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もういいかい?もう、いいよ。
秋の夕暮れと、商店街と、旬の姿秋刀魚と
しおりを挟む「……あの」
静かに涙する唯子の肩を抱いていた俺に、声がかかった。邪魔をするなとばかりに振り向く。すると、まゆを下げたカフェ店員と目が合った。
「あ、」
「あの、ほかのお客様に……」
「申し訳ない。唯子、出れるか?」
「……は、い」
了承の返事と、ずずっと、鼻をすする音が聞こえた。しかし、唯子はその場から固まったように動いてくれない。俺は急いで荷物を取りに行き、支払いを済ます。固まってしまった唯子を引きずるように、俺たちはカフェを後にした。
外に出ると、先ほどより陽が傾いていた。暑さを感じていたのが嘘のようだ。空気が冷く乾燥していた。風が吹くたびに俺の頬をぴりぴりと刺激した。
「ユイ、車少し遠いんだ。歩け……」
「せんせい」
停めた駐車場に向かおうとした俺の裾を、唯子に掴まれた。一歩踏み出した足が、空中をさまよい、地面への着地を求めた。
「っと、と」
「この近くに、おばあちゃんとよく行った商店街があるんです。そこで、買い物をしていきませんか?」
縋るような瞳で、唯子は俺を見上げた。随分と幼く見えた。
一も二もなく、俺は頷いた。
先程から、俺を呼ぶ名が『先生』となっていること。いつもは『祖母』と言っていたが、おばあちゃんとなっていること。
今、俺の目の前にいるのは、主任看護師で俺の彼女である唯子ではないのかもしれない。
十年前、ひとりぼっちになった唯子がいるような気にさせられた。
頬を紅潮させて、どこか興奮した様子が見られる。
何か、ケジメをつけたいのなら、とことん付き合おうじゃねえか!
白く柔らかい手に引かれながら、俺はそう思った。
唯子のすぐ、というのは間違いではなかった。歩いて五分。アーケードに囲まれた商店街が目の前に現れた。商店街の寂れが嘆かれる中、人の声が沢山聞こえ、珍しく活気づいている印象だ。夕方ということもあって、特に賑わっているように思えた。
「せんせい、ここの佃煮やさん美味しいんですよ。おばあちゃんのご贔屓はくぎ煮で、私はきゃらぶきが好きです」
「せんせい、ここの金物屋さんで買ったお鍋はまだまだ現役なんですよ」
「ここのお花屋さんで、父と母の仏壇に供えるお花を買っていました」
せんせい、せんせい、と唯子があちこちの店を指さす。
俺の腕を引き、唯子が一歩先に行く。色々なお店の紹介をしながら、楽しそうに笑顔を見せていた。俺は、相槌を打ちつつ唯子の調子に合わせる。
楽しそうで良かったと思っていた時だった。 通りの中央付近で唯子の歩みが止まった。
「どうした?」
「……あ、そこの……」
唯子が指差した先に、魚屋があった。
何の変哲もない魚屋に俺は思えた。しかし、唇が震わせ、言葉がうまく出ない唯子の様子からただの魚屋でないことは容易に伺えた。体温を感じられる距離まで、俺は唯子に身体を寄せる。
すると、力なく唯子が俺に寄りかかかってきた。
「……あそこの、魚屋で買ったさんまが……うちでおばあちゃんと食べた最後の食事でした……」
最後の方は、涙のせいで言葉を成していなかった。震える唇から紡がれる事実に俺は胸を痛めた。唯子と小村さんの二人であの家で過ごした最後の思い出に触れた。
「……もしかして、小村さんが亡くなってからここには一度も……?」
唯子の様子から察していたが、確認のために俺は問うた。俺の問いに唯子が、首を縦に振る。
小村さんと唯子の、楽しかった思い出の一つであろうこの商店街。悲しみを抱えたまま、唯子の中でグシャグシャに丸められたままになっている。
勿体ない。途中までとても楽しそうにしていた唯子の姿を思い出して、俺はそう思った。
楽しかった思い出を悲しいままにして欲しくない。グシャグシャにしてしまったのを、また広げて、一緒に覗いてみたい。たとえ、シワが取れなくても、形が変わっても。それはきっと、美しくて尊いものだから。
俺は、決心した。
俺に背中を預けたままの唯子の肩に手を置く。そして、耳元に唇を寄せ、俺は囁いた。
「さんま、食いたい」
俺の一言に、唯子の身体が強ばった。
背後にいる俺からは、唯子の表情は見えない。俺の心臓はばくばくと高鳴っていた。この選択は、賭けだった。無神経だと、罵られるかもしれない。もしかしたら、嫌われるかもしれない。そんな事すら覚悟していた。
「さんま、買って帰ろう。きっと、美味いぞ」
沈黙が辛かった俺は、ひたすら話し続けた。強ばったままの唯子から返答はない。
「……五匹、買って帰ろう。唯子と俺と、小村さんと、唯子の両親のぶん」
指折り数えながら、俺はそう言った。
がやがやと騒がしい商店街の中で、俺達だけが静寂に包まれていた。唯子の反応は、まだ無い。
急ぎ過ぎたか、と背中に嫌な汗が伝った。ここは引いた方がいいかもしれない。そう思った俺は、唯子の名を呼ぼうとした。しかし、それよりも先に。
「……はい。買って、帰りましょう」
俺の耳に震える声が聞こえてきた。
肩を抱いていた手に、力が籠る。俺の聞き間違いでなければ、唯子は今『買って帰る』と言った。
「……いいのか?」
自分が提案したことなのに、いざとなると尻込みしてしまう。戸惑いを含んだ俺の問に、唯子が振り返った。
「……はい。七輪で焼きませんか? おばあちゃんと最後に食べた時のように」
真っ赤に腫らした目を細めて笑う唯子を見て、俺は自分の浅はかさを知った。
唯子は相手の意図をきちんと汲み取れる人だということを忘れていた。
「……ああ。じゃあ行こう。刺身も売ってるか?」
「はい。この時間なら沢山あると思いますよ」
ひとりでは、行かせない。一緒に行こう。
買い物も、これからも。
俺と新しい思い出を作ろう。グシャグシャになって形の変わった思い出の隣に、俺との真新しい思い出を並べよう。
そう決意した俺は、唯子の隣に立つ。俺の気持ちが伝わるように願いを込めて、左手を力強く握った。
「せんせい……」
「……ばあか!ゆうし、だろ?」
「……はいっ」
『せんせい』は、もう終わりだ。
そう続けると、唯子は涙を瞳いっぱいに浮かべて笑った。
俺がよく知っている、小村唯子の笑顔だった。
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