聞こえた。
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