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消えない徴(しるし)
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湯気に満ちた浴室は、まるで世界から切り離された二人の密室だった。
羽生は浴槽に身を沈め、湯面を手のひらでゆっくりとなぞる。静寂の中に反響するのは、心地よくもどこか官能的な水の音だけだ。
正面の洗い場では、新城が椅子に腰を下ろし、自身の内腿を執拗に洗っている。
そこには、羽生が「タトゥーの下書きの練習ですから」と強引な言い訳をして書き込んだ、赤い水性ペンの跡があった。
羽生は湯気に目を細め、新城の背中のしなりを眺める。
シャワーの熱い湯を浴び、石鹸の泡が肌を滑るたび、鮮やかだった赤がじわりと滲み出した。それは薄紅色の筋となって、陶器のように白い肌を伝い落ちていく。
その赤が足元へ流れ落ちる光景は、まるで新城という理知的な存在が、羽生の独占欲によって侵食され、甘く溶け出しているかのようで、ひどく扇情的だった。
「そういえばさ、先生。語学サークルにフランス人の学生がいるんだけど」
羽生の声は、湿り気を帯びて低く、どこか楽しげに響く。
新城はシャワーの手を止めなかった。滴る水音が、静寂をいっそう際立たせる。
「……へえ、そうなのか」
素っ気ない返事。だが、羽生はその背中がわずかに硬くなるのを見逃さなかった。
「彼、綺麗な薔薇のタトゥーを入れててね。この前、僕にだけその意味を教えてくれたんだ。肌に直接、熱が閉じ込められているみたいで……すごく、惹きつけられたよ」
タオルを動かす新城の手が、ぴたりと止まる。鏡越しに一瞬だけ、二人の視線がぶつかった。
新城の内腿では、羽生が描いた無骨な線が、湯に打たれて今にも消えようとしている。新城はそれを消し去ろうとするように、指先で強く、肌が赤らむほどにこすり上げた。
「彼、本国に彼氏がいるらしいんだけど。でも、僕にだけは秘密を明かしてくれるんだ。僕の顔をじっと見て……僕がどう反応するか、楽しんでるみたいだった」
新城がふっと、短く鼻で息を吐いた。タオルを握る指先に力がこもり、浮き出た関節が白く染まる。
羽生は浴槽の縁に腕を乗せ、新城の無防備な項をゆったりと見つめながら、さらに言葉を重ねた。
「でも安心してよ。彼は完璧な『タチ』だから。僕が彼に……先生にしてるみたいに、乱されたりすることなんて、絶対にないから」
そこで言葉を切り、羽生は唇の端を少しだけ上げた。
挑発に耐えかねたように、新城はゆっくりと振り返る。濡れた前髪を指先で無造作に掻き上げ、顔にかかる雫を払った。
鎖骨の窪みに溜まった雫が、一筋、胸元へ滑り落ちていくのを隠そうともせず、新城は羽生の視線を真っ向から受け止めた。その瞳には、教え子の幼稚な嫉妬への苛立ちと、それを上回るほどの剥き出しの熱が混ざり合っている。
「……お前、ほんとに」
一呼吸。重い沈黙が流れる。
「場所と、言葉を、選べと言ったはずだが」
低く落ち着いた声。だが、新城の喉仏が大きく一度だけ上下した。羽生は獲物を追い詰めた獣のように、満足げに目を細める。
「だって、先生のほうがずっといい。僕が触れたあとの反応も。その声も。……あんな薔薇なんかより、僕が描いた線が、先生の肌の上で溶けていくのを見てる方が、僕は、ずっと……」
言い切る前に、新城が立ち上がった。
水音を立てて歩み寄り、羽生のすぐ傍で膝をつく。湯気に濡れた羽生の頬を、新城の熱い手のひらが強引に包み込んだ。
指先は、羽生の肌を逃さないよう力強く捉えている。そのまま耳元に顔を寄せ、唇が触れるかどうかの距離で動きを止めた。
「……俺がその薔薇より『いい』のかどうか」
耳を焼くような、熱を帯びた囁き。
「お前のその手で、明日の朝まで……しっかり確かめておけ。……講義より、ずっと身につくはずだ」
新城の親指が、羽生の唇をゆっくりと、押し潰すように一度だけなぞった。
石鹸の香りと、新城自身の体温。
彼はそのまま、羽生の反応を待たずに立ち上がり、一度も振り返ることなく浴室を後にした。
残された羽生は、浴槽の中で動けずにいた。
鼻腔に残る、新城の残り香。唇に残った、親指の固く熱い感触。
新城が去った後の浴室は、先ほどよりも一層湿度が上がったように感じられた。
洗い場に目を向けると、新城の足元にはもう、赤い線の跡はどこにも残っていない。
すべて綺麗に洗い流され、清廉な「教授」の肌に戻っている。
だが、羽生は知っている。
本物の針によって二人の肌に刻まれる「消えない徴」よりも先に、今夜、もっと熱く深い証が自分たちの間に刻まれることを。
