影武者の天下盗り

井上シオ

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最終章:偽りの果てに咲く

第91話:語られざる記録

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「……おかしいと思わんかね? 本能寺の遺体が見つからんなどと」

 その老人は、京のとある茶屋で語り始めた。名を「五郎左衛門」という。かつて織田家に仕え、信長本人に何度も膝をついたことがあるという。

 腰は曲がり、目は濁り、声もかすれている。

 だが、彼の語る言葉には、奇妙な重みがあった。
 

「わしは見たんじゃ……本物の信長公は、あの夜、炎の中を自らの足で歩いて逃げおおせたと。影武者ではない。あれは……まさしく殿だった」

「じゃあ、今の“信長”は……?」
 

 聞いていた若者が息を呑む。

 茶屋にいた客たちも耳をそばだてるが、誰も大きな声では語らない。

 信長は生きている――そんな言葉は“謀反”に繋がりかねない時代だ。
 

「ふふ……面白いことになっておる。皆、目の前におる“信長様”を信じて疑わぬ。だが……記録だけが真実を語るとは限らぬぞ」
 

 そう言って、五郎左衛門は懐から一冊の古い帳面を取り出した。

 “信長公実録”と筆で書かれたそれは、かつて本物の信長が残した日記の写しだという。
 

「この中に……真実がある。だが、それを読んだ者は、きっと迷うことになるじゃろう。“誰を信じるのか”とな……」
 

 その夜、その帳面は盗まれた。

 誰が盗んだのか、なぜか、誰にもわからなかった――ただ一つ。

 それが、再び“影武者”の元へと戻ったということ以外は。
 

 十兵衛は、闇の中でその帳面を開いた。

 そこに綴られていたのは、奇妙なほど人間味のある“信長”の声だった。
 

 ――女が怖い。政が面倒だ。弟が嫌いだ。だが、俺は天下を取る。
 

「……本物は、案外、凡庸だったのかもしれん」
 

 十兵衛はそう呟きながら、そっと帳面を閉じた。
 

「ならば、俺は……あの男以上の“信長”になるしかない」
 

 その瞬間――彼の中で“信長”と“十兵衛”の境が、また一つ消えた。

 血ではなく、生き方で名を刻む。記録ではなく、記憶で支配する。
 

 “影”が、“歴史”を奪いはじめていた。
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