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第一章 虎殺しの少女

第一章 虎殺しの少女 二

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 虎の口元はすでに、赤黒く染まっていた。前足も同じである。
 あの太く強靭な前足で獲物を押さえつけ、牙で引き裂いたのだろう。
 血は、喰われたという下男のものに違いなかった。

 咆哮ほうこうなどは上げぬ。だがその牙をき出して、低く唸る声が聞こえた。

 下草が、また踏みしめられた。
 虎は一歩、また一歩、悠然と歩を進める。

 伽羅は慣れた手つきで矢をつがえると姿勢を正した。
 怯えることもなく、さがることも無く、虎の瞳を真っ向から見返す少女に、迷いは見られない。

 やがて弦からは矢が放たれた。
 矢は見事、巨虎の眉間を射抜いていた。
 それでもしばらくの間、虎は伽羅を睨み続けていたが、やがて、どう、と地に倒れた。

「ひぃ……虎が……虎が姫様を」

 むしろ『姫様が虎を』なのだが、怯え切った下女の頭は上手く回転していない。
 腰を抜かした下女の鋭い叫びに気付いた男どもが、武具を手に次々と駆けつけてきた。

「姫様、これは……!!」

「いや、まさかこのような……!!」

「信じられぬ。いかに姫様とて……!!」

 男たちが虎を見て、その次に伽羅をうかがい見て驚愕の表情を浮かべる。

「我が家の下男を喰べたそうですわね。ですから、成敗しておきました。
 虎の世話係には確か老いた父母が居たはずです。せめて父母がこれからも暮らしに困らぬよう、これを差し上げて欲しゅうございます」

 駆けつけてきた老家人けにんに差し出したのは、卓に置き去りとなっていた読みかけの書である。
 いつの間にやらくるくると巻き取られ、しっかりと紐が結ばれていた。
 下女が腰を抜かしている間に素早く整えたに違いない。

「それは姫様の大切なご本ではございませぬか」

 当時は印刷機などないうえに、紙そのものがそれなりに高価であった。
 老家人が慌てて拒む。

「もう何度も読んで、覚えてしまいました。
 不要です。売れば当面の生活費には困らないでしょう。
 足りなくなったなら、また次の本を差し上げます」

 そう言って伽羅は家人に本を押し付けた。

 間もなく屋敷の女たちも現れて姫のもとに駆け寄り、男たちは虎を囲んでひとしきり騒ぐと、その巨体をいずこともなく運んで行った。

 秋風だけが元通り、何事も無かったように吹き抜けていった。
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