逆上せそうな熱気の中で、羽生は新城の潤んだ瞳と、去り際のあの低い声を、何度も深く反芻していた。
羽生は浴槽に身を沈め、湯面を手のひらでゆっくりとなぞる。静寂の中に反響するのは、心地よくもどこか官能的な水の音だけだ。
正面の洗い場では、新城が椅子に腰を下ろし、自身の内腿を執拗に洗っている。
そこには、羽生が「タトゥーの下書きの練習ですから」と強引な言い訳をして書き込んだ、赤い水性ペンの跡があった。
羽生は湯気に目を細め、新城の背中のしなりを眺める。
シャワーの熱い湯を浴び、石鹸の泡が肌を滑るたび、鮮やかだった赤がじわりと滲み出した。それは薄紅色の筋となって、陶器のように白い肌を伝い落ちていく。
その赤が足元へ流れ落ちる光景は、まるで新城という理知的な存在が、羽生の独占欲によって侵食され、甘く溶け出しているかのようで、ひどく扇情的だった。
「そういえばさ、先生。語学サークルにフランス人の学生がいるんだけど」
羽生の声は、湿り気を帯びて低く、どこか楽しげに響く。
新城はシャワーの手を止めなかった。滴る水音が、静寂をいっそう際立たせる。
「……へえ、そうなのか」
素っ気ない返事。だが、羽生はその背中がわずかに硬くなるのを見逃さなかった。
「彼、綺麗な薔薇のタトゥーを入れててね。この前、僕にだけその意味を教えてくれたんだ。肌に直接、熱が閉じ込められているみたいで……すごく、惹きつけられたよ」
タオルを動かす新城の手が、ぴたりと止まる。鏡越しに一瞬だけ、二人の視線がぶつかった。
新城の内腿では、羽生が描いた無骨な線が、湯に打たれて今にも消えようとしている。新城はそれを消し去ろうとするように、指先で強く、肌が赤らむほどにこすり上げた。
「彼、本国に彼氏がいるらしいんだけど。でも、僕にだけは秘密を明かしてくれるんだ。僕の顔をじっと見て……僕がどう反応するか、楽しんでるみたいだった」
新城がふっと、短く鼻で息を吐いた。タオルを握る指先に力がこもり、浮き出た関節が白く染まる。
羽生は浴槽の縁に腕を乗せ、新城の無防備な項をゆったりと見つめながら、さらに言葉を重ねた。
「でも安心してよ。彼は完璧な『タチ』だから。僕が彼に……先生にしてるみたいに、乱されたりすることなんて、絶対にないから」
そこで言葉を切り、羽生は唇の端を少しだけ上げた。
挑発に耐えかねたように、新城はゆっくりと振り返る。濡れた前髪を指先で無造作に掻き上げ、顔にかかる雫を払った。
鎖骨の窪みに溜まった雫が、一筋、胸元へ滑り落ちていくのを隠そうともせず、新城は羽生の視線を真っ向から受け止めた。その瞳には、教え子の幼稚な嫉妬への苛立ちと、それを上回るほどの剥き出しの熱が混ざり合っている。
「……お前、ほんとに」
一呼吸。重い沈黙が流れる。
「場所と、言葉を、選べと言ったはずだが」
低く落ち着いた声。だが、新城の喉仏が大きく一度だけ上下した。羽生は獲物を追い詰めた獣のように、満足げに目を細める。
「だって、先生のほうがずっといい。僕が触れたあとの反応も。その声も。……あんな薔薇なんかより、僕が描いた線が、先生の肌の上で溶けていくのを見てる方が、僕は、ずっと……」
言い切る前に、新城が立ち上がった。
水音を立てて歩み寄り、羽生のすぐ傍で膝をつく。湯気に濡れた羽生の頬を、新城の熱い手のひらが強引に包み込んだ。
指先は、羽生の肌を逃さないよう力強く捉えている。そのまま耳元に顔を寄せ、唇が触れるかどうかの距離で動きを止めた。
「……俺がその薔薇より『いい』のかどうか」
耳を焼くような、熱を帯びた囁き。
「お前のその手で、明日の朝まで……しっかり確かめておけ。……講義より、ずっと身につくはずだ」
新城の親指が、羽生の唇をゆっくりと、押し潰すように一度だけなぞった。
石鹸の香りと、新城自身の体温。
彼はそのまま、羽生の反応を待たずに立ち上がり、一度も振り返ることなく浴室を後にした。
残された羽生は、浴槽の中で動けずにいた。
鼻腔に残る、新城の残り香。唇に残った、親指の固く熱い感触。
新城が去った後の浴室は、先ほどよりも一層湿度が上がったように感じられた。
洗い場に目を向けると、新城の足元にはもう、赤い線の跡はどこにも残っていない。
すべて綺麗に洗い流され、清廉な「教授」の肌に戻っている。
だが、羽生は知っている。
本物の針によって二人の肌に刻まれる「消えない徴」よりも先に、今夜、もっと熱く深い証が自分たちの間に刻まれることを。
逆上せそうな熱気の中で、羽生は新城の潤んだ瞳と、去り際のあの低い声を、何度も深く反芻していた。
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