上 下
3 / 116
第一章 虎殺しの少女

第一章 虎殺しの少女 三

しおりを挟む
「伽羅! 無事か!」

 運ばれていく虎の行方を見やる少女のもとに飛び込んできたのは、北周王朝の太保たいほ独孤信どっこ しん。つまり、彼女の父である。
 手には大剣。もはや役立つ機会を完全に逸してしまってはいるが、息を切らせて駆け込んできた。

 太保というのは官職の一つで、皇帝をそば近くで助け、導くことを仕事とする。重臣中の重臣であった。
 独孤信はこの時すでに五十歳を超えていたが、まだまだ壮健で、伽羅は彼の七女として生まれている。

 この独孤信、伽羅の父だけあって、かつては美形の名を欲しいままにしていた。
 例えばこんな逸話が『北史』『周書』に残されている。

 ある若き日のこと。独孤信は狩りに手間取り、日が暮れてきたので慌てて城に帰ろうとした。
 そのとき被っていた冠(帽子に近い被り物)がみっともなくずれたが、気付かずに城まで駆け戻ってしまった。
 しかし、それを見た城の男たちが、

「あの(お洒落で美しい)独孤将軍がそうされているのだ。
 きっと冠は斜めに被るのが(最新の)流行なのだ」

 と口々に言いたて、彼のようにモテようとたくらんだのか、それを真似て一斉に斜めに被るようになったという。
 彼がいかに抜きん出た美形だったかわかろうというものだ。

 そんな伽羅の父は、今もその頃の名残を留めており長身にして見目も良い。

「まあ、お父様、お久しゅう。休沐日(五日に一度ある休暇)だというのにお姿をお見掛けいたしませんでしたので、何か危急の用でも入られたのかと思っておりましたわ。
 それにしても……相変わらずお洒落ですこと。
 でも慌ててこちらに駆けていらしたというのに、冠はもう、斜めには被っていらっしゃらないのですね」

 にっこりと麗しく微笑む娘を見て父は嘆息した。

「なんだそれは。嫌味か。
 高官ともなれば戦場を駆けるにも街に出るのにも、それなりでなければならぬのだ。
 お前こそ高官の娘としてもっとしっかり飾り立てぬか。またもやそんな粗末な麻衣など着おって。
 いや……そんなことより、虎が出たのだぞ?
 たまには娘らしく『キャー』とか『怖い』とか言って、泣いて見せれば可愛げもあるものを。
 これでは嫁の貰い手がないやもしれぬの。うっかり外に知られぬように、今日のことは堅く秘するよう、者どもに伝えておかねばならぬなぁ」

 そう言って二度目のため息をつく父を、伽羅は微笑んで見つめた。

「あら? 幼少の頃より馬にまたがってお父様と共に狩りにいそしんだわたくしが、虎ごときで『キャー』などと言うものですか。
 馬上での速射に比べれば、平地での射殺など簡単なことでしたわ。

 お姉さま方のご縁談も次々と良家にお決まりあそばされましたから『気に入る伴侶が見つからぬなら、実家で一生自由に過ごしても良い』とおっしゃっていらしたではありませぬか。
 嫁になど行けなくとも、一向にかまいませぬ」

 その言葉に父は三度目のため息を吐く。

 この時代はまだ纏足てんそくが普及していなかったので、女でも闊達な者はそれなりにいた。
 女だてらに武芸をたしなむ者も居たし、家長が許せば狩りに行くことも可能であった。

 まして伽羅は『北方騎馬民族』の血を色濃く引く少女である。
 時代が下り、定住生活を送ってはいるが、狩りは祖先から受け継いだ血のたぎる趣味のひとつであったのだ。

 さて伽羅の言った通り、父はこの、とりわけ優れた娘を一生手元に置いていても良いと考えていた。
 つまり、とても甘かったのだ。

 独孤信は若い頃、功を立てることに必死で妻子を大切にすることが出来なかった。
 いや、大切にするつもりはあったのだが、時代がそれを許さなかった。

 彼が、窮地にある主君・孝武帝を救うために単騎で駆けつけたという話はすでに有名である。
 しかし妻子は東魏に残していたため高氏の虜囚となり、ついに取り戻すことは出来なかった。

 彼はそれをずっと悔やみ続けていたのだ。
 伽羅は、その後に父が娶とった崔氏の子で、それはそれは大切にされている。

 ちなみに中国の女性は古来より、結婚しても実家の姓を名乗る。
 伽羅の母、崔氏は貴族の家柄ではあったようだが『崔家の女性』ということしかわからず、名は伝わっていない。

 しかし『容姿が端麗である』と史書にも残され『古代中国十三美男』にも数えられている独孤信の妻であるからには相当に美しかったに違いない。

 そんな二人の間に生まれた娘たちは、程度の差こそあれ、皆それぞれに美しく、次々と良家に嫁いでいった。





しおりを挟む

処理中です...