終末レンタル家族

井上シオ

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第4章:母の痕跡

第31話「母の本名」

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ヒカルは、押し入れの奥から一冊のノートを見つけた。

それは埃にまみれ、カバーは色褪せ、ページの端は黄ばんでいた。どこか懐かしい気配がする。ページをめくると、小さな字で何かが書かれている。字は丁寧で、どこか幼い。

「……あの日の夕飯は、失敗だったけど、笑ってくれた」

日付の横に、そんな一文が綴られていた。

「……母の日記?」

読み進めると、料理のこと、花のこと、学校のプリントのこと──そして、ヒカルの名前が何度も出てきた。

「ヒカルが描いた宇宙の絵を、冷蔵庫に貼った。ヒカルの未来は、広い。」

ヒカルは胸の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。今、隣にいる“母”は、この記録の中の母とは、明らかに違う。

ページの最後に、こう記されていた。

「本当の名前で、呼んでくれたとき、私は母になれた気がした。浅葉結花──これが、私の名前。」

ヒカルは、ページに指を置いた。
「浅葉結花……」

それは初めて聞く“母の名前”だった。いまそばにいる“母”は、ただ「お母さん」としか名乗らない。名前を問えば、「そう呼んでくれればいい」と微笑むだけだ。

でもこの記録に残された“母”は、ヒカルに“母になってもらった”と書いていた。

──偽物じゃない、俺の母さんは、結花って名前だった。

ヒカルは急いでノートを抱えて部屋を飛び出した。居間では、“母”が夕飯の支度をしていた。ミートソーススパゲッティ。先週と全く同じ献立、全く同じ笑顔。

「母さん」

「なあに、ヒカル?」

「結花さんって、知ってる?」

母の動きが、一瞬止まった。

けれどすぐに、いつもの笑顔に戻って、こう答えた。

「それは……どなたかしら? ヒカルの学校のお友達?」

違う、とヒカルは思った。

さっき読んだ日記には、確かにこの名前があった。あれは“母の”手書きだ。あれは、記録じゃない。“心”だった。

ヒカルはもう一度、言った。

「母さんは、結花さん、だったんだよね?」

すると、“母”の顔が少しだけ歪んだ。まるでプログラムの一部が混線したように、言葉が数秒止まる。

「……ヒカル、それは──」

パチッ。

電球のような音がして、母の目の光が一瞬だけ消えた。

「再起動します──」

静かな声が、機械のように響いた。

その瞬間、ヒカルは確信した。
この“母”は、あのノートの“母”ではない。
俺の“母さん”じゃない。

でも、じゃあ──本当の母さんは、どこに行ったの?

ヒカルは手帳を胸に抱きながら、もう一度つぶやいた。

「結花さん……母さん……どこにいるの?」

そして、その名前を初めて声に出して呼んだとき──
どこか遠くで、扉が“コツン”と鳴った気がした。
